みことば/2021,7,18(主日礼拝) № 328
◎礼拝説教 ルカ福音書 18:9-14
日本キリスト教会 上田教会
『神殿で祈った2人』
18:9 自分を義人だと自任して他人を見下げている人たちに対して、イエスはまたこの譬をお話しになった。10 「ふたりの人が祈るために宮に上った。そのひとりはパリサイ人であり、もうひとりは取税人であった。11 パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。12 わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』。13 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と。14 あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。 (ルカ福音書 18:9-14)
51:1 神よ、あなたのいつくしみによって、わたしをあわれみ、
あなたの豊かなあわれみによって、
わたしのもろもろのとがをぬぐい去ってください。
2 わたしの不義をことごとく洗い去り、わたしの罪からわたしを清めてください。
3 わたしは自分のとがを知っています。わたしの罪はいつもわたしの前にあります。
……14 神よ、わが救の神よ、血を流した罪からわたしを助け出してください。
わたしの舌は声高らかにあなたの義を歌うでしょう。
15 主よ、わたしのくちびるを開いてください。
わたしの口はあなたの誉をあらわすでしょう。
16 あなたはいけにえを好まれません。
たといわたしが燔祭をささげても/あなたは喜ばれないでしょう。
17 神の受けられるいけにえは砕けた魂です。
神よ、あなたは砕けた悔いた心をかろしめられません。 (詩篇 51:1-17)
ご自身の十字架の死と復活に向けて、主イエスは旅路を進んでいかれます。私たちもまた古い罪の自分と死に別れて日毎に新しい生命に生きることへと向けて、歩んでいきます。主イエスは旅路を歩みながら、語りつづけます。9節、「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々」に対して、このたとえ話は語られている。もちろん、弟子たちのためにも語られています。様々な人々が、その話に耳を傾けています。信じる人たちも信じない人たちも、半信半疑な人たちも。高ぶってうぬぼれている人も、「どうせ私なんか」と卑屈にいじけている人も。ほんの少し聞いただけでそのまま立ち去っていく人もあり、そうかと思うと粘って、腰を据えて聞き続ける者たちもいます。けれど主イエスの弟子たちこそは、必ずその中にいました。「『うぬぼれて他人を見下している人』。ふうん。誰が他の人たちのことだろう。私は別に、そんなにうぬぼれていないし、人を馬鹿にしたこともないし」などと、いつの間にか高みの見物を決め込んでいる弟子も混じっていたでしょう。
たとえ話の中の2人の祈りは、この2人がそれぞれに自分というものをどう見ているのかをはっきりと表します。10-12節。「ふたりの人が祈るために宮に上った。そのひとりはパリサイ人であり、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』。まず、当時の社会で正しく立派な人たちの代表格だと思われていたパリサイ派の人の祈り。この祈りの姿には、小さな子供にでも分かるような、一つの大きな失敗があります。ここには、神さまに向かうどんな願いもなく、感謝もなくお詫びもありません。神さまご自身から来るどんな喜びもありません。自分自身の罪深さや悲惨さをこの人はまったく知らず、だからこそ神さまの憐れみと恵みにすがることもありません。ただただ、どんなに自分が立派にやってきたかと自慢話をしています。あるいは、もしかしたら自分自身の弱さや貧しさやいたらなさに薄々気づきながら、それでなおさら虚勢を張り、必死に取り繕っているのかも知れません。この人は自分自身の罪深さを知らず、とても大切なものが自分には欠けているとも気づいていません。自分自身の虚しさや罪深さを知らず、神の憐れみを慕い求めることもない。自分のまわりにいる人たちの中に、こういう類いの『パリサイ派の病気』を見つけ出すことは簡単です。こういう人たちは大勢います。「この人もそうだ。この人もこの人もこの人も」。けれど待ってください。じゃあ、この私は。この自分自身はどうでしょう。もし、自分自身の中に、この同じ病気を発見することが出来るなら、その人はとても幸いです。もしかしたら、その病気を治していただけるかも知れませんから。
このパリサイ人の祈りには、自分を正しいとして他者を見下す「うぬぼれ。自己義認(自分は正しいと、自分自身で強く思い込んでしまうこと)」の罪があります。自分は正しいと自惚れて、その正しさに執着し、言い張って止まないこと。これこそが罪の中の罪であり、もっとも罪深い罪です。「兄弟たちよ。わたしの心の願い、彼らのために神にささげる祈は、彼らが救われることである。わたしは、彼らが神に対して熱心であることはあかしするが、その熱心は深い知識によるものではない。なぜなら、彼らは神の義を知らないで、自分の義を立てようと努め、神の義に従わなかったからである」(ローマ手紙10:1-3)。私たちは皆、誰でも生まれつき、そのように出来ています。
この「うぬぼれ。自己義認」の罪という病気を治していただくには、罪人を憐れんでゆるそうとなさる神であると知らねばりません。また、神の憐れみとゆるしをぜひとも必要とする、とても罪深い自分であると知らねばなりません。心を打ち砕かれ、後悔して心を痛め、へりくだった低い心を与えられ、そのようにして憐れみと慈しみを受け取って生きるはずの自分であると気づくためには。
自惚れて他者を見下しているこの人と正反対の場所に、もう1人の人が立っていました。13-14節です。「ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と。あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。この取税人の祈りに目を向けましょう。「私は罪人だ」と、この祈りははっきりと言い表します。「神さま。罪人の私をあわれんでください」。これこそ、その人自身とその家族を救う信仰の出発点です。この祈りの中で、なにしろ《神さまからの憐れみ》こそが第1であり、肝心要です。神さまからの憐れみをこの自分が受け取ることが第1であり、この人の願いはひたすらそこに集中します。遠く離れて立って、目を天に上げようともせず胸を打ちながら、この人は言いました。「神さま。罪人の私を憐れんでください」。そして帰っていきました。「神はこの人を義とした」;それでいいんだと神さまご自身は、この人を認めてくださった。聖書にもはっきりと書いてあり、主イエスご自身が断言なさっています。「神によって義とされたのは、思い上がって他人を見下していたあの人ではなく、この人だ」と。
胸を打ちながら、「神さま。罪人の私を憐れんでください」とこの人が祈ったのは、その祈りが心から湧き出てきた祈りだからです。心から溢れ出て来ようとするものがあり、けれど、その思いがどうしても出てこない。言葉にもならない。それで、どうしてよいか分からずに、この人は胸を打ち叩いています。砕かれた魂が、神に向かおうとして悶えています。神が、その砕かれた心を喜んで迎え入れようとしておられます。
すると、ここに、私たちが信仰をもって生きて死ぬためのよい見本があります。心細そうに震えている惨めな取税人が、私たちの目の前にもいます。何と言って、その1人の人を送り出してあげることができるでしょう。いいえ。他の誰のことでもなくしばしば
私たち自身が、あの彼のように恐れと不安に満ちて、心細くうつむいています。「どうやって、何を頼みの綱として生き抜いてゆくことができるだろうか」と。けれど私たちは、神さまがこの小さな貧しい1人の人を憐れんでくださったと知っています。この私のことも、同じくまったく憐れんでくださったと知っています。神は憐れむ神であり、こんな私さえ憐れみを受けて、今や神の民とされている(ヨナ4:2,ローマ3:24-,ペテロ(1)2:10)。と知っています。なお依然として罪人のままの愚かでかたくなな私だけれども、今では、神の御前へと何の恐れも気兼ねもなく、どんどんどんどん近づいてゆける(ヘブル4:16)ことも知っています。なにしろ神さまが憐れんでくださったのです。だからもう、「人からどう思われどう見られるだろうか。私は惨めだ。恥ずかしい。恐ろしい。顔向けできない」などと私たちは思わなくていいのです。「どうせ私なんか」と卑屈にいじけなくてよい、と知っています。神さまは罪人の私を憐れんでくださった。いつ、どこで、どんなふうにして、その憐れみは示され、はっきりと差し出されたでしょうか。
聖書は証言します、「わたしは以前には、神をそしる者、迫害する者、不遜な者であった。しかしわたしは、これらの事を、信仰がなかったとき、無知なためにしたのだから、あわれみをこうむったのである。その上、わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスにある信仰と愛とに伴い、ますます増し加わってきた。「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった」という言葉は、確実で、そのまま受けいれるに足るものである。わたしは、その罪人のかしらなのである。しかし、わたしがあわれみをこうむったのは、キリスト・イエスが、まずわたしに対して限りない寛容を示し、そして、わたしが今後、彼を信じて永遠のいのちを受ける者の模範となるためである」(1テモテ手紙1:13-16)。救い主イエスが何のためにこの世界にくだって、十字架の死と復活の救いの御業を成し遂げてくださったのかを、私たちはほんの片時も忘れてはなりません。ふさわしくない、恵みに価しない罪人を救うためにです。そのために救い主イエスは恥をうけ、人々からあざけり笑われ、見捨てられ、罪人の無残な死を耐え忍ばねばなりませんでした。ただただ罪人を救うためにこそ、その死を甘んじて受けとおしてくださいました。そして兄弟姉妹たち、私たちはこの自分自身が何者であるのかも、よくよく覚えておきましょう。そのようにして憐みを受けて救われた罪人であり、罪人の中の罪人、最低最悪の極悪人でさえある私だと。死ぬはずの私たちが、けれど、にもかかわらず憐みを受けて生かされたことを、確かに覚えておきましょう。しかも神を信じて生き始める以前に神をそしり、迫害し、不遜なものだっただけではなく、神を信じて暮らしながらも今もなお度々、自分の正しさやふさわしさを言い張りつづけ、不信仰に陥って神に背き、神を侮り、隣人や仲間や家族を踏みつけにする、あまりに傲慢で愚かで心がかたくなな私自身であると。憐みを受け、限りない寛容を示されたおかげで神の子供たちとして迎え入れられ、今日こうしてあるを得ている私たちであると。神の憐れみの元へと立ち帰ることが私たちにはできます。なぜなら、神が限りない忍耐を示して下さっているからです。神が私たちをなお憐れんでくださり、罪人である私たちを救うために救い主イエスをこの世界に送り、こんな私たちのためにさえ、救いの御業を確かに成し遂げてくださったからです。それなのになお、どうして互いに高ぶったり卑屈にいじけたり、互いに恐れたり恐れさせたりしていいでしょうか。私たちのための、その神さまの憐れみを無にしていいはずがありません。だから私たちは顔をあげて、「神さまがこんな私をさえ憐れんでくださった。本当に」と大声で叫ぶことができます。嘆きのあまりではなく、喜びに打ちふるえて自分の胸を打ち叩き、そのように一日一日を神への感謝と信頼のうちに生きることがこの私たちにもできます。