2021年6月14日月曜日

6/13「ふつつかなしもべ」ルカ17:5-10

             みことば/2021,6,13(主日礼拝)  323

◎礼拝説教 ルカ福音書 17:5-10                    日本キリスト教会 上田教会

『ふつつかなしもべ』


牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

17:5 使徒たちは主に「わたしたちの信仰を増してください」と言った。6 そこで主が言われた、「もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この桑の木に、『抜け出して海に植われ』と言ったとしても、その言葉どおりになるであろう。7 あなたがたのうちのだれかに、耕作か牧畜かをする僕があるとする。その僕が畑から帰って来たとき、彼に『すぐきて、食卓につきなさい』と言うだろうか。8 かえって、『夕食の用意をしてくれ。そしてわたしが飲み食いするあいだ、帯をしめて給仕をしなさい。そのあとで、飲み食いをするがよい』と、言うではないか。9 僕が命じられたことをしたからといって、主人は彼に感謝するだろうか。10 同様にあなたがたも、命じられたことを皆してしまったとき、『わたしたちはふつつかな僕です。すべき事をしたに過ぎません』と言いなさい」。ルカ福音書 17:5-10) 

                                               

11:17 しかし、もしある枝が切り去られて、野生のオリブであるあなたがそれにつがれ、オリブの根の豊かな養分にあずかっているとすれば、18 あなたはその枝に対して誇ってはならない。たとえ誇るとしても、あなたが根をささえているのではなく、根があなたをささえているのである。19 すると、あなたは、「枝が切り去られたのは、わたしがつがれるためであった」と言うであろう。20 まさに、そのとおりである。彼らは不信仰のゆえに切り去られ、あなたは信仰のゆえに立っているのである。高ぶった思いをいだかないで、むしろ恐れなさい。21 もし神が元木の枝を惜しまなかったとすれば、あなたを惜しむようなことはないであろう。22 神の慈愛と峻厳とを見よ。神の峻厳は倒れた者たちに向けられ、神の慈愛は、もしあなたがその慈愛にとどまっているなら、あなたに向けられる。そうでないと、あなたも切り取られるであろう。23 しかし彼らも、不信仰を続けなければ、つがれるであろう。神には彼らを再びつぐ力がある。(ローマ手紙 11:17-23)

 

 5-6節、「使徒たちは主に「わたしたちの信仰を増してください」と言った。そこで主が言われた、「もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この桑の木に、『抜け出して海に植われ』と言ったとしても、その言葉どおりになるであろう」。「わたしたちの信仰を増してください」と弟子たちは主イエスに願い出ました。どんな気持ちで、それを願い出たのかはよく分かりません。この私たちも折々に、自分自身の信仰の弱さや貧しさ、神を信じる信仰があまりに不十分であることを思い煩います。誰かのちょっとした何気ない一言や態度に傷つき、腹を立てたり、うんざりしたり、心を痛め続けるからです。ひどくがっかりしたり、心が折れそうになるからです。憎しみや怒りに取りつかれて、何日も悶々としてしまうからです。それでもなお、それだからこそ、「わたしたちの信仰を増してください」という願いは、ほかの何にもまして、とても重要です。

 神を信じる信仰こそ、その人自身と家族が救われるための根本の土台です。信仰によって、私たちは救い主イエスと堅く結びつけられ、その信仰をとおして救いと幸いを受け取ります。救い主イエスを信じる信仰こそが、すべてのクリスチャンの慰めと、霊的な豊かさの秘密です。その信仰をとおして、救い主イエスが成し遂げた平和と、力と、勇気と、この世界の誘惑への勝利が私たちにもたらされます。悩みと思い煩いの中で、だからこそ私たちもまた、「この私の信仰を、必要なだけ十分に増し加えてください」と心底から、本気になって、願い求める必要があります。しかも、その願いはかなえられます。

 もう1つのことを思い巡らしましょう。7-10節、「あなたがたのうちのだれかに、耕作か牧畜かをする僕があるとする。その僕が畑から帰って来たとき、彼に『すぐきて、食卓につきなさい』と言うだろうか。かえって、『夕食の用意をしてくれ。そしてわたしが飲み食いするあいだ、帯をしめて給仕をしなさい。そのあとで、飲み食いをするがよい』と、言うではないか。僕が命じられたことをしたからといって、主人は彼に感謝するだろうか。同様にあなたがたも、命じられたことを皆してしまったとき、『わたしたちはふつつかな僕です。すべき事をしたに過ぎません』と言いなさい」。ここで、『自分は正しい、ふさわしい、と言い張ってやまない私たちの傲慢さと頑固さ』に対して、主イエスご自身が厳しい一撃を与えています。命じられたこと、私たちがしなければならないことを皆してしまったとき、『わたしたちはふつつかな僕です。すべき事をしたに過ぎません』と言いなさい。なぜなら、私たちは誰も彼もが生まれつき、自尊心がとても強く、どうしたわけか、自分は正しい、自分こそがふさわしいと言い張りたくなる性分を根強く抱えているからです。心を鎮めて自分自身を振り返ってみれば、だれにでもすぐに分かります。『自分は正しい。自分こそふさわしい』と思い込み始めたとたんに、私たちは思い上がって他者を見下し、その小さな貧しい者たちを軽々しく裁きはじめます。例えば、「神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています」。また、「わたしは一日中、労苦と暑さを辛抱して働きました。それなのに、この最後の者は」(ルカ福音書18:11-12,マタイ福音書20:12と。これは、治すのがとても難しい、厄介な病気です。まわりを見回しますと、ほかの人たちがこの『自惚れ病』にかかっているのを見つけるのは、とても簡単です。「あの人も、あの人も、あの人も、やっぱり自分は正しい、ふさわしいと思い込んで、頑固に言い張りたくなる病気にかかっている。かなり重症だ」と、だれでも簡単に、すぐに見分けることが出来ます。けれど、この自分自身がその病気にかかっていることには、ほとんどの人は、なかなか気づきません。

 神の憐れみによって救われるためには、この『自分は正しい、ふさわしい、と言い張ってやまない私たちの傲慢さと頑固さ』という病気を、すっかり投げ捨ててしまう必要があります。もし、神の憐れみによって私も救われたいと願うならば、自分の中には良いものは何一つもないと認める必要があります。自分自身の中には、どんな長所も優れた価値も何一つもない、本当にそうだと、はっきり認める必要があります。『自分自身の正しさ』とも、『ふさわしさ』とも、すっかり縁を切って、それらの虚しいだけの妄想をすべて投げ捨ててしまう必要があります。なぜならば、『自分自身の正しさ。ふさわしさ』という根も葉もない虚しい夢想は、『わたしは救いに価しない罪人に過ぎない』という、神の憐れみによって救われるためにどうしても必要な、不可欠の自己認識をすっかり覆い隠しつづけていたからです。だからこそ、神の憐れみを理解できず、憐みを受けて神の民とされたことも、救い主イエスが罪人を救うためにこの世界に来てくださったことも、なにもかも分からないままでした。「自分は正しい。ふさわしい」というその誤った自己認識こそが、救いを押しのけさせ、神の憐れみを拒みつづけさせていたからです。これが、自分は正しいと思い込んで他人を見下しつづけるパリサイ人の病気の正体です。この病気が、あなたと周囲の人々を惨めに不幸せにしつづけました。それを投げ捨てて、その代わりに、そこでようやく、救い主イエスご自身の正しさとふさわしさにこそ全幅の信頼を寄せることができます。

 神にも隣人にも背かせ続けていた罪をゆるされ、自分自身の傲慢さを打ち砕かれて、ついにとうとう、『わたしはふつつかな僕です。すべき事をしたに過ぎません』と深く頷きつづけて生きる幸いなしもべの旅がはじまります。この私たちは、誇るべきものは何一つも持ち合わせていません。命じられた、なすべき務めをすること。しかも、命じられた、なすべき務めをすべてすっかり果たしたときにさえ、それは、私たち自身がもっていた自分の力や賢さや有能さによってしたのではありませんでした。決してそうではなく、神から贈り与えられた力によって、それをさせていただいたのです。「誇ってはならない、思い上がってはならない」と、なぜ、繰り返し何度も何度も、戒められつづけてきたのか。聖書は証言します、「『しるされている定めを越えない』ことを学び、ひとりの人をあがめ、ほかの人を見さげて高ぶることのないためである。いったい、あなたを偉くしているのは、だれなのか。あなたの持っているもので、もらっていないものがあるか。もしもらっているなら、なぜもらっていないもののように誇るのか」。また、「あなたは心のうちに『自分の力と自分の手の働きで、わたしはこの富を得た』と言ってはならない。あなたはあなたの神、主を覚えなければならない。主はあなたの先祖たちに誓われた契約を今日のように行うために、あなたに富を得る力を与えられるからである。もしあなたの神、主を忘れて他の神々に従い、これに仕え、これを拝むならば、――わたしは、きょう、あなたがたに警告する。――あなたがたはきっと滅びるであろう」(1コリント手紙4:6-7,申命記8:17-19。当然の権利のように神さまに要求できる報酬も、感謝も、栄誉も、もちろん何一つもありません。成し遂げたものすべては、ただ神から贈り与えられたものでした。すべては、ただただ神からの恵みでした。

 さて、この『自分は正しい、ふさわしい、と言い張ってやまない私たちの傲慢さと頑固さ』という病気は、一体どこから湧いて出てきたのでしょう。神の慈しみの御手の前に、こんなにも貧しく、弱々しく、過ちを犯しやすい、神によって造られたにすぎない私たち人間が、どうして自分がまるで何者かであるかのように、自分を過大に思い描くことができるのでしょうか。それらすべては、なにも知らないことから生じてきます。私たちの理解力は、生まれつき、目が見えなくされています。そうあるべきようには、私たちは自分が何者であるのかも、自分たちの生涯がどのようなものであるのかも知らず、神を知らず、神の律法もその御心もまったく知りませんでした。けれど、ひとたび神の恵みの光が私たち人間の心の闇を照らしたので、そこでようやく、『自分は正しい、ふさわしい、と言い張ってやまない私たちの傲慢さと頑固さ』という病気の支配は退けられはじめました。しかもなお、うぬぼれと傲慢の根は残り、知らず知らずのうちにその苦々しい枝を伸ばします。けれど聖霊なる神が私たちの心に働きかけ、私たちが何者であるのか、神がどのようなお方であるのかを知らせて下さるとき、そこでようやく、私たちの思い上がりと傲慢さと心の頑固さは打ち砕かれます。私たちは誰もが皆、神に背く者たちであり、罪の中に死んでいた者たちです。神の恵みによるのでなければ、誰一人も神の国に入ることも、神の子供たちとされることもありえませんでした。聖書は証言します、「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった』という言葉は、確実で、そのまま受けいれるに足るものである。わたしは、その罪人のかしらなのである」。また、「彼らは不信仰のゆえに切り去られ、あなたは信仰のゆえに立っているのである。高ぶった思いをいだかないで、むしろ恐れなさい。もし神が元木の枝を惜しまなかったとすれば、あなたを惜しむようなことはないであろう。神の慈愛と峻厳とを見よ。神の峻厳は倒れた者たちに向けられ、神の慈愛は、もしあなたがその慈愛にとどまっているなら、あなたに向けられる。そうでないと、あなたも切り取られるであろう。しかし彼らも、不信仰を続けなければ、つがれるであろう。神には彼らを再びつぐ力がある」(1テモテ手紙1:15,ローマ手紙11:20-23とてもふつつかで、あまりにふさわしくない私たちです。その私たちが、神の憐れみにあずかっています。救い主イエス・キリストが「いのち」として与えられたのですから、いのちであられるキリストなしには、自分が自分自身においてまったく死んでいることをつくづくと思い知らされます。そこで、私たちが神にもたらすことのできる唯一の、そして最善の「ふさわしさ」とはこれです。つまり、救い主イエスの憐れみによって「ふさわしい」ものとされるために、私たち自身の「ふさわしくなさ。ふつつかさ」を、キリストの憐れみの御前に差し出すことです。「あなたは、とてもふつつかなしもべです。この私も、負けず劣らず、とてもふつつかなしもべです」「そのとおり」。そこでようやく、私たちはあの恐るべきパリサイ人の病気を脱ぎ捨てはじめています。そこにこそ、私たちのための慰めと希望と平和があります(Jカルヴァン『キリスト教綱要』41741-42節を参照)