2021年6月1日火曜日

5/30「羊飼いの心得をもって」サムエル上17:31-47

           みことば/2021,5,30(主日礼拝)  321

◎礼拝説教 サムエル記上17:31-47            日本キリスト教会 上田教会

『羊飼いの心得をもって』


牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

17:31 人々はダビデの語った言葉を聞いて、それをサウルに告げたので、サウルは彼を呼び寄せた。32 ダビデはサウルに言った、「だれも彼のゆえに気を落してはなりません。しもべが行ってあのペリシテびとと戦いましょう」。33 サウルはダビデに言った、「行って、あのペリシテびとと戦うことはできない。あなたは年少だが、彼は若い時からの軍人だからです」。34 しかしダビデはサウルに言った、「しもべは父の羊を飼っていたのですが、しし、あるいはくまがきて、群れの小羊を取った時、35 わたしはそのあとを追って、これを撃ち、小羊をその口から救いだしました。その獣がわたしにとびかかってきた時は、ひげをつかまえて、それを撃ち殺しました。36 しもべはすでに、ししと、くまを殺しました。この割礼なきペリシテびとも、生ける神の軍をいどんだのですから、あの獣の一頭のようになるでしょう」。37 ダビデはまた言った、「ししのつめ、くまのつめからわたしを救い出された主は、またわたしを、このペリシテびとの手から救い出されるでしょう」。サウルはダビデに言った、「行きなさい。どうぞ主があなたと共におられるように」。38 そしてサウルは自分のいくさ衣をダビデに着せ、青銅のかぶとを、その頭にかぶらせ、また、うろことじのよろいを身にまとわせた。39 ダビデは、いくさ衣の上に、つるぎを帯びて行こうとしたが、できなかった。それに慣れていなかったからである。そこでダビデはサウルに言った、「わたしはこれらのものを着けていくことはできません。慣れていないからです」。40 ダビデはそれらを脱ぎすて、手につえをとり、谷間からなめらかな石五個を選びとって自分の持っている羊飼の袋に入れ、手に石投げを執って、あのペリシテびとに近づいた。……45 ダビデはペリシテびとに言った、「おまえはつるぎと、やりと、投げやりを持って、わたしに向かってくるが、わたしは万軍の主の名、すなわち、おまえがいどんだ、イスラエルの軍の神の名によって、おまえに立ち向かう。46 きょう、主は、おまえをわたしの手にわたされるであろう。わたしは、おまえを撃って、首をはね、ペリシテびとの軍勢の死かばねを、きょう、空の鳥、地の野獣のえじきにし、イスラエルに、神がおられることを全地に知らせよう。47 またこの全会衆も、主は救を施すのに、つるぎとやりを用いられないことを知るであろう。この戦いは主の戦いであって、主がわれわれの手におまえたちを渡されるからである」。   サムエル記上17:31-47


17章のはじめから、この出来事は始まっています。31節から読みましたから、まず、そこまでの経過をごく簡単に振り返ります――

  神の民とされたイスラエルは、強大なペリシテ人の軍勢と小さな谷を隔てて向かい合っていました(17:1-3)。兵士の数も戦力も、相手方のほうがはるかに上回るのです。あの時だけではなく、実は、そんなことの繰り返しでした。まるでわざわざそうしたかのように、神の民とされたイスラエルは、どこの誰と比べても数も少なく、力も弱く、あまりに貧弱でありつづけました。そして今回も、ペリシテの陣地からゴリアテという名前の1人の大男が進み出てきました。大男は立ちはだかり、イスラエルの戦列に向かって呼ばわりました。「1人を選んで、わたしの方へ下りて来させよ。1対1の勝負をしよう。負けたほうが勝ったほうの奴隷になるんだぞ」(17:8-11,16参照)。ゴリアテは40日の間、朝も夕方も出てきて、同じ言葉で呼ばわりました。「おい、臆病者ども。1対1の勝負をしよう。負けたほうが勝ったほうの奴隷になるんだ」。イスラエルの王様も兵隊たち皆も、恐ろしくて震え上がりました。「どうしたらいいか分からない。もうダメだ」と絶望し、小さく縮み上がってしまいました。(だから、あの少年は最初に王に会ったとき、32節、「だれも、彼のゆえに気を落としてはなりません」と語りかけました。王自身も含めて、誰もが皆、気を落とし、落胆しきっていたからです)。けれども、神の民とされたイスラエルの同胞たち。大男ゴリアトの声を聞き、強大な圧倒的多数のペリシテ軍と谷を隔てて向かい合い、恐ろしくて震えながら過ごした4040夜。それは、自分自身の弱さと貧しさをつくづくと痛感させられ、膝を屈めさせられて、神さまに向かって本気で祈るべき日々だったのです。祈りの中で、ふたたび神さまと出会うはずの日々でした。本気になって、神に向かって祈るための日々。40という数には、そういう意味が込められつづけました (創世記7:12,民数記14:34,出エジプト記24:18,マルコ福音書1:13,列王記上19:8,サムエル記上17:16)

  その恐ろしい戦いの場所に、ごく普通の羊飼いの小さな一人の少年が出てきました。「はい。僕が戦います」。兄さんたちは、この末っ子の弟を見て「生意気だ。でしゃばりな奴め」と腹を立てました。イスラエルの王様も彼を見て、あざけり笑いました。33-37節、「サウルはダビデに言った、「行って、あのペリシテびとと戦うことはできない。あなたは年少だが、彼は若い時からの軍人だからです」。しかしダビデはサウルに言った、「しもべは父の羊を飼っていたのですが、しし、あるいはくまがきて、群れの小羊を取った時、わたしはそのあとを追って、これを撃ち、小羊をその口から救いだしました。その獣がわたしにとびかかってきた時は、ひげをつかまえて、それを撃ち殺しました。しもべはすでに、ししと、くまを殺しました。この割礼なきペリシテびとも、生ける神の軍をいどんだのですから、あの獣の一頭のようになるでしょう」。ダビデはまた言った、「ししのつめ、くまのつめからわたしを救い出された主は、またわたしを、このペリシテびとの手から救い出されるでしょう」。私はこれまで羊たちの世話をして、羊たちを守って暮らしてきました。強くて恐ろしい獣たちとも戦って、生き延びてきました。つまならい自慢話をしてるわけではありません。「ししのつめ、くまのつめからわたしを救い出された主は、またわたしを、このペリシテびとの手から救い出されるでしょう」。ここです。生き延びてきたのは、私が勇敢だったからでも、賢かったからでもありません。すばしっこかったからでもなく、強かったからでもありません。熊の手からもライオンの手からも、主なる神さまこそが私を守ってくださった。その同じ神さまが、あの大男ゴリアテからも他の誰からでも守ってくださいます。この新しい戦場、この新しい敵に対しても、私の主なる神さまこそが、私を必ずきっと守って戦い抜いてくださいます。これが、あの少年の心得です。クリスチャンは皆、この《羊飼いの少年の戦いの心得》を授けられています。あなたも、ここにいる私たち全員もそうです。

38-40節、「そしてサウルは自分のいくさ衣をダビデに着せ、青銅のかぶとを、その頭にかぶらせ、また、うろことじのよろいを身にまとわせた。ダビデは、いくさ衣の上に、つるぎを帯びて行こうとしたが、できなかった。それに慣れていなかったからである。そこでダビデはサウルに言った、「わたしはこれらのものを着けていくことはできません。慣れていないからです」。ダビデはそれらを脱ぎすて、手につえをとり、谷間からなめらかな石五個を選びとって自分の持っている羊飼の袋に入れ、手に石投げを執って、あのペリシテびとに近づいた」。王様が自分の最新兵器と高級で上等な装備を貸してくれようとしたとき、あの少年は断りました。兜(かぶと)も剣も盾も胸当ても膝当ても、何も要らない。「慣れていないからだ」と答えました。それなら、王様の武器や装備を貸してもらって、十分な練習期間をもらえて使い慣れることができるなら、それなら最新兵器と装備を借りたほうが得策でしょうか。いいえ、そうではありません。私たちはいつか、多くの実地訓練や研修を積み重ね、いくつもの戦場を生き延びて、立派な1人前の戦士となるでしょう。けれども、恐ろしく強い大男のゴリアテが攻めてきたときに、私たちはどうするでしょう。《あの羊たちの、たった数匹の群れも神の軍隊。ここも、生きて働いておられる同じ神の軍隊である。主なる神こそが私たちを守って戦ってくださる。熊の手、ライオンの手からも、あの大男ゴリアトの手からも、どこの誰からでも、主こそが守ってくださる》と、その肝心要の大切なことを忘れないならば、十分です。よくよく覚えているならば、何の不足もありません。もし、そうでないなら。「この丈夫な青銅の鎧(よろい)と兜(かぶと)と、剣と槍と楯が私を守ってくれるから」とうっかり勘違いしてしまうならば、私たちが手にしようとしているそれらの道具は、私たちにとって大きな災いとなり、恐るべき罠となるでしょう。かえって、私たち自身の戦いを危うい場所へと追い詰めてしまうでしょう。「これまで羊たちの世話をして、羊たちを守って暮らしてきた。強くて恐ろしい獣たちとも戦って、生き延びてきた。でもそれは自分が勇敢だったからでも、賢かったからでもない。骨惜しみせずに頑張ってよく働いたからでもない。熊の手からもライオンの手からも、主なる神さまご自身こそが、この私を守ってくださったからだ。その同じ神さまが、あの大男からも他のどんな大男からも守ってくださる。この新しい戦場、この新しい敵に対しても、私の主なる神さまこそがこの私を必ずきっと守って戦ってくださる」。つまり、『主ご自身によって守られ養われつづけてきた羊飼いである』という心得を、もし見失わないでいられるならば、それなら大丈夫です。瀬戸際に立たされる肝心要の場面で、このいつもの心得を、ちゃんとよくよく覚えていることができるのかどうか。それが、私たちの生き死にの分かれ道でありつづけます。だからです。「使い慣れていませんから」と少年は答え、自分ではまだ気づいていなかったかも知れません。けれど、神ご自身がここで介入し、あの少年に王の武器と装備を断らせ、いままでどおりの羊飼いの道具を選び取るようにと仕向けました。神が、そうさせたのです。それがふさわしい、と。杖と、滑らかな5つの小石と、石を入れる袋と、石投げ紐。今までずっと神から支えられてきた通りに、『主なる神によって守られ養われてきた一人の羊飼い』として立ち向かいつづけます。

41-47節、「そのペリシテびとは進んできてダビデに近づいた。そのたてを執る者が彼の前にいた。ペリシテびとは見まわしてダビデを見、これを侮った。まだ若くて血色がよく、姿が美しかったからである。……45節)ダビデはペリシテびとに言った、「おまえはつるぎと、やりと、投げやりを持って、わたしに向かってくるが、わたしは万軍の主の名、すなわち、おまえがいどんだ、イスラエルの軍の神の名によって、おまえに立ち向かう。きょう、主は、おまえをわたしの手にわたされるであろう。わたしは、おまえを撃って、首をはね、ペリシテびとの軍勢の死かばねを、きょう、空の鳥、地の野獣のえじきにし、イスラエルに、神がおられることを全地に知らせよう。またこの全会衆も、主は救を施すのに、つるぎとやりを用いられないことを知るであろう。この戦いは主の戦いであって、主がわれわれの手におまえたちを渡されるからである」。サウル王もイスラエルの兵隊たちも皆、あまりに賢くなって、世間の常識を身につけすぎて、するといつの間にか、神の助けになど見向きもできない人になりはててしまいました。神の声も姿も目に入らなくなりました。その耳にも、神の言葉は少しも届かなくなりました。その中でたった一人だけ、あの小さな羊飼いの少年は、神さまからの助けと支えを受け取りました。「はい。ありがとうございます。よろしくお願いします」と。

 さて、少年を戦いに送り出すときに、王はこう言っていました。37節、「行きなさい。どうぞ、主があなたと共におられるように」と。この『主が共におられるように』というほんの一言の見送りの言葉には、その人の生きるか死ぬかを分ける程の決定的な意味がありました。主が、あなたと共におられるように。けれど残念なことに、あの物の分かった賢い王様も側近や将軍たちも、兵士たちも皆、その肝心要の生命線を今ではすっかり忘れていました。だから心を弱らせ、たかだか人間に過ぎない者たちを恐れて、ビクビクと怖じ気づいていました。『主が共にいてくださる。だから私は』。それは確信であり、神への感謝であり、神へと向かう願いだったのです。もし主が確かにこの私と一緒にいて、生きて働いていてくださるならば、たとえ世間知らずで未熟で愚かな私であっても、小さく貧しい私であっても、心強く晴れ晴れとして生き延びてゆける。もしそうでないなら、誰が私と一緒にいてくれても、100万人の強い軍隊が後ろ盾であっても、それでもなお危うい。だからこそ、出掛けてゆく大切な兄弟姉妹に「主があなたと共にいてくださいますように」と、家族や友だちにも「主こそが、あなたと共にいてくださいますように」と祈りあいつづけてきたのです。この肝心要を覚えていさえすれば、王さま自身も自分で自分の剣を手にとり、立ち上がり、自分自身でどんな手強い敵にも心安らかに立ち向かうことができたはずでした。「主は救いを贈り与えるのに、つるぎとやりを用いられない。(憐み深い神は、ただ救い主イエスの十字架の死と葬りと復活とを必要とし、その救い主イエスを私たちが信じて、イエスに聴き従って生きることを必要となさった。それを、心から願ってくださった)。もちろん、この私自身も主のものであり、この戦いは主の戦いである」と。

 

                《羊飼いの心得》

 

  1.これまでの日々をよくよく覚えておくこと。熊の手、ライオンの手から主なる神さまこそが私を守ってくださった。だから、見知らぬ大男の手からも、どこの誰からも、主こそがきっと守り抜いてくださると。

  2.どこかの王様が素敵な武器や装備を貸してくれようとする場合、立ち止まって、考えてみること。

  3.むしろ、羊飼いのいつもの道具を忘れず持参すること。杖と石投げ紐と袋。河原で拾うなめらかな小石の1つは、「主が私と共にいてくださり、しかも私をとても大切に思っていてくださる」という小石。1つは、「主が私のためにも強くあってくださる」という小石。1つは、「たとえ私が弱くても臆病でも、あまり賢くもなくたいした働きもできないかも知れないとしても、だから、ちっとも恐くないし、恥ずかしくも何ともない」という小石。1つは、「この私は、今ここにおいても主の恵みの真っ只中にある」という小石。そしてサムエル記上17:47,申命記31:8,コリント手紙(1)1:26-,詩23,ヨハネ10:11-,ルカ15:3-,ペテロ手紙(1)2:24-25を、自分の心によくよく刻み込んで、味わいつづけること。