みことば/2021,6,27(主日礼拝) № 325
◎礼拝説教 ルカ福音書 17:20-25 日本キリスト教会 上田教会
『神の国は
あなたがたの只中にある』
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)(ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC)
17:20 神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。21
また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。22 それから弟子たちに言われた、「あなたがたは、人の子の日を一日でも見たいと願っても見ることができない時が来るであろう。23
人々はあなたがたに、『見よ、あそこに』『見よ、ここに』と言うだろう。しかし、そちらへ行くな、彼らのあとを追うな。24 いなずまが天の端からひかり出て天の端へとひらめき渡るように、人の子もその日には同じようであるだろう。25
しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない。 (ルカ福音書 17:20-25)
11:1 また、イエスはある所で祈っておられたが、それが終ったとき、弟子のひとりが言った、「主よ、ヨハネがその弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈ることを教えてください」。2 そこで彼らに言われた、「祈るときには、こう言いなさい、『父よ、御名があがめられますように。御国がきますように。3 わたしたちの日ごとの食物を、日々お与えください。4 わたしたちに負債のある者を皆ゆるしますから、わたしたちの罪をもおゆるしください。わたしたちを試みに会わせないでください』」。
(ルカ福音書 11:1-4)
20-21節、「神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。神の国は、この世界のどんな王国や国家とも全く違って、似ても似つかないものだと教えられます。「見られるかたちで来るものではない。また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない」と救い主イエスはおっしゃいます。神の国が近づいたこと、あるいは現にそこに存在することは、その権威や偉大さなど外から分かるしるしによっては現わされません。そういう類いのしるしを求める人々は、当てが外れて落胆するほかありません。そのような人々は、待ち望み、探し求めて、ただ虚しく時間を無駄使いしてしまうばかりです。そうする間にも、神の国は彼らが気づかないうちにやってきて、彼らの只中に存在し始めます。「よく見なさい。神の国は、実に、いま現に、あなたがたのただ中にあるのだ」と救い主イエスはおっしゃいます。
目に見えにくい、霊的な神の王国は、あの最初のクリスマスの夜にベツレヘムの家畜小屋の、飼い葉おけ(=牛や馬に食べさせる草やわらなどを入れておくための容器)の中に、しかも偉大さや豊かさや賢さなどとは無縁の仕方で始まりました。神の王国はまた、エルサレム神殿に突如として姿を現しました。だれにも気づかれず、ただシメオンという老人と女預言者アンナだけが、そこにいる1人の赤ちゃんこそがその王国の王だ分かりました。その30年後に、ただ、ガリラヤの村の貧しい漁師たちと取税人だけが、まず最初に神の国を受け取りました。支配者たちとパリサイ人たちはその王国を見分ける目を持っていませんでした。神の国の王がご自身のものである民のもとを訪れましたが、王のものであるはずの彼らは自分たちの王を迎え入れることができませんでした(ヨハネ福音書
1:9-13参照)。このとき、すべてのユダヤ人たちは、自分は神の国を待ち望んでいると思っていました。けれど、間違った方向を向いて待っていたのであり、間違ったしるしを求めたのであり、神の国は現に彼らの只中にあったのに、多くの者たちはそれを見分ける目をもっていませんでした。神の国は突然、なんの前触れもなく、権威や荘厳さのしるしもなしにやってきます。シメオンとアンナのようなほんの一握りの人たちが、やがて終わりの日に、神の国が来ていることの証人とされます。大多数の人々は、神の国がついに到来したとき、ある日、眠りから目を覚まして、それに気づき、とても驚き、うろたえるでしょう。
「神の国は、実にあなたがたのただ中にある」。2種類の理解や受け止め方がありつづけます。「あなたがたのただ中に」という意味を、ある人々は、「あなたがたの心の中に。あなたがたの意識の中に」と理解しました。「神の国は、人間の心の内面的な事柄であり、目に見えない霊的な事柄であるので、心の外側には現れて来ないし、目に見える事柄にはなりえない」と。けれど、もう一方の人々は、「いいや、決してそうではない。あなたがたのただ中にという意味は、あなたがたの間に」であると。神の国は、救い主イエスがこの地上に降りてきてくださったその最初のときから、この世界に現にはじまり、形造られだし、着々と建て上げられつづけてゆくと。最初に主イエスは、「時は満ちた。神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ福音書1:15)と宣言なさいました。神ご自身であられる救い主イエスが地上に降りて来られ、力と権威をもって神の国の福音を宣べ伝え、その救いの御業を成し遂げてくださった。しかも、「神の国」とは神が力をもって生きて働いてくださることであり、その御心にかなうようにと願いながら生きる人々が生み出されつづけ、神ご自身のお働きが実を結んでゆくことです。だからこそ、主イエスを信じる弟子たちは、ここにいるこの私たち自身も、その神の国の建築作業に加えられ、その王国の建物の部品の1つ1つともされていきました。「二人三人が私の名によって集まるとき、私もそこにいるのである」と約束してくださった救い主イエスがそこにいて、生きて働かれ、私たちを用いても、ご自身の御心を成し遂げつづけるからです。信じる私たちの心の中に神ご自身が住んでくださり、生きて働いてくださり、実を結ばせてくださる。それが、どうして、ただ心の中や、心の奥深くの片隅にだけ留まっていられるでしょうか。どうして目に見えないままでありえるでしょう。願い求めるように、私たちは救い主イエスから命じられています。「天の父なる神さま。御名をあがめさせてください。この地上にも、私たちが生きるこの生活の只中にも御国を来たらせてください。御心が天で成し遂げられるだけでなく、この地上で、私たちの生活の只中でも成し遂げられますように」と。
22-24節、「それから弟子たちに言われた、「あなたがたは、人の子の日を一日でも見たいと願っても見ることができない時が来るであろう。人々はあなたがたに、『見よ、あそこに』『見よ、ここに』と言うだろう。しかし、そちらへ行くな、彼らのあとを追うな。いなずまが天の端からひかり出て天の端へとひらめき渡るように、人の子もその日には同じようであるだろう」。救い主イエスがふたたび来られる、世界の終わりの日は、誰にとっても、突然にやってきます。「いなずまが天の端からひかり出て天の端へとひらめき渡るように、人の子もその日には同じようであるだろう」と。この点に関して、聖書のすべての証言はまったく一致しています。「その日、その時を、誰も知らない」。「夜中に泥棒が押し入ってくるように、その日は来る」と(マタイ福音書24:44,1テサロニケ5:2)。
救い主イエスがふたたび来られるとき、それは何の前触れもなく、まったく突然にやってくる。そのことは、私たちを厳粛な慎み深い思いへと立ち返らせます。その時のために、自分の心の準備をいつも整えつづけておくように習い覚えておきたいのです。私たちの主イエスとお会いするときのために、いつも準備万端であるようにと願い求め、努めつづけて一日ずつを暮らしたいのです。私たちの生涯の目的は、救い主イエスが突然に私たちの目の前に現れたとき、恥ずかしくて困るようなどんな言葉も口にださず、どんな恥ずべき行いもしないでいられるようでありたい。聖書は証言します、「見よ、わたしは盗人のように来る。裸のままで歩かないように、また、裸の恥を見られないように、目をさまし着物を身に着けている者は、さいわいである」(ヨハネ黙示録16:15)。ですから、この世界の終わりの日、世界のための祝福がついに成し遂げられる日、救い主がふたたび来られるときのことを絵空事や、なにかあり得ない空想、でまかせのようについつい思い込んでしまう人たちは、よくよく考え直してみる必要があります。主イエスの最初の弟子たちの時代には、『ふたたび主イエスが来られる』という教えはとても切実で、切迫した現実味を帯びていました。あの彼らの眼差しと心の思いにとって、自分自身が忍耐深く、希望をもって一日ずつを生き延びること、自分がなすべき務めに精一杯に励むこと、大切な家族や隣人や周囲の人々に対して思いやり深く寛容であること、一個の人間として良い行いをするように努め、できるだけ清く生活することは、ふたたび来られる主イエスを待ち望んで暮らすことと深く堅く一つに結びついていました。あの彼らのように感じ取り、そのように習い覚えて生きることのできるクリスチャンは幸いです。主イエスを待ち望みつつ生きることこそ、神の御そばを離れずに心安く歩んでいくための最も良い助けとなります。
25節、「しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない」。聖書は、私たちに、最初のクリスマスのときにひとたび救い主イエスがこの世界に来られたことと、やがて世界の終わりの日、世界のための祝福が成し遂げられる日に、この救い主イエスがふたたび来られますことを、この2回の到来を証言しています。最初のとき、彼は、小さな弱い者として、へりくだった低い姿で来られ、十字架の上で罪人として苦しみを受け、死んでいかれました。やがてふたたび来られますときには、その同じ彼は、力と大いなる栄光を帯びて来られ、すべての敵をご自身の足もとに屈服させ、王としてこの世界を支配するために来られます。最初に来られたとき、彼は私たちのために罪人とされました。十字架の上で私たちすべての者の罪をその身に背負ってくださいました。ふたたび来られるとき、この同じ彼は、罪のない姿で来られ、ご自身の民にまったき救いをもたらしてくださいます(2コリント手紙5:21,ヘブル手紙9:28)。この2つの到来について、主ご自身が十分にお語りになっています。最初のとき、彼は「苦しみを受け、人々から見捨てられ」ねばなりませんでした。ふたたび来られますとき、「いなずまが天の端からひかり出て天の端へとひらめき渡るように、人の子もその日には同じようである」と。
救い主イエスのこの2つの到来をはっきりと分かっていることが、聖書を適切に理解するためにとても重要です。最初の弟子たちも、当時のユダヤ人たちも、2つのうちの1つの事柄しか、はっきりとは見えていませんでした。彼らは、絶対的な王としてこの世界を支配してくださる救い主が来ることを期待しました。けれど、私たちの罪を背負って苦しみ、十字架の上で罪人として殺される方としては、あまりよく分かっていませんでした。今日の大多数のクリスチャンにとっても、似たようなことが言えるかも知れません。私たちは、救い主イエスが最初に来られたとき、十字架の上で私たちの罪を背負って苦しみ、死んで行かれたことを受け止めています。けれど、このお独りの同じ方がふたたび来られるとき、この世界を支配し統治する王として来られることを、よく分かっているでしょうか。わたしたちの罪をあがなってくださった救い主であり、しかも同時に、世界をその手に治める王である。この両方ともの真実、その全体像です。最初にこの世界に来られたとき、救い主イエスは苦しみを背負って死んでいかれました。やがてふたたび来られますとき、この同じお独りの方こそが、この世界と私たちを支配し、私たちをご自身の足もとにひれ伏させ、統治してくださいます(ピリピ手紙 2:10-11,1コリント手紙 15:23-25参照)。神の国と、その祝福をまったく成し遂げるために。
さて、友だちの家の茶の間の壁にすてきな言葉が掲げられています、『主イエスは、わが家のご主人さま。食卓にいつもおられる、目に見えない大切なお客さまでもある。そして私たちの毎日の、いつもの、何気ないすべての会話(すべての会話? そして独り言や不平不満、つぶやき、ため息、誰に聞かれても恥ずかしいような陰口や悪口)に耳を傾けていてくださるお方』。そのとおりです。
Christ
is the HEAD of our
house.
The
UNSEEN Guest at every meal,
The
Silent LISTENER
to every Conversation.
―― Unknown(作者不明)