2021年4月25日日曜日

4/25「信じる者になりなさい」ヨハネ20:24-31

         みことば/2021,4,25(復活節第4主日の礼拝)  316

◎礼拝説教 ヨハネ福音書 20:24-31                    日本キリスト教会 上田教会

『信じる者になりなさい』


牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

20:24 十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれているトマスは、イエスがこられたとき、彼らと一緒にいなかった。25 ほかの弟子たちが、彼に「わたしたちは主にお目にかかった」と言うと、トマスは彼らに言った、「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」。26 八日ののち、イエスの弟子たちはまた家の内におり、トマスも一緒にいた。戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って「安かれ」と言われた。27 それからトマスに言われた、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。28 トマスはイエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ」。29 イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。

30 イエスは、この書に書かれていないしるしを、ほかにも多く、弟子たちの前で行われた。31 しかし、これらのことを書いたのは、あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名によって命を得るためである。                         ヨハネ福音書 20:24-31

 救い主イエスは、ただ十字架にかけられて、苦しく惨めな死を遂げただけではありませんでした。惨めで無残な、見捨てられた者の死がそこにある。けれど、それだけではありません。勝ち取ってくださった『罪のゆるし』が、そこにあります。新しく生きるための格別な生命と、朽ちることも萎むこともない平和と救いの源がそこにあります。主イエスが死んで、新しい生命によみがえってくださったように、この私たちも古い罪の自分と死に別れさせていただいて、そのようにして新しい生命に生きる者たちとされます。主イエスの十字架の死と復活の、その1週間後のことです。

  まず24-25節。「十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれているトマスは、イエスがこられたとき、彼らと一緒にいなかった。ほかの弟子たちが、彼に『わたしたちは主にお目にかかった』と言うと、トマスは彼らに言った、『わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない』」。

デドモとは「ふたご」という意味のあだ名です。救い主イエス・キリストは、聖書の中であらかじめ予告されていたとおりに(イザヤ53:5-12,16:10,ホセア6:2,マタイ福音書16:24,ルカ福音書24:25-27,コリント手紙(1)15:3-5、十字架につけられて殺され、葬られ、その3日目に墓からよみがえりました。その復活した姿を弟子たちに見せてくださいました。弟子たちはそのとき、主イエスを殺したユダヤ人たちを恐れ、自分たちも何をされるか分からないと家の中に閉じこもりました。小さくなって震えていました。そこへ主イエスが来て、彼らの真ん中に立ちました。「安らかでありなさい。あなたがたに平和があるように」と仰いました。そう言ってから、手と脇腹に残った十字架刑の傷跡を見せました。弟子たちはその傷跡を見て、喜びにあふれました(19-20)。けれどそのとき、12人の弟子の1人トマスは、そこにいませんでした。ほかの弟子たちは、「私たちは復活なさった主イエスを、この目で見た。本当なんだ」と言います。けれどトマスは、頑として聞き入れません。

  つづいて26-28節を読みましょう。「八日ののち、イエスの弟子たちはまた家の内におり、トマスも一緒にいた。戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って「安かれ」と言われた。それからトマスに言われた、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。トマスはイエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ」。8日後にもう一度、主イエスが現れてくださったのは、特には、あの疑い深いトマスのためです。トマスに目を向けます。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ。また、この手をそのわき腹に入れてみなければ」。この疑い深さは、良いことです。私たちもそうであるように、この人にも長所と短所があるでしょう。けれどこの彼の一番良い所は、ここです。疑い深いこと。そう簡単に信じたり飛びついたりしないこと。なぜなら簡単に信じた人は、同じように、ごく簡単に失望してガッカリしてしまうかも知れません。気軽に飛びついた人は、同じように気軽に、あっさりと捨て去ってしまうかも知れません。

  もう一か所、使徒言行録17:10-12に、疑い深いことのとても素敵な良い手本があります。ベレア地方の人々です。彼らは主の弟子たちを迎え入れ、その人々が語る福音の説教を熱心に聴きつづけました。そればかりでなく、聴いた後で、「そのとおりかどうか、毎日、聖書を調べていた。そこで、そのうちの多くの人々が信じ、信仰に入った」と。礼拝説教を聴いて、「素晴らしい。感動した」と感じるときがあります。あるいは逆に、「つまらなかった。少しも心に響かなかった」と。けれど、その時々の気分や感情は、実は、あまり当てになりません。長続きもしません。それよりも、そのメッセージが本当に神さまから来ているのかどうか。それこそが大切です。もし神からのものであれば、聴きづらくても耳痛くて苦くても、それを飲み込みたいのです。もし人間からのものであれば、たとえ雄弁で耳障りが良くても、決して鵜呑みにしてはいけません。そのためにこそ、それぞれ手元に1冊ずつの聖書を持っています。主イエスのところへ行き、この独りの方から格別な生命を受け取るために(ヨハネ福音書5:39-40。ベレア地方の人々のように。あるいは疑い深いトマスのように。

 まず、本当かどうか疑う。次に、自分で聖書を調べて、確かめてみる。だからこそ、その人々は、やがて生身の人間たちをではなく、神ご自身を信じて頼みの綱とする者たちへと育っていきます。説教を聴いて、「本当かどうか」と引っかかる時もあります。心がざわめき、疑わしく思えるときもあります。聖書のページを自分で開いて、自分自身の心で確かめてみましょう。もし、そのとおりだったら、それは受け入れて聴き従うに値します。それが本当に神からのものであるならば、聴いた言葉はあなたを生かし、あなたを心強く導きはじめるでしょう。

 ですから、疑い迷うその人たちを侮ってはいけません。ためらって考え込んでいるその人を、見くびってはなりません。手間取り、疑ったり悩んだり迷ったりし、行きつ戻りつして足踏みした者たちは、本気で信じるための準備をしています。行きつ戻りつして踏みしめられた足元の地面は、踏み固められ、やがてその人がしっかりと立つための堅いガッシリした土台となります。「手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ。また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、決して信じない」。トマスの魂の叫びが聞こえます。「私は決して信じない」。それは、ぜひ信じたいと叫んでいます。私も信じたい。信じて生きることをしてみたい。そのためならば、この指を伸ばして、あの方の釘跡に触ってみさえする。この手をそのわき腹に入れ、その深い傷跡の中にぜひとも手を触れてみたい。

  主イエスは、11人のためにご自分の姿を現わしてくださいました。疑い深いトマスのためにも、ご自分の姿を現わしてくださいました。あの一人の彼のことも、ちゃんと顧みておられるのです。それぞれの恐れと悩みをよく知っておられるからです。ぜひ信じたいという、その願いを知っておられるからです。あなたがたに平和があるように。十字架にかけられる前の晩に主イエスはおっしゃいました、「わたしは平安をあなたがたに残し、わたしの平安をあなたがたに与える。私が与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなあたがたは心を騒がせるな。またおじけるな」(ヨハネ福音書14:27。それぞれに抱えもった恐れと思い煩いの中でも消えて無くならない、主イエスご自身から贈り与えられた平和と心の安らかさがあるように。あるとき誰かが、あなたにちょっとしたことを言います。分かってもらえないことはあります。誤解されたり、ひどくねじ曲げられることも。誰も賛成してくれなかったり、誰一人も支えてくれないこともあります。かえってきびしく非難されたり叱られたり、見下されたり知らんぷりされたり。すると、鍵をかけたくなります。家の中に閉じこもって、小さくなって震えていたくなります。「こんなことをしたら世間の皆さまからどう思われるか。いったい、なんと見られるだろうか」と。

ですから、27-29節をよく確かめましょう。「それからトマスに言われた、『あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい』。トマスはイエスに答えて言った、『わが主よ、わが神よ』。イエスは彼に言われた、『あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである』」。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい」と勧められて、トマスはその後、どうやって主イエスを信じたでしょう。指を傷跡に入れたか、入れなかったのか。もし指と手のひらで触れてみたのなら、とても重要なことなので、「触れてみた。差し入れてみた」と、はっきり書いてあるはずです。けれども、そうしたとは一言も書いてありません。聖書が何のために書かれ、どのように書かれているのかを聖書自身が明確に証言します、「しかし、これらのことを書いたのは、あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名によって命を得るためである」(ヨハネ福音書20:31と。その証言を受け止めて、世々の教会は「聖書には、罪人が救い主イエスを信じて救われるために必要なすべて一切が、十分に書かれてある」と習い覚えてきました。もし指と手のひらで触れてみたのなら、「触れてみた。差し入れてみた」とはっきり書いてあるはず。けれども、そうしたとは一言も書いていない。つまり、あのときトマスは、自分の指を主イエスのてのひらの釘跡に当ててみませんでした。自分の手を主イエスの脇腹の傷跡に入れてみませんでした。そんなことをわざわざしてみるまでもなく、疑いは拭い去られ、すでにはっきりと信じていたからです。「指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。さあ、どうぞ。あなたは信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。そのように目の前で自分に向かって本気で語りかけてくださり、「あなたの指をここにつけて。手を伸ばして、わたしの脇腹に」と強く促していただいたとき、それでもう十分に分かりました。主イエスご自身の心が彼の心にも届いて、彼の疑いと迷いがすっかり拭い去られていました。「わたしの主、わたしの神」とトマスは、ついにとうとう救い主イエスの御前に身を屈めさせていただきました。わたしの主、わたしの神。救い主イエスに対して直接に、はっきりと「神」と呼び、しかもとうとう「わたしの神」とさえ呼ばわることができた弟子はトマスが最初でした。疑い深く、心がやや頑固でもあった彼こそがまず最初に、神ご自身の憐れみによってねじ伏せられ、主であり神であられます救い主イエスへの信仰を言い表す者とされました。なんということでしょう。しかも今では、この私たちも、救い主イエスのお姿を見たわけでもなく、手で触れたわけでもなく、その御声をこの耳で直接に聴いたわけでもなく、にもかかわらず、はっきりと信じています。神ご自身がこの私たちをも、神を信じて生きる者たちとしてくださったからです。