2021年4月12日月曜日

4/11「泣かなくても良い」ヨハネ20:11-18

       みことば/2021,4,11(復活節第2主日の礼拝)  314

◎礼拝説教 ヨハネ福音書 20:11-18                 日本キリスト教会 上田教会

『泣かなくても良い』

 

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne

20:11 しかし、マリヤは墓の外に立って泣いていた。そして泣きながら、身をかがめて墓の中をのぞくと、12 白い衣を着たふたりの御使が、イエスの死体のおかれていた場所に、ひとりは頭の方に、ひとりは足の方に、すわっているのを見た。13 すると、彼らはマリヤに、「女よ、なぜ泣いているのか」と言った。マリヤは彼らに言った、「だれかが、わたしの主を取り去りました。そして、どこに置いたのか、わからないのです」。14 そう言って、うしろをふり向くと、そこにイエスが立っておられるのを見た。しかし、それがイエスであることに気がつかなかった。15 イエスは女に言われた、「女よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」。マリヤは、その人が園の番人だと思って言った、「もしあなたが、あのかたを移したのでしたら、どこへ置いたのか、どうぞ、おっしゃって下さい。わたしがそのかたを引き取ります」。16 イエスは彼女に「マリヤよ」と言われた。マリヤはふり返って、イエスにむかってヘブル語で「ラボニ」と言った。それは、先生という意味である。17 イエスは彼女に言われた、「わたしにさわってはいけない。わたしは、まだ父のみもとに上っていないのだから。ただ、わたしの兄弟たちの所に行って、『わたしは、わたしの父またあなたがたの父であって、わたしの神またあなたがたの神であられるかたのみもとへ上って行く』と、彼らに伝えなさい」。18 マグダラのマリヤは弟子たちのところに行って、自分が主に会ったこと、またイエスがこれこれのことを自分に仰せになったことを、報告した。           (ヨハネ福音書 20:11-18

 復活なさった救い主イエスとマグダラのマリヤとの対話を、このヨハネ福音書だけが報告しています。二人の弟子ペテロとヨハネが家に帰っていった後、なおもこの一人の女性は救い主イエスが葬られた墓を離れずに、そこに留まりつづけていました。それで、死人の中からよみがえらされた主イエスと彼女が一番最初に出会うことになり、主の御声を最初に聴き、最初にこの主イエスと言葉を交わすことになりました。

 11-15節。彼女はとても悲しみ、泣きつづけています。二人の御使いが彼女に問いかけました、「女よ、なぜ泣いているのか」。彼女は答えました、「だれかが、わたしの主を取り去りました。そして、どこに置いたのか、わからないのです」。うしろをふり向くと、そこにイエスが立っておられるのを彼女は見ました。しかし、それがイエスであることに気がつきませんでした。目と心が塞がれており、見るべきものがたとえそこに確かにあっても気がつかないからです。主イエスは彼女に言われました、「女よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」。彼女は、その相手が園の番人だと思って答えました、「もしあなたが、あのかたを移したのでしたら、どこへ置いたのか、どうぞ、おっしゃって下さい。わたしがそのかたを引き取ります」。このように私たちも、しばしば恐れや悲しみ、思い煩い、嘆きに深く囚われてしまいます。目の前にある恐れや嘆きに目と心をすっかり塞がれてしまうからです。例えば、アブラハムとサラ夫婦の家を追い出された女奴隷のハガルも、同じように悲しみ嘆いていました(創世記16:4-14参照)。「サライが彼女を苦しめたので、彼女はサライの顔を避けて逃げた」と報告されています。その前に、アブラハムは妻サラにこう言っています、「あなたの女奴隷ハガルはあなたの手のうちにある。あなたの好きなようにしなさい」と。つまりアブラハムとサラ夫婦が、サライを苦しめ、彼女が逃げるほかないように仕向けたのでした。しかもハガル自身こそが子を授けられたことで思い上がり傲慢になって、自分の女主人であるサラを見下したことが争いの発端でした。「ハガル自身の罪が自分を苦しめた」と言ってよいでしょう。アブラハム、サラ、ハガル、3人それぞれに、自分自身の罪が招き寄せた苦しみを味わいました。主の御使いが、「あなたは女主人サラのもとに帰って、その手に(自分の)身を任せなさい」と、へりくだるようにハガルをいさめながら、励ましと支えを約束します。そこで、自分のすぐ傍らに豊かな水が湧き出る井戸があることに彼女は気づきます。その井戸を、『主が私を顧みていてくださる(=エル・ロイ)』と名づけました。顧みていてくださり、支えの御手を差し伸べようとしておられる神は、私たちのすぐ傍らにありつづけます。けれどもその神の真実を見失うとき、私たちもまた彼女たちのように傲慢に陥り、あるいは恐れに取りつかれつづけます。女奴隷ハガルを思い起こしたのは、彼女たちにはいくつかの大切な共通点があるからです。悲しみ嘆いていた2人であること。自分自身の罪深さを抱え、神の憐れみによって救い出された者たちであること。マグダラのマリヤは主イエスを目の前に見ていながら、それに気づきませんでした。ハガルは、すぐ傍らにあった豊かな井戸に気づかず、御使いの語りかけによって目を開かれて、そこに井戸があることに驚きます。そして、マグダラのマリヤと向かい合っていた復活の主イエスこそ、かつてサマリヤで、「わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」(ヨハネ福音書4:14とおっしゃった方です。主イエス・キリストによってこそ彼女たちも私たちも神の憐れみを知り、主なる神が私たちを顧みていてくださることを信じる者たちとされました。

嘆いたり泣いたり、恐れたりせざるをえない理由を私たちはそれぞれに山ほど抱えています。悩みも恐れも、一生涯ずっと次々にあり、クリスチャンである私たちにもついて回ります。そのことをよく分かった上で、「恐れなくても良い。もう悲しんだり泣いたりしなくても良い」と、憐み深い神が語りかけます。私たちの恐れや嘆きを取り去ってあげようという招きです。もし、その御声が耳にも心にも届くなら、神にこそ十分な信頼を寄せることができるなら、そこでようやく思い煩いも恐れも、皆すべて取り除かれます。

 16-18節。イエスは彼女に「マリヤよ」と言われた。マリヤはふり返って、イエスにむかってヘブル語で「ラボニ」と言った。それは、先生という意味である。イエスは彼女に言われた、「わたしにさわってはいけない。わたしは、まだ父のみもとに上っていないのだから。ただ、わたしの兄弟たちの所に行って、『わたしは、わたしの父またあなたがたの父であって、わたしの神またあなたがたの神であられるかたのみもとへ上って行く』と、彼らに伝えなさい」。マグダラのマリヤは弟子たちのところに行って、自分が主に会ったこと、またイエスがこれこれのことを自分に仰せになったことを、報告した」。目を開かれ、心の曇りもすっかり取り除かれて、マグダラのマリヤはその方が主イエスだとようやく分かりました。まず、「わたしにさわってはいけない。わたしは、まだ父のみもとに上っていないのだから」と語られたことに目を留めなければなりません。思わず手を伸ばして、主イエスの御体に、あるいは衣にでも触れてみたくなりました。とても驚いたからです。主イエスを失ったと思った大きな悲しみや絶望が、いきなり大きな喜びに変えられたからです。けれど、「わたしに触れてはいけない」。どういうことなのか。厳粛な思いを与えられ、神を畏れ敬う従順を求められます。ちょうどモーセが燃えて無くならない柴の木の前に立たせられたように(出エジプト記3:2-6。彼女も私たちも、主イエスというお方が『神であり、同時にまったく人間でもあられる』ことをよくよく覚えていなければなりません。その人間性にばかり気をとられて、神であられることを十分に受け止められなくなることがあるからです。地上に降りて来られ、生身の人間の姿形をとられてからも、救い主イエスは神であられることをほんの片時もお止めになりません。だからこそ、このお独りの方こそが、私たちをすべての罪から救い出すことができるのです(ヘブル手紙2:17-18,4:14-16。わたしは、まだ父のみもとに上っていない。だから、今はまだ、私に触ってはいけない。むしろ、あなたが今すべきことがある。神を信じて生きる仲間たち、主イエスの兄弟とされたものたちに、『主イエスは、父なる神のみもとへ上って行く。しかもイエスの父である神は今や、この私たちのとっても真実な父となってくださった』と伝えなさい。そのことを伝えて、恐れと心細さの中に閉じ込められている仲間たちを勇気づけ、励ます務めが主から与えられています。折々の自分自身の気持ちよりも、そのことのほうが何倍も大切です。私たち自身も、今この目で救い主イエスを見ることはできません。主イエスが私たちの心に住んでいて下さることを信仰によって知り、また、二人また三人が主イエスの御名のもとにあつまるとき、『私もそこにいるのである』と御自身の口から約束されていることを信仰によって信じ、受け止めて、それで十分に満足することができます。さらには、終わりの日に、ふたたび来られる救い主イエスとそのとき本当にお目にかかるとも約束されています。ですから、主を待ち望んで希望をもって生きることができます。

 また、ここで主イエスがご自分の弟子たちに対して、とても思いやり深く温かい心で語っておられることにも、よく目を留めておきましょう。伝言を弟子たちに伝えさせるとき、主イエスは、弟子たちのことを『私の兄弟たち』と呼んでおられます。また、ご自分の父は私たち主イエスの弟子たち皆にとっても『私たちの父』であり『私たちの神』でもあると。だから今では、神の子供たちとされ、父なる神をそのようにお呼びすることが出来る私たちです。しかもその三日前に、主イエスを見捨てて、散り散りに逃げ出した弟子たちです。このあわれみ深い主は、すべてがゆるされているとして、彼らと私たちを取り扱っておられます。戸惑い、道に迷ってしまった者たちをふたたびご自身のもとに連れ戻してくださることを、まず第一に考えておられるからです。心が挫けてしまいそうな者たちに、何よりも、ふたたび勇気を与え、神を信じて生きいる信仰を回復させてくださろうとしています。後戻りしてしまった者たちを、けれども主は決してお見捨てになりません。あわれみ深い主であられるからです。詩篇103篇は語りかけます、「父がその子供をあわれむように、主はおのれを恐れる者をあわれまれる。主はわれらの造られたさまを知り、われらのちりであることを覚えていられるからである」13-14節)と。救い主イエス・キリストによって神のあわれみを知った私たちです。主イエスご自身がこうはっきりと証言しておられます、「父がわたしに与えて下さる者は皆、わたしに来るであろう。そして、わたしに来る者を決して拒みはしない。わたしが天から下ってきたのは、自分のこころのままを行うためではなく、わたしをつかわされたかたのみこころを行うためである。わたしをつかわされたかたのみこころは、わたしに与えて下さった者を、わたしがひとりも失わずに、終りの日によみがえらせることである。わたしの父のみこころは、子を見て信じる者が、ことごとく永遠の命を得ることなのである。そして、わたしはその人々を終りの日によみがえらせるであろう」(ヨハネ福音書6:37-40と。これが、私たちの確かな希望であり、ただ一つの安心材料です。

 

 

         【補足】#ミャンマー国軍クーデター #エチオピア #香港 #ミャンマーに関する日本政府の人道的措置を求める要請文 一般のニュース報道では十分な情報がなかなか届いていません。けれど、怖ろしいことが起こっています。軍事クーデターや武力衝突、きびしい迫害と弾圧の中にある人々に、暴力から逃れて生き延びる道が備えられるように。いのちをつなぐための食料と水と安全な居場所を彼らに与えられるように。私たちも日本政府も、彼らのために正義と公正と平和とが守られるように手を差し伸べる者たちでありたい。彼らは身近な隣人です。

 日本キリスト教協議会は4月7日付で、日本政府が国軍クーデターに加担することなく、むしろ非暴力による不服従抵抗運動を貫く人々を守るために人道的な措置を取るようにと要請文を公表しました。どうぞ読んでください。このことを知ってください。

 

内閣総理大臣  菅 義偉様

外務大臣   茂木 敏充様

私たち日本キリスト教協議会は 2021 2 1 日にミャンマーで引き起こされた国軍による軍事クーデター と、それに抗議する民衆たちへの無差別な武力攻撃によって多くの死傷者が出ていることに、心を痛めています。 ミャンマーの民衆が粘り強く築きあげてきた民主主義を、暴力によって破壊し、それに抗して非暴力による不服 従抵抗運動 (CDM)を貫く人々へのさらなる武力弾圧は、決して容認できるものではありません。日本政府は 一刻も早くこの事態を終結させるため、国際社会と共に、あらゆる働きかけをおこなって下さい。また国軍の利 益供給につながるあらゆる日本企業の交易のパイプを速やかに凍結させるよう措置して下さい。

また、悲痛な思いを持って日本国内に生きるミャンマー人たちにも、この CDM 運動は広がっています。私たち 日本キリスト教協議会は、この CDM 運動を支持し、この運動に身を投じている人々に連帯します。とりわけ、 CDM 運動に参与し、不服従の意思表示のため職務遂行を中断している在日ミャンマー大使館の職員 2 名につ いて、その身分保障、法的地位の保障が保たれるべきと考えます。しかし、ミャンマー国軍政府はこの 2 名に代え て国軍派遣の職員を日本に派遣しようとしています。それは、CDM を表明した 2 名の職員を解職することを意 味すると共に、在日ミャンマー人たちにとっての圧力ともなり、CDM 運動への弾圧に他なりません。したがって、 日本政府は、新たに在日ミャンマー大使館に国軍側から派遣されようとしている職員に対して、決してビザ発給 をしないでください。

 以下に CDM 運動に踏み切った 2 名の職員が、勇気をもって表明した要請文を掲載いたします。当事者の深刻 な訴えを受けとめ、これらの人々の生命の保護、法的地位の確保のために日本政府として人道的な措置を講じ るよう、日本キリスト教協議会として要請いたします。

 

【当事者による要請文】

日本政府はミャンマー国軍側である「国家統治評議会」が新たに任命した2名に対し、 新規外交官ビザ発給をしないでください

2021 2 1 日にミャンマー国軍はクーデターを起こし、民主的に選出された国家元首であるウィンミィン 大統領、アウンサンスーチー国家顧問、その他の政治家、内閣幹部を拘束しました。以降、ミャンマー国内では、連 日、国軍の武力鎮圧により死傷者が出ており、私たちミャンマー国民、在日ミャンマー人は、民主主義が奪われる ことに、大きな不安を抱えています。 国軍による人権侵害を憂慮し、民主主義を求めるミャンマーの国家公務員は、市民的不服従運動(CDM) に参 加し、国民と共に抗議活動を行ってきました。アウンサンスーチー国家顧問が外相を務める外務省、ネピドー本 省、そして世界各国に赴任している在外ミャンマー大使館職員(公務員)が、CDM に参加しました。

在日ミャンマー大使館に勤務する一等書記官ウー・アウン・ソー・モー(U Aung Soe Moe)氏、二等書記官ドー・ エインドラ・タン(Daw Eaindra Than)氏も、2021 3 6 日に CDM に参加しました。この二人は、不服 従運動に参加したのであり、ミャンマー国の公務員である外交官を辞職したわけでは、ありません。二人の在日 外交官は、暴力によって制圧される国民の側に立ち、共に抗議するために外交官として CDM に参加していま す。よって、両氏は現時点においても、民主的に選出された政府により任命され、正式に日本へ派遣された外交官 です。 ミャンマー国民の側に立ち、CDM に参加した外交官に代わって、国軍側は、軍出身公務員を交代要員として赴 任させることを計画しました。在ミャンマー日本大使館(ヤンゴン)に、国軍からの外交官ビザ申請があった場合、 日本政府は、その申請を決して受理しないよう強く要請します。

不当に政権を掌握し、暴力的に国民を虐殺し続けているミャンマー国軍により結成された国家統治評議会が任 命し、派遣する外交官に、日本政府が外交ビザを発行することは、日本政府が国家統治評議会と正規に連携を取 り、ミャンマー国内での虐殺を幇助することを表明することとなります。元来、外交官の派遣は正当な政権により二国間で承認を得て行われるものです。そのため、国軍が任命する 「外交官」2 名に対し日本政府が外交ビザを発行し、入国させることは、国軍の国家統治評議会を日本が正式に 認めたと、在日ミャンマー国民全員が受け止めます。 日本政府に対し、ミャンマー国軍、国家統治評議会と一切連携を取らぬよう、我々在日ミャンマー国民は何回も 要請してまいりました。この度は、日本政府として、在日ミャンマー大使館勤務のため、国家統治評議会が派遣す る2名に新規外交ビザを決して発行されませんよう、強く要請いたします。