2021年4月20日火曜日

4/18「安らかでありなさい」ヨハネ20:19-23

       みことば/2021,4,18(復活節第3主日の礼拝)  315

◎礼拝説教 ヨハネ福音書 20:19-23                 日本キリスト教会 上田教会

『安らかでありなさい』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

20:19 その日、すなわち、一週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人をおそれて、自分たちのおる所の戸をみなしめていると、イエスがはいってきて、彼らの中に立ち、「安かれ」と言われた。20 そう言って、手とわきとを、彼らにお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ。21 イエスはまた彼らに言われた、「安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」。22 そう言って、彼らに息を吹きかけて仰せになった、「聖霊を受けよ。23 あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう」。(ヨハネ福音書 20:19-23

                                               

5:18 しかし、すべてこれらの事は、神から出ている。神はキリストによって、わたしたちをご自分に和解させ、かつ和解の務をわたしたちに授けて下さった。19 すなわち、神はキリストにおいて世をご自分に和解させ、その罪過の責任をこれに負わせることをしないで、わたしたちに和解の福音をゆだねられたのである。20 神がわたしたちをとおして勧めをなさるのであるから、わたしたちはキリストの使者なのである。そこで、キリストに代って願う、神の和解を受けなさい。21 神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。                  (2コリント手紙 5:18-21)


 救い主イエス・キリストはエルサレムの都に上ってくる旅の途中で何度も何度も、ご自分の死と復活を予告しつづけました。その約束通りに、人間たちの不当な裁判にかけられ、はずかしめられ、十字架につけて殺され、墓に葬られ、やがて三日目に復活なさいました。しかも、人間たちの不当な裁きだったばかりではなく、十字架の上で死んで復活してくださることが、神ご自身の御心であり、救いの御計画でもありました。その日の夕方のことです。

 19節、「その日、すなわち、一週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人をおそれて、自分たちのおる所の戸をみなしめていると、イエスがはいってきて、彼らの中に立ち、『安かれ』と言われた」。恐れて、自分たちのおる所の戸をみな閉めて、小さくなって閉じこもっていた。これが、彼らと私たちの現実です。19,20節と、2度続けて「安かれ」と弟子たちに語りかけます。「あなたがたに平安があるように」という、ごく普通に用いられていた挨拶でもあります。こんにちはとか、お変わりありませんかなどのように。そのごく普通の挨拶でもある同じ言葉が、けれどここでは、いつもとは違う格別な意味合いを込めて語りかけられます。なぜなら、復活なさった主イエスが弟子たちに最初に語りかけたこの「安かれ」、『平安・平和』という言葉は、同じ主イエスが十字架にかかる前夜の最後の食事の席で弟子たちにぜひ伝えようとしていた『平安・平和』だったからです。あのとき主イエスは弟子たちにこうおっしゃいました、「これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい」。また、その『平安・平和』は、十字架の上で死なれる前の最後の贈り物でもあったからです。「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな」(ヨハネ福音書14:27,16:33。この『平安・平和』を思い起こさせようとして、ここで安かれ、「平安。平安」と重ねて語りかけています。「安かれ。あなたがたに平安・平和があるように」。平安・平和があるのかないのか。それこそが、この世界にとっても、また私たちのいつもの普段の暮らしにとっても、夫婦や親子の間でも、隣近所同士の付き合いでも職場でも、肝心要でありつづけます。この数日の間に弟子たちの身に何が起こり、彼らが何を味わい、今どんな気持ちでいるのか。またこの後、彼らにどんな出来事が待ち構えているのかをつくづくと思い描きながら、主イエスは仰るのです。「あなたがたの心が安らかであり、平和があるように。私の平和を、あなたがたにぜひ贈り与えたい」と。なぜなら、平和とは程遠いところに彼らはいました。主イエスを十字架にかけて殺したユダヤ人の仲間たちが、今度はこの自分たちをも同じヒドイ目に合わせるのではないかと恐れていました。いったい何をされるか分からない、自分たちがどうなってしまうか分からないと。主イエスを裏切って、見捨てて、逃げてしまった自分たちでもあります。その自分たち自身の弱さ、だらしなさ、とても不誠実であったことに自分たち自身でガッカリしていました。けれども皆さん。その彼らに向かって、「どういうつもりか」と叱るのでもなく、責めるのでもなく、いたらなさや欠点を1つ1つ並べ立てるのでもなく、「安らかでありなさい。私の平安・平和をあなたがたにあげましょう」と主イエスは仰います。この救い主は、私たちに平安・平和があるためにこそ救いの御業をすっかり十分に成し遂げてくださいました。

すると、ここで私たちは、奇妙な堂々巡りの輪の中に閉じ込められていることに気づきます。約束されている事柄とすでに実現している事柄との間に。差し出されているものとすでに受け取って手にしているものとの間にある奇妙なズレと隔たりに。救い主イエスは十字架の上にご自身の体をささげてくださり、さらに死人の中から復活して永遠の生命の保証を私たちに与え、私たちのための格別な平和をそこで確かに獲得してくださった。それなのになぜ、いまだに、私たちの中に『平和であること』と『平和ではないこと』とが混じり合って残るのでしょう。なぜ度々、安らかさや平和とは程遠い所に私たちは閉じ込められて、誰かや何事かを恐れたり恐れさせたり、恥じたり恥じ入らせたり、悔やんだり苛立ったり嘆いたりしているのか。罪をゆるすことについても同様です。私たち人間の罪をゆるすことができるのは、ただ神お独りだけでした。それが、聖書から教わってきたことです(マルコ2:7-10,使徒5:31)。それなのに、ここで、「誰の罪でも、あなたがたがゆるせば、その罪はゆるされる。誰の罪でも、あなたがたがゆるさなければ、ゆるされないまま残る」(23)と主はおっしゃる。あなたがゆるすならゆるされる。あなたがゆるさなければ、ゆるされないままずっといつまでも残る。どういうことか。 

 あの日の夕方、主イエスは、恐れて閉じこもっていた弟子たちの真ん中に立って19節)、そこで「安かれ。あなたがたに平安・平和があるように」とおっしゃいました。十字架の上でご自分の生命を投げ捨ててくださって、そのようにして勝ち取ってくださった特別仕立ての、大切な平和です。だからこそ、てのひらの釘跡と、脇腹の槍で刺された傷跡を、よくよく見せてくださいました。それを見るまでは、彼らも私たちも心から喜ぶことがどうしてもできませんでした。それを見て、とうとう弟子たちは喜びにあふれました。「私は平安をあなたがたに残し、わたしの平安をあなたがたに与える」。だから受け取りなさい。この私たちは、いつまでも真ん中に立ち続けていてはいけません。謙遜にされて、慎み深く、脇へ二歩三歩と退く必要があります。「平和があるように」とおっしゃる主イエスが私たちの真ん中に立ってくださるとき、つまり、私たちがこのお独りの方をこそ私たちの真ん中に迎え入れるとき、その時にこそ、そこで初めて私たちに主イエスの平和があります。自分は正しい正しいと言い立て、語りかける声に耳を塞ぎつづけ、いつの間にかはなはだしい傲慢に陥っていたあのヨブのためにも、とうとう神の御前に自分自身が打ち砕かれるときが来ました。「まことに、私は、自分で悟りえないことを告げました。自分でも知りえない不思議を分かったふりをして述べ立てつづけました。私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。それで私は自分自身を恥じ、自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔いています」(ヨブ記42:1-6 新改訳聖書を参照)

ご覧なさい。「安らかであれ。あなたがたに平和があるように」とおっしゃって、主は手とわき腹とを見せてくださった。あなたも見せていただいた。てのひらの釘の跡、わき腹の槍で刺し貫かれた傷跡、その傷跡は、私たちへの主の慈しみと憐れみを物語ります。はっきりと、見過ごしようもないほど明らかに物語っています。それなのに誰がいったい私たちの心を惑わせたのか。目の前に、十字架につけられたキリストが示された。示されつづけている(ガラテヤ手紙3:1-。惜しみなく、いいえ、むしろ徹底して私たちを惜しんでくださり、神の憐れみの子供たちとして迎え入れてくださったただお独りの方がおられます。そのために尊厳も体裁も面目も、生命さえ投げ捨ててくださったただお独りの方がおられます(ピリピ手紙2:5-。その方は、十字架の上でただ惨めで無残な死をとげただけではありません。ただ死んで葬られただけではありません。死んで、三日目に死人の中から復活なさいました。

22-23節です。主イエスは弟子たちに息を吹きかけて、平和とゆるしとを告げました。「聖霊を受けよ。あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残る」。主からの平和の中に生きることは、主からの生命の息(=聖霊なる神のお働き)を受け取って生きることでした。それは、具体的なこの私たちの毎日毎日の営みです。『この私があの人を、あのことを、ゆるすこと』だというのです。「あなたがたがゆるせば、ゆるされる。ゆるさなければ、それはゆるされないまま残る」。もちろん神ご自身がゆるしてくださる他ありません。神がゆるし、神ご自身が解き放ってくださるのでなければ、私たちは、私たちを縛りつけるものから自由になることはできません。あのとき、あの十字架の上で、主イエスはこう呼ばわっていました。「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(ルカ福音書23:34。主はこのように願い求め、まったく何をしているのか自分で自分が分からない私たちをゆるし、再び憐れみの神のもとへと連れ戻すために、そのためにこそ、あの木の上でご自分の血を流しつくしてくださいました。ご自身の体を引き裂いてくださいました。兄弟姉妹たち。だから、私たちは罪をゆるされているのです。すでに決定的に。

十字架にかかる直前、その前の夜、ご自身がはっきりと仰いました。「父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう。わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな」(ヨハネ福音書14:26-27)キリストの教会と一人一人のクリスチャンの務めと役割は、この地上に、私たちの間に平和をもたらす悪戦苦闘でありつづけます。それが救い主イエスが語った神の国の福音の主要な内容でありつづけます。第一には、ご自身の尊い血潮による罪のあがないによって打ち立てられた『神と人間』との間の平和であり、次に、『人間と人間同士。人間とこの世界、すべて生命あるものたちとの間』の平和です。救い主イエスによってはっきりと差し出された神の恵みと慈しみとを、この世界と自分自身の中に注ぎ込まれる。それによって成し遂げられ、建て上げられてゆく平和です。キリストの教会と一人一人のクリスチャンの務めと役割はここにあります。自分自身と大切な家族のための救いも、ここにあります。

救い主イエス・キリストはエルサレムの都に上ってくる旅の途中で何度も何度も、ご自分の死と復活を予告しつづけました。その約束通りに、人間たちの不当な裁判にかけられ、はずかしめられ、十字架につけて殺され、墓に葬られ、やがて三日目に復活なさいました。しかも、人間たちの不当な裁きだったばかりではなく、十字架の上で死んで復活してくださることが、神ご自身の御心であり、救いの御計画でもありました。その日の夕方のことです。

 19節、「その日、すなわち、一週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人をおそれて、自分たちのおる所の戸をみなしめていると、イエスがはいってきて、彼らの中に立ち、『安かれ』と言われた」。恐れて、自分たちのおる所の戸をみな閉めて、小さくなって閉じこもっていた。これが、彼らと私たちの現実です。19,20節と、2度続けて「安かれ」と弟子たちに語りかけます。「あなたがたに平安があるように」という、ごく普通に用いられていた挨拶でもあります。こんにちはとか、お変わりありませんかなどのように。そのごく普通の挨拶でもある同じ言葉が、けれどここでは、いつもとは違う格別な意味合いを込めて語りかけられます。なぜなら、復活なさった主イエスが弟子たちに最初に語りかけたこの「安かれ」、『平安・平和』という言葉は、同じ主イエスが十字架にかかる前夜の最後の食事の席で弟子たちにぜひ伝えようとしていた『平安・平和』だったからです。あのとき主イエスは弟子たちにこうおっしゃいました、「これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい」。また、その『平安・平和』は、十字架の上で死なれる前の最後の贈り物でもあったからです。「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな」(ヨハネ福音書14:27,16:33。この『平安・平和』を思い起こさせようとして、ここで安かれ、「平安。平安」と重ねて語りかけています。「安かれ。あなたがたに平安・平和があるように」。平安・平和があるのかないのか。それこそが、この世界にとっても、また私たちのいつもの普段の暮らしにとっても、夫婦や親子の間でも、隣近所同士の付き合いでも職場でも、肝心要でありつづけます。この数日の間に弟子たちの身に何が起こり、彼らが何を味わい、今どんな気持ちでいるのか。またこの後、彼らにどんな出来事が待ち構えているのかをつくづくと思い描きながら、主イエスは仰るのです。「あなたがたの心が安らかであり、平和があるように。私の平和を、あなたがたにぜひ贈り与えたい」と。なぜなら、平和とは程遠いところに彼らはいました。主イエスを十字架にかけて殺したユダヤ人の仲間たちが、今度はこの自分たちをも同じヒドイ目に合わせるのではないかと恐れていました。いったい何をされるか分からない、自分たちがどうなってしまうか分からないと。主イエスを裏切って、見捨てて、逃げてしまった自分たちでもあります。その自分たち自身の弱さ、だらしなさ、とても不誠実であったことに自分たち自身でガッカリしていました。けれども皆さん。その彼らに向かって、「どういうつもりか」と叱るのでもなく、責めるのでもなく、いたらなさや欠点を1つ1つ並べ立てるのでもなく、「安らかでありなさい。私の平安・平和をあなたがたにあげましょう」と主イエスは仰います。この救い主は、私たちに平安・平和があるためにこそ救いの御業をすっかり十分に成し遂げてくださいました。

すると、ここで私たちは、奇妙な堂々巡りの輪の中に閉じ込められていることに気づきます。約束されている事柄とすでに実現している事柄との間に。差し出されているものとすでに受け取って手にしているものとの間にある奇妙なズレと隔たりに。救い主イエスは十字架の上にご自身の体をささげてくださり、さらに死人の中から復活して永遠の生命の保証を私たちに与え、私たちのための格別な平和をそこで確かに獲得してくださった。それなのになぜ、いまだに、私たちの中に『平和であること』と『平和ではないこと』とが混じり合って残るのでしょう。なぜ度々、安らかさや平和とは程遠い所に私たちは閉じ込められて、誰かや何事かを恐れたり恐れさせたり、恥じたり恥じ入らせたり、悔やんだり苛立ったり嘆いたりしているのか。罪をゆるすことについても同様です。私たち人間の罪をゆるすことができるのは、ただ神お独りだけでした。それが、聖書から教わってきたことです(マルコ2:7-10,使徒5:31)。それなのに、ここで、「誰の罪でも、あなたがたがゆるせば、その罪はゆるされる。誰の罪でも、あなたがたがゆるさなければ、ゆるされないまま残る」(23)と主はおっしゃる。あなたがゆるすならゆるされる。あなたがゆるさなければ、ゆるされないままずっといつまでも残る。どういうことか。 

 あの日の夕方、主イエスは、恐れて閉じこもっていた弟子たちの真ん中に立って19節)、そこで「安かれ。あなたがたに平安・平和があるように」とおっしゃいました。十字架の上でご自分の生命を投げ捨ててくださって、そのようにして勝ち取ってくださった特別仕立ての、大切な平和です。だからこそ、てのひらの釘跡と、脇腹の槍で刺された傷跡を、よくよく見せてくださいました。それを見るまでは、彼らも私たちも心から喜ぶことがどうしてもできませんでした。それを見て、とうとう弟子たちは喜びにあふれました。「私は平安をあなたがたに残し、わたしの平安をあなたがたに与える」。だから受け取りなさい。この私たちは、いつまでも真ん中に立ち続けていてはいけません。謙遜にされて、慎み深く、脇へ二歩三歩と退く必要があります。「平和があるように」とおっしゃる主イエスが私たちの真ん中に立ってくださるとき、つまり、私たちがこのお独りの方をこそ私たちの真ん中に迎え入れるとき、その時にこそ、そこで初めて私たちに主イエスの平和があります。自分は正しい正しいと言い立て、語りかける声に耳を塞ぎつづけ、いつの間にかはなはだしい傲慢に陥っていたあのヨブのためにも、とうとう神の御前に自分自身が打ち砕かれるときが来ました。「まことに、私は、自分で悟りえないことを告げました。自分でも知りえない不思議を分かったふりをして述べ立てつづけました。私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。それで私は自分自身を恥じ、自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔いています」(ヨブ記42:1-6 新改訳聖書を参照)

ご覧なさい。「安らかであれ。あなたがたに平和があるように」とおっしゃって、主は手とわき腹とを見せてくださった。あなたも見せていただいた。てのひらの釘の跡、わき腹の槍で刺し貫かれた傷跡、その傷跡は、私たちへの主の慈しみと憐れみを物語ります。はっきりと、見過ごしようもないほど明らかに物語っています。それなのに誰がいったい私たちの心を惑わせたのか。目の前に、十字架につけられたキリストが示された。示されつづけている(ガラテヤ手紙3:1-。惜しみなく、いいえ、むしろ徹底して私たちを惜しんでくださり、神の憐れみの子供たちとして迎え入れてくださったただお独りの方がおられます。そのために尊厳も体裁も面目も、生命さえ投げ捨ててくださったただお独りの方がおられます(ピリピ手紙2:5-。その方は、十字架の上でただ惨めで無残な死をとげただけではありません。ただ死んで葬られただけではありません。死んで、三日目に死人の中から復活なさいました。

22-23節です。主イエスは弟子たちに息を吹きかけて、平和とゆるしとを告げました。「聖霊を受けよ。あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残る」。主からの平和の中に生きることは、主からの生命の息(=聖霊なる神のお働き)を受け取って生きることでした。それは、具体的なこの私たちの毎日毎日の営みです。『この私があの人を、あのことを、ゆるすこと』だというのです。「あなたがたがゆるせば、ゆるされる。ゆるさなければ、それはゆるされないまま残る」。もちろん神ご自身がゆるしてくださる他ありません。神がゆるし、神ご自身が解き放ってくださるのでなければ、私たちは、私たちを縛りつけるものから自由になることはできません。あのとき、あの十字架の上で、主イエスはこう呼ばわっていました。「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(ルカ福音書23:34。主はこのように願い求め、まったく何をしているのか自分で自分が分からない私たちをゆるし、再び憐れみの神のもとへと連れ戻すために、そのためにこそ、あの木の上でご自分の血を流しつくしてくださいました。ご自身の体を引き裂いてくださいました。兄弟姉妹たち。だから、私たちは罪をゆるされているのです。すでに決定的に。

十字架にかかる直前、その前の夜、ご自身がはっきりと仰いました。「父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう。わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな」(ヨハネ福音書14:26-27)キリストの教会と一人一人のクリスチャンの務めと役割は、この地上に、私たちの間に平和をもたらす悪戦苦闘でありつづけます。それが救い主イエスが語った神の国の福音の主要な内容でありつづけます。第一には、ご自身の尊い血潮による罪のあがないによって打ち立てられた『神と人間』との間の平和であり、次に、『人間と人間同士。人間とこの世界、すべて生命あるものたちとの間』の平和です。救い主イエスによってはっきりと差し出された神の恵みと慈しみとを、この世界と自分自身の中に注ぎ込まれる。それによって成し遂げられ、建て上げられてゆく平和です。キリストの教会と一人一人のクリスチャンの務めと役割はここにあります。自分自身と大切な家族のための救いも、ここにあります。