2020年11月30日月曜日

11/29「祝宴に誰を招くか」ルカ14:12-14

           みことば/2020,11,29(主日礼拝)  295

◎礼拝説教 ルカ福音書 14:12-14              日本キリスト教会 上田教会

『祝宴に誰を招くか』

 

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

14:12 また、イエスは自分を招いた人に言われた、「午餐または晩餐の席を設ける場合には、友人、兄弟、親族、金持の隣り人などは呼ばぬがよい。恐らく彼らもあなたを招きかえし、それであなたは返礼を受けることになるから。13 むしろ、宴会を催す場合には、貧しい人、体の不自由な人、足の悪い人、目の見えない人などを招くがよい。14 そうすれば、彼らは返礼ができないから、あなたはさいわいになるであろう。正しい人々の復活の際には、あなたは報いられるであろう」。    (ルカ福音書 14:12-14)

                                               

2:17 もしあなたが、自らユダヤ人と称し、律法に安んじ、神を誇とし、18 御旨を知り、律法に教えられて、なすべきことをわきまえており、19,20 さらに、知識と真理とが律法の中に形をとっているとして、自ら盲人の手引き、やみにおる者の光、愚かな者の導き手、幼な子の教師をもって任じているのなら、21 なぜ、人を教えて自分を教えないのか。盗むなと人に説いて、自らは盗むのか。22 姦淫するなと言って、自らは姦淫するのか。偶像を忌みきらいながら、自らは宮の物をかすめるのか。23 律法を誇としながら、自らは律法に違反して、神を侮っているのか。24 聖書に書いてあるとおり、「神の御名は、あなたがたのゆえに、異邦人の間で汚されている」。25 もし、あなたが律法を行うなら、なるほど、割礼は役に立とう。しかし、もし律法を犯すなら、あなたの割礼は無割礼となってしまう。26 だから、もし無割礼の者が律法の規定を守るなら、その無割礼は割礼と見なされるではないか。27 かつ、生れながら無割礼の者であって律法を全うする者は、律法の文字と割礼とを持ちながら律法を犯しているあなたを、さばくのである。28 というのは、外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、外見上の肉における割礼が割礼でもない。29 かえって、隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、また、文字によらず霊による心の割礼こそ割礼であって、そのほまれは人からではなく、神から来るのである。                (ローマ手紙 2:17-29)


(1)神の国の祝宴

「上座に座ってはいけない。いつも末席に、慎み深く座っていなさい」と、救い主イエスが教えはじめました。席順のことばかりでなく、普段のいつもの心得であり、しかも単なる人間同士のつき合いや社交的な礼儀作法を教えようとしているわけではありません。むしろ神の国の祝宴に集うための心得であり、救いに至る狭い道を選び取るための心得です。だからこそ14節で、「正しい人々の復活の際には、あなた方は報いられる」と主イエスが仰り、15節で「神の国で食事をする人は幸いです」とイエスに語りかける者があり、とうとう24節で、「あなたがたに言っておくが、招かれた人で、わたしの晩餐にあずかる人はひとりもいないであろう」と仰います。「わたしの晩餐」;神ご自身によって神の国に招かれた人々が終わりの日にあずかるはずの救い主イエスによる晩餐。神の国の祝宴です。誰がどのように、その祝いの席に招かれるのか。この私たちは、その宴にどのようにあずかることができるのか。

 

(2)神は貧しいものたちを招く

 へりくだった心は、何を土台として、どのように人の魂に湧き起ってくるでしょうか。先週も申し上げましたが、へりくだった心の土台とその中身は『正しい知識』です。もしその人が自分自身をよく知り、自分の心の中にいったいどんなものがあるのかを知り、神を知り、神の尊厳とその神聖さを知り、救い主イエスを知り、罪から救い出されることのかけがえのない価値を知るならば、もしそうであるなら、その人は思いあがった傲慢な人間になど決してなれません。その人は、とうとう晴れ晴れとした心になって、『自分自身が神の恵みにまったく価しない人間だ』とつくづくと分かります。「わたしは本当に貧しい者です」とヨブが答え、「わたしは罪人の中のその最も卑しい者です」と主の弟子パウロが答えたようにです(ヨブ記40:4,1テモテ手紙1:15。つまり、それと正反対に自分を誇り、思いあがってしまう理由は、その人が自分自身が何者であるのかをまったく知らず、どんな神なのかも知らず、救い主イエスがこの自分の救いのためにも何をしてくださったのかも少しも知らないためだったのです。自分自身が何者であるのかを知る者は、誇るべきものはこの自分に何一つもないことに、ついにとうとう気づきます。

しかも、神が全能の神であられ、なんでもおできになり、まったく善意のお方であることを知るだけでは、私たちは神にすっかり信頼して、自分の救いを安心して委ねることなどできません。神にすべての信頼を置いて生きるためには、どうしたらよいのか。古い信仰問答は、ぜひとも知っておくべきこの『正しい知識』についてこう答えます、「救いにまったく値しないにもかかわらず、なお神が私たちを愛し、私たちを憐れんで、救ってくださろうとしていることを心から確信する必要があります。そのためには、救い主イエス・キリストにある憐みを知り、神をキリストにおいて知ることです」(ジュネーブ信仰問答 問8-14を参照)

 価なしに、ただ恵みによって、罪人をただ憐れみ、その罪深さと悲惨とをゆるして救う神です。その憐みは救い主イエス・キリストのうちにあり、キリストにおいて私たちに差し出されます。主のもとに罪のゆるしと、罪のあがないがあり、そのゆるしがこの私たちにも差し出されている。そこに希望があります。憐み深い、ゆるしの神に対する希望であり、だからいつでもどんなときにもその神を待ち望むことができます。ところが旧約時代の長い長い日々、神を信じる信仰はただ形ばかりのものとなり、人々は神のことが分からなくなり、神の恵みも憐みも忘れ果ててしまいました。身分が高く、豊かで、賢く偉い自分たちであると思いあがり、神をあなどりつづけました。ちょうど、宴会の席で「上座に座ろうとする人々」のようにです。神を信じて幸いに生きるはずの人々は、神の国の祝宴を忘れ、神をそっちのけにして、ただただ人間同士の宴会を繰り返しているかのように勘違いしてしまいました。次の箇所の15-24節の、神の国の祝宴に招かれながら断り続けて、ついに神の国の祝宴にあずかることのできなかった愚かな人々のようにです。

 12-13節、「また、イエスは自分を招いた人に言われた、「午餐または晩餐の席を設ける場合には、友人、兄弟、親族、金持の隣り人などは呼ばぬがよい。恐らく彼らもあなたを招きかえし、それであなたは返礼を受けることになるから。むしろ、宴会を催す場合には、貧しい人、体の不自由な人、足の悪い人、目の見えない人などを招くがよい」。たとえを用いて語られています。人間同士の付き合いではなく、神さまと私たちとの交わりの中身が教えられています。なによりも、宴会に招いておられる主人は神さまです。私たちはそのお客です。すると、その神ご自身のものである宴会に、もし、『神の友人、その兄弟、親族、金持の隣り人』などのつもりで出席するなら、せっかくのその祝宴は台無しです。かえって、その一回一回の祝宴はあなた自身にとっても大きな災いとなるでしょう。互いに招いたり招かれたり、お返しをしたりされたりして自分自身と周囲の人間たちのことばかりを思い煩いながら、神を思うことも感謝することも、神に信頼して聞き従うこともまったくできないからです。神ご自身のものであるその宴会には、私たちは、ぜひ何としても『貧しい人、体の不自由な人、足の悪い人、目の見えない人』のつもりで集まりましょう。お返しも返礼も何もできません。そうであるならば、その貧しく小さく無力な者たちは、いったい何ができるでしょう。――ただただ感謝し、喜びを噛みしめるばかりです。それなら、その祝宴にあずかった甲斐があります。その一回の祝宴にあずかったことで、私たちは幸いになれるかも知れません。もし、そこで、神ご自身が生きて働いておられて、この私のためにさえ憐みの御業をなしつづけていていてくださると気づくことができるならば。

 もちろん、少しも正しくない私たちですが、神の憐みを知って、神の御心にかなって生きることを願い求めて暮らす中で、神からの憐みの報いを受け取ることができるでしょう。終わりの日の復活の際にも、今、この一日一日の暮らしの只中にあっても。

 

 (3)祝宴にあずかる

 もし、神ご自身の祝宴にあずかり、神からの祝福と幸いをぜひ自分も受け取りたいと願うものがいるなら、その人はいったいどうしたらいいでしょうか。もちろん、神の憐みにただすがりさえすればよいのです。神の憐みは救い主イエス・キリストによって差し出され、分け隔てなく、何の区別もなく与えられます。キリストがいのちとして与えられるのですから、そこでとうとうこの私たちは、『いのちであられるキリストなしには自分が自分自身においてまったく死んでいる』ということを悟ります。「ああ、そうだったのか」と。そこで、私たちが神に差し出すことのできる唯一の、そして最善のふさわしさはこれです。つまり、救い主イエス・キリストの憐みによってふさわしいものとされるために、私たち自身の価値のなさと、ふさわしくなさを、あまりに傲慢であったことを、救い主キリストの御前に差し出すことです。私たちがキリストにおいて慰められるために、自分自身においては絶望することです。私たちがキリストにおいて立ち上がらせていただくために、自分自身としてはへりくだることです。自分は現に事実とても貧しい者、体の不自由な者、足の悪い者、目の見えない者として、慈しみ深い贈り主のもとに来ること。重い病を患う重病人として良い医者のもとに来ること。神に逆らいつづけるとても頑固で頑なな罪人として義の創始者のもとに来ること。そして最後的には、死んでいる者として、いのちを与えて生かしてくださる御方のもとにくるのだと考えましょう(『キリスト教綱要』41741-42節 Jカルヴァン)

 神から憐れんでいただいた兄弟姉妹たち。神が人となられました。しかも、理想的で上等な人間にではなく、生身の、ごく普通の人間にです。あがめられ、もてはやされる人間にではなく、軽蔑され、見捨てられ、身をかがめる低く小さな召使いの人間に。それは、とんでもないことです。あるはずのない、あってはならなかったはずのことが起こりました。私たちの主、救い主イエス・キリストは「自分を無にして、しもべの身分になり、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(ピリピ手紙2:7-8。救い主イエスは、自分で自分を無になさいました。無にされたのではなく、「はい。喜んで」と自分で自分の身を屈めました。しかも徹底して身を屈めつくし、十字架の死に至るまで、父なる神さまへの従順を貫き通してくださいました。なぜでしょう。なぜ神の独り子は、その低さと貧しさを自ら選び取ってくださったのか。何のために、人間であることの弱さと惨めさを味わい尽くして下さったのでしょうか。

 ここにいる私たちは知らされています。十二分に、よくよく知っています。神から憐れんでいただいた兄弟姉妹たち。それは、「罪人を救うため」(1テモテ手紙1:15でした。極めつけの罪人をさえ救う必要があったのです。罪人の中の罪人を、最低最悪者の罪人をさえ、ぜひとも救い出したいと神は願ったのです。極めつけの罪人、最低最悪者の罪人。それがこの私であり、あなた自身です。

 自分自身を低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで父なる神への従順を貫き通してくださった御子イエス・キリストが私たちを神の国の祝宴へと招きます。現に事実とても貧しい者として、体の不自由な者として、足の悪い者として、目の見えない者として。その低さと、へりくだりの、格別な恵みの場所へと招いてくださいました。ですから私たちは、このように自分自身の罪深さと貧しさと傲慢さと心の頑固さを知りながら、だからこそ憐みとゆるしを慕い求めて、救い主イエスへと向かうことができます。自分自身のいたらなさ、身勝手さ、よこしまさを知りながら、救い主イエスへと向かうことができます。なぜなら救い主イエス・キリストは罪人を救うためにこの世界に来られたのですし、この自分こそがその罪人の中の最たる者であり、最低最悪のものであることをよく知っているからです。しかもなお、神は憐み深い神であられ、救い主イエス・キリストのもとにこそ、私たちのためにも憐みとゆるしがあるからです。

 

 


11/29こども説教「律法を守る生活」使徒21:15-26

 11/29 こども説教 使徒行伝21:15-26

 『律法を守る生活』

 

21:21 ……あなたは異邦人の中にいるユダヤ人一同に対して、子供に 割礼を施すな、またユダヤの慣例にしたがうなと言って、モーセにそむくことを教えている、ということである。22 どうしたらよいか。あなたがここにきていることは、彼らもきっと聞き込むに違いない。23 ついては、今わたしたちが言うとおりのことをしなさい。わたしたちの中に、誓願を立てている者が四人いる。24 この人たちを連れて行って、彼らと共にきよめを行い、また彼らの頭をそる費用を引き受けてやりなさい。そうすれば、あなたについて、うわさされていることは、根も葉もないことで、あなたは律法を守って、正しい生活をしていることが、みんなにわかるであろう。25 異邦人で信者になった人たちには、すでに手紙で、偶像に供えたものと、血と、絞め殺したものと、不品行とを、慎むようにとの決議が、わたしたちから知らせてある」。26 そこでパウロは、その次の日に四人の者を連れて、彼らと共にきよめを受けてから宮にはいった。そしてきよめの期間が終って、ひとりびとりのために供え物をささげる時を報告しておいた。         (使徒行伝21:15-26

 

 律法の中のこまごました約束事や決まりをどのように守っていくか。そこにはいろいろな理解が入り込んで、誤解したり、互いに相手を悪く思ったりもします。21-24節、「ところが、彼らが伝え聞いているところによれば、あなたは異邦人の中にいるユダヤ人一同に対して、子供に割礼を施すな、またユダヤの慣例にしたがうなと言って、モーセにそむくことを教えている、ということである。どうしたらよいか。あなたがここにきていることは、彼らもきっと聞き込むに違いない。ついては、今わたしたちが言うとおりのことをしなさい。わたしたちの中に、誓願を立てている者が四人いる。この人たちを連れて行って、彼らと共にきよめを行い、また彼らの頭をそる費用を引き受けてやりなさい。そうすれば、あなたについて、うわさされていることは、根も葉もないことで、あなたは律法を守って、正しい生活をしていることが、みんなにわかるであろう」。とても大切な願い事をするとき、そのしるしに頭の髪の毛をそるしきたりがありました(レビ記19:27参照)。皆の前で、律法を大切にしていることを示すために、彼らはその儀式に参加しました。できるだけ誤解を解き、いらない争いをやめ、皆が律法を重んじ、神の御心にかなって生きようと願うことが大切だったからです。

2020年11月23日月曜日

11/22「高ぶる者は低くされて」ルカ14:7-11

           みことば/2020,11,22(主日礼拝)  294

◎礼拝説教 ルカ福音書 14:7-11                 日本キリスト教会 上田教会

『高ぶる者は低くされて』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

14:7 客に招かれた者たちが上座を選んでいる様子をごらんになって、彼らに一つの譬を語られた。8 「婚宴に招かれたときには、上座につくな。あるいは、あなたよりも身分の高い人が招かれているかも知れない。9 その場合、あなたとその人とを招いた者がきて、『このかたに座を譲ってください』と言うであろう。そのとき、あなたは恥じ入って末座につくことになるであろう。10 むしろ、招かれた場合には、末座に行ってすわりなさい。そうすれば、招いてくれた人がきて、『友よ、上座の方へお進みください』と言うであろう。そのとき、あなたは席を共にするみんなの前で、面目をほどこすことになるであろう。11 おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。  (ルカ福音書 14:7-11)

                                               

2:1 そこで、あなたがたに、キリストによる勧め、愛の励まし、御霊の交わり、熱愛とあわれみとが、いくらかでもあるなら、2 どうか同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、一つ思いになって、わたしの喜びを満たしてほしい。3 何事も党派心や虚栄からするのでなく、へりくだった心をもって互に人を自分よりすぐれた者としなさい。4 おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい。5 キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい。6 キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、7 かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、8 おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。9 それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。10 それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、11 また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。(ピリピ手紙2:1-11)

(1)へりくだること

 「上座に座ってはいけない。いつも末席に、慎み深く座っていなさい」と、救い主イエスが教えておられます。宴会の席ばかりでなく、普段のいつもの心得であり、しかも単なる人付き合いや社交的な礼儀作法を教えようとしているわけではありません。神の国の祝宴に集うための心得であり、救いに至る狭い道を選び取るための心得です。慎ましい心になって、へりくだって生きることが出来るなら、その人はとても幸いです。11節、「おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされる」。まわりにいる人間たちが私たちをそのように取り扱うだけでなく、なにより神ご自身が私たちを、そのように低くしたり高く引き上げたりなさる。

 「思いあがってはいけない」と、聖書は何度も何度も私たちに厳しく警告を与えます。不思議なことです。なぜ、ほとんどこのことばかりが繰り返して警告されつづけるのか。思い上がり、傲慢になることが、私たちにどんな不都合や災いをもたらすのでしょう。それは、私たちが神の救いにあずかることができるかどうかの、決定的な別れ道です。だからこそ、自分自身の心によくよく気を配っていなければなりません。

 神の救いについて、聖書は、徹底して最初から最後まで、それは「ただ恵みである」と宣言しつづけます。なんの区別も分け隔てもなくと。だからです。だからこそ思い上がりと傲慢は、私たちの目をくらませ、この根本的な救いの道理を分からなくさせます。聖書は証言します、「それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである」(ローマ手紙3:22-27。神の義、つまり神からのゆるしと救いが、ただ救い主イエスを信じる信仰によって贈り与えられる。そこにはなんの差別も分け隔てもない。なぜなら、誰もが罪を犯して神の栄光を受け取る資格を失い、失格者となってしまったからだというのです。救われる資格のない私たち人間を救おうとするなら、「価なしに、ただ神の恵みによって、キリストによるあがないによって、義とされ、救われるのだと。ただ恵みによる、無条件の救いである理由は、誰も彼もが皆、失格者とされており、そうでなければ救われる者など一人もいなくなるからである」と。『ただ恵みによる』という、驚くべき救いの道筋です。へりくだった謙遜な心をもっていることは、神さまからの他の何よりも素敵な贈り物です。なぜなら、自分自身の罪深さ、弱さや貧しさを知り、それゆえ救い主イエスの助けをこの自分が必要としているとはっきりと感じることができることこそが、『私たち自身を救うことのできる信仰』の最初の第一歩だからです。

 では、へりくだった心は何を土台として、どのように人の魂に湧き起ってくるでしょうか。へりくだった心の土台とその中身は、『正しい知識』です。もしその人が自分自身をよく知り、自分の心の中にいったいどんなものがあるのかを知り、神を知り、神の尊厳とその神聖さを知り、救い主イエスを知り、罪から救い出されることのかけがえのない価値を知るならば、もしそうであるなら、その人は思いあがった傲慢な人間になど決してなれません。つまり、それと正反対に、自分を誇り、思いあがってしまう理由は、その人が自分自身が何者であるのかをまったく知らず、どんな神なのかも知らず、救い主イエスが何をしてくださったのかも少しも知らないためだったのです。自分自身が何者であるのかを知る者は、誇るべきものはこの自分に何一つもないことについにとうとう気づきます。

しかも、神が全能の神であられ、なんでもおできになり、まったく善意のお方であることを知るだけでは、私たちは神にすっかり信頼して、自分の救いを安心して委ねることなどできません。神にすべての信頼を置いて生きるためには、どうしたらよいのか。古い信仰問答は答えます、「救いにまったく値しないにもかかわらず、なお神が私たちを愛し、私たちを憐れんで、救ってくださろうとしていることを心から確信する必要があります。そのためには、救い主イエス・キリストにある憐みを知り、神をキリストにおいて知ることです」(ジュネーブ信仰問答 問8-14を参照)

 

(2)自分を低くしてくださった神

価なしに、ただ恵みによって、罪人をただ憐れんでゆるして救う神です。その憐みは救い主イエス・キリストのうちにあり、キリストにおいて私たちに差し出されます。

ピリピ手紙2:5-11は証言します、「キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい。キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである」。ピリピ教会の人たちは、いつの間にか、自分がどうしてついつい思いあがってしまうのかが分からなくなりました。どうしたらへりくだった思いになれるのかも、なぜそれが必要なのかも分からなくなりました。そこで主イエスの弟子は、そのへりくだりの心をキリストの例によって勧めはじめます。キリストの真似をし、キリストに従い、キリストと同じ心を持つようにと。そのように勧めているのは、救い主イエス・キリストを信じて生きる私たちには誰でも、キリストに従い、キリストと同じ心になることができるからです。「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず」;キリストのへりくだりは、栄光と栄誉の最も高い場所から虚しさと恥の最も低い場所までも身を屈めることでした。それゆえ私たちのへりくだりは、思いあがって自分を高くしてしまわないことです。神の形は、ここでは神であられることの栄光と尊厳です。その中身にふさわしく崇められることです。けれどキリストは、その栄光や尊厳にしがみつこうとはしませんでした。もちろん神であられることのその本質はそのままに、その栄光と尊厳を捨てて、姿形を低く卑しくなさいました。「ご自身をむなしくして」も同様で、神であられることの本質を捨て去ったわけではなく、それをひとたび隠してしまわれました。

「おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた」。「しもべとなる」と約束し、「人々に仕えられるためではなく、仕えるために来た」(マタイ20:28とおっしゃったとおりに、救い主イエスはしもべとなられ、さらに、罪人としての無残な死を耐え忍ぶまで父なる神への従順を徹底して貫き通してくださいました。御父へのこの従順のささげものこそが、十字架の上で成し遂げた御業の中身でした。この従順こそが、救われた者たちの結ぶ実りです。救い主イエスの死と復活は、これによって神への従順を成し遂げ、それを私たちのためにも差し出してくださったことです。「ご自分の民をそのもろもろの罪から救う」と約束されていました。罪のはじまりとその究極の中身は、神に逆らうことです。こどものための交読文はこう説き明かします、「主イエスは罪を犯さず、神に逆らったことは一度もないのですか」「そうです。私たちも、主イエスに導かれて、神に逆らうことを止めて神に素直に従う者たちとされてゆきます」(こども交読文3)。救い主イエス・キリストのもとに罪のゆるしがあり、だからこそキリストに従い、キリストと同じ心を持つ者とされる私たちです。「罪から救われる・罪からあがなわれる」とは、このことです。しかも救い主イエスがこの世界に降りて来られたのは、ほかの何のためでもなく、「罪人を救うため」(1テモテ手紙1:15)でした。極めつけの罪人をさえ救う必要があったのです。罪人の中の罪人を、その飛びっきりの頭であり最たる罪人をさえ、ぜひとも救い出したい。神の憐れみの子供たちとして迎え入れたいと。極めつけの罪人。罪人の中の罪人。それがこの私であり、あなた自身です。

 自分自身を低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで父なる神への従順を貫き通してくださった御子イエス・キリストが私たちを招きます。高ぶる者がなぜ、なんのために低くされるのか。その低さと、へりくだりの場所に何があるのか。罪のゆるしがあり、罪からのあがないがそこにあります。私たちは、このように自分自身の罪深さと貧しさを知りながら、憐みとゆるしを請い求めて、救い主イエスへと向かうのです。自分自身のいたらなさ、身勝手さ、よこしまさを知りながら、救い主イエスへと向かうのです。救い主イエス・キリストは罪人を救うために世に来られたのですし、この自分こそがその罪人の中の最たるものであり、最低最悪のものであることをこの私たちもよく知っているからです。しかもなお、神は憐み深い神であられ、救い主イエス・キリストのもとにこそ、私たちのためにもゆるしがあるからです。

 

11/22こども説教「主の御心が行われるように」使徒21:7-14

 11/22 こども説教 使徒行伝21:7-14

 主の御心が行われるように

 

21:7 わたしたちは、ツロからの 航行を終ってトレマイに着き、そこの兄弟たちにあいさつをし、彼らのところに一日滞在した。8 翌日そこをたって、カイザリヤに着き、かの七人のひとりである伝道者ピリポの家に行き、そこに泊まった。……アガボという預言者がユダヤから下ってきた。11 そして、わたしたちのところにきて、パウロの帯を取り、それで自分の手足を縛って言った、「聖霊がこうお告げになっている、『この帯の持ち主を、ユダヤ人たちがエルサレムでこのように縛って、異邦人の手に渡すであろう』」。12 わたしたちはこれを聞いて、土地の人たちと一緒になって、エルサレムには上って行かないようにと、パウロに願い続けた。13 その時パウロは答えた、「あなたがたは、泣いたり、わたしの心をくじいたりして、いったい、どうしようとするのか。わたしは、主イエスの名のためなら、エルサレムで縛られるだけでなく、死ぬことをも覚悟しているのだ」。14 こうして、パウロが勧告を聞きいれてくれないので、わたしたちは「主のみこころが行われますように」と言っただけで、それ以上、何も言わなかった。   (使徒行伝21:7-14

 

13節、「その時パウロは答えた、「あなたがたは、泣いたり、わたしの心をくじいたりして、いったい、どうしようとするのか。わたしは、主イエスの名のためなら、エルサレムで縛られるだけでなく、死ぬことをも覚悟しているのだ」。こうして、パウロが勧告を聞きいれてくれないので、わたしたちは「主のみこころが行われますように」と言っただけで、それ以上、何も言わなかった」。伝道者ピリポの家に泊まっていたとき、独りの預言者がやってきて、また、同じ恐ろしい預言をしました、「パウロがエルサレムの都で縛らりあげられ、ローマの兵隊たちの手に渡し、牢獄に閉じ込められることになる」と。それで仲間たちはまた、エルサレムに行かないようにとパウロを説得しようとしました。けれどパウロは、「主イエスの名のためなら、エルサレムで縛られるだけでなく、死ぬことをも覚悟している」と答えました。人々は説得することを諦めて、「主の御心が行われますように」と言いました。

彼らだけでなく、主イエスを信じて生きる私たちも、「主の御心が行われますように」と言いつづけ、自分自身にも言い聞かせ続けて生きていきます。誰の考えや計画に従ってでもなく、自分自身の願いや考えに従ってでもなく、ただただ主なる神さまの御心に従って生きていきたいと願い、そのように心を定めている私たちです。それこそが、私たちと家族のための幸いでもあるからです。

  

2020年11月16日月曜日

11/15「安息日に何をするのか」ルカ14:1-6

 みことば/2020,11,15(主日礼拝)           293

◎礼拝説教 ルカ福音書 14:1-6                日本キリスト教会 上田教会

『安息日に何をするのか』

 

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

14:1 ある安息日のこと、食事をするために、あるパリサイ派のかしらの家にはいって行かれたが、人々はイエスの様子をうかがっていた。2 するとそこに、水腫をわずらっている人が、みまえにいた。3 イエスは律法学者やパリサイ人たちにむかって言われた、「安息日に人をいやすのは、正しいことかどうか」。4 彼らは黙っていた。そこでイエスはその人に手を置いていやしてやり、そしてお帰しになった。5 それから彼らに言われた、「あなたがたのうちで、自分のむすこか牛が井戸に落ち込んだなら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか」。6 彼らはこれに対して返す言葉がなかった。           (ルカ福音書 14:1-6)

                                               

16:1 イスラエルの人々の全会衆はエリムを出発し、エジプトの地を出て二か月目の十五日に、エリムとシナイとの間にあるシンの荒野にきたが、2 その荒野でイスラエルの人々の全会衆は、モーセとアロンにつぶやいた。3 イスラエルの人々は彼らに言った、「われわれはエジプトの地で、肉のなべのかたわらに座し、飽きるほどパンを食べていた時に、主の手にかかって死んでいたら良かった。あなたがたは、われわれをこの荒野に導き出して、全会衆を餓死させようとしている」。……8 モーセはまた言った、「主は夕暮にはあなたがたに肉を与えて食べさせ、朝にはパンを与えて飽き足らせられるであろう。主はあなたがたが、主にむかってつぶやくつぶやきを聞かれたからである。いったいわれわれは何者なのか。あなたがたのつぶやくのは、われわれにむかってでなく、主にむかってである」。9 モーセはアロンに言った、「イスラエルの人々の全会衆に言いなさい、『あなたがたは主の前に近づきなさい。主があなたがたのつぶやきを聞かれたからである』と」。10 それでアロンがイスラエルの人々の全会衆に語ったとき、彼らが荒野の方を望むと、見よ、主の栄光が雲のうちに現れていた。11 主はモーセに言われた、12 「わたしはイスラエルの人々のつぶやきを聞いた。彼らに言いなさい、『あなたがたは夕には肉を食べ、朝にはパンに飽き足りるであろう。そうしてわたしがあなたがたの神、主であることを知るであろう』と」。       (出るエジプト記16:1-12)

1-2節、「ある安息日(口語訳、新改訳は「あんそくにち」と、新共同訳は「あんそくび」と訳している)のこと、食事をするために、あるパリサイ派のかしらの家にはいって行かれたが、人々はイエスの様子をうかがっていた。するとそこに、水腫をわずらっている人が、みまえにいた」。少し説明をします。「水腫(すいしゅ)」とは、皮下組織の隙間や体腔内に組織液やリンパ液がたまる病気で、手足、顔、腹部などが水膨れによってはれてきます。安息日で、パリサイ派の指導者の家に食事に招かれて行った。すると、そこにその水腫を患っている人がいた。たまたま紛れ込んでいた、とは考えにくいのです。なにしろ家の主人の招きや許可がなければ、その食事の席にその人が同席することはありません。安息日に会堂で、主イエスは何度も何度も病人を癒し、その様子を人々に見せていました。もしかしたら、パリサイ人たちは主イエスを罠にかけようと、その病気の人とイエスが出会うように仕組んでいたのかも知れません。だから1節にあるように、その家に入っていくと、「人々はイエスの様子をうかがって」いました。彼らが心に思っている議論の中身に、主イエスは自分から踏み込んでいって、彼らに問いかけます。「安息日に人をいやすのは、正しいことかどうか」。彼らは黙っていた。そこでイエスはその人に手を置いていやしてやり、そしてお帰しになった。

 もう1つ、安息日や律法の様々な規定をめぐって主イエスと律法学者やパリサイ人たちはきびしい議論を繰り返します。「主イエスは安息日の決まりや、律法をとても嫌っていたらしい。律法を捨て去って無くしてしまおうと考えていたようだ」などと、うっかり勘違いする人々もいます。それは大間違いです。むしろ逆で、安息日規定を含めて、救い主イエスは神の律法をとても大切に考えておられました(マタイ福音書5:17-20「わたしは律法を廃するためではなく、成就するためにきた」参照)神の律法が、中身のないただ形ばかりのものにすり替えられていたことが大問題でした。律法やそのこまごました規定を振りかざしながら、信仰の指導者たちは、律法の中身と、神を信じて生きることの中身を見失い、神をなおざりにしていました。律法と神を重んじるふうを装いながら、神をあなどり、不正や悪を行い、貧しい人々を慈しんで助けることをすっかり忘れ果てていました。神の律法の本来の目的は、神を信じて生きる人々が御心にかなって生活するように導くためにあります。神の御心は、神を愛し、敬い、神の御心に従って生きることを求め、また隣人を自分自身のように愛し、尊ぶことにありました。ですから律法をめぐる論争をつうじて、救い主イエスは律法の根本の心をもう一度、人々の中に回復させようとしつづけていたのです。

 また、神の律法は私たち自身の正しさやふさわしさを証明するための目印ではなく、むしろ私たちがどんなに神に背いているか、どれほど神の憐みの御心に反して生活しているのかを気づかせるためにありました。少し前の箇所ですが、このルカ福音書13章のはじめの出来事はそのことを私たちに知らせていました。「シロアムの塔が倒れて18人の人が死に、何人ものガリラヤ人が神殿付近で殺されてしまったことを知って、あなたががたはどう思うのか。他の人々よりもその彼らの方が罪が重かったと思うのか。そうではない。あなたがたも、悔い改めなければ滅びる」(ルカ13:1-5。この言葉を、自分自身のこととして聞くことができるなら、その人たちは幸いです。

 信仰が中身を失い、ただ形ばかりのものになってゆくとき、大きな災いにあった人たちに対して「可哀そうに」と同情しながら、けれどその一方で、自分たち自身が何不自由なく暮らしていることを当然のように受け止め、「神の格別な恵みを受け、神から憐れんでいただいているのだ」と私たちは安心してしまいます。神からの厳しい懲らしめを受けていないとき、私たちは、自分自身の罪の只中でウトウトと眠り込んでしまいます。まるで神からの好意や慈しみを受けており、神のゆるしと保護の中に堅く守られている自分であるかのように。そこには、2つの大きな過ちがあります。(1)神が私たちの目の前で誰かを厳しく打ち据え、懲らしめるのを見たとき、神はこの私たちに警告を与えています。自分の胸に手を当ててつくづくと考えてみるようにと。この自分自身は、神の御心にはなはだしく背いてはいないかどうかと。(2)もし神が、私たちにほんの短い猶予のときを与えてくださっているとするならば、私たちは神からの慈しみや憐みに決してふさわしいわけではない。そのつかの間の猶予のときにウトウトと眠り込んでしまうのではなく、「悔い改めて、悪い行いを捨てて、神に立ち返って生きるように」と主なる神さまがこの私を招いてくださっていると気づくべきだと。

5-6節、「それから彼らに言われた、『あなたがたのうちで、自分のむすこか牛が井戸に落ち込んだなら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか』。彼らはこれに対して返す言葉がなかった」。安息日に何をしてはならないのか。あるいは、何をすべきなのか。救い主イエスは、ここで1つのことを指し示しています。神の御業を、神から託された働きをすることは安息日を汚すことにはならない。また、隣人を憐み慈しむことも、安息日の精神に違反しないと。何度も何度も、こうしたことが繰り返されました。別の時には、「安息日に善を行うことと悪を行うことと、命を救うのと殺すのと、どちらがよいか」(ルカ6:9などと。救い主イエスに敵対する者たちは悪意に満ちた憎しみに心を支配されて、目も心もすっかり見えなくなっていました。自分自身を恥じて、口を閉ざすほかありませんでした。

 

        ◇

 

  安息日に何をしてはならないのか。あるいは、何をすべきなのか。

 安息日は何のためにあるのか。そこで、私たちはどんな恵みと希望を神ご自身から受け取るのか。その日はまず、世界創造の7日間にさかのぼります。第六日目に、「神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。夕となり、また朝となった。第六日である。こうして天と地と、その万象とが完成した。神は第七日にその作業を終えられた。すなわち、そのすべての作業を終って第七日に休まれた。神はその第七日を祝福して、これを聖別された。神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからである。これが天地創造の由来である」(創世記1:31-2:4第六日目に神がご自分が造られたすべてのものを見られて、「はなはだ良い」と喜んでくださったことを私たちはよく覚えていなければなりません。まず、そのための安息日です。そこで七日目には、「そのすべての作業を終って第七日に休まれた。神はその第七日を祝福して、これを聖別された」。聖別(せいべつ)とは、神ご自身のもととされることです。神からの祝福を受け、また聖別されて、この自分がほかの誰のものでもなく、自分自身のものでさえなく、神ご自身のものであることを認め、受け入れて、その幸いを噛みしめることです。そのためには、神がご自身のすべての仕事を終えて休まれたように、私たち自身も、抱え持った自分の仕事や役割や約束、さまざまな計画をいったん脇に置いて、手放す必要がどうしてもあります。そうであるからこそ『安息日』の根本の意味は、活動停止であり、立ち止まることだったのです。立ち止まり、すべてを手放して、では何をするのか。神の存在と働きに目を凝らすことです。神の御心にこそ自分の思いを集中することです。神が生きて働いておられますことをよくよく覚え、その働きに信頼し、感謝をし、神の御声に聴き従って生きることをいよいよ新しくしていただくことです。そのためには、何をおいても私たちは立ち止まり、目を凝らし、耳を傾ける必要がありました。神ご自身のお働きに。神の語りかけに。

 もし、神のお働きと御心に目を凝らし、耳を傾けることの差しさわりになるのならば、あなた自身の手の働きが神を思うことを邪魔するのならば、その心をこめた働きも配慮も一つ一つの労苦も、むしろ大きな災いとなるでしょう。自分自身と人間のことばかり思い煩って、そのあまりに、神を思うことの出来ない私たちとさせるでしょう。それなら、むしろ私たちは何一つもしてはなりません。そうであるなら、指一本も動かしてはなりません。

 世界創造の7日間は、エジプトを連れ出されてさまよった荒野の40年間の旅に引き継がれます。はじめに大喜びしていたはずの人々は、けれど荒れ野の旅をしはじめて二カ月ほどたったとき、今度は、嫌な顔をして文句を言い始めました。「腹が減った。ああ、嫌になった。こんなことならエジプトの国で奴隷だったほうが良かった。あのまま死んでしまってたほうが、よぽどましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋があり、パンも腹いっぱい食べられた。神さまの言うことなんか聞かなければ良かった。ああ、嫌だ嫌だ」。文句を言う彼らの声は、もちろん神さまの耳に届きました。主なる神さまが仰います;「わたしはイスラエルの人々のつぶやきを聞いた。彼らに言いなさい、『あなたがたは夕には肉を食べ、朝にはパンに飽き足りるであろう。そうしてわたしがあなたがたの神、主であることを知るであろう」(出エジプト記16:12。ビックリです。パンも肉も腹いっぱい食べさせ、『神さまが本当に主であってくださり、責任をもってちゃんと養ってくださる方だ』とよくよく分からせてあげる。こういう神さまです。神さまは、私たちをこのように取り扱いつづけてくださっています。どんなに良い働きをして人々から認められ、実績をあげるよりも、こういう神であり、このような取り扱いを受けているとよくよく分かっていることのほうが千倍も万倍も大切だからです。

 天からの恵みのパンを受け取り、「一日分ずつ糧を与える、安息日の前の日には二日分ずつを与える」と約束されながら、「何人かは残しておいた」と報告されます。蓄えがあった方がいいと考えることは必ずしも間違っていない。しかし同時に、「それは神を疑うことでもあり、神が訓練なさるその意図を無視し、神抜きに生きようとする」ことでもあります。もし、思いあがって自分が神にでもなったかのように傲慢にふるまい始めるなら、あるいは逆に、他人を恐れてビクビクと言いなりにされてしまうなら、その人生は虚しく惨めなものに成り果ててしまいます。自分自身の普段の有り様をつくづくと振り返って、『神に信頼して生きる』ことと『神抜きに生きる』ことの実態が自分自身のこととして思い当たるなら幸いです。

 また、安息日は7日間全部のためにあり、私たちそれぞれの全生涯を貫いて、大きな意味をもちます。もし、一週間に一度、ほんの少しの時間ずつ、神が生きて働いておられますことをよくよく覚え、立ち止まり、神ご自身のお働きと語りかけに目を凝らし、耳を傾けることができるなら、月曜日にも火曜日にも、朝も昼も晩も、そのように生きることができるかもしれません。神ご自身のお働きとその語りかけに目を凝らして、ずっと一生涯を生きることができるなら、その人たちはとても幸いです。

 


11/15こども説教「祈って送り出す」使徒21:1-6

  11/15 こども説教 使徒行伝21:1-6

 『祈って送り出す』

 

21:1 さて、わたしたちは人々と 別れて船出してから、コスに直航し、次の日はロドスに、そこからパタラに着いた。2 ここでピニケ行きの舟を見つけたので、それに乗り込んで出帆した。3 やがてクプロが見えてきたが、それを左手にして通りすぎ、シリヤへ航行をつづけ、ツロに入港した。ここで積荷が陸上げされることになっていたからである。4 わたしたちは、弟子たちを捜し出して、そこに七日間泊まった。ところが彼らは、御霊の示しを受けて、エルサレムには上って行かないようにと、しきりにパウロに注意した。5 しかし、滞在期間が終った時、わたしたちはまた旅立つことにしたので、みんなの者は、妻や子供を引き連れて、町はずれまで、わたしたちを見送りにきてくれた。そこで、共に海岸にひざまずいて祈り、6 互に別れを告げた。それから、わたしたちは舟に乗り込み、彼らはそれぞれ自分の家に帰った。     (使徒行伝21:1-6

 

 エルサレムの都へと急いで旅を進みながら、パウロたちは主イエスを信じる仲間たちを訪ね、彼らを励ましつづけています。

まず4節で、主イエスの弟子たちが、「御霊の示しを受けて、エルサレムには上って行かないようにと、しきりにパウロに注意した」と書かれています。パウロがエルサレムの都でどんなに厳しく辛い目にあうのかを、聖霊なる神さまがみんなに知らせてくれました。それで、「行ってはいけない。止めなさい、止めなさい」と、彼らは何度も何度も強く注意しつづけました。5-6節、「しかし、滞在期間が終った時、わたしたちはまた旅立つことにしたので、みんなの者は、妻や子供を引き連れて、町はずれまで、わたしたちを見送りにきてくれた。そこで、共に海岸にひざまずいて祈り、互に別れを告げた。それから、わたしたちは舟に乗り込み、彼らはそれぞれ自分の家に帰った」。仲間たちは、「エルサレムの都に行ってはいけない、止めなさい」と言うのを、とうとう止めました。パウロが頑固で、どうしても聞き入れなかったからではありません。都に行って、辛く苦しいことを味わうこともまた、彼のために神さまが決めておられる計画だと分かったからです。その計画と、神ご自身の御心に自分たちも逆らわずに従おうと、とうとう心を定めることができたからです。私たちも、同じように神さまから教育をうけます。「神さま。どうか、辛いことや嫌なことが起こらないようにしてください。けれど私たちの願いや思いどおりではなく、あなたの御心のとおりにしてください。その御心に聴き従って生きる私たちとならせてください」(マルコ福音書14:36参照)と。

 

 

2020年11月9日月曜日

11/8「母鳥がヒナを集めるように」ルカ13:31-35

 みことば/2020,11,8(主日礼拝)            292

◎礼拝説教 ルカ福音書 13:31-35            日本キリスト教会 上田教会

『母鳥がヒナを集めるように』

 

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

13:31 ちょうどその時、あるパリサイ人たちが、イエスに近寄ってきて言った、「ここから出て行きなさい。ヘロデがあなたを殺そうとしています」。32 そこで彼らに言われた、「あのきつねのところへ行ってこう言え、『見よ、わたしはきょうもあすも悪霊を追い出し、また、病気をいやし、そして三日目にわざを終えるであろう。33 しかし、きょうもあすも、またその次の日も、わたしは進んで行かねばならない。預言者がエルサレム以外の地で死ぬことは、あり得ないからである』。34 ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人々を石で打ち殺す者よ。ちょうどめんどりが翼の下にひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに、おまえたちは応じようとしなかった。35 見よ、おまえたちの家は見捨てられてしまう。わたしは言って置く、『主の名によってきたるものに、祝福あれ』とおまえたちが言う時の来るまでは、再びわたしに会うことはないであろう」。    

                                         (ルカ福音書 13:31-35)

                                              

8:3 律法が肉により無力になっているためになし得なかった事を、神はなし遂げて下さった。すなわち、御子を、罪の肉の様で罪のためにつかわし、肉において罪を罰せられたのである。4 これは律法の要求が、肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて、満たされるためである。5 なぜなら、肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思うからである。6 肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。7 なぜなら、肉の思いは神に敵するからである。すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである。8 また、肉にある者は、神を喜ばせることができない。9 しかし、神の御霊があなたがたの内に宿っているなら、あなたがたは肉におるのではなく、霊におるのである。もし、キリストの霊を持たない人がいるなら、その人はキリストのものではない。……11 もし、イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださるであろう。            (ローマ手紙8:3-11)

(1)三日目に成し遂げる

 まず31-32節、「 ちょうどその時、あるパリサイ人たちが、イエスに近寄ってきて言った、『ここから出て行きなさい。ヘロデがあなたを殺そうとしています』。そこで彼らに言われた、『あのきつねのところへ行ってこう言え、『見よ、わたしはきょうもあすも悪霊を追い出し、また、病気をいやし、そして三日目にわざを終えるであろう』。領主ヘロデがあなたを殺そうとしていて危ないから、どこかへ逃げてゆきなさいと数人のパリサイ人たちが主イエスに語りかけます。実は、ヘロデもパリサイ人たちも、それぞれに主イエスと敵対する人々であり、主イエスとその弟子たちをユダヤの国から追い払ってしまいたいと考える者たちです。もしかしたら主イエスとその弟子たちを追い出すために、領主ヘロデからの命令を受けて、パリサイ人たちがイエスにこのように語りかけたのかも知れません。けれど誰から何を言われても、脅かされても、主イエスはエルサレムの都へ向かって旅路を歩んでいかなければなりません。都で十字架につけられて殺され、墓に葬られ、その三日目に死人の中からよみがえることこそが、神の救いの御計画だからです。「見よ、わたしはきょうもあすも悪霊を追い出し、また、病気をいやし、そして三日目にわざを終えるであろう」と主イエスは答えます。ここで、ただ普通に、「今日、明日、三日目」という時の流れの順序が語られているのではなく、「十字架の上で殺され、墓に葬られ、その三日目に復活する」と教えられてきたことを私たちははっきりと思い起こします。「三日目にわざを終える」。救い主イエスが成し遂げるべき最も大切な働きは、ご自身の死と復活によって救いの御業を成し遂げることです。神ご自身の御心とその救いの御業を、だれも邪魔することなどできません。

 

(2)さらに、主の働きは進み続ける

33節、「しかし、きょうもあすも、またその次の日も、わたしは進んで行かねばならない。預言者がエルサレム以外の地で死ぬことは、あり得ないからである」。預言者がエルサレム以外の地で死ぬことはありえない。旧約聖書の時代から、数多くの預言者たちが神のもとから遣わされ、神の民とされた者たちに「悔い改めて、悪い行いを捨て去り、神へと立ち返って生きるように」と語りかけました。その呼びかけは虚しく聞き流され、拒まれつづけました。なぜ、神から遣わされた数多くの預言者たちがエルサレムの都で死んだのか。悔い改めを命じて、預言者たちは命がけで人々に語りかけ、拒まれ、そればかりか神を信じて生きるはずのその同胞たちの手によって殺されつづけたからです。神の民とされたすべての人々の耳に、悔い改めを求める神からの言葉を届けなければなりませんでした。王やその側近たちにも、祭司たちにも語りかけねばなりません。役人や貴族、身分の高い者たちばかりでなく、ごく普通の大人にも子供の耳にも、悔い改めを求める神からの言葉が届かなければなりません。それで、だからこそその最も重要な救いへの招きを、預言者たちはエルサレムの都で語り、神殿の入り口の門や境内でも、人々に向かって呼びかけつづけました。

 独り子である神、救い主イエスは父なる神から遣わされ、『王、祭司、預言者』という3つの職務を担って働かれました。数多くの預言者たちが、悔い改めを求める神からの御言葉を語りかけ、そのためにエルサレムの都で殺されていきました。けれど救い主イエスお独りだけは、他のすべての預言者たちと違って、神の言葉を語りかけ、拒まれ、殺されたというだけではなく、エルサレムの都で『死んで、その三日目に復活』なさいました。神に背きつづける罪人である私たちが、古い罪の自分と死に別れて、神の御前で新しく生きはじめるためにです。救いの御業がこの私たちのためにも成し遂げられるためにです。

 さて、救い主イエスの死と復活によって救いの御業が成し遂げられた後、それを土台として、なお神の御業は進み続けます。主イエスが天に昇り、王としてこの世界を治めつづけます。また神を信じて生きる私たち一人一人の体に聖霊なる神が住んでくださり、神の御心に従って新しく生きるように教え、導きつづけます。「肉の思いは死であるが、霊の思いはいのちと平安である」と約束され、この私たちも、神のいのちと平安のうちに生きる者たちとされたからです(ローマ手紙6:1-18,8:1-11参照)。このように、神の救いの御業は進み続けます。

 

(3)ヒナを集める

34-35節、「ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人々を石で打ち殺す者よ。ちょうどめんどりが翼の下にひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに、おまえたちは応じようとしなかった。見よ、おまえたちの家は見捨てられてしまう。わたしは言って置く、『主の名によってきたるものに、祝福あれ』とおまえたちが言う時の来るまでは、再びわたしに会うことはないであろう」。神の民とされた先祖と私たちは、けれども神に聴き従って生きることをしばしば拒みつづけました。「預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人々を石で打ち殺す者よ。ちょうどめんどりが翼の下にひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに、おまえたちは応じようとしなかった」。それは遠い昔の先祖たちのことでもあり、今日を生きるキリスト教会と、この私たちすべてのクリスチャンのことでもあります。独り子である神、救い主イエスは深く嘆きながら、私たちを憐れみつづけます。母鳥である神が、そのヒナ鳥である私たちを翼の下へと呼び集めようとし、けれども母鳥の翼を好まない親不孝なヒナ鳥たちは、この私たちは、憐み深い母鳥に背を向けて、遠ざかりつづけました。それでもなおこの母鳥は、ヒナ鳥を集めようとしつづけます。

 「見よ、おまえたちの家は見捨てられてしまう」。お前たちの家とは、神ご自身のものであったはずの神殿のことです。神が「わたしの家」とおっしゃるはずの神殿を、わざわざ「お前たちの家」とおっしゃり、その家が見捨てられてしまうとまで断言なさる。そこには、神ご自身の深い悲しみと嘆きが込められます。神が、そのおとしめられた神殿と人々のために、心を痛めておられます。荒野を旅した40年の間、移動式のテント仕立ての祈りの家(=幕屋・まくや)もまた、もちろん「神の家」でありつづけました。ソロモンによって建てられた荘厳で華麗な神殿もまた、人の手を用いながらも、なお断固として「神ご自身の家」でありつづけるはずでした。けれども神を信じて生きるはずの人々は神に背き、神から心を離れさせ、神の御心をそっちのけにして、それらの神殿を知らず知らずのうちに「自分たちの家、自分たちのものである神殿」としてしまいました。今日の私たちの間でも、そうしたことは起こりえます。それは恐ろしいことです。

 だからこそ救い主イエスは、「人間のものとなってしまった古い罪の神殿を打ち壊し、三日で新しく立て直す」(ヨハネ福音書2:19,マタイ福音書27:40を参照)と約束なさいました。三日で新しく立て直す神殿とは、ご自身の復活の体のことでした。そのように、救い主イエスの死と復活を土台として、神ご自身のものである新しい神殿が建てられました。さらに、神を信じて生きる一人一人のクリスチャンが、神の霊が住まう聖なる神殿ともされました。聖書は証言します、「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。もし人が、神の宮を破壊するなら、神はその人を滅ぼすであろう。なぜなら、神の宮は聖なるものであり、そして、あなたがたはその宮なのだからである」(1コリント手紙3:16-17。「お前たちの家は見捨てられてしまう」と救い主イエスが仰った本意は、人間のものとされてしまった古い罪の神殿を見捨てて、打ち壊し、その後に神ご自身のものである新しい『神殿。祈りの家』を救い主ご自身が建て上げるということです。この上田教会も、私たち一人一人も、そのようにして神ご自身によって新しく立てられた、神のものである祈りの家だとはっきり知らねばなりませrん。

 どのようにして、私たちは、神ご自身の神殿・祈りの家として、新しく生き始めることができるでしょうか。私たちが神の憐みによってふさわしいものとされるために、自分自身が無価値であることを、神の恵みにふさわしくないものであることを神の御前に差し出すことです。神の憐みによって慰められるために、自分自身においては絶望することです。神によって立ち上がらせていただくために、自分自身としてはへりくだることです。神の憐みによっていきるために、自分自身においては古い罪の自分と死に別れさせていただくことです。自分は貧しい者として、慈しみ深い贈り主のもとに来て、重い病いを患う重病人として良い医者であられる神のもとに来て、罪人として義の創始者であられる神のもとに来ることです。そして最後的には、死んでいる者として、生命を与え、生かしてくださる御方のもとに来るのです(『キリスト教綱要』4741-42節 Jカルヴァン)。これこそが、「お前たちの家は見捨てられる」と嘆き、「母鳥がヒナを翼のもとに何度も何度も集めようとしたが、お前たちは応じようとしなかった」と悲しんだ神の、私たちに対する真意です。道に迷いつづける親不孝なヒナ鳥を憐れんで止まない母鳥の心です。

 そのヒナ鳥である私たちが、やがて顔と顔を合わせるようにして救い主イエスとお会いするときがきます。

 ほんの3、4回前の礼拝で、「18年間もの間、屈んだままで体を伸ばすことができずにいた女性を主イエスが癒してくださった出来事」(ルカ福音書13:10-17をごいっしょに読みました。なぜ病気を治してやるのかと問われて、救い主イエスは、「この女性もアブラハムの娘であり、神を信じて生きてきた者たちの一人である」と断固としておっしゃいました。ヒナを翼のもとに何度も何度も集めようとしつづける母鳥である神です。かなりな親不孝者であり、心をしばしばかたくなにしてしまうヒナ鳥であるとしてもなお、この私たちもまた、アブラハムの息子であり、娘である者たちです。忍耐深く、あまりに憐み深くあられる神が、ご自身の御翼のもとへと私たちを招きつづけます。私たちの貧しさや心の頑なさ、それぞれにかなり傲慢であること、とても不従順であることもよく分かったうえで、なおご自身の御翼のもとへとこの私たちと家族を招きます。私たちを憐れんでやまないからです。

 

 


11/8 こども説教「受けるよりは与えるほうが幸い」使徒20:33-38

  11/8 こども説教 使徒行伝20:33-38

 受けるよりは与えるほうが幸い

 

20:33 わたしは、人の金や銀や衣服をほしがったことはない。34 あなたがた自身が知っているとおり、わたしのこの両手は、自分の生活のためにも、また一緒にいた人たちのためにも、働いてきたのだ。35 わたしは、あなたがたもこのように働いて、弱い者を助けなければならないこと、また『受けるよりは与える方が、さいわいである』と言われた主イエスの言葉を記憶しているべきことを、万事について教え示したのである」。36 こう言って、パウロは一同と共にひざまずいて祈った。37 みんなの者は、はげしく泣き悲しみ、パウロの首を抱いて、幾度も接吻し、38 もう二度と自分の顔を見ることはあるまいと彼が言ったので、特に心を痛めた。それから彼を舟まで見送った。  (使徒行伝20:33-38

 

 救い主イエスの弟子が、人々に別れを告げながら、これまで伝えてきた教えをもう一度おさらいしています。神を信じる者として、どのように働き、どのように毎日毎日の暮らしを生きることができるかということを。その教えによって彼らを励まし、しっかりと立たせるためにです。35節、「わたしは、あなたがたもこのように働いて、弱い者を助けなければならないこと、また『受けるよりは与える方が、さいわいである』と言われた主イエスの言葉を記憶しているべきことを、万事について教え示したのである」。(1)弱い者を助けることと、(2)『受けるよりは与える方が、さいわいである』と言われた主イエスの言葉を記憶しているべきこと。なぜ、とくにその2つなのか。主イエスは言葉で伝えてくださっただけでなく、むしろ、なされたその救いの御業をもって教えてくださったからです。(1)神が弱い者を憐れんで助けつづけています。あの彼らと私たちこそが、救い主イエスによって助けられた『弱い者』たちです。だから、していただいたのと同じように、弱く貧しく小さな者たちを助けるように命じられます。(2)父なる神さまは御子イエスをさえ惜しまず与えてくださいました。また、御子イエスこそがご自身のものを惜しまず、栄光も名誉や尊厳も投げ捨ててて、ご自分を低くなさって、十字架の上で救いの御業を成し遂げてくださいました(ローマ手紙8:32,ピリピ手紙2:6-11。それを幸いだと喜んでくださいました。誰かに与えるとき、愛するとき、助けるときに、この私たちも、主イエスから多くを受け取ったことを思い起こすことができます。そのとき、この私たちも、神から受け取ってきた憐みと幸いを噛みしめ、喜び味わうことができます。

2020年11月4日水曜日

11/1「狭い戸口から入りなさい」ルカ13:22-30

             みことば/2020,11,1(主日礼拝)  291

◎礼拝説教 ルカ福音書 13:22-30                 日本キリスト教会 上田教会

『狭い戸口から入りなさい』


牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

13:22 さてイエスは教えながら町々村々を通り過ぎ、エルサレムへと旅を続けられた。23 すると、ある人がイエスに、「主よ、救われる人は少ないのですか」と尋ねた。24 そこでイエスは人々にむかって言われた、「狭い戸口からはいるように努めなさい。事実、はいろうとしても、はいれない人が多いのだから。25 家の主人が立って戸を閉じてしまってから、あなたがたが外に立ち戸をたたき始めて、『ご主人様、どうぞあけてください』と言っても、主人はそれに答えて、『あなたがたがどこからきた人なのか、わたしは知らない』と言うであろう。26 そのとき、『わたしたちはあなたとご一緒に飲み食いしました。また、あなたはわたしたちの大通りで教えてくださいました』と言い出しても、27 彼は、『あなたがたがどこからきた人なのか、わたしは知らない。悪事を働く者どもよ、みんな行ってしまえ』と言うであろう。28 あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが、神の国にはいっているのに、自分たちは外に投げ出されることになれば、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。29 それから人々が、東から西から、また南から北からきて、神の国で宴会の席につくであろう。30 こうしてあとのもので先になるものがあり、また、先のものであとになるものもある」。      (ルカ福音書 13:22-30)

                                               

11:18 あなたはその枝に対して誇ってはならない。たとえ誇るとしても、あなたが根をささえているのではなく、根があなたをささえているのである。19 すると、あなたは、「枝が切り去られたのは、わたしがつがれるためであった」と言うであろう。20 まさに、そのとおりである。彼らは不信仰のゆえに切り去られ、あなたは信仰のゆえに立っているのである。高ぶった思いをいだかないで、むしろ恐れなさい。21 もし神が元木の枝を惜しまなかったとすれば、あなたを惜しむようなことはないであろう。22 神の慈愛と峻厳とを見よ。神の峻厳は倒れた者たちに向けられ、神の慈愛は、もしあなたがその慈愛にとどまっているなら、あなたに向けられる。そうでないと、あなたも切り取られるであろう。23 しかし彼らも、不信仰を続けなければ、つがれるであろう。神には彼らを再びつぐ力がある。                          (ローマ手紙11:18-23)


 (1)まず22-24節、「さてイエスは教えながら町々村々を通り過ぎ、エルサレムへと旅を続けられた。すると、ある人がイエスに、『主よ、救われる人は少ないのですか』と尋ねた。そこでイエスは人々にむかって言われた、『狭い戸口からはいるように努めなさい。事実、はいろうとしても、はいれない人が多いのだから』」。別の箇所ではさらに詳しく救い主イエスの言葉を報告しています、「狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない」(マタイ7:13-ここでこそ、私たちは心に留めておきたいのです。なにしろ主なる神は、慈しみ深い、あわれむ神です。神を信じてその御心に聴き従って生きていこうとする者たちばかりではなく、そうではない者たちをも愛し、憐れむ神です。主なる神を愛し、慕い求める者たちばかりではなく、神を愛さない人も、憎んで侮る人たちをさえも神は憐れみます。神を慕い求めるそのはるか以前から、神の慈しみと憐みは私たち罪人に注がれ、差し出されつづけていました(ローマ手紙5:6-。けれども、その人が主なる神に信頼し、慕い求める人でなければ、その憐みはその人に届きませんでした。もちろん救い主イエスは恵みに価しない罪人たちを喜んで迎え入れてくださいます。主は、倦むことなく、熱心に私たちを招きつづけます、「私はここにいる。私はここにいる」と。けれど、その呼び声を聞き分けて、喜んで主のもとに来ようとする罪人はとても少ない。だからです。だからこそ救われる者は少ない。

 「狭い戸口から入るように努めなさい」。その戸口は、どの程度に狭いのでしょうか。例えば大人には狭くて入りにくくても、小さな子供になら十分な広さかも知れません。どうしましょうか。それなら私たちは、小さな子供のようになって、その戸口を入っていきましょう。それぞれに世間体があり、体裁があり格式があり、肩をそびやかしていては入りにくいのならば、その肩をすぼめて小さくなって、身も心も屈めて入りましょう。なりふり構わずに入れていただきましょう。ひざまずき、ひれ伏し、もし必要ならば腹ばいになってでも入りましょう。あれもこれもと荷物を山ほど抱えて入りにくいのならば、それなら何も持たずに手ぶらで、裸一貫で入りましょう。「どうぞよろしくお願いします」と頭を下げて入りましょう。救いへと至る神の御国の中へと、この私たちにも入ることができます。ぜひ入れてくださろうとして、神さまが招いてくださっているからです。

「狭い戸口から入るように努めなさい」。聖書は証言します、「いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬこうではないか」(ヘブル手紙12:1。私たちの気力を失わせ、心を惑わせ、ついに足を止めさせようとするものがあります。絡みついてくるものがあります。自分の体を打ち叩き、打ち叩き、努めなさい。ひたすらに一途に努めなさい。がむしゃらに、必死に、かなぐり捨ててでもしなければ振りほどくことができないものがあります。狭い門から入ることを邪魔しつづけるものがいます。それは私たち自身の肉の思いです。心の頑固さ、よこしまで自分中心の思い、はなはだしい罪深さの重荷です。

 

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 (2)さて、「主人から、『あなたがたのことは知らない』と拒まれ、退けられるものたちがある」と警告されています。25-27節、「家の主人が立って戸を閉じてしまってから、あなたがたが外に立ち戸をたたき始めて、『ご主人様、どうぞあけてください』と言っても、主人はそれに答えて、『あなたがたがどこからきた人なのか、わたしは知らない』と言うであろう。そのとき、『わたしたちはあなたとご一緒に飲み食いしました。また、あなたはわたしたちの大通りで教えてくださいました』と言い出しても、彼は、『あなたがたがどこからきた人なのか、わたしは知らない。悪事を働く者どもよ、みんな行ってしまえ』と言うであろう」。私たちの人生は、精一杯に生きるに値します。その理由は、真実な憐み深い神が生きて働いておられ、私たちの生活に目を留めておられるからです。その神を信じており、その神と共に永遠に生きることになると教えられ、神ご自身からのその確かな約束を信じているからです。しかも「悪事を働く者どもよ」と世界万物をお造りになった神さまから呼びかけられています。神の御心に背く悪事を行いつづけているのは、ほかの誰のことでもなく、この私たち自身のことだと知らねばなりません。それでもなお、今はまだ神さまは私たちを知らないとは仰らず、恵みに価しない罪深い私たちを見捨てず、見放さずにいてくださっています。恵みと憐れみの時がつづいており、今はまだ神さまが忍耐しつづけておられるからです。この私たち自身とすべてのクリスチャンを含めて、はなはだしい悪事を働く者たちに対して、主なる神さまは長く忍耐しつづけて来られました。やがて、その忍耐が終わるときがきます。長い間、開いたままにしていただいていた憐みのドアが、ついにとうとう神ご自身の手で閉められる時がきます。すべての罪深い者たち、神に背くよこしまな者たちのために開かれていた生命の泉が閉じられる時が来ます。終わりの日の裁きの王座が据えられます。この終わりの日の裁きについて、「私たちはこの世界に対しても私たち自身に対しても担うべき大きな責任がある」と救い主イエスからはっきりと教えられています。神の恵みを待ち望んでいるので、私たちは自分自身の罪とこの世のよこしまな在り方の中にただ座り込みつづけたりは出来ません。自分自身の邪悪さや、虚しい言い逃れの中に自分を隠しつづけることも出来ません。ただ神の憐みを慕い求めて、神へと近づいてゆくほかありません。けれど、自分自身ではどうしてよいか分かりません。憐れんでくださる慈しみの神であられますが、その神と私たちとの結びつきは、ただ私たちが主なる神に対して低く身を屈め、従順であるほかありません。そして救い主イエス・キリストによって示された神の憐み深さにすがる他ありません。自分の心と信仰が試され、激しく揺さぶられます。兄弟姉妹たち、家の主人がついにとうとう戸を閉じてしまう。それは厳粛に受け止めなければならない。そうだけれど、でも、今はどうなのか。まだ残り時間があって、油を分けてあげたり、もらったりできる。まだ間に合うんじゃないか、と思い始めました。ノアの大洪水のとき、主なる神が最後にノアのうしろで箱舟の戸を閉められました。また、花婿の到着を待ちわびる十人の花嫁候補者たちのたとえ話(創世記7:16,マタイ福音書25:1-13も、よく似ています。油と明かりを求めて、「すいません、すいません」と頼んで、泣きついてくるその相手が、もし、生涯ずっと添い遂げると誓った自分の愛する連れ合いだったら、果たしてこの自分はどうするだろう。例えばもし、いっしょに長く暮らして苦労や悲しみを分け合った愛するわが息子、娘たちだったらどうするのか。自分のための分だろうが、最後の一滴さえも分けてあげますよ。いいから全部、持って行ってくれと。「自分の分は十分ある。けれど、あなたがたに分けてあげるには足りない。はい、残念でした」などと冷たく追い払うでしょうか。神から憐れんでいただいたので、家族や仲間たちにも、見ず知らずの隣人にも、むしろ自分のための最後の油の数滴でさえ、喜んで贈り与えることができる私たちです。「じゃあ、あなたにあげますよ。はい、どうぞ」と惜しみなく。なにより救い主イエスご自身こそが、この私たちのためにさえそのようにご自身のすべてを投げ出し、差し出してくださった。数時間分の灯油油どころか、ご自身のすべて一切を捨てて、ご自分を無になさった(ピリピ手紙2:5-11参照)。だからこそ、この、5人の賢いおとめたちと愚かで考えが足りなかった5人のおとめたちのやりとりは私たちの心を激しく揺さぶります。どう受け止めることが出来るのか。最後の最後に恵みの戸が閉められる。そのことを知りながら一日ずつを生きるのは、とても大切なことです。そうでなければ、いつまででも虚しく眠りをむさぼってしまう私たちだからです。神からの命令ははっきりと言い渡されています、『あなたは狭い戸口から入りなさい』と。

 (3)最後に30節、「こうして後のもので先になるものがあり、また、先のもので後になるものもある」。後のものが先になり、先のものが後にされると、同じことを救い主イエスは何度も繰り返して仰いました(マタイ19:30,20:16,マルコ10:31。「思いあがってはならない」と繰り返し戒められてきたのも、「権力ある者を王座から引き下ろし、卑しいものを引き上げ」とマリヤの讃歌が歌うのも、みな同じこと(ローマ手紙11:20,ルカ1:52-55それらはみな、『神の恵みを覚えて生きる』ための、神ご自身からの配慮です。それらすべては、先祖とこの私たちがうっかり心に抱えてしまった虚しい自己満足やうぬぼれを投げ捨てさせるためです。世界中の他の人々とは違って、あらかじめ神さまによって救いと恵みへと選ばれている。その区別や分け隔て、神さまとの特別に深い結びつきの中に入れられていること。たしかにその通りです。けれどもそれはただただ感謝すべきことです。なぜなら、それは憐み深い神さまの恵みによるからです。それで、思い上がることなく感謝していられるようにと、先に神さまから救いと祝福へと選ばれた先祖と私たちは後に回され、後から選ばれた他の者たちが先に回されました。先に祝福へと選ばれたユダヤ人からは神からの誉れや名誉がひとたび奪い取られました。片隅に置かれていた外国人たちは、ユダヤ人と入れ替わりのようにして、高く引き上げられました。この私たちも同じです。そのようにある者たちが身を屈めさせられ、他の後から選ばれた者たちが高く引き上げられたのは、誰もが思いあがることなく、神さまに感謝して慎み深くあるためにです。そのようにして、誰もが皆、神の御前でも人様の前でも身も心も低く屈めて、感謝と喜びを互いに分かち合うためにです(1コリント手紙1:26-31,ローマ手紙3:21-28,11:20-32,1ペテロ手紙2:10を参照のこと)