われ、弱くとも13 (お試しサンプル品 賛美歌21-290番)
こんばんは。讃美歌をごいっしょに読み味わっていきましょう。賛美歌21-290番、こども讃美歌81番『踊り出る姿で』です。この歌は、いつのまにか硬く強ばってしまった私たちの心を、やわらかく解きほぐしてくれるかもしれません。澄ま~した真面目な顔をして、お行儀よくして、ただただ静かに落ち着いているのが神さまを信じる態度かと誤解していました。そういうときもあり、まったくそうじゃないときもあったのか。まず、繰り返しの部分を見てください。「踊れ輪になって、リードする主と共に。福音の喜びへと招かれた者は皆」。喜ぶこと、歌うこと、踊ること。それらは古くから神さまからの恵みを味わう手段や道具とされました。「踊れ、踊れ」と誘われ、命じられています。じゃあ、誰が踊るようにと促されているのか。「福音の喜びへと招かれたである者ならば、その皆、その全員が」と。それはもともとあふれるような喜びだったのです。体中を熱い血が駆け巡るような、わあっと叫び出したくなるような、居てもたってもいられないような。じゃあ試しに、最後にこの歌をごいっしょに歌うとき、ただ歌うだけじゃなく、歌いながら、いっしょに踊ってみましょうか。思い切って。どうです? 人前で踊りなんか踊ったことがないって人もいるでしょう。でも夜中だし、そばに誰も見ていない。しかも人様の前でばかり生きている私たちじゃありません。誰が見ていようがいまいが、誰が聞いていようがいまいが、神さまの御前で、神さまに向かって生きている私たちです。へんてこりんなタコ踊りイカ踊りみたいになったっていい。自由に思いのままに踊ってみましょう。だって、私たちはそういうふうに招かれていました。ねえ、福音の喜びへと招かれた私たちです。あふれるような喜びを何度も何度も味わってきた私たちです。体中を熱い血が駆け巡るような、わあっと叫び出したくなるような、居てもたってもいられないような福音の喜びを。救われた者たちの格別な感謝と信頼と希望を。じゃあ本当に約束ですよ、最後に踊ってみること。
さて、その福音の喜びへの招きが、1節から5節まででやや駆け足に思い起こされます。1節、「踊り出る姿で主イエスは、神がすべて造られた日も、飼い葉桶に生まれた夜も、喜びを告げた」。最初のクリスマスの夜と、世界創造の7日間。あのクリスマスの夜、飼い葉桶の中の赤ちゃんを見て、羊飼いと羊たちが喜びにあふれました。小屋に居合わせた馬や家畜たちも、マリアとヨセフも。そして東の国から来た占星術の博士たちも。世界創造の7日間、それを喜び祝ったのは神さまご自身です。「見て良しとされた。見て良しとされた。見て良しとされた。そして6日目に、神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった」(創世記1:31)。よし、とてもいい。ああ良かった、とても嬉しい。神さまは、その喜びを決してお忘れになりません。だからこそご自分で造り、喜んだものたちを、この世界を1つ1つの生命を決して見捨てることも見離すこともなさらない。しかも、その世界創造の喜びの1つ1つ「光あれ」「水の中に大空あれ。水と水をわけよ」も、「見て良しとされた。見て良しとされた。見て良しとされた」「見よ、それは極めて良かった」も、どれも皆主イエスの喜びであるというのです。聖書は証言します;「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。……言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」(ヨハネ福音書1:1以下)。
歌の2節と3節は、救い主イエスのお働きの始まりです。まず2節。片田舎の湖のほとりで漁師たちを弟子としたこと。「ついて来なさい」と招かれて、彼らは主イエスに従いました。私たちもそうです。「ついて来なさい」と招かれて、彼らも私たちも主イエスに従いました。3節。「きよい安息日に主イエスは歩けない人立ち上がらせ、律法やぶると責められても、御心に生きた」。主イエスはおりおりに人里離れた寂しい場所に退き、弟子たちからも距離を置いて、ただ独りで祈りました。御父の御心に従って生きるためには、そのように祈りつづける必要がありました。「父とわたしは1つである」と仰り、また「父から命じられたこと以外、私は一切なにもしない」(ヨハネ5:19,17:22参照)とまで仰いました。ゲッセマネの園で主イエスは「この苦い杯を取りのけてください。しかし私の願い通りではなく、あなたの御心のままになさってください」と祈りました。御心に生きるとはこのことです。十字架の前の晩ばかりでなく、主イエスはずっとそのように祈りつづけておられたことが分かります。私たちも同じく御父に信頼を寄せ、そのように生きることができます。どんなことでも願っていいのです。「~してください。~はしないでください。~と、~と、~と」と山ほど並べ立ててもいいでしょう。そして必ずこう付け加えます、「しかし私の願いどおりではなく、あなたの御心に叶うことが成し遂げられますように」と。
歌の4節は主イエスの十字架の死と葬りです。「暗い雲が光を閉ざし、神の御子が釘づけられて、悪が力を振るう中も御業は進んだ」。まったくその通りでした。「お前がユダヤ人の王なのか」とピラトに問われたとき、「それは、あなたが言っていることです」と主イエスは答えました。さまざまな訴えがなされつづけました。けれど何も答えないので、ピラトは不思議に思いました。何かを答えることによってではなく、何かを行ってみせることによってでもなく、ここからは、ご自身の死と葬りと復活によって主はお答えになるのです。人々はますます激しく「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫び立てました。ローマ帝国の兵士たちは主イエスに紫の服を着せ、茨の冠を編んでかぶせ、「ユダヤ人の王、万歳」とあざけり笑い、葦の棒でその頭を叩き、つばを吐きかけ、ひざまずいて拝んでみせました。通りかかった人々は頭をふりながらイエスを罵って言いました。「おやおや、神殿を打倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ」。祭司長や立法学者たちもイエスを侮辱しました。「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう」。暗い雲が光を閉ざし、神の御子が釘づけられて、悪が力を振るう中も御業は進んだ。神の独り子イエス・キリスト。その十字架の死と復活による救い。それは神さまから私たちへの愛の出来事だった、と聖書は語ります。「キリストは罪人たちのために、ただ1回苦しまれた。ただしい方が、ただしくない者たちのために苦しまれた。あなたがたを神のもとへ導くために」(ペトロ(1)3:18)。あの苦しみは罪人たちのためでした。罪人たちとは誰のことでしょうか? ただしい方がただしくない者たちのために苦しまれた。ただしくない者たちとは誰のことでしょう。あなたがたを神のもとへと導くために。あなたがたとは誰と誰と誰のことでしょうか? 主イエスはなんだそれはと小馬鹿にされ、あざけり笑われています。「十字架から降りて、自分を救ってみろ。他人は救ったのに、自分は救えないのか。今すぐ、十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう」。この誘惑こそ、主イエスによる救いの出来事に対する最後の、最大の誘惑でした。けれど兄弟たち。私たちの主イエスは、『十字架から降りない』ことを決断なさいました。『自分で自分を救うことを決してしない』と腹をくくったのです。礼拝説教の中でも祈りの最中でも、普段のいつもの会話でも、「人間は罪深い。私たちの罪」と語られつづけて、そのとき、それを何か抽象的なことと思ってはなりません。ただの理屈や建前などと聞き流してはいけません。なぜなら兄弟姉妹たち、ずいぶん偉そうな、分かったふうな顔をしている私たちです。「罪深い私です。ふつつかで愚かな私です。主からの恵みに値しない私たちです」とスラスラ言いながら、その舌の根も乾かないうちに、軽々しく人を裁いている私たちです。「あの人はだらしない。自分勝手だ。この人はふつつかだ。この人はなんて愚かなんだろう。あの彼らはまったく値しない」と値踏みをし、冷ややかな批判を並べ立てる。「教会は罪人たちの集団にすぎない。ゆるされてなお罪深くありつづける罪人たち? なるほど確かに。私も罪深いが、けれどあの人の方が私の3倍も4倍も罪深い」と言うのでしょうか。「私にも勿論ふつつかな所やいたらない点もほんの少しはあるかも知れないが、だってほら、あの人の方が、私なんかより遥かにふつつかでいたらない」などと、いったいどうして言えるのでしょうか。あのとき人々は「十字架につけろ。十字架につけろ」と叫びたてていました。その憎しみの叫びはますます大きく、ますます激しくなっていきました。今日でもなお人々は、いいえこの私たち自身も、「私の体面。私の体裁や面子」と叫びたてつづけます。「私の働きと努力と甲斐性が私を救った。私の勤勉実直さと有能さと気立てのよさが、つまり、私は自分で自分自身を救った」などと。それで得意になったり、目の色を変えて怒ったりガッカリしたり。放っておけば四六時中、朝から晩までそんなことをソロバン勘定しつづけ、「面目が立った。倒れた。面子が保たれた。いいやこれでは面子丸つぶれだ」などと一喜一憂しつづけます。私の体面や体裁が保たれさえすれば幸せになれる、と思い込んで。もしそれを失ってしまえば私は惨めで情けない、と思い込まされて。けれども兄弟たち。神さまご自身が、その独り子を、十字架に引き渡したのだと聖書は告げます。あの時、神様ご自身の面子も体裁も丸つぶれでした。神さまご自身の品格も格式も尊厳も、すっかり泥にまみれていました。暗い雲がしばしば光をすっかり閉ざしました。あのときも、その後も何度も何度も何度も。悪が力を振るう中も御業は進んだ。しかも進みつづける、昨日も今日も明日も。
歌の5節、「重い墓石をもけやぶり、朝のひかり照り輝いて、踊りの主イエスはよみがえり、初穂となられた」。キリストの復活を話半分に聞き流しているクリスチャンもいるらしいです。そんな馬鹿なことがあるものか、生きてるうちが花なのさ死んだらそれでおしまいだと。そうでしょうか。いいえ違います。ちゃんとその先がある。聖書は証言します;「そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。……キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」。また、こうも告げられます、「兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。イエスが死んで復活されたと、私たちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます」(コリント手紙(1)15:14-20,テサロニケ手紙(1)4:13-14)。
「踊れ」とわざわざ命じられているのは、心も体も寒さに強ばってしまいそうだからです。恐れて、萎縮して、小さく縮こまってしまいそうだからです。社会のルールやしきたりが私たちをガンジガラメに縛りつけます。儲かったとか、得をした利益があがったなどとお金のことしか考えない人々に囲まれて暮らしているからです。どれだけ働けるか、成果があがるか役に立つかどうかと、誰もが皆ソロバン勘定ばかりに心を奪われるからです。だからこそ踊れ、輪になってリードする主イエスと共に。福音の喜びと希望へと招かれ、招き入れられた者は皆。