2020年6月30日火曜日

6/28こども説教「コリントの町で」使徒18:1-4


 6/28 こども説教 使徒行伝18:1-4
 『コリントの町で』

18:1 その後、パウロはアテネを 去ってコリントへ行った。2 そこで、アクラというポント生れのユダヤ人と、その妻プリスキラとに出会った。クラウデオ帝が、すべてのユダヤ人をローマから退去させるようにと、命令したため、彼らは近ごろイタリヤから出てきたのである。3 パウロは彼らのところに行ったが、互に同業であったので、その家に住み込んで、一緒に仕事をした。天幕造りがその職業であった。4 パウロは安息日ごとに会堂で論じては、ユダヤ人やギリシヤ人の説得に努めた。                          
(使徒行伝18:1-4

 いよいよコリントの町での伝道がはじまり、ここにもキリストの教会が建てられていきます。主の弟子パウロは、ここでアクラとプリスキラというテント造りの職人夫婦といっしょに仕事をし、またその家に迎え入れてもらって住まわせてもらいました。彼らが神の国の福音を宣べ伝えるためにも、手助けをしつづけてくれました。1節を読むと、そのアクラとプリスキラという夫婦は、「クラウデオ帝が、すべてのユダヤ人をローマから退去させるようにと、命令したため、近ごろイタリヤから出てきた」と書いてあります。ローマというとても大きな国の王様は、すべてのユダヤ人をローマから追い出しました。それは、神を信じる彼らの信仰が邪魔で、王様にとってはとても都合が悪かったからです。無理矢理に追い払われても、それでも、ほとんどのユダヤ人たちは神さまを礼拝することを止めませんでした。ユダヤ教に対しても、キリスト教に対しても、きびしい取り扱いがつづきます。その中で、神の国の福音がこうして宣べ伝えられていきます。



6/28「神の言葉を聞いて、それを守る人たち」ルカ11:27-28


                           みことば/2020,6,28(主日礼拝)  273
◎礼拝説教 ルカ福音書 11:27-28                     日本キリスト教会 上田教会
『神の言葉を聞いて、それを守る人たち』


牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
11:27 イエスがこう話しておられるとき、群衆の中からひとりの女が声を張りあげて言った、「あなたを宿した胎、あなたが吸われた乳房は、なんとめぐまれていることでしょう」。28 しかしイエスは言われた、「いや、めぐまれているのは、むしろ、神の言を聞いてそれを守る人たちである」。             (ルカ福音書 11:27-28)
                                               

6:3 それとも、あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。4 すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。5 もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。6 わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。7 それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである。8 もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる。9 キリストは死人の中からよみがえらされて、もはや死ぬことがなく、死はもはや彼を支配しないことを、知っているからである。10 なぜなら、キリストが死んだのは、ただ一度罪に対して死んだのであり、キリストが生きるのは、神に生きるのだからである。11 このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである。……16 あなたがたは知らないのか。あなたがた自身が、だれかの僕になって服従するなら、あなたがたは自分の服従するその者の僕であって、死に至る罪の僕ともなり、あるいは、義にいたる従順の僕ともなるのである。17 しかし、神は感謝すべきかな。あなたがたは罪の僕であったが、伝えられた教の基準に心から服従して、18 罪から解放され、義の僕となった。   (ローマ手紙 6:3-18)

 救い主イエスは、神の国の福音について語りかけつづけておられます。聖書の神さまを信じて生きる者たちが、どのように生きて死ぬことができるのか。隣人や職場の同僚や自分の大切な家族との、普段のいつもの付き合い方をどうすることができるか。毎日の暮らしをどう建てあげてゆくことができるのかという根本問題について。つまりは、神からの福音と律法の本質と生命についてです。27-28節、「イエスがこう話しておられるとき、群衆の中からひとりの女が声を張りあげて言った、『あなたを宿した胎、あなたが吸われた乳房は、なんとめぐまれていることでしょう』。しかしイエスは言われた、『いや、めぐまれているのは、むしろ、神の言を聞いてそれを守る人たちである』」救い主イエスは神でありながら、生身の肉体を取ってこの地上に降り立ち、人間となってくださいました。恵みに値しない罪人である私たちを罪から救い、神の子供たちとして迎え入れてくださるためにです。そのように生身の人間として生まれ育った際に、救い主イエスを生み育てた母親のおなかがあり、乳を吸わせて養った乳房があり、父親母親、いっしょに育てられた兄弟たちもいました。「その人たちは格別に幸いで、祝福され、とても恵まれている」と声を上げて叫んだ女性がいました。主イエスは、その声に応えて、はっきりと仰いました。「いいや、決してそうではない。神の恵みはそんなこととは何の関係もない。まったく別の事柄である」と。「恵まれているのは、むしろ、神の言を聞いてそれを守る人たちである」。
 神の言葉を聞いて、それを守る人たちこそが、ほかの何にもまさる格別な祝福と恵みを受け取る。少し前に、ほぼ同じことを主イエスご自身が語りかけたことがありました。同じルカ福音書の6:46-49です、「わたしを主よ、主よ、と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。わたしのもとにきて、わたしの言葉を聞いて行う者が、何に似ているか、あなたがたに教えよう。それは、地を深く掘り、岩の上に土台をすえて家を建てる人に似ている。洪水が出て激流がその家に押し寄せてきても、それを揺り動かすことはできない。よく建ててあるからである。しかし聞いても行わない人は、土台なしで、土の上に家を建てた人に似ている。激流がその家に押し寄せてきたら、たちまち倒れてしまい、その被害は大きいのである」。神に向かって、救い主イエスに向かって「主よ、主よ」と熱心に呼ばわっている。礼拝に出席し、祈っている。けれど、もし主の言葉を聞いてもそれを行わないならば、何の役にも立たず、それは虚しいだけです。主のもとに来て、主の言葉を聞いて行うとはどういうことでしょうか。神を信じる信仰によって、この私たちは、毎日毎日の暮らしを、どんなふうに生きることができるのでしょうか。その6章48-49節、「それは、地を深く掘り、岩の上に土台をすえて家を建てる人に似ている。洪水が出て激流がその家に押し寄せてきても、それを揺り動かすことはできない。よく建ててあるからである。しかし主イエスの言葉を聞いても行わない人は、土台なしで、土の上に家を建てた人に似ている。激流がその家に押し寄せてきたら、たちまち倒れてしまい、その被害は大きいのである」。
 神の言葉を聞いて、それを守り、また行って生きる人たちこそが、ほかの何にもまさる格別な祝福と恵みを受け取る。とても大切なことなので、2回繰り返して、念入りに告げ知らされています。よくよく注意を払って、このことを思い巡らせてみる価値があります。神の言葉を聞いて、それを守り、またそれを行って生きること。主イエスは、二種類の家を私たちの前に並べて見せます。よく見比べてみるようにと。一方は、土台なしに建ててしまった家です。もう一方は、しっかりした十分な土台と基礎の上に建て上げられた家です。これら二種類の家は、外見上はとてもよく似ていて、見分けがつきません。けれど雨が降り、洪水や津波や地震が押し寄せ、風が強くその家に打ちつけるとき、二つの家の違いは誰の目にもはっきりしてしまいます。しかも、私たちの地域にも間もなくはなはだしい雨が降りはじめ、あなたや私の家にも強い風がひどく打ちつけはじめます。
今日では様々な人々が救い主イエスの説教を聞いています。悔い改めて、神さまのもとへと立ち返るようにと促されます。主イエスとその福音を信じるように。清い暮らしを送るようにと。すると、ある人々はただ聴くだけで満足せずに、実際に、神さまへと腹の思いも普段のあり方も向け返し、主イエスとその福音を信じて暮らしはじめ、実際に、神さまが心を痛めたり、嘆き悲しむような悪い行いをすることを止め、善い働きをすることを少しずつ習い覚えはじめます。その人々は、耳を傾けて聴く人々であるだけではなく、聴いた言葉を実際に行い、そのように暮らしはじめる人々です。この人々こそが、うっかりと土台なしに家を建ててしまう者ではなく、しっかりした十分な土台と基礎の上に自分の家を建て上げてゆく幸いな人々です。
  私たちのほとんどは大工さんではなく、建築の専門家でもありません。けれど、それぞれに家を建てています。建物のことではなく、その中身です。救い主イエスに向かって「主よ、主よ」と熱心に呼ばわっている。礼拝に出席し、祈っている。あるいは神でありながら人となられた救い主イエスと身近に接して、親しくかかわった人間たちがいたとして、それがその人が毎日の暮らしを生きるうえでどんな影響を与えたのかと問われます。例えば、一個のキリスト教会が家です。一つの家族も家です。クリスチャンの一つの生涯も、建て上げられてきた一軒の家に似ています。私たちは一つの家族を築き上げ、建てあげていきます。一軒の家を建てあげてゆくように、毎日の生活を生きてゆきます。私たちそれぞれのごく短い生涯も、それぞれ一軒の家を建てあげてゆくことに似ています。さあ私たちは、この私自身は、どんなふうに自分の家を築きあげてゆきましょうか。屋根をどんな形にしようか。壁を何色にしようか。間取りや玄関周りをどうしようか。どんな家具を揃えようか。――いいえ。それよりも何よりも、なにしろ家を建てるための土台こそが肝心要だ、と主イエスはおっしゃるのです。地面を深く深く掘り下げ、大きな岩の上に土台をガッチリと据えて、そこに、あなたの家を建てあげてゆくならば。そうであるなら、大洪水になって川の水が押し寄せてくるときにも、激しい雨や嵐にも、あなたのその大切な家は少しも揺り動かされず、ビクともしない。私たちの人生が平穏であるとき、家の土台がどうなっているか、耐震強度がどのくらいかなど誰も気にも留めません。何の問題もないように思えます。この上田教会も。それぞれの職場や家庭生活も。夫婦や親子の関係も。子供たちを養い育てることも。先々のための私たちの蓄えも。けれど不意に突風が吹き荒れます。川の土手があまりにたやすく崩れ落ち、濁流が荒々しく押し寄せます。私たちの日々が脅かされるとき、その時に、苦労して建てあげてきた大切な家の土台が何だったのかが問われます。その時に、救い主イエスに向かって「主よ、主よ」と呼ばわったことや、礼拝に出席して神の言葉を聞いたこと、心に噛みしめ刻みつけたこと、心をこめて祈りつづけたことが、その人に何をもたらし、主なる神から何を贈り与えられつづけたのかが分かります。その中身こそが。
 やがて主の弟子の一人が、この同じ一つの真理をさらにはっきりと説き明かします、「わたしたちは今後、だれをも肉によって知ることはすまい。かつてはキリストを肉によって知っていたとしても、今はもうそのような知り方をすまい。だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである」(2コリント手紙5:16-17救い主イエス・キリストに対しても、また他の誰に対しても自分自身についても、肉によって知ることはしないでおこう。「肉によって知ったり、判断したりする」とは、うわべの外観によって、ごく表面的な事柄によって見たり、軽々しく判断したりはしないというのです。なぜなら兄弟姉妹たち。洗礼を受けた最初の日から、私たち一人一人のためにも新しい自分がはじまり、神の御前で神に向かって生きる新しい生活がはじまったからです。クリスチャンとされた私たちはこの世界に対しても、古い罪の自分自身や肉の思いに対してもすでに死んだ者とされ、それらと死に別れつづけ、それらと引き替えのようにして新しく生きる者とされたからです。また、自分自身としては無に等しい罪人であり、救い主イエスに仕えて生きるしもべとされたからです。耳を傾けて主の言葉を聴きつづけ、それだけでなく、聴いたことを実際に行い、そのように毎日の暮らしを積み重ねてきた私たちであるからです。聖書は証言します、「わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである」、また「もし、イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださる」(ロ―マ手紙6:6-11,8:11。語られ、聞き重ねてきた神の御言葉こそが、私たちを神の憐みのもとに据え置き、私たちの心と行いとをキリストによって守りつづけます。主イエスご自身の口から聞いてきた言葉が私たちのうちにあり、私たちを清くしているからです(ヨハネ福音書15:3,7を参照「もっと豊かに実らせるために、(父が)手入れしてこれをきれいになさるのである。あなたがたは、わたしが語った言葉によって既にきよくされている」「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう」)。なんという幸い、なんという恵みでしょう。



 【補足/主日礼拝と説教】
    (1)主日礼拝。主イエス・キリストが死人の中からよみがえられたのが一週の第一日、つまり日曜日であったことから、初代のキリスト者たちは日曜日を主の日として、神に礼拝をささげるために用いるようになったのです。そこでは、み言葉が語られ、パンを裂く交わり(聖餐、せいさん)が持たれます。それは主イエスの復活の記念であると同時に、復活されたキリストとのいのちの交わりの場です。その中で、神への讃美、祈り、告白、献身といった信仰者の応答がなされます。この主日礼拝を誠実に守ることが、その日から始まる信仰者の日々を、神に仕えるものとして用いることにつながります。「兄弟たち、神の憐みによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なるいけにえとしてささげなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」(ローマ手紙12:1ろ記されているとおりです。
    (2)礼拝説教。説教は、説教者による単なる聖書の解説や宗教講話や体験談などではありません。それは、主なる神の今、ここでの言葉を取りつぐことです。その日示された聖書の言葉に基づいて、聖霊の導きの下に説教者が教会の会衆と共に受け取った神のみ心が語られる、それが説教です。説教は、したがって、説教者個人の言葉ではなく、教会の宣教の言葉としての働きを担っています。礼拝者は、説教の言葉を「人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れる」(1テサロニケ手紙1:13ことが大切です。
  説教が正しく(聖書に基づいて)語られ、正しく聞かれるところに教会は神の教会として存在します。そのために、説教者も礼拝者も祈りを欠かすことができません。パウロが、「わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことが出来るように、わたしのためにも祈ってください」(エペソ手紙6:19と訴えたことは、今日においても大切な教会の祈りの課題です。(『日本キリスト教会 教会員の生活』p5-6 日本キリスト教会出版局)


 救い主イエスは、神の国の福音について語りかけつづけておられます。聖書の神さまを信じて生きる者たちが、どのように生きて死ぬことができるのか。隣人や職場の同僚や自分の大切な家族との、普段のいつもの付き合い方をどうすることができるか。毎日の暮らしをどう建てあげてゆくことができるのかという根本問題について。つまりは、神からの福音と律法の本質と生命についてです。27-28節、「イエスがこう話しておられるとき、群衆の中からひとりの女が声を張りあげて言った、『あなたを宿した胎、あなたが吸われた乳房は、なんとめぐまれていることでしょう』。しかしイエスは言われた、『いや、めぐまれているのは、むしろ、神の言を聞いてそれを守る人たちである』」。救い主イエスは神でありながら、生身の肉体を取ってこの地上に降り立ち、人間となってくださいました。恵みに値しない罪人である私たちを罪から救い、神の子供たちとして迎え入れてくださるためにです。そのように生身の人間として生まれ育った際に、救い主イエスを生み育てた母親のおなかがあり、乳を吸わせて養った乳房があり、父親母親、いっしょに育てられた兄弟たちもいました。「その人たちは格別に幸いで、祝福され、とても恵まれている」と声を上げて叫んだ女性がいました。主イエスは、その声に応えて、はっきりと仰いました。「いいや、決してそうではない。神の恵みはそんなこととは何の関係もない。まったく別の事柄である」と。「恵まれているのは、むしろ、神の言を聞いてそれを守る人たちである」。
 神の言葉を聞いて、それを守る人たちこそが、ほかの何にもまさる格別な祝福と恵みを受け取る。少し前に、ほぼ同じことを主イエスご自身が語りかけたことがありました。同じルカ福音書の6:46-49です、「わたしを主よ、主よ、と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。わたしのもとにきて、わたしの言葉を聞いて行う者が、何に似ているか、あなたがたに教えよう。それは、地を深く掘り、岩の上に土台をすえて家を建てる人に似ている。洪水が出て激流がその家に押し寄せてきても、それを揺り動かすことはできない。よく建ててあるからである。しかし聞いても行わない人は、土台なしで、土の上に家を建てた人に似ている。激流がその家に押し寄せてきたら、たちまち倒れてしまい、その被害は大きいのである」。神に向かって、救い主イエスに向かって「主よ、主よ」と熱心に呼ばわっている。礼拝に出席し、祈っている。けれど、もし主の言葉を聞いてもそれを行わないならば、何の役にも立たず、それは虚しいだけです。主のもとに来て、主の言葉を聞いて行うとはどういうことでしょうか。神を信じる信仰によって、この私たちは、毎日毎日の暮らしを、どんなふうに生きることができるのでしょうか。その6章48-49節、「それは、地を深く掘り、岩の上に土台をすえて家を建てる人に似ている。洪水が出て激流がその家に押し寄せてきても、それを揺り動かすことはできない。よく建ててあるからである。しかし主イエスの言葉を聞いても行わない人は、土台なしで、土の上に家を建てた人に似ている。激流がその家に押し寄せてきたら、たちまち倒れてしまい、その被害は大きいのである」。
 神の言葉を聞いて、それを守り、また行って生きる人たちこそが、ほかの何にもまさる格別な祝福と恵みを受け取る。とても大切なことなので、2回繰り返して、念入りに告げ知らされています。よくよく注意を払って、このことを思い巡らせてみる価値があります。神の言葉を聞いて、それを守り、またそれを行って生きること。主イエスは、二種類の家を私たちの前に並べて見せます。よく見比べてみるようにと。一方は、土台なしに建ててしまった家です。もう一方は、しっかりした十分な土台と基礎の上に建て上げられた家です。これら二種類の家は、外見上はとてもよく似ていて、見分けがつきません。けれど雨が降り、洪水や津波や地震が押し寄せ、風が強くその家に打ちつけるとき、二つの家の違いは誰の目にもはっきりしてしまいます。しかも、私たちの地域にも間もなくはなはだしい雨が降りはじめ、あなたや私の家にも強い風がひどく打ちつけはじめます。
今日では様々な人々が救い主イエスの説教を聞いています。悔い改めて、神さまのもとへと立ち返るようにと促されます。主イエスとその福音を信じるように。清い暮らしを送るようにと。すると、ある人々はただ聴くだけで満足せずに、実際に、神さまへと腹の思いも普段のあり方も向け返し、主イエスとその福音を信じて暮らしはじめ、実際に、神さまが心を痛めたり、嘆き悲しむような悪い行いをすることを止め、善い働きをすることを少しずつ習い覚えはじめます。その人々は、耳を傾けて聴く人々であるだけではなく、聴いた言葉を実際に行い、そのように暮らしはじめる人々です。この人々こそが、うっかりと土台なしに家を建ててしまう者ではなく、しっかりした十分な土台と基礎の上に自分の家を建て上げてゆく幸いな人々です。
  私たちのほとんどは大工さんではなく、建築の専門家でもありません。けれど、それぞれに家を建てています。建物のことではなく、その中身です。救い主イエスに向かって「主よ、主よ」と熱心に呼ばわっている。礼拝に出席し、祈っている。あるいは神でありながら人となられた救い主イエスと身近に接して、親しくかかわった人間たちがいたとして、それがその人が毎日の暮らしを生きるうえでどんな影響を与えたのかと問われます。例えば、一個のキリスト教会が家です。一つの家族も家です。クリスチャンの一つの生涯も、建て上げられてきた一軒の家に似ています。私たちは一つの家族を築き上げ、建てあげていきます。一軒の家を建てあげてゆくように、毎日の生活を生きてゆきます。私たちそれぞれのごく短い生涯も、それぞれ一軒の家を建てあげてゆくことに似ています。さあ私たちは、この私自身は、どんなふうに自分の家を築きあげてゆきましょうか。屋根をどんな形にしようか。壁を何色にしようか。間取りや玄関周りをどうしようか。どんな家具を揃えようか。――いいえ。それよりも何よりも、なにしろ家を建てるための土台こそが肝心要だ、と主イエスはおっしゃるのです。地面を深く深く掘り下げ、大きな岩の上に土台をガッチリと据えて、そこに、あなたの家を建てあげてゆくならば。そうであるなら、大洪水になって川の水が押し寄せてくるときにも、激しい雨や嵐にも、あなたのその大切な家は少しも揺り動かされず、ビクともしない。私たちの人生が平穏であるとき、家の土台がどうなっているか、耐震強度がどのくらいかなど誰も気にも留めません。何の問題もないように思えます。この上田教会も。それぞれの職場や家庭生活も。夫婦や親子の関係も。子供たちを養い育てることも。先々のための私たちの蓄えも。けれど不意に突風が吹き荒れます。川の土手があまりにたやすく崩れ落ち、濁流が荒々しく押し寄せます。私たちの日々が脅かされるとき、その時に、苦労して建てあげてきた大切な家の土台が何だったのかが問われます。その時に、救い主イエスに向かって「主よ、主よ」と呼ばわったことや、礼拝に出席して神の言葉を聞いたこと、心に噛みしめ刻みつけたこと、心をこめて祈りつづけたことが、その人に何をもたらし、主なる神から何を贈り与えられつづけたのかが分かります。その中身こそが。
 やがて主の弟子の一人が、この同じ一つの真理をさらにはっきりと説き明かします、「わたしたちは今後、だれをも肉によって知ることはすまい。かつてはキリストを肉によって知っていたとしても、今はもうそのような知り方をすまい。だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである」(2コリント手紙5:16-17救い主イエス・キリストに対しても、また他の誰に対しても自分自身についても、肉によって知ることはしないでおこう。「肉によって知ったり、判断したりする」とは、うわべの外観によって、ごく表面的な事柄によって見たり、軽々しく判断したりはしないというのです。なぜなら兄弟姉妹たち。洗礼を受けた最初の日から、私たち一人一人のためにも新しい自分がはじまり、神の御前で神に向かって生きる新しい生活がはじまったからです。クリスチャンとされた私たちはこの世界に対しても、古い罪の自分自身や肉の思いに対してもすでに死んだ者とされ、それらと死に別れつづけ、それらと引き替えのようにして新しく生きる者とされたからです。また、自分自身としては無に等しい罪人であり、救い主イエスに仕えて生きるしもべとされたからです。耳を傾けて主の言葉を聴きつづけ、それだけでなく、聴いたことを実際に行い、そのように毎日の暮らしを積み重ねてきた私たちであるからです。聖書は証言します、「わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである」、また「もし、イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださる」(ロ―マ手紙6:6-11,8:11。語られ、聞き重ねてきた神の御言葉こそが、私たちを神の憐みのもとに据え置き、私たちの心と行いとをキリストによって守りつづけます。主イエスご自身の口から聞いてきた言葉が私たちのうちにあり、私たちを清くしているからです(ヨハネ福音書15:3,7を参照「もっと豊かに実らせるために、(父が)手入れしてこれをきれいになさるのである。あなたがたは、わたしが語った言葉によって既にきよくされている」「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう」)。なんという幸い、なんという恵みでしょう。



 【補足/主日礼拝と説教】
    (1)主日礼拝。主イエス・キリストが死人の中からよみがえられたのが一週の第一日、つまり日曜日であったことから、初代のキリスト者たちは日曜日を主の日として、神に礼拝をささげるために用いるようになったのです。そこでは、み言葉が語られ、パンを裂く交わり(聖餐、せいさん)が持たれます。それは主イエスの復活の記念であると同時に、復活されたキリストとのいのちの交わりの場です。その中で、神への讃美、祈り、告白、献身といった信仰者の応答がなされます。この主日礼拝を誠実に守ることが、その日から始まる信仰者の日々を、神に仕えるものとして用いることにつながります。「兄弟たち、神の憐みによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なるいけにえとしてささげなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」(ローマ手紙12:1ろ記されているとおりです。
    (2)礼拝説教。説教は、説教者による単なる聖書の解説や宗教講話や体験談などではありません。それは、主なる神の今、ここでの言葉を取りつぐことです。その日示された聖書の言葉に基づいて、聖霊の導きの下に説教者が教会の会衆と共に受け取った神のみ心が語られる、それが説教です。説教は、したがって、説教者個人の言葉ではなく、教会の宣教の言葉としての働きを担っています。礼拝者は、説教の言葉を「人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れる」(1テサロニケ手紙1:13ことが大切です。
  説教が正しく(聖書に基づいて)語られ、正しく聞かれるところに教会は神の教会として存在します。そのために、説教者も礼拝者も祈りを欠かすことができません。パウロが、「わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことが出来るように、わたしのためにも祈ってください」(エペソ手紙6:19と訴えたことは、今日においても大切な教会の祈りの課題です。(『日本キリスト教会 教会員の生活』p5-6 日本キリスト教会出版局)


2020年6月24日水曜日

われ弱くとも ♪たえなる道しるべの


われ弱くとも (お試しサンプル品④) 
 ♪ たえなる道しるべの   (讃美歌288)   

  こんばんは。讃美歌をごいっしょに読み味わっていきましょう。
 『旅人の歌』シリーズ。56番、270番、285番と味わってきて、最後は1954年版讃美歌の288番です。賛美歌21では460番。ちょっと予告、次回からの4曲はクリスマスの讃美歌です。楽しみにお待ちください。さて、旅人の歌。信仰をもって生きてゆくことは、長い旅路を歩いてゆく旅人の姿に似ています。まず、1節と4節は双子の兄弟のようによく似ていますね。1節;「たえなる道しるべの光よ、家路もさだかならぬ闇夜に、さびしくさすらう身を導き行かせたまえ」。4節;「しるべとなりたまいし光よ、今よりなおも野路に山路に、闇夜の明けゆくまで導きゆかせたまえ」。「とても素敵な頼もしい道しるべの光」(119:97-112,ヨハネ福音書5:39-40)がある。それを私もこの手に掲げ持ち、その光に足元を明るく照らされながら歩いている、ああ本当に嬉しい、なんて心強いことかと噛みしめています。それが、私たちクリスチャンの生涯の姿です。足元を明るく照らし出す道しるべの光。それこそが希望と慰めの中身です。わが家と故郷はまだまだ遠い。それなのに日は暮れ、野道や山道を私は物淋しく心細く、トボトボさすらっている。そういう日々はあります。あなたにもこの僕自身にも。足腰弱り果てて、膝もガクガクしてきた。道端のちょっとした小石や凸凹に、よろけて倒れそうになる。そういう日々もあります。あなたにも、また他の誰にでも。けれどなお、主イエスご自身と主からの御言葉の光こそが頼みの綱であり、支えであると、この祈りの人は噛みしめています。
 さて、明るく輝く灯火のような、素敵な大きな人物たちが私たちの周囲にもいますね。信仰の世界でも、芸術や文化や学問や社会的な平和活動の分野でも、スポーツの世界でも。野球の好きな人々にとっては長島茂雄やイチローのような大選手。歌や芸能分野では、昔は美空ひばり、今はモーニングとかAKBなんとかとか。キリスト教の世界でもキング牧師、マザーテレサ、八重の桜、華岡青洲の妻、塩狩峠の青年。「こんなに素晴らしい信仰ですよ。ほらほら、見てください」とその素敵な彼らを私たちはキリスト教の宣伝材料に使おうとします。でも都合が良すぎますね。誇大広告にもなりかねない。「いいけど。でも確かあなたもクリスチャンでしたよね」「え、私ですかあ? いやいやいや、罪深くて愚かで小さくてふつつかで、あまりに恥ずかしいから私のことなんか見ないでください。もっぱら、マザーテレサやキング牧師のことばっかり注目してください」。えええ、それじゃあなんだかイカサマみたいだ。主イエスの時代には、明るく輝く灯火のその飛びっきりの代表選手は洗礼者ヨハネでした。「ヨハネは燃えて輝くともし火であった。あなたたちは、しばらくの間その光のもとで喜び楽しもうとした」(ヨハネ福音書5:35)と救い主イエスご自身が仰いました。ほんのつかの間、明るく輝いて見せる者たちがいる。次から次へと現れては消えて、私たちを慰めたり励ましたり喜ばせたり、勇気を与えてくれたりもするでしょう。けれどその人間的な光はやがて直ちに衰えてゆき、彼らは皆、薄暗がりの中へとあっという間に立ち去ってゆきます。私たちもそうです。ほんのつかのま明るく輝く、線香花火程度の光では全然足りない。キング牧師、マザーテレサ、八重の桜、華岡青洲の妻、塩狩峠の青年らを1つに合わせたほどの大きな輝きをほんの束の間、手にしたところで、けれど私たちは幸せにはなれません。救い主イエス・キリストご自身が仰った;「わたしこそが世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光をもつ」(ヨハネ福音書8:12参照)。テレサさんもキングさんもヨハネさんも光を分け与えることができません。この救い主イエスにならできる。だから主イエスを信じる人々もまた「あなたがたは世の光である。あなたがたの光を人々の前に輝かせなさい」(マタイ福音書5:14-16)とも約束されました。まことの光である主イエスを信じ、このお独りの方に聴き従って生きているし、その福音の光によって私たち自身の生き様や口から出る1つ1つの言葉も腹の思いも照らされつづけており、そのようにして、主イエスの福音の光を周囲の世界や人々に反射させることもできるから。主イエスの言葉と行いとを聞いて、信じた。それこそが、私たちが「世の光」「光の子」と呼ばれる中身であり、理由です。そうそう、もう1年分の放送メニューを組み立ててあるんですけど、来年の9月の終わり第51回目は子供讃美歌の「♪光の子になるため」を味わう予定です。賛美歌21-509番。子供讃美歌の121番;「1 光の子になるため付いて行きます。この世を照らすため来られた主イエスに。(くりかえし)主のうちに闇はなく、夜も昼も輝く。心の中をわが主よ、照らしてください。2 主の輝き見るため進み行きます。示された小道をみ神のみもとに。3 主のふたたび来る日を待ち望みます。信仰を守り抜き、み前に立つ日を」。この子供讃美歌を歌うたびに思います。ああ、そうだったのか。主イエスに付いてゆく。この主が私の心を照らして、暗がりに隠してあった心にも光を当てる。主の輝きを見るために進んでゆく。主を待ち望んでいるし、やがて主イエスの御前に立つ私だと。主イエスの明るく暖かな光をおすそ分けしていただきながら、私たちも、その同じ光の中を歩いてゆくことができる。それが神さまからの約束です。ね、素敵でしょ?
 2節を飛ばして先に3節;「あだなる世の栄えを喜び、誇りておのが道を歩みつ、虚しく過ぎにし日を、わが主よ、忘れたまえ」。この世界で高い地位や名声や財産や大きな栄誉を受けること。人々から誉められたり、感謝されたり、信頼を寄せられたりすること。人から誉められるだけでなく自分自身でも、まんざらでもない。「なかなかたいした人物だ。オレって」と。けれど、その自慢の種や誇りやプライドが自分自身の目をくらませ、歩んでいく足取りを危うくさせる。かけがえのない人生の時間を虚しく浪費させもする。こうした調子の指摘や警告はキリストの教会の中で繰り返し繰り返しなされつづける。伝道者たちがそのように語りかけるだけでなく、いくつもの讃美歌がそのように歌うだけでなく、やはり聖書自身が私たちにそれを警告しつづけます。これは、いったいどうしたわけでしょう。「クリスチャンは誇りやプライドを持ってはいけないんですか?」と度々文句を言われ、嫌な顔をされます。さあ、なんと答えることができるでしょう。聖書自身は、これについて何を語りかけるでしょう。高い地位や名声や大きな栄誉を受けること。人々から誉められたり、感謝されたり、信頼を寄せられたりすること。それらは良いものです。良いもので、とても魅力的なので、私たちの心を虜にしてしまいます。薬物依存症のように、それなしには生きていけない人間を作り出してしまいます。心の自由をすっかり奪ってしまう誘惑ともなります。分かりますか。どんな手を使ってでもそれを手に入れたくなるし、できなければあまりに惨めな虚しい気持ちになります。しかも『誇りやプライド』の中身は『これがあるから私は生きていける』という安心材料であり、頼みの綱です。腕が自慢の職人や料理人はその腕1本が生きてゆくための頼みの綱です。もし怪我でもして、その大切な腕が使えなくなったら、たちまち生活に困り始めます。お金が十分にあるし、銀行に預けてあるから安心だ。すると、その安心材料は直ちに不安材料ともなります。その銀行が倒産したらどうしよう。健康で元気でピンピンしているから安心。じゃあ病気になり年老いて働けなくなったらどうしよう。皆が好意をもってくれて色々助けてくれるから安心。すると、その人々から嫌われ見放されてしまったらどうしようか。もし、それが頼みの綱であり安心材料ならば、その人々から嫌われないように、皆から良く思われるように気をつけて、周囲の人々の顔色と空気を必死に読みつづけて生きていかねばなりません。うんざりするでしょ、息が詰まりますね。だから、「天に宝を積みなさい」と勧められました。ただ恵みによって救われたのだから誇りは取り除かれた。うぬぼれることも卑屈にいじけることも、あなたはもうしなくていいと教えられました。それでも、どうしても誇りたくて誇りたくて仕方がないなら、主なる神さまをこそ誇りなさい。それならいい。それ以外はやめておきなさいと(ローマ手紙3:21-28,コリント手紙(1)1:26-31)。そうすると歌の3節「わが主よ、忘れたまえ」。虚しい生き方をしてきましたが、それをジクジク叱ったり嫌味を言う神ではありません。それじゃあクリスチャンになって、誉められたりけなされたりして一喜一憂する虚しさや惨めさとキッパリ縁を切れたのかと問われるなら、どうです? そうでもない。いまだに、同じように、つまらないことでうぬぼれたりいじけたりしつづけている。忘れて、新しくなりたいのは、むしろ自分自身のほうです。それなら、「わが主よ忘れてください」ではなく、「主よ、私に、あの虚しい在り方を忘れさせてください。『誇る者は主をこそ誇れ』と聖書に書いてあるとおりの私になりたいのですと共々に願い求めたいのです。「世間的に見て繁栄している、豊かに満ち足りて快適に暮らしている、若くて体力もあり、健康で元気で、だから幸せ」と、信仰とは別の腹積りで、ずいぶん違う心得をもって歩いていた日々があり、そういう虚しい日々を思い起こす中で、この人はいっそう主への信頼を強めています。ああ。わたしは勘違いしていた。勘違いしながら、うぬぼれたり僻んだりしていた。けれど今は、この一筋の光こそが私の頼みの綱であると。
さて、2節。「行くすえ遠く見るを願わず、よろめくわが歩みを守りて、ひと足またひと足、導き行かせたまえ」。びっくりです。「ええ嘘ォ!」と誰もが驚くようなことを、この祈りの人は歌っています。「行くすえ遠く見ることを、私は願いません」と。5年後、10年後に、私がどうなっているか。私が死んだ後、愛する連れ合いや子供たち孫たちがどんなふうに生活を立てているか。困っていないだろうか、などと僕も気に病みます。それがどうでもいいというわけではありません。とても大切なことなんだけれど、だからこそ神さまにすっかりお任せして、それで安心、と晴々して歌っています。たとえ今、私の足腰や膝がガクガクヨロヨロしているとしても問題なし。このよろめく足を、私たちのおぼつかない危うい歩みを、けれど主こそが、ひと足、またひと足と導いてくださるなら。それなら安心だ。それなら心強い。ぜひそうしていただきたい。この1点をこそ願い、確信し、信頼し、感謝し、さらに願い求めています。
行くすえ遠く見るを願わず、よろめくわが歩みを守りて、ひと足またひと足、導き行かせたまえ。ここを歌う度毎に、びっくり驚かされます。ああ、そうだったそうだったと思い返します。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。一日分ずつの必要な糧、そこには今日一日の生命さえ含まれていたのでした。これもまた数ヶ月、数年分ずつではなく、一日また一日とただ恵みによって神さまから贈り与えられていたのです。神さまが決めておられる日が来て、「はい。ここまで」と言われるとき、私たちは「分かりました。今日までありがとうございました」と感謝を述べて立ち去ってゆくのです。それがいつなのか、いつまでなのかは私たちには知らされておりません。ずいぶん長く旅路を歩んできた私たちです。そうそう、別れを告げる長い説教の中でモーセは仲間たちに、「あなた自身のこれまでの歩みを振り返ってみよ」と語りかけました。「あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。この四十年の間、あなたのまとう着物は古びず、足がはれることもなかった」(申命記8:2-4)。ああ本当だ。喜びと感謝があふれます。






2020年6月22日月曜日

6/21こども説教「死んでよみがえる希望がある」使徒17:32-34


 6/21 こども説教 使徒行伝17:32-34
 『死んでよみがえる希望がある』

17:32 死人のよみがえりのことを聞くと、ある者たちはあざ笑い、またある者たちは、「この事については、いずれまた聞くことにする」と言った。33 こうして、パウロは彼らの中から出て行った。34 しかし、彼にしたがって信じた者も、幾人かあった。その中には、アレオパゴスの裁判人デオヌシオとダマリスという女、また、その他の人々もいた。
(使徒行伝17:32-34

 主イエスの弟子たちが神の国の福音を語り続けています。
 32節をもう一度、読みましょう。「死人のよみがえりのことを聞くと、ある者たちはあざ笑い、またある者たちは、「この事については、いずれまた聞くことにする」と言った」。それで、主イエスの弟子パウロは、いったんその場所から立ち去ってしまいます。
とくに、「死人のよみがえり」のことを聞いて、いろいろな受け止め方がされました。「いずれまた聞くことにする」というのは、どういう気持ちで言っているでしょう。「何月何日ごろに、ぜひ聞きたい」ということではなく、「もしちょうど良いチャンスがあれば聞いてみてもいいけど、今は聞きたくないし、聞かない」とその人は思っています。そんな馬鹿なことがあるものかとあざ笑う人たちがおり、「いずれまた聞く」と耳を塞ごうとする人たちもいました。けれど、それを聞いて信じた人たちもほんの何人かいました。今もそうです。死んだ人間がまたよみがえることなどあるはずがないと多くの人たちが思っているからです。しかも、この「死人のよみがえり」こそが、キリスト教の信仰の最も大切な中身です。(1)まず救い主イエスが神の約束のとおり、死んで、死人の中からよみがえりました。救い主だけではなく、主イエスを信じる私たちもまた、死んだ後でよみがえり、神の国に迎え入れられて神さまといっしょに新しい生命に生きることになっています。(2)しかも生きている間にも、神を信じる私たちは、自分勝手でわがままな悪い心や在り方を殺していただいて、神さまの御心に従った新しい生き方をはじめることができます(ローマ手紙6:1-18,8:1-13を参照のこと)。ここに、この信仰の生命と希望があります。


6/21「神の国はすでに来ている」ルカ11:14-26

                       みことば/2020,6,21(主日礼拝)  272
◎礼拝説教 ルカ福音書 11:14-26                      日本キリスト教会 上田教会
『神の国はすでに来ている』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
11:14 さて、イエスが悪霊を追い出しておられた。それは、物を言えなくする霊であった。悪霊が出て行くと、口のきけない人が物を言うようになったので、群衆は不思議に思った。15 その中のある人々が、「彼は悪霊のかしらベルゼブルによって、悪霊どもを追い出しているのだ」と言い、16 またほかの人々は、イエスを試みようとして、天からのしるしを求めた。17 しかしイエスは、彼らの思いを見抜いて言われた、「おおよそ国が内部で分裂すれば自滅してしまい、また家が分れ争えば倒れてしまう。18 そこでサタンも内部で分裂すれば、その国はどうして立ち行けよう。あなたがたはわたしがベルゼブルによって悪霊を追い出していると言うが、19 もしわたしがベルゼブルによって悪霊を追い出すとすれば、あなたがたの仲間はだれによって追い出すのであろうか。だから、彼らがあなたがたをさばく者となるであろう。20 しかし、わたしが神の指によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところにきたのである。21 強い人が十分に武装して自分の邸宅を守っている限り、その持ち物は安全である。22 しかし、もっと強い者が襲ってきて彼に打ち勝てば、その頼みにしていた武具を奪って、その分捕品を分けるのである。23 わたしの味方でない者は、わたしに反対するものであり、わたしと共に集めない者は、散らすものである。24 汚れた霊が人から出ると、休み場を求めて水の無い所を歩きまわるが、見つからないので、出てきた元の家に帰ろうと言って、25 帰って見ると、その家はそうじがしてある上、飾りつけがしてあった。26 そこでまた出て行って、自分以上に悪い他の七つの霊を引き連れてきて中にはいり、そこに住み込む。そうすると、その人の後の状態は初めよりももっと悪くなるのである」。   
                                    (ルカ福音書 11:14-26)

3:16 あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。17 もし人が、神の宮を破壊するなら、神はその人を滅ぼすであろう。なぜなら、神の宮は聖なるものであり、そして、あなたがたはその宮なのだからである。 (1コリント手紙3:16-17)


 まず14節です。救い主イエスは祈りの力とそれが神を信じて生きてゆくうえでどんなに重要であるのかを示しておられました。ここで、物を言えなくする悪霊から一人の人を救い出されました。私たちの口と舌は良く用いられることもあり、あるいは悪く用いられて私たちに過ちを犯させもします。「祈り求めるように」と励ます救い主は、同時に、ご自身に従って生きる私たちに及ぼうとする悪魔の力を打ち砕き、あの彼と私たちの舌を回復させ、神の御心にかなった良い目的のために用いることができるようにしてくださる主です。主なる神こそが口と耳と目を授け、それを私たちに用いさせます。
 15-20節。力ある大きな御業を見せつけられて、けれども救い主とその働きを受け入れたくないと思った人々は、「それは神の働きではなく、悪魔の働きではないか。悪魔自身の力で、その手下たちや悪霊どもを追い払っているのではないか」と言いがかりを付けようとします。20節。救い主イエスは仰います、「しかし、わたしが神の指によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところにきたのである」。神の指によって、神の御手によって、と聖書は語りかけます。あるいは神の腕が十分に長い。神の御翼の陰に私たちは保護され、守られているなどと。神の力がそのように具体的に現実的に発揮され、私たちに及んでいる。そのことを十分に理解し、はっきりと思い描くことができるようにと、このような言い方がなされつづけます。神ご自身の力が救い主イエスによって確かに発揮され、目の前にあらわされている。そうであるなら、神の国はすでに私たちのところにきたのである。だからこそ主イエスを信じて生きる私たちは、「神の国が来ますように。神の御心がこの地上でも成し遂げられますように。神の御名こそがあがめられ、たたえられ、信頼を寄せられますように」と願い求めつづけて生きるようにと命じられています。
 しかも、「神の国はすでにあなたがたのところにきたのである」と、とても強い口調で、断固として宣言されています。自分たちの国であり、自分たちの思い通りに何でもしていると私たちが思い込んでいるところに、あなたがた人間たちの国ではなく、神の国が来ていると。救い主の存在や働きを受け入れようとしない世界の只中に、神が来てくださり、先祖と私たちのための救いを準備し、先祖と私たちを罪と悲惨の中から解き放ってくださる方として現れました。膝を屈めて、救い主イエスとそのお働きを迎え入れなさいと。神の国の福音を宣べ伝えて最初におっしゃったときの言葉をはっきりと思い起こしましょう。「時は満ちた、神の国は近づいた。だから、悔い改めて、福音を信じなさい」(マルコ福音書1:15。神の力と権威と働きを一手に引き受けて、救い主イエスが地上に降り立ち、神の国の福音を宣べ伝えはじめました。やがて、ご自身の死と復活によって、救いの御業を成し遂げました。神の国が来たのです。自分自身とまわりにいる人間たちのことばかりに気を取られていた心の思いと在り方をグルリと180度、神へと向け返し、裏返して、そこでとうとう、この私たちや家族もまた神の国の福音を信じて生きることができるのです。
 さて最後の部分。21-26節、「強い人が十分に武装して自分の邸宅を守っている限り、その持ち物は安全である。しかし、もっと強い者が襲ってきて彼に打ち勝てば、その頼みにしていた武具を奪って、その分捕品を分けるのである。わたしの味方でない者は、わたしに反対するものであり、わたしと共に集めない者は、散らすものである。汚れた霊が人から出ると、休み場を求めて水の無い所を歩きまわるが、見つからないので、出てきた元の家に帰ろうと言って、帰って見ると、その家はそうじがしてある上、飾りつけがしてあった。そこでまた出て行って、自分以上に悪い他の七つの霊を引き連れてきて中にはいり、そこに住み込む。そうすると、その人の後の状態は初めよりももっと悪くなるのである」。強い人が十分に武装して自分の邸宅を守っている限り、その持ち物は安全である。このたとえは何を言い表し、私たちに何を警告しようとしているでしょうか。教えられてきたいくつかの聖書証言が、これらの言葉と響き合います。「神を信じて生きる私たちは、その一人一人が神の住まう家・宮・神殿とされている。その中に神が主人として住んでくださる」(1コリント手紙3:16-17参照)と約束されていました。つまり、神を信じて生きるようにしていただいた私たちそれぞれが、その一軒ずつの家です。その家とそこにある財産すべてを守って、そこに住んでおられる主人こそが神だということです。それなのに、「十分に武装して自分の邸宅を守っている限り、その持ち物は安全である。しかし、もっと強い者が襲ってきて彼に打ち勝てば、その頼みにしていた武具を奪って、その分捕品を分ける」と不吉な恐るべき光景が予告されていました。私たちを神が御自身の家となさり、そこに住んでいてくださる。家の主人である神さまが十分に武装して、その家を守る。さて、そうであるならば、家である私たちを安全に守っていくための神の武具や装備とは、いったい何でしょう。神に住んでいただく一軒一軒の家である私たちは、どのようにして安全に守られてゆくのか。「十分に武装して自分のその家を守っている限りは」安全である。そうではなく武器や戦いの装備が十分に用意されていなければ、他のものに奪い取られて、その私たちは無残で惨めな姿とされる。どういうことでしょう。1コリント手紙3:16-17でも、よく似た危うい状況が描き出されていました、「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。もし人が、神の宮を破壊するなら、神はその人を滅ぼすであろう。なぜなら、神の宮は聖なるものであり、そして、あなたがたはその宮なのだからである」。心を鎮めて、よくよく思い巡らせてみなければなりません。自分自身が神の家・宮・神殿とされ、そこに神が住んでくださる。そのことを教えられ、よく習い覚えてきたはずの私たちです。「あなたがたは~知らないのか?」と問いかけられるとき、もし万一、当然よく知っているはずのことを忘れているなら、とても困ったことになる。だから、知っているはずのことをはっきりと思い起こしなさいと命じられています。もし万一、思い起こすことが出来なければ、神の宮とされた幸いなその人々が、神の神殿である自分自身を壊してしまい、神によって滅ぼされてしまうこともありうるからと。緊急事態です。いったいどうやって、神の宮とされた自分自身を壊してしまうことができるというのか。それと、今日の箇所「強い人が十分に武装して自分の邸宅を守っている限り、その持ち物は安全である。しかし」という不吉な警告は似ています。もしかしたら、同じ一つのことが警告されているのでは。しかも、今日の箇所全体は祈りについての教えであり、神に祈り求めながらどのように生きることができるかという教えです。十分に強いはずの神の働きを、この私たち自身が邪魔して、弱くしてしまうことがありえます。私たち自身の不信仰、傲慢、人間中心の思いが。「だから神の恵みによって強くなりなさい。悪魔の力に抵抗してかたく立つために神の武具を身につけなさい」(エペソ手紙6:10-と励まされていました。
 分かりました。恵みに値しない罪人がなお神の憐みを受け、ゆるされて救われる。価なしに、ただ恵みによって、ただ救い主イエスを信じる信仰によってである。このことを知り、確信し、よく弁えていること。「神が味方であり、それゆえ他の何ものをも恐れなくてよい」と神に信頼を寄せ、聴き従い、幸いをすべての助けを神にこそ願い求めていること。日毎に悔い改め、神に感謝し、憐みの神へと立ち返る――、これらすべてがただ神から贈り与えられる信仰の武具であり、神ご自身の武具と武装である。また、それこそが家の主人である神が十分に武装してその家を守っている状況です。そうであるなら、その家は安全。もし、そうではないならば、キリスト教会としてもそれぞれの家族の営みとしても、私たちの家はかなり危うい。また別の聖書は証言しました、「ところが、主が言われた、『わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる』。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう」(エペソ手紙6:10-,2コリント手紙12:9-10。神の力が十分に発揮され、現わされるために、神に十分に信頼を寄せつづける私たちであることができます。なぜなら私たちは、とても強い主人に住んでいただいている一軒ずつの家であるからです。とうとう、はっきりと分かりました。この自分が何者であるのかをです。私は只独りの主人に仕える、あまりに貧しく愚かでふつつかなしもべに過ぎません。けれどなお、そのご主人さまはしもべを守り、支え、何があっても助けとおすことがおできになります。だからこそ、しもべであるこの私は、そこでようやく迷いも恐れも苛立ちや心細さも捨てて、両方の足を力一杯に踏んばって立つこともできます。すべての信頼を神さまに置いて、その御意思と御心に聞き従って、どこで何をしていてもそこでそのようにして神様に仕えて生きることができます。どんな苦しみや悩みや辛さの只中にあっても、そこで神様に呼ばわって、救いとすべての幸いを神の中に求めることができます(『ジュネーブ信仰問答』問7 J.カルヴァン)。そのとき、家の主人であられる強い神さまが、その御力を十分に発揮して、私たちを安全に堅固に守りとおしてくださるからです。そのとき神の恵みは、すでに私たちに十分であるからです。



2020年6月18日木曜日

われ弱くとも ♪信仰こそ旅路を


われ弱くとも。(お試しサンプル品 ③) 
♪ 信仰こそ旅路を     (讃美歌270)   

  こんばんは。讃美歌をごいっしょに読み味わっていきましょう。
 1954年版讃美歌の270番。賛美歌21では458番。読み比べましたがだいたい同じです、よかった。最初に国語の授業中みたいなことを少しだけやっておきます。『質問してるみたいで、本当は全然質問じゃない』お喋りを聞いたことがあるでしょ。「よお、あの弱っちいモヤシっ子に、この俺が負けるはずがあると思うか?」と力自慢のガキ大将が子分の子に喋りかけています。ね、質問してるみたいで、本当は全然質問じゃない。「まさかあ、そんなことあるはずないでしょ」と子分たちは口々にゴマすります。聞くまでもないことをわざわざ聞いて、念を押してるし、「オレ様って強いぜ」とはっきり印象づけて、断固として宣言しています。1節の3行目、4行目。「こころ勇ましく旅をつづけゆかん。この世の危うき恐るべしや」。世の中のいろいろな危険や災いを恐れるべきだろうか。形としては疑問形、けれどその心は疑問でも質問でもない。なにしろ神さまを信じて生きてるんだから、危険も災いもヘッチャラだと。3節の3行目も同じ要領です。なにしろ主イエスに従って歩んでいる。だから、どうして道に迷ったりするだろうか。なぜ疲れたりすることがあるだろうか。形としては疑問形、けれどその心は疑問でも質問でもない。迷うはずがない。ほんの少しも疲れるわけがないと。4節の2行目もまったく同じ。ふうん。こういう言い方が昔は流行ってて、皆がそういう言い方を真似したし、好きだったんですね。なにしろ信仰をわたしの杖として依り頼んでいる。これこそが頼みの綱だ。じゃあ、この信仰と切れ味鋭い剣と、どっちがより頼りになるか比べてみるべきだろうか。どっちがどれだけ心強いか、だれかに調べてもらったほうがいいだろうか。形としては疑問形、けれどその心は疑問でも質問でもない。
「バカ言うんじゃないよ。そんなの決まっているじゃないか」と。
 じゃあ、まず1節と3節をもう少し詳しく眺めてみましょう;「(1)信仰こそ旅路を導く杖。これこそが、弱い者を強くしてくれる力だ。だから心勇ましく信仰の旅を続けていこう。この世のどんな危険も災いも、神さまを信じて歩む私たちにとっては、恐れるに足りないではないか。(3)主イエスの御跡を辿って歩んでいくならば、けわしい山道も安らかな道になる。どうして道に迷うはずがあるか、なぜ疲れ果ててしまうことがあるだろう。いいや、あるはずもない。さあ、まっすぐに神さまのみもとへと近づいていこうじゃないか」。信仰こそ旅路を導く杖であり、弱い者を強くしてくれる力だ。そのとおり。例えば膝関節変形症にかかった人や重いパーキンソン症状に悩まされている人や足腰衰えて、ガクガクヨタヨタしながら歩いている人には、杖のありがたみがよく分かる。そうではない足腰丈夫で、力が有り余っていて、元気でピンピンしている人たちにはあまりよく分からない。だって自分が弱いなんて少しも思っていないし、杖なんかなくたって思う存分に歩き回っている。ただ、年老いれば分かるか、若ければ分からないかというとそうでもない。「あらまあ、若くて羨ましいわねえ。私なんておばあちゃんになっちゃって膝が痛くて」なんて物寂しそうにブツブツ言ってるおばあちゃんにはまだまだ百年かかっても分からないかも。イザヤ書40:29-31;「疲れた者に力を与え、勢いを失っている者に大きな力を与えられる。若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが、主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」。すっかり心挫け、疲れ果てている若者たちを見たことがありますか。働き盛りの中年や壮年たちも同じです。百戦錬磨の歴戦の勇士たちもバタバタと次々に倒れています。少しくらい若くて、多少の体力や気力があるくらいでは全然足りません。しかも私たちも1年また1年と年をとる。できていたことが1つまた1つとできなくなり、気力も体力も奪われてゆく。この困難な旅路をなお心強く歩みとおすためには杖が必要だと、ようやく私たちも気づきました。しかも、ちょっとやそっとのことでは折れたり曲がったりしない、とても丈夫な、格別な良い杖が必要です。主イエスを信じる信仰がそれだと、この旅人は目を凝らしています。
 質問してるみたいで、本当は全然質問じゃない。「恐るべしや」「いかで迷うべき」「などて疲るべき」「比ぶべしや」。念を押しているし、断固として言い立てているし、わざと強調している。でもクドクドとしつこいし、しつこすぎる。どうしてここまで「大丈夫、大丈夫。何の心配も恐れもない」とわざわざ言い立てるのか。念を押しつづけるのか。シャーロックホームズでなくたって、ピンと来ます。雲行きが怪しいからじゃないのかと。むしろ心が激しく揺さぶられて、恐れや心細さが沸き起こり、心の中をいつの間にかすっかり覆い尽くそうとしているからじゃないのかと。そのとおり。この人もまた、信仰の危機に直面しているのだと思えます。だからこそ必死に、自分で自分に言い聞かせているのではないのかと。
 歌の2節をご覧ください。「わが主イエスを私の頭でありボスだと仰ぎ見るならば、力の泉は湧き溢れつづけて尽きることがない。めぐみ深い主イエスの御傷を見ると、今にも消えかかってわずかに残っていた残り火がふたたび勢いよく燃え上がってくる」。とうとう発見しました。ここが別れ道です。力の泉がついに枯れ果ててしまうのか。くすぶっていた残り火がとうとう消えてしまうのか。あるいは、ふたたび勢いよく燃え上がりだすのか。今ここで何が起こっているのか、と目を凝らしましょう。1つは、主イエスを私の頭でありボスだと仰ぎ見たこと。もう1つは、主イエスの御傷をはっきりと見たこと。信仰と生命が回復してゆくきっかけは、この2つです。気づいてもらおうとして、その目印代わりに、同じ言い方が2度繰り返されました。『~したら、すると~になった』。仰ぎ見たら、湧き溢れてきた。御傷を見たら、残り火が燃え上がってきた。つまりそれまでは、主イエスをボスだとは思っていなかったし、仰ぎ見てもいなかった。それで、力の泉は今にも枯れそうになっていた。主イエスの御傷とは、もちろん十字架の上で刻みつけられた傷です。槍で差し貫かれた脇腹の刺し傷。てのひらの釘跡。あざけり笑うために被せられたいばらの冠が頭の皮膚を破って、そこから流れ出る血潮。鞭打たれた数多くの傷。それら十字架上で殺されていこうとする主の御傷は主イエスの恵み深さを私に指し示している。じっと目を凝らして見つめているうちに、くすぶって消えかけていた火がまた私の内部でメラメラと燃え上がってくる。主イエスを信じる信仰の炎です。
 十字架の主イエスを仰ぎ見る讃美歌はいくつもあって、それらをつづけて読み味わっていくと、そこにあるはっきりした共通点に気づかされます。このあとしばらくして放送で取り上げますが、例えば、(142,21-297)「♪栄えの主イエスの」は、十字架の主イエスを仰ぎながら不思議な感覚に捕らわれています。「さあ、見てごらん。茨の冠を被せられた主の頭から、手や足からも、恵みと悲しみがないまぜになって、こもごも流れ落ちてくる。恵みと悲しみがひとつに溶け合って、茨は眩しいほどの冠となって輝いて見える」。流れ落ちてくるものは主イエスの真っ赤な血潮です。それがこの人の目には、『恵みと悲しみが混ぜ合わされたもの』として見てている。また、「♪両手いっぱいの愛」という新しい子供讃美歌は、祈りの中で少年が主イエスとやりとりをしつづけます。「イエスさま、ぼくをどれくらい愛してくれているんですか、このくらい、それともこのくらいですか」と手をひろげてみせながら問いかける。イエスさまは黙っていたり、ただニコニコ微笑むだけでなかなか答えをくれない。けれどある日、とうとう彼は主イエスからのはっきりした答えを受け取ります。手を大きく広げて、「君のことをこれくらい愛している」。それは十字架にかかった姿でした。少年は、ようやくすっかり分かりました。ぼくを愛してくれた救い主イエスはそのために十字架にかかってくださった。それほどの、愛の大きさだった。「ごめんね、ありがとう、イエスさま。ごめんね、ありがとう、イエスさま」(21-297,プレーズワールド13)。この2つの讃美歌はよく似ているし、響きあっています。恵みと悲しみという相反する感情があふれます。少年もまた、「ごめんね、ありがとう、イエスさま」と。これこそ、十字架の主イエスの前に据え置かれたクリスチャンの中に燃え上がってくる信仰の炎の中身です。恵みと悲しみ。そして、ごめんね、ありがとう。
 この2節の分かれ道を、私たちは何度も何度もくぐり抜けます。力の泉が枯れてしまいそうになり、信仰の炎もくすぶって小さく弱まり、消えてしまいそうになる。主イエスを私のボスと仰いで、目を凝らしていたはずなのに。十字架の主イエスの引き裂かれた体と流し尽くされた尊い血潮に目を凝らしていたはずなのに。いつの間にか、他のことに気を紛らわせていた。だから力も平和も信仰そのものさえくすぶって小さく弱まり、今にも消えてなくなりそうになっていた。主の弟子は、私たちの目を覚まさせようとして、こう語りかけます;「ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか。あなたがたに一つだけ確かめたい。あなたがたが"霊"を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか。あなたがたは、それほど物分かりが悪く、"霊"によって始めたのに、肉によって仕上げようとするのですか。あれほどのことを体験したのは、無駄だったのですか。無駄であったはずはないでしょうに……。あなたがたに"霊"を授け、また、あなたがたの間で奇跡を行われる方は、あなたがたが律法を行ったから、そうなさるのでしょうか。それとも、あなたがたが福音を聞いて信じたからですか」(ガラテヤ手紙3:1-5)。惑わされないために、力と生命の泉を涸らしてしまわないために、信仰の灯火が消えてしまわないために、だからこそ私たちには1回1回の礼拝があり、聖書があり、讃美の歌があります。そのようにして私たちの目の前に、イエス・キリストが示されつづけます。十字架につけられた姿で、はっきりと。
 4節の後半2行も、ここまでくればすっかり分かります。「代々の聖徒らを強く生かしつづけてきた聖霊なる神さまを、どうかこの私にも贈り与えてください」。死をも恐れず、立ちふさがるどんな困難にも試練にも打倒されず、強く雄々しく生き抜いたおびただしい数の聖徒たちがいた。聖書の中にも外にも、私たちのごく身近にも。確かにそうです。けれど、その実態は何でしょうか? 格別に秀でた、高潔で信仰深い、強く雄々しい、ご立派な方々がいたと。人間中心の、人間のことばかり考えて神を思う暇が少しもない心の曇りが私たちの目と心をくらませます。ノア、アブラハム、モーセ、ダビデ、ソロモン、預言者エリヤ、主の弟子ペトロ、パウロ、マルティン・ルター、キング牧師、マザーテレサ、その他いろいろ。彼らは元々デキが違う。神さまからの格別な、特別仕立ての恵みを受けたのだし、我々下々のものとは毛並みも血筋もまったく違うと。いいえ、まさか。讃美歌が歌うとおり、聖書が証言するとおりです。聖霊なる神さまこそが、ただただ恵みによって、彼らを強く生きさせてくださった。彼らを支えつづけた。素敵でご立派な人々がいたのではなくて、ただただ恵み深く素敵な神さまがいてくださる。本当のことです。もし、それが理解できるならば、この私たちも直ちに願い求めましょう。「私にも、その同じ聖霊なる神さまを贈り与えてください」と。もし願うならば、その願いはかなえられます。

2020年6月16日火曜日

6/14こども説教「神が悔い改めを命じている」使徒17:28-31


 6/14 こども説教 使徒行伝17:28-31
 『神が悔い改めを命じている』

17:28 われわれは神のうちに生き、動き、存在しているからである。あなたがたのある詩人たちも言ったように、『われわれも、確かにその子孫である』。29 このように、われわれは神の子孫なのであるから、神たる者を、人間の技巧や空想で金や銀や石などに彫り付けたものと同じと、見なすべきではない。30 神は、このような無知の時代を、これまでは見過ごしにされていたが、今はどこにおる人でも、みな悔い改めなければならないことを命じておられる。31 神は、義をもってこの世界をさばくためその日を定め、お選びになったかたによってそれをなし遂げようとされている。すなわち、このかたを死人の中からよみがえらせ、その確証をすべての人に示されたのである」。     (使徒行伝17:28-31

 救い主イエスの弟子が、神の国の福音を語り続けています――
 天と地とその中にあるすべてのものを、神がお造りになった。「私たちは神の子孫だ」29節)というのは、この私たちもまた、神によって造られたものの一つだという意味です。31節を読みましょう、「神は、義をもってこの世界をさばくためその日を定め、お選びになったかたによってそれをなし遂げようとされている。すなわち、このかたを死人の中からよみがえらせ、その確証をすべての人に示されたのである」。この世界のすべてを造った神が、この世界とすべてのものたちのための救いと祝福をすっかり成し遂げる日が来ます。その日には、神のただしさによってこの世界とすべてのものたちを裁きます。死人の中からよみがえらされたかた、救い主イエス・キリストによって、この裁きと祝福とが成し遂げられます。だからこそ、どこにいる誰でも、みな悔い改めて神へと立ち返り、神を信じて生きはじめるようにと命じられます。



6/14「求めなさい。捜しなさい。門をたたきなさい」ルカ11:9-13


                       みことば/2020,6,14(主日礼拝)  271
◎礼拝説教 ルカ福音書 11:9-13                         日本キリスト教会 上田教会
『求めなさい。捜しなさい。
 門をたたきなさい』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
 11:9 そこでわたしはあなたがたに言う。求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。10 すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。11 あなたがたのうちで、父であるものは、その子が魚を求めるのに、魚の代りにへびを与えるだろうか。12 卵を求めるのに、さそりを与えるだろうか。13 このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天の父はなおさら、求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか」。      (ルカ福音書 11:9-13)
先週(ルカ11:5-8は、正反対のように聞こえるかもしれないことを話しました。たしかに、①諦めずに、しきりに願い求めつづけることもとても大切です。また同時に、②とても心優しい親切な思いやり深い神さまであり、必要なものをちゃんと十分に分け与えてくださるとよく分かっていて、安心していることも、それに負けず劣らずとても大切です。神さまにしきりに願いつづけることと、安心して神さまによく信頼していること。正反対に見えるこの二つは一組であり、この二つが両方ともとても大切です。そこで今日は、神に十分に信頼すべきだし、そうすることができるわけをお話しします。

 9-10節。「そこで私はあなたがたに言う。求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門を叩け、そうすれば開けてもらえるであろう。すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門を叩く者はあけてもらえるからである」。何のことでしょう。聖書が指し示す神さまについてこそ語り、神に祈り求めつつ生きてゆくことの本質について、ここで語られています。「求めなさい。そうしさえすれば、誰でも分け隔てなく、きっと必ず与えられる」。この私たちに対する、神さまからの約束です。不思議なことに、直前の5-8節の勧めとは違って、ここではもはや「しつこく求めなさい」とは命じられていません。「ていねいに根気強く、必死に真剣に捜せ」とか「ドアが壊れるほど、手が傷ついて血が吹き出すほどに門を叩きつづけよ」などとは命じられていません。そうではなく、誰でも求めさえすれば、きっと必ず与えられる。なぜなのか。捜しさえすれば見つかる。なぜか。門を叩きさえすれば、ドアは広く開かれて、あなたはきっと必ず迎え入れてもらえる。なぜか。求める者は受け取る。捜す者は見つけ出す。門を叩く者には、必ずきっとドアが開かれ、迎え入れられる。どこの誰であっても、どんな生い立ちのどんな暮らしぶりの何をしているどんな人であっても、なんの差別も区別もなく無条件でそうしてもらえる。
 11-13節。「あなたがたのうちで、父であるものは、その子が魚を求めるのに、魚の代りにへびを与えるだろうか。12 卵を求めるのに、さそりを与えるだろうか。13 このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天の父はなおさら」。神さまの側に、その理由があったのです。どんな神さまなのかを知らせようとして、その参考例として、ここで人間の親子の関わり方が述べられます。もちろん現実には、様々な親がおり、多種多様の親子関係がありえます。「あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には。天の父はなおさら」と少し辛口で皮肉っぽく告げられて、正直な所、私たちの心は痛みます。だって、子どもの親ですから。あなたの父さん母さんはどんな親だったでしょう。もしあなたに子供がいるとすれば、あなた自身は、どんな親でしょうか。けれど、ここでは、私たち人間の親子関係を参考にしながら、なお神さまご自身と私たちのことをこそ思い巡らすのです。たとえ未熟で独りよがりでとても悪い親であったとしても、なんとかして、せめて自分の子供には良い物を与えたいと心から願う。それが親の心です。まして、私たちの親であってくださる真実な神さまは、子供である私たちに良い物をきっと必ず与えてくださる。なぜそうなのかと言えば、喜びと辛さを分かち合って共々に生きてきた自分の子供だからです。どんな子供か、「親の言うことをよく聞き、手伝いをし、ほがらかに挨拶ができる素直な明るい良い子だから」というのではなく、よく聞いても聞かなくても、手伝いをしてもしなくても、たとえブスッとふて腐れていても、なんだかすねて僻みっぽくても、素直でもあまり素直でなくても、そんなこととは何の関係もなしに なにしろ自分の子供なので。神さまは、そのように、私たちをご自分の大切な子供として取り扱ってくださる(申命記8:5,ルカ福音書15:20-24,ローマ8:14-16,ガラテヤ4:5-7)
 あなたにぜひ与えようとして、すでに天の父は準備万端でありつづける。あなたに見つけ出させようとして、天の父は、救いへと至る道と、神を知る真理と、朽ちない生命を用意し、あなたの鼻先に差し出して、「さあ、どうぞ」と準備万端なのです。あなたが神の国に至る門をノックするのを、今か今かと、ワクワクしながら待ち構えて、天の父はすでに準備万端なのです。この人も求めてくれればいいのに。この人も、ほんのちょっと顔をあげて見回し、捜してみればいいのに。門の前に立ち止まってノックをしてみようかという気になってくれればいいのに。一歩踏み出して、玄関の中に入ってみればいいのに。「あなたにも、ぜひ求めてほしい」と天の父は心から願っておられます。探してもらいたい。ぜひ、あの人にもあの人にも、門を叩いてみる気になってもらいたいと。求めてくれさえすれば、すぐにでも与えられる。ほんのちょっと捜してみるだけで、誰でもすぐに見つけることのできる場所に置き、教会の屋根の上にも、どこの誰が見てもそれとすぐ分かるような、白い十字の、はっきりとした目印が掲げられてある。その門は、小鳥の羽根のように軽い。体の弱った病人でも簡単に通ることができるように、赤ちゃんが小さな指先で軽々と押し開けることができるように、それくらいフワリと軽やかに作ってあります。本当です。どうぞ、まず一回試してみてください。
 「求めなさい。捜しなさい。門を叩きなさい」と私たちに語りかける神さまは、私たちにぜひそれをしてもらいたいと渇望しておられる。もし、《求めてほしい。捜してほしい。門を叩いてほしい》と私たちに願っているのでしたら、じゃあ、その神さまご自身は、いったい何をなさるでしょうか。――神ご自身こそが私たちを求め、私たちを捜し、私たちの魂の門を叩くのではありませんか。いいえ、現に神さまは求めつづけ、捜しつづけ、私たちの魂の門を叩き続けてこられたのでした。与えられたい。見つけ出したい。門を開けて、中に入れてもらいたい。それは実は、神ご自身のための願いだったのです。私たちを捜し求めるあまり、神は近づいて来られました。どんどんどんどん近づいて来られました。身をかがめ、低く低くくだって、私たちの低く貧しい生活の只中へ降りてきてくださった。神であられることのその身分も尊厳もご自分の生命さえ取るに足りないものとし、無にし、すっかり投げ捨ててくださった(ピリピ手紙2:6-)。そのように私たちを求め、私たちを探し、私たちの門を叩きつづけてくださった。私たちの主なる神さまは、こういう神さまです。救い主イエスは十字架の上で死んで、その三日目に復活してくださった。それは、あなたのための支払いでした。今もこの独りのお方があなたの家の門を叩くのです(黙示録3:21)。「あなたのためにさえ、罪のゆるしと救いのための代価が十分に支払われ、すべてすっかり支払われてある。だから、あなたは」と。あなたの救いのためにも神様の側で、すでにあまりに高い代償が支払われてある。こうして、《求めよ。捜せ。門を叩け》という祈りの教えは、信仰をもって私たちが生きることの教えであり、生きることそのものについての主ご自身からの教えです。
 13節の「聖霊の贈り物」はやや分かりにくく、説明が必要です。たとえどんなに悪い身勝手な親であっても、自分の子供には良い贈り物をすることを知っている。まして天の父はなおさら、求めてくるものに聖霊を下さらないことがあろうか。いいえ、必ず贈り与えてくださる。親が子にぜひ与えたいと願うはずの精一杯の良い贈り物よりも、なおさら良い贈り物を神ご自身が私たちのために用意し、差し出そうとしていてくださる。それが、聖霊の贈り物である。聖霊なる神は、救い主イエスがどんなかたであり、何をしてくださるのかを私たちに教え、救い主イエスを私たちに信じさせてくださる。そのようにして神の御心にかなった歩みができるように私たちを導き、私たちを成長させてくださる(ヨハネ福音書14:25-26,15:26,ローマ手紙8:2-17,1コリント手紙12:3,1ヨハネ手紙4:1-3。これこそが、神からの格別に良い贈り物の中身です。だからこそ、主イエス・キリストの恵みと平和を私たちは求めることができ、きっと必ず与えられる。捜しさえすれば、きっと見出し、きっと必ず受け取る。毎日のごく普通の生活の只中で、朝も昼も晩も、主なる神さまご自身の慈しみと真実を捜して見つけ出せる。そうであるなら私たちも、「天におられます私たちの父なる神さま」と呼ばわりながら、期待に胸を弾ませ晴々として門を叩きましょう。コンコン、コンコンと。主への感謝と信頼と願いの中に、主イエスの恵みの真っ只中に生きる私たちであらせてくださいと。なんという恵み、なんという幸いでしょう。



    【補足/神に十分に信頼できるために知るべきこと】

     誰がどのようにして救われるのか? 聖書は、「救い主イエスを信じる人々がその信仰によって」と、「すべては信仰によるのであって、それは恵みによる」と、また「価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされ、救われる」と証言します。つまり、良い行いによってではなく、救い主イエスを信じる信仰を通して、ただ恵みによって救われる。救いに値しない罪人が、にもかかわらず神の憐みを受け、罪をゆるされて救われる(ヨハネ福音書3:16,ローマ手紙3:22-26,4:16,5:6-11,1ペテロ手紙2:10,1テモテ手紙1:15。このことを十分に知ることが出来て、そこでようやく神に十分に信頼して生きる私たちとされます。およそ500年前の信仰問答(『ジュネーブ信仰問答』問8-14 Jカルヴァン 1543年)も、このことを説き明かそうとします――

 第一に大切なことは「私たちは神にまったく信頼する」ことと言い、そのためには、「まず、神が全能であり、完全に善意でありたもうことを知る」ことと説き明かす。けれど、それだけでは決して十分ではないとして、いよいよ神の愛の本質が説き明かされる。以下、
 11 どうしてですか。 
 答 神が御力の助けをお与えくださり、慈しみを注いでくださることに対して、私たちは価しないからです。

 12 では、そのほかに必要なことは何ですか。
 答 神が私たちを愛していたもうこと、また私たちの父となり救い主となってくださる御心を、確信することです。

 13 そのことを、私たちはどのようにして知るのでしょうか。
 答 神の御言葉によってです。御言葉によって神はイエス・キリストにある憐みを宣言し、私たちに対する慈愛を保証してくださるのです。

 14 したがって、神に対する真の信頼の基礎は、救い主イエス・キリストのうちに神を認識することです。
 答 本当にそうです。

   ⇒これらのことを語り終えると、イエスは天を見あげて言われた、「父よ、時がきました。あなたの子があなたの栄光をあらわすように、子の栄光をあらわして下さい。あなたは、子に賜わったすべての者に、永遠の命を授けさせるため、万民を支配する権威を子にお与えになったのですから。永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります(ヨハネ福音書17:1-3




2020年6月10日水曜日

われ弱くとも ♪我ら主をたたえまし


 われ弱くとも
 ♪我ら主をたたえまし 
 (お試しサンプル② 讃美歌6番) 

  こんばんは。讃美歌をごいっしょに読み味わっていきましょう。その前にまず、皆さんに謝ります。ほとんどの讃美歌集は普段使っている現代語じゃなく、「我と汝」「たたえまし」「あがめばや」みたいな文語や古典の言葉でできています。今時、文語訳聖書を使って礼拝をしている教会はどこにもないはずなのに、けれど讃美歌集は現代の日常的な言葉になりそこねました。若い人たちも安心して使えるような現代の普通の口語文を目指したはずの賛美歌21さえ、結局は、あちこちで古い言葉と新しい言葉のゴチャマゼみたいな、中途半端なことをしています。どうか許してください。皆が皆、国語や古文が好きで得意というわけじゃないのに。それで仕方なしに、国語の授業みたいな説明を折々に挟みます。言葉の意味をいっしょに味わうためです。若い人たちや国語の苦手な人たちには本当に申し訳ありません。少し我慢して付き合ってくださると嬉しいです。
 さて、讃美歌6番「我ら主をたたえまし」;「(1)我ら主をたたえまし、きよき御名あがめばや、来る日ごと誉め歌わん。神にまし王にます。主のみいつ類いなし。(2)世は世へと歌いつぎ、喜びと畏れもて、主のくしき業を告げ、慈しみ知れる者、み栄えを誉め歌う。(3)み恵みは限りなく、主に頼る子らにあり。み怒りを忍びつつ、憐れみをたれたもう。主を愛し、主に仕えん」。実は、歌いはじめから雲行きが怪しい。神さまを信じるこの人たちは心細い思いを噛みしめ、崖っぷちに立たされています。「さあ皆で、主をたたえようじゃないか」と威勢良く励ましているわけじゃない。「たたえまし」「あがめばや」(=反実仮想,または実現可能性の低い願望の意味)はとても弱気な言葉使いで、「たたえることが出来たらいいんだけど、どうかなあ無理だなあ」とか、「もしできることなら神さまを崇めたり讃美したいんだけれども」って、心が挫けそうになっています。あるいは、「この私こそは神さまを讚美しよう、神さまにこそ信頼しよう、わかったね。ほらほら」と自分で自分に懸命に言い聞かせている。だからこそ、とてもリアルで現実的な祈りなのです。
  歌の心を知るための1つの手がかりは聖書自身です。楽譜や、あるいは歌詞の右下に、いつも小さく聖書箇所が記されています。それらの聖書箇所から溢れ出てきた歌ですし、歌を味わいながら折々にこれらの聖書箇所へも立ち戻っていきます。詩18編は、悩みや苦しみからすっかり救い出されて、それから晴れ晴れして「神様ありがとう。助かりました」などと讃美しているわけじゃない。むしろ、苦しみと悩みの真っ只中に置かれて呻いています。くじけそうな心を必死に励まそうとしています。助けを求めて、神さまに呼ばわり、神さまにこそしがみつこうとしています。神さまを讃美することの本質はここにあります。例えば、ピリピ手紙4:4は「常に喜びなさい。いつも喜んでいなさい」などと奇妙なことを言っています。なんですか、それは。もし本気でこの言葉を聞こうとするなら、私たちは立ちすくんでしまいます。いつでも何があっても喜んでいて、どんなときにも神様に信頼したり感謝したりしている。それがクリスチャンだと言うなら、「失礼しました」と直ちに荷物をまとめて逃げ帰ってしまいたくなります。ときどき喜ぶことならできます。でも「常にいつも」と言うのです。嬉しいときや順風の日々にというのではなく、悩みや苦しみや痛みの日々にも「常にいつも」と。「辛くても苦しくても無理にもニコニコして、喜んでいるふりをしろ」というわけではありません。やせ我慢や体裁を取り繕うことでもありません。いつも喜べ。『いつも常に』とは、過ぎ去っていかない、色あせず、失われない喜びと確かさの只中を生きよと命じられているのです。それは直ちに『喜びの根源』について語っています。それをこそ指し示しています。主において、主にあって、主の慈しみの御手の内にあって、そこであなたは自分が主の内にあることをこそ喜べ。それは、『主によって生きる』ことの回復であり、喜ぶことの中身は主への感謝であり、主への信頼であり、主ご自身に対する確信です。さらに言うならば、喜びも確かさも見失ってしまったあなたは、喜びの源である方の御前へと大慌てで駆け戻って来いと招いています。キリストの福音とキリストご自身のもとへと立ち戻って来なさい。いつの間にか喜ぶことも感謝することも、祈ることも聴くことさえ見失ってしまった、自分がいったい何者であり、どこから来て、どこへと向かおうとしているのか、どなたに道を伴われて歩いているのかもすっかり分からなくなってしまったあなたは、そのあなたこそは、大慌てで、主の憐れみとゆるしのもとへと必死に駆け戻って来なさい。
  「主なる神さまを、この私もたたえることが出来たらいいんだけど、どうかなあ、無理だなあ」とか。「もしできることなら神さまを崇めたり、讃美したい。けれども」。心が挫けそうになりながら、弱りはてながら、すっかり諦めてしまいそうになりながら、必死に自分に言い聞かせている。「この私こそは神さまを讚美しよう、神さまにこそ信頼しよう、わかったね。ほらほら」と。自分自身の弱さや危うさをこの人はよく知っている。しかも、神さまを信じる信仰さえも揺さぶられ、脅かされている。崖っぷちです。神さまを信じて生きるほか、この自分には生きる道がないこともよくよく分かっている。その崖っぷちで、必死になって神さまにしがみつこうとしている。2節で、「主のすばらしい御業を告げ知らせよう」「神さまの栄光を誉めたたえよう」と呼びかけていますが、けれどもう、「誰でもみんな」とは呼びかけていません。誰にでもできることじゃなかった。ただ、「神さまの慈しみを知っている者たちは。そのあなたたちこそは」と呼びかけています。3節でも、はっきりと「主に頼る子供たちには、ある」と断言しています。「神さまは分け隔てをなさらない」と言いつづけてきました。分け隔てをし、区別や差別をしあっているのはもっぱら私たち人間のほうだと。神さまの恵みと憐れみは限りない。無尽蔵に溢れ出て、どこの誰にもたっぷりと注がれつづけます。神さまの忍耐もそのように誰に対しても注がれる。ではなぜ、それらの神さまの恵や憐れみや忍耐が「主に頼る子供たちには、ある。頼らない者たちには、ない」と言うのか。恵み、憐れみ、祝福、幸い、神さまからのさまざまな良い贈り物。それらは『やりとり』だからです。『はいどうぞ』と差し出される。『ありがとう』と受け取る。それで、受け渡しが完了します。分かりますか。分け隔ても差別も区別もなさらない神さまは、誰にでも『はいどうぞ』と贈り物を差し出しつづけます。何の区別も条件もなしに。けれど、知らんぷりしてそっぽを向いていたら受け取り損ねます。『あ。私なんかがもらっていいんですか。本当ですか。わあ嬉しい』と受け取って、そこではじめてその贈り物はその人のものになります。「主に頼る子供たちには、ある。頼らない者たちには、ない」。宅急便の不在通知がお宅の郵便受けに山ほど溜まっているみたいなもんです。それでは受け取ったことにならないし、嬉しくもなんともない。不在通知に気づいて、「届けてください。待ってますから」と電話して、受け取って、ダンボール箱の中身を見て、手にとって、「うおおお」。これで、やっと受け取り完了です。
  楽譜の右下に小さく記してあった詩18編。苦しみと悩みの只中で、心が折れそうになりながら、あの人は必死に思い起こしていました。神さまがどんな神さまだったか。これまでどんなよいことをしていただいたのかと。受け取ってきた恵みと憐れみを思い起こし、1つまた1つと数え上げていました。あのときもそうだった。あのときもそうだった。あのときもそうだったと。読んでみて驚きますが、詩編は神さまを讚美しているばかりじゃなくて、むしろ心挫けていたり、ウジウジしたり、神さまに向かって「いつまで放っておくんですか。私のことを忘れちゃったんですか。早く助けに来てくださいよ」と文句を言ったり、嘆いたり、たびたび神さまに喰ってかかったりしています。嘆きの歌があまりに多い。「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜ私をお見捨てになるのか。なぜ私を遠く離れ、救おうとせず、呻きも言葉も聞いてくださらないのか」(22:1-2)などと。けれど嘆きも、ただ嘆くばかりでは終わらない。嘆きは希望と感謝へと変えられていきます。涙は喜びへと、神への信頼へと。なぜでしょう。なぜなら、決して見捨てない神さまがおられるからです。耳を傾け、目を凝らし、どんどんどんどん近づいてきてくださる神さまがいてくださるからです。「わたしの神よ、なぜ私をお見捨てになるのか」と深く嘆いた詩22編も直ちに、「わたしたちの先祖はあなたに依り頼み、依り頼んで、救われてきた。助けを求めてあなたに叫び、救い出され、あなたに依り頼んで、裏切られたことはない」と。だからこそ深い嘆きで始まったはずのあの歌も、喜びと感謝と、あふれる希望をもって歌い終わります。
  この人も、また私たちも、深い悩みの只中に据え置かれます。たびたびそうです。「主なる神さまを、この私も讃美することが出来たらいいんだけど、どうかなあ、無理だなあ」とか。「もしできることなら神さまを崇めたり、讃美したい。けれども」。心が挫けそうになります。弱りはてて、すっかり諦めてしまいそうになります。だからこそ、この自分自身が受け取ってきた主の慈しみを思い起こそうとしています。詩編18:26もそうですが、詩編はたびたび『主の慈しみに生きる人』と繰り返していました。その度に、「ああ、そうか。そうだった。クリスチャンは主の慈しみに生きる人だった。うっかり忘れていたけど、この私もそのはずだった」と。神さまを讚美するのは簡単でしょうか、難しいでしょうか。誰にでもできるでしょうか、滅多にできないでしょうか。神さまに対しても「まあ、すばらしいわね」と口先だけのお愛想を言うくらいしかできないでしょうか。それとも、心から本気で誉めたたえたり、感謝したり、一途に信頼を寄せたりもできるでしょうか。他の人たちのことはもうどうでもいいんです。あなた自身の問題だし、この僕自身の問題です。それは、ただただ「主の慈しみを自分自身のこととして知っているかどうか」に掛かっています。知っているなら、誰にでもできる。知らないなら、できない。神さまからの恵みと憐れみを確かに受け取って、それをその手に、今でもちゃんとガッチリ握りしめているのかどうか。手に持ってあるのか、ないのか。主の慈しみを知り、その慈しみの只中を生きる私でありたい。ぜひそうありたい。だからこそ、神さまを讚美したいのです。朝も昼も晩も、本気で、心の底から。例えば詩編103編も、讃美の心を歌っています;「わたしの魂よ、主をたたえよ。わたしの内にあるものはこぞって聖なる御名をたたえよ。わたしの魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。主はお前の罪をことごとく赦し、病をすべて癒し、命を墓から贖い出してくださる。慈しみと憐れみの冠を授け長らえる限り良いものに満ち足らせ、鷲のような若さを新たにしてくださる」。祈りましょう。