みことば/2020,6,28(主日礼拝) № 273
◎礼拝説教 ルカ福音書 11:27-28 日本キリスト教会 上田教会
『神の言葉を聞いて、それを守る人たち』
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC)
11:27 イエスがこう話しておられるとき、群衆の中からひとりの女が声を張りあげて言った、「あなたを宿した胎、あなたが吸われた乳房は、なんとめぐまれていることでしょう」。28 しかしイエスは言われた、「いや、めぐまれているのは、むしろ、神の言を聞いてそれを守る人たちである」。 (ルカ福音書 11:27-28)
6:3 それとも、あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。4 すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。5 もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。6 わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。7 それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである。8 もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる。9 キリストは死人の中からよみがえらされて、もはや死ぬことがなく、死はもはや彼を支配しないことを、知っているからである。10 なぜなら、キリストが死んだのは、ただ一度罪に対して死んだのであり、キリストが生きるのは、神に生きるのだからである。11 このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである。……16 あなたがたは知らないのか。あなたがた自身が、だれかの僕になって服従するなら、あなたがたは自分の服従するその者の僕であって、死に至る罪の僕ともなり、あるいは、義にいたる従順の僕ともなるのである。17 しかし、神は感謝すべきかな。あなたがたは罪の僕であったが、伝えられた教の基準に心から服従して、18 罪から解放され、義の僕となった。 (ローマ手紙 6:3-18)
救い主イエスは、神の国の福音について語りかけつづけておられます。聖書の神さまを信じて生きる者たちが、どのように生きて死ぬことができるのか。隣人や職場の同僚や自分の大切な家族との、普段のいつもの付き合い方をどうすることができるか。毎日の暮らしをどう建てあげてゆくことができるのかという根本問題について。つまりは、神からの福音と律法の本質と生命についてです。27-28節、「イエスがこう話しておられるとき、群衆の中からひとりの女が声を張りあげて言った、『あなたを宿した胎、あなたが吸われた乳房は、なんとめぐまれていることでしょう』。しかしイエスは言われた、『いや、めぐまれているのは、むしろ、神の言を聞いてそれを守る人たちである』」。
救い主イエスは神でありながら、生身の肉体を取ってこの地上に降り立ち、人間となってくださいました。恵みに値しない罪人である私たちを罪から救い、神の子供たちとして迎え入れてくださるためにです。そのように生身の人間として生まれ育った際に、救い主イエスを生み育てた母親のおなかがあり、乳を吸わせて養った乳房があり、父親母親、いっしょに育てられた兄弟たちもいました。「その人たちは格別に幸いで、祝福され、とても恵まれている」と声を上げて叫んだ女性がいました。主イエスは、その声に応えて、はっきりと仰いました。「いいや、決してそうではない。神の恵みはそんなこととは何の関係もない。まったく別の事柄である」と。「恵まれているのは、むしろ、神の言を聞いてそれを守る人たちである」。
神の言葉を聞いて、それを守る人たちこそが、ほかの何にもまさる格別な祝福と恵みを受け取る。少し前に、ほぼ同じことを主イエスご自身が語りかけたことがありました。同じルカ福音書の6:46-49です、「わたしを主よ、主よ、と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。わたしのもとにきて、わたしの言葉を聞いて行う者が、何に似ているか、あなたがたに教えよう。それは、地を深く掘り、岩の上に土台をすえて家を建てる人に似ている。洪水が出て激流がその家に押し寄せてきても、それを揺り動かすことはできない。よく建ててあるからである。しかし聞いても行わない人は、土台なしで、土の上に家を建てた人に似ている。激流がその家に押し寄せてきたら、たちまち倒れてしまい、その被害は大きいのである」。神に向かって、救い主イエスに向かって「主よ、主よ」と熱心に呼ばわっている。礼拝に出席し、祈っている。けれど、もし主の言葉を聞いてもそれを行わないならば、何の役にも立たず、それは虚しいだけです。主のもとに来て、主の言葉を聞いて行うとはどういうことでしょうか。神を信じる信仰によって、この私たちは、毎日毎日の暮らしを、どんなふうに生きることができるのでしょうか。その6章48-49節、「それは、地を深く掘り、岩の上に土台をすえて家を建てる人に似ている。洪水が出て激流がその家に押し寄せてきても、それを揺り動かすことはできない。よく建ててあるからである。しかし主イエスの言葉を聞いても行わない人は、土台なしで、土の上に家を建てた人に似ている。激流がその家に押し寄せてきたら、たちまち倒れてしまい、その被害は大きいのである」。
神の言葉を聞いて、それを守り、また行って生きる人たちこそが、ほかの何にもまさる格別な祝福と恵みを受け取る。とても大切なことなので、2回繰り返して、念入りに告げ知らされています。よくよく注意を払って、このことを思い巡らせてみる価値があります。神の言葉を聞いて、それを守り、またそれを行って生きること。主イエスは、二種類の家を私たちの前に並べて見せます。よく見比べてみるようにと。一方は、土台なしに建ててしまった家です。もう一方は、しっかりした十分な土台と基礎の上に建て上げられた家です。これら二種類の家は、外見上はとてもよく似ていて、見分けがつきません。けれど雨が降り、洪水や津波や地震が押し寄せ、風が強くその家に打ちつけるとき、二つの家の違いは誰の目にもはっきりしてしまいます。しかも、私たちの地域にも間もなくはなはだしい雨が降りはじめ、あなたや私の家にも強い風がひどく打ちつけはじめます。
今日では様々な人々が救い主イエスの説教を聞いています。悔い改めて、神さまのもとへと立ち返るようにと促されます。主イエスとその福音を信じるように。清い暮らしを送るようにと。すると、ある人々はただ聴くだけで満足せずに、実際に、神さまへと腹の思いも普段のあり方も向け返し、主イエスとその福音を信じて暮らしはじめ、実際に、神さまが心を痛めたり、嘆き悲しむような悪い行いをすることを止め、善い働きをすることを少しずつ習い覚えはじめます。その人々は、耳を傾けて聴く人々であるだけではなく、聴いた言葉を実際に行い、そのように暮らしはじめる人々です。この人々こそが、うっかりと土台なしに家を建ててしまう者ではなく、しっかりした十分な土台と基礎の上に自分の家を建て上げてゆく幸いな人々です。
私たちのほとんどは大工さんではなく、建築の専門家でもありません。けれど、それぞれに家を建てています。建物のことではなく、その中身です。救い主イエスに向かって「主よ、主よ」と熱心に呼ばわっている。礼拝に出席し、祈っている。あるいは神でありながら人となられた救い主イエスと身近に接して、親しくかかわった人間たちがいたとして、それがその人が毎日の暮らしを生きるうえでどんな影響を与えたのかと問われます。例えば、一個のキリスト教会が家です。一つの家族も家です。クリスチャンの一つの生涯も、建て上げられてきた一軒の家に似ています。私たちは一つの家族を築き上げ、建てあげていきます。一軒の家を建てあげてゆくように、毎日の生活を生きてゆきます。私たちそれぞれのごく短い生涯も、それぞれ一軒の家を建てあげてゆくことに似ています。さあ私たちは、この私自身は、どんなふうに自分の家を築きあげてゆきましょうか。屋根をどんな形にしようか。壁を何色にしようか。間取りや玄関周りをどうしようか。どんな家具を揃えようか。――いいえ。それよりも何よりも、なにしろ家を建てるための土台こそが肝心要だ、と主イエスはおっしゃるのです。地面を深く深く掘り下げ、大きな岩の上に土台をガッチリと据えて、そこに、あなたの家を建てあげてゆくならば。そうであるなら、大洪水になって川の水が押し寄せてくるときにも、激しい雨や嵐にも、あなたのその大切な家は少しも揺り動かされず、ビクともしない。私たちの人生が平穏であるとき、家の土台がどうなっているか、耐震強度がどのくらいかなど誰も気にも留めません。何の問題もないように思えます。この上田教会も。それぞれの職場や家庭生活も。夫婦や親子の関係も。子供たちを養い育てることも。先々のための私たちの蓄えも。けれど不意に突風が吹き荒れます。川の土手があまりにたやすく崩れ落ち、濁流が荒々しく押し寄せます。私たちの日々が脅かされるとき、その時に、苦労して建てあげてきた大切な家の土台が何だったのかが問われます。その時に、救い主イエスに向かって「主よ、主よ」と呼ばわったことや、礼拝に出席して神の言葉を聞いたこと、心に噛みしめ刻みつけたこと、心をこめて祈りつづけたことが、その人に何をもたらし、主なる神から何を贈り与えられつづけたのかが分かります。その中身こそが。
やがて主の弟子の一人が、この同じ一つの真理をさらにはっきりと説き明かします、「わたしたちは今後、だれをも肉によって知ることはすまい。かつてはキリストを肉によって知っていたとしても、今はもうそのような知り方をすまい。だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである」(2コリント手紙5:16-17)。救い主イエス・キリストに対しても、また他の誰に対しても自分自身についても、肉によって知ることはしないでおこう。「肉によって知ったり、判断したりする」とは、うわべの外観によって、ごく表面的な事柄によって見たり、軽々しく判断したりはしないというのです。なぜなら兄弟姉妹たち。洗礼を受けた最初の日から、私たち一人一人のためにも新しい自分がはじまり、神の御前で神に向かって生きる新しい生活がはじまったからです。クリスチャンとされた私たちはこの世界に対しても、古い罪の自分自身や肉の思いに対してもすでに死んだ者とされ、それらと死に別れつづけ、それらと引き替えのようにして新しく生きる者とされたからです。また、自分自身としては無に等しい罪人であり、救い主イエスに仕えて生きるしもべとされたからです。耳を傾けて主の言葉を聴きつづけ、それだけでなく、聴いたことを実際に行い、そのように毎日の暮らしを積み重ねてきた私たちであるからです。聖書は証言します、「わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである」、また「もし、イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださる」(ロ―マ手紙6:6-11,同8:11)。語られ、聞き重ねてきた神の御言葉こそが、私たちを神の憐みのもとに据え置き、私たちの心と行いとをキリストによって守りつづけます。主イエスご自身の口から聞いてきた言葉が私たちのうちにあり、私たちを清くしているからです(ヨハネ福音書15:3,7を参照「もっと豊かに実らせるために、(父が)手入れしてこれをきれいになさるのである。あなたがたは、わたしが語った言葉によって既にきよくされている」「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう」)。なんという幸い、なんという恵みでしょう。
【補足/主日礼拝と説教】
(1)主日礼拝。主イエス・キリストが死人の中からよみがえられたのが一週の第一日、つまり日曜日であったことから、初代のキリスト者たちは日曜日を主の日として、神に礼拝をささげるために用いるようになったのです。そこでは、み言葉が語られ、パンを裂く交わり(聖餐、せいさん)が持たれます。それは主イエスの復活の記念であると同時に、復活されたキリストとのいのちの交わりの場です。その中で、神への讃美、祈り、告白、献身といった信仰者の応答がなされます。この主日礼拝を誠実に守ることが、その日から始まる信仰者の日々を、神に仕えるものとして用いることにつながります。「兄弟たち、神の憐みによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なるいけにえとしてささげなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」(ローマ手紙12:1)ろ記されているとおりです。
(2)礼拝説教。説教は、説教者による単なる聖書の解説や宗教講話や体験談などではありません。それは、主なる神の今、ここでの言葉を取りつぐことです。その日示された聖書の言葉に基づいて、聖霊の導きの下に説教者が教会の会衆と共に受け取った神のみ心が語られる、それが説教です。説教は、したがって、説教者個人の言葉ではなく、教会の宣教の言葉としての働きを担っています。礼拝者は、説教の言葉を「人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れる」(1テサロニケ手紙1:13)ことが大切です。
説教が正しく(聖書に基づいて)語られ、正しく聞かれるところに教会は神の教会として存在します。そのために、説教者も礼拝者も祈りを欠かすことができません。パウロが、「わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことが出来るように、わたしのためにも祈ってください」(エペソ手紙6:19)と訴えたことは、今日においても大切な教会の祈りの課題です。(『日本キリスト教会 教会員の生活』p5-6 日本キリスト教会出版局)
救い主イエスは、神の国の福音について語りかけつづけておられます。聖書の神さまを信じて生きる者たちが、どのように生きて死ぬことができるのか。隣人や職場の同僚や自分の大切な家族との、普段のいつもの付き合い方をどうすることができるか。毎日の暮らしをどう建てあげてゆくことができるのかという根本問題について。つまりは、神からの福音と律法の本質と生命についてです。27-28節、「イエスがこう話しておられるとき、群衆の中からひとりの女が声を張りあげて言った、『あなたを宿した胎、あなたが吸われた乳房は、なんとめぐまれていることでしょう』。しかしイエスは言われた、『いや、めぐまれているのは、むしろ、神の言を聞いてそれを守る人たちである』」。救い主イエスは神でありながら、生身の肉体を取ってこの地上に降り立ち、人間となってくださいました。恵みに値しない罪人である私たちを罪から救い、神の子供たちとして迎え入れてくださるためにです。そのように生身の人間として生まれ育った際に、救い主イエスを生み育てた母親のおなかがあり、乳を吸わせて養った乳房があり、父親母親、いっしょに育てられた兄弟たちもいました。「その人たちは格別に幸いで、祝福され、とても恵まれている」と声を上げて叫んだ女性がいました。主イエスは、その声に応えて、はっきりと仰いました。「いいや、決してそうではない。神の恵みはそんなこととは何の関係もない。まったく別の事柄である」と。「恵まれているのは、むしろ、神の言を聞いてそれを守る人たちである」。
神の言葉を聞いて、それを守る人たちこそが、ほかの何にもまさる格別な祝福と恵みを受け取る。少し前に、ほぼ同じことを主イエスご自身が語りかけたことがありました。同じルカ福音書の6:46-49です、「わたしを主よ、主よ、と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。わたしのもとにきて、わたしの言葉を聞いて行う者が、何に似ているか、あなたがたに教えよう。それは、地を深く掘り、岩の上に土台をすえて家を建てる人に似ている。洪水が出て激流がその家に押し寄せてきても、それを揺り動かすことはできない。よく建ててあるからである。しかし聞いても行わない人は、土台なしで、土の上に家を建てた人に似ている。激流がその家に押し寄せてきたら、たちまち倒れてしまい、その被害は大きいのである」。神に向かって、救い主イエスに向かって「主よ、主よ」と熱心に呼ばわっている。礼拝に出席し、祈っている。けれど、もし主の言葉を聞いてもそれを行わないならば、何の役にも立たず、それは虚しいだけです。主のもとに来て、主の言葉を聞いて行うとはどういうことでしょうか。神を信じる信仰によって、この私たちは、毎日毎日の暮らしを、どんなふうに生きることができるのでしょうか。その6章48-49節、「それは、地を深く掘り、岩の上に土台をすえて家を建てる人に似ている。洪水が出て激流がその家に押し寄せてきても、それを揺り動かすことはできない。よく建ててあるからである。しかし主イエスの言葉を聞いても行わない人は、土台なしで、土の上に家を建てた人に似ている。激流がその家に押し寄せてきたら、たちまち倒れてしまい、その被害は大きいのである」。
神の言葉を聞いて、それを守り、また行って生きる人たちこそが、ほかの何にもまさる格別な祝福と恵みを受け取る。とても大切なことなので、2回繰り返して、念入りに告げ知らされています。よくよく注意を払って、このことを思い巡らせてみる価値があります。神の言葉を聞いて、それを守り、またそれを行って生きること。主イエスは、二種類の家を私たちの前に並べて見せます。よく見比べてみるようにと。一方は、土台なしに建ててしまった家です。もう一方は、しっかりした十分な土台と基礎の上に建て上げられた家です。これら二種類の家は、外見上はとてもよく似ていて、見分けがつきません。けれど雨が降り、洪水や津波や地震が押し寄せ、風が強くその家に打ちつけるとき、二つの家の違いは誰の目にもはっきりしてしまいます。しかも、私たちの地域にも間もなくはなはだしい雨が降りはじめ、あなたや私の家にも強い風がひどく打ちつけはじめます。
今日では様々な人々が救い主イエスの説教を聞いています。悔い改めて、神さまのもとへと立ち返るようにと促されます。主イエスとその福音を信じるように。清い暮らしを送るようにと。すると、ある人々はただ聴くだけで満足せずに、実際に、神さまへと腹の思いも普段のあり方も向け返し、主イエスとその福音を信じて暮らしはじめ、実際に、神さまが心を痛めたり、嘆き悲しむような悪い行いをすることを止め、善い働きをすることを少しずつ習い覚えはじめます。その人々は、耳を傾けて聴く人々であるだけではなく、聴いた言葉を実際に行い、そのように暮らしはじめる人々です。この人々こそが、うっかりと土台なしに家を建ててしまう者ではなく、しっかりした十分な土台と基礎の上に自分の家を建て上げてゆく幸いな人々です。
私たちのほとんどは大工さんではなく、建築の専門家でもありません。けれど、それぞれに家を建てています。建物のことではなく、その中身です。救い主イエスに向かって「主よ、主よ」と熱心に呼ばわっている。礼拝に出席し、祈っている。あるいは神でありながら人となられた救い主イエスと身近に接して、親しくかかわった人間たちがいたとして、それがその人が毎日の暮らしを生きるうえでどんな影響を与えたのかと問われます。例えば、一個のキリスト教会が家です。一つの家族も家です。クリスチャンの一つの生涯も、建て上げられてきた一軒の家に似ています。私たちは一つの家族を築き上げ、建てあげていきます。一軒の家を建てあげてゆくように、毎日の生活を生きてゆきます。私たちそれぞれのごく短い生涯も、それぞれ一軒の家を建てあげてゆくことに似ています。さあ私たちは、この私自身は、どんなふうに自分の家を築きあげてゆきましょうか。屋根をどんな形にしようか。壁を何色にしようか。間取りや玄関周りをどうしようか。どんな家具を揃えようか。――いいえ。それよりも何よりも、なにしろ家を建てるための土台こそが肝心要だ、と主イエスはおっしゃるのです。地面を深く深く掘り下げ、大きな岩の上に土台をガッチリと据えて、そこに、あなたの家を建てあげてゆくならば。そうであるなら、大洪水になって川の水が押し寄せてくるときにも、激しい雨や嵐にも、あなたのその大切な家は少しも揺り動かされず、ビクともしない。私たちの人生が平穏であるとき、家の土台がどうなっているか、耐震強度がどのくらいかなど誰も気にも留めません。何の問題もないように思えます。この上田教会も。それぞれの職場や家庭生活も。夫婦や親子の関係も。子供たちを養い育てることも。先々のための私たちの蓄えも。けれど不意に突風が吹き荒れます。川の土手があまりにたやすく崩れ落ち、濁流が荒々しく押し寄せます。私たちの日々が脅かされるとき、その時に、苦労して建てあげてきた大切な家の土台が何だったのかが問われます。その時に、救い主イエスに向かって「主よ、主よ」と呼ばわったことや、礼拝に出席して神の言葉を聞いたこと、心に噛みしめ刻みつけたこと、心をこめて祈りつづけたことが、その人に何をもたらし、主なる神から何を贈り与えられつづけたのかが分かります。その中身こそが。
やがて主の弟子の一人が、この同じ一つの真理をさらにはっきりと説き明かします、「わたしたちは今後、だれをも肉によって知ることはすまい。かつてはキリストを肉によって知っていたとしても、今はもうそのような知り方をすまい。だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである」(2コリント手紙5:16-17)。救い主イエス・キリストに対しても、また他の誰に対しても自分自身についても、肉によって知ることはしないでおこう。「肉によって知ったり、判断したりする」とは、うわべの外観によって、ごく表面的な事柄によって見たり、軽々しく判断したりはしないというのです。なぜなら兄弟姉妹たち。洗礼を受けた最初の日から、私たち一人一人のためにも新しい自分がはじまり、神の御前で神に向かって生きる新しい生活がはじまったからです。クリスチャンとされた私たちはこの世界に対しても、古い罪の自分自身や肉の思いに対してもすでに死んだ者とされ、それらと死に別れつづけ、それらと引き替えのようにして新しく生きる者とされたからです。また、自分自身としては無に等しい罪人であり、救い主イエスに仕えて生きるしもべとされたからです。耳を傾けて主の言葉を聴きつづけ、それだけでなく、聴いたことを実際に行い、そのように毎日の暮らしを積み重ねてきた私たちであるからです。聖書は証言します、「わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである」、また「もし、イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださる」(ロ―マ手紙6:6-11,同8:11)。語られ、聞き重ねてきた神の御言葉こそが、私たちを神の憐みのもとに据え置き、私たちの心と行いとをキリストによって守りつづけます。主イエスご自身の口から聞いてきた言葉が私たちのうちにあり、私たちを清くしているからです(ヨハネ福音書15:3,7を参照「もっと豊かに実らせるために、(父が)手入れしてこれをきれいになさるのである。あなたがたは、わたしが語った言葉によって既にきよくされている」「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう」)。なんという幸い、なんという恵みでしょう。
【補足/主日礼拝と説教】
(1)主日礼拝。主イエス・キリストが死人の中からよみがえられたのが一週の第一日、つまり日曜日であったことから、初代のキリスト者たちは日曜日を主の日として、神に礼拝をささげるために用いるようになったのです。そこでは、み言葉が語られ、パンを裂く交わり(聖餐、せいさん)が持たれます。それは主イエスの復活の記念であると同時に、復活されたキリストとのいのちの交わりの場です。その中で、神への讃美、祈り、告白、献身といった信仰者の応答がなされます。この主日礼拝を誠実に守ることが、その日から始まる信仰者の日々を、神に仕えるものとして用いることにつながります。「兄弟たち、神の憐みによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なるいけにえとしてささげなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」(ローマ手紙12:1)ろ記されているとおりです。
(2)礼拝説教。説教は、説教者による単なる聖書の解説や宗教講話や体験談などではありません。それは、主なる神の今、ここでの言葉を取りつぐことです。その日示された聖書の言葉に基づいて、聖霊の導きの下に説教者が教会の会衆と共に受け取った神のみ心が語られる、それが説教です。説教は、したがって、説教者個人の言葉ではなく、教会の宣教の言葉としての働きを担っています。礼拝者は、説教の言葉を「人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れる」(1テサロニケ手紙1:13)ことが大切です。
説教が正しく(聖書に基づいて)語られ、正しく聞かれるところに教会は神の教会として存在します。そのために、説教者も礼拝者も祈りを欠かすことができません。パウロが、「わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことが出来るように、わたしのためにも祈ってください」(エペソ手紙6:19)と訴えたことは、今日においても大切な教会の祈りの課題です。(『日本キリスト教会 教会員の生活』p5-6 日本キリスト教会出版局)