みことば/2020,3,22(受難節第4主日の礼拝) № 259
◎礼拝説教 ルカ福音書 11:1-4 日本キリスト教会 上田教会
『父よ、と祈ること』 ~主の祈り.1~
+付録 FEBC番組の予告;〈交わりのことば〉3月28日(土)夜
「あなたは どういう神を信じているのか。
~賢いおとめと愚かなおとめ 前半~」(約28分間)
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)(ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC)
11:1 また、イエスはある所で祈っておられたが、それが終ったとき、弟子のひとりが言った、「主よ、ヨハネがその弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈ることを教えてください」。2 そこで彼らに言われた、「祈るときには、こう言いなさい、『父よ、御名があがめられますように。御国がきますように。3 わたしたちの日ごとの食物を、日々お与えください。4 わたしたちに負債のある者を皆ゆるしますから、わたしたちの罪をもおゆるしください。わたしたちを試みに会わせないでください』」。
(ルカ福音書 11:1-4)
あの弟子たちは主イエスが祈っている姿を何度も見ていました。朝起きて、主イエスは祈っていました。夜眠るときにも食事の前にも、神さまに仕える御用のために働きに出るときにも、帰ってきたときにも折々に、主イエスは祈っていました。うれしそうにニコニコして祈っているときもあったし、苦しそうに顔をゆがめて祈っているときもありました。穏やかに、とても安らかに祈っているときもありました。必死に激しく、しがみつくように格闘をするように祈っているときもあったのです。弟子たちは、その姿をいつも見ていました。それはちょうど、子供が父さん母さんの働く姿をいつも見ているように。喜んで働く姿があり、苦しみ悩みながら働く姿もあったように。いつも見ているうちに、「自分もあんなふうに祈ってみたい」と思いました。彼らも、祈りをまったく知らなかったわけではありません。それどころか、いろんな人のいろんな祈りが彼らの周りにあふれていました。けれど、自分たちの祈りや他大勢の専門家たちの祈りと主イエスの祈りとではどこかが決定的に違う、と気づきました。その違いは大きく、しかも主イエスの祈りの姿は素敵でした。彼らの魂を揺さぶり、心を強くひきつけました。主イエスが祈るように、この私も祈ってみたい。それが出発点です。弟子たちは主イエスの御前に進み出て、こう願い求めました。「先生。私たちにも祈ることを教えてください。あなたのその祈りを私たちにも教えてください」。主イエスが父なる神に語りかけ、聞き届けているように、この私も同じく父なる神に語りかけ、父なる神からの語りかけを聞き届けたい。ちょうどあんなふうに。《どう祈るか》という問いは、祈りの仕方や作法についての問いを豊かに越えています。それは、生き方そのものについての、祈りと信仰をもってこの私がどう生きることができるのかという問いです。
祈るとき、神さまはどのように生きて働いてくださるでしょう。聖書によって私たちは、3つの神さまを信じています。父なる神、独り子なる神イエス、そして聖霊なる神を。「この3つの神さまはそれぞれバラバラ勝手にではなく1つ思いになって働く」と教えられてきました。これが三位一体なる神という意味です。神さまご自身は、どういうふうに1つ思いになって働くのか。ぼくが教えられたのは、縦並びの神さまの在り方です。先頭に立つ父なる神、その後ろに独り子なる神イエス、その後ろに聖霊なる神。主イエスも聖霊なる神も、へりくだった心の謙遜な神さまです。「私が私が」と我を張ったり、やたらと自己主張したりなさらない。誰かが問いかけます、「あなたのことを教えてください。あなたの独自性や、すぐれた点や素晴らしさや重要性を」。すると主イエスは、「いいえ。私は父から委ねられ、命じられたこと以外いっさい何もしません。むしろ父の御名が崇められるように。父の御心こそがこの地上でも実現し、父の御国が到来しますように」。聖霊なる神もまた、「私については、ただその働きにだけ心を向けてください。私は主イエスの救いの御業とその教えをあなたがたに思い起こさせ、教えます。私はあなたがたに、主イエスを信じさせます。だからあなたがたも、イエスはイエスはと心を向け続けなさい」。しかも父なる神は、「これは私の愛する子、これに聴け!」と、ただもっぱら主イエスをこそ名指しして、主イエスに聴き従うことを私たちにお命じになる(マタイ福音書3:17,同17:5,同11:27,コリント手紙(1)12:3)。こうして、3つの神が1つ思いになって働くことができる。神さまを信じることは、神さまの御心とご意志に従って生きることです。信じるとは、そのことです。私たちも、聖書と神ご自身の指図に従って、そこでようやく、1つ思いになって働く神を信じて生きることができます。
祈りにおいても他の何についても、最も大切なこととして伝えられてきたものは何だったでしょう。救い主イエスの死と葬りと復活、天に昇って今も生きて働きつづけ、やがて終りの日に再び来られますこと。これこそが私たちの生活の拠り所、私たちを救う信仰の根源的な土台でありつづけます。つまりは、救い主イエスの救いの御業に目を凝らし、そこにこそ集中しつづけています(ヨハネ福音書5:39-40,20:30-31,コリント手紙(1)15:1-5参照)。ですから例えば、祈りのおしまいにいつも必ず何というかを教えられてきました。「主イエスのお名前によって祈ります、アーメン」。イエスのお名前によって祈る。だから、祈りは必ずきっと聴き届けられる(ヨハネ福音書14:13-14,15:16-17)。これが、1つ思いになって働く3つの神さまからの救いの約束です。
さて、誰が祈るどんな場合にも、その祈りの本質はまず呼びかけに表われます。祈るとき、あなたはどんなふうに呼びかけているでしょう。例えば「主なる神さま」と呼びかける人は、神が主であり、そのご主人さまのしもべ・召し使いである私だと知りながら、そのことを大切に受け取りながら祈っています。例えば、「慈しみ深い神さま」と呼びかける人は、私の神は慈しみ深いと受けとめており、その慈しみ深さこそが神とその人とを結びつけています。例えば「全能の神」と呼びかける人は、何でもできる神であることに信頼し、この私のためにも何でもしてくださる神に願いと希望をたくしています。例えば「聖なる神さま」と呼びかける人は、神聖にして高くいます神の御前に畏れと慎みをもってひれ伏しています。そして今、「父よ」と主イエスは呼びかけます。それが、主イエスの祈りであり、この方のいつもの基本姿勢なのです。神に対して《父よ》と呼びかける。驚くべき呼びかけです。それまでは誰一人も、そんなふうに神に呼びかけたものはいませんでした。主イエス以前には、《父よ》という祈りの呼びかけは存在しませんでした。神が私たちの父であるなどという神認識は到底ありえませんでした。なぜなら神は神。人間は人間に過ぎないからです。人間は、どこまでいっても限界ある生身の、弱さと貧しさを抱えた人間に過ぎません。神と人間とは、親子ではありません。私たちは神の甥や姪でもなく、血がつながってもおらず、神とのどんな親戚関係にあるのでもありません。人間は人間に過ぎないし、神は神であられるからです。この、とても厳しい断固たる区別のもとに、人々は神さまの御前にひれ伏し、身を低く屈め、一途に信頼を寄せ、聴き従いつづけてきました。もちろん今では、私たちは「父なる神」「御父」「天におられる私たちの父であってくださる神」などと祈り、そのように呼びかけることが許されています。今では、それはふさわしいこととされました(ガラテヤ手紙4:4-7,ローマ手紙8:14-17)。けれど、それは「こう祈りなさい」と教えられ、許可されたあの時に始まったまったく新しい出来事です。「父なる神さま。御父。天におられる私たちのお父さま」;それらは正しく真実です。しかもその意味は、《イエス・キリストの父なる神さま。だからこそ確かに、私たちの父であってくださる神》。《イエス・キリストは神の独り子であり、私たちはこのイエスを主とし、イエスのものとされている。そのイエスによって、神は私たちをご自分の真実な子としてくださった》ということです。つまり、この主イエスというお方を抜きにしては、神を父とすることはありえません。私たちは神の子とされました。どんな私か、どんな信仰か、どんな生まれや生い立ちや素性かなどと私たちの側の資格や条件を一切問うことなしに、ただ恵みによって、神のあわれみの子とされています。「父よ」という神への呼びかけは、私たちにそのことを思い起こさせます。主イエスによって開かれた新しい恵みの道を、イエスによって贈り与えられた神とのまったく新しい関係と結びつきを、私たちに思い起こさせます。主イエスがあの『主の祈り』を与えてくださって以来、「父なる神」という呼びかけと《神を真実な父とし、その父の子とされている》とする生き方、腹の据え方は、私たちクリスチャンの格別な財産になりました。「父よ。父なる神さま」と私たちは呼ばわります。この神は私たちを愛し、見守り、私たちがよりよく日々を生き抜き、すくすくと成長してゆけるようにと励まし、手を差し伸べ、導いてくださいます。ちょうど親が子供たちに対してそうであるように。親であられる神であり、現に確かに神の子供たちとされている私たちだと。
いまや神が私たちの父である。どんな父でしょう。十字架におかかりになる直前、ゲッセマネの園で、主イエスは「アッバ、父よ」と祈っておられました(マルコ福音書14:36)。アッバというのはその地方の独特の言葉で、父親に向かって呼びかける呼び名です。言葉を覚えはじめたばかりの小さな小さな子供が、お父さんをこう呼びます。「おっとう。父ちゃん」と。私たちの救い主イエス・キリストは、この時、小さな子供の心に返って天のお父さんに向けて、「トウチャン。オットウ」と呼ばわっています。相手に対するわずかな疑いもなく、すっかり信頼して。感謝や愛情、素朴な願いを込めて、一途に「おっとう。とうちゃん」と。不思議なことです。イエスさまはもちろん、もうすっかり大人なんですけれど、このお父さんの前では、このお父さんに向かっては、本当に小さな子供です。小さな子供の心で、自分を心底から愛してくれる親に向かって祈っています。
主イエスは「死ぬばかりに悲しい」とひどく恐れて身悶えしながら、「この苦しみのとき、この苦い杯」と噛みしめながら、この崖っぷちの緊急事態の局面で、ここで、一途に父なる神にこそ目を凝らします。「どうかこの苦い杯を私から取りのけてください。しかし私が願うことではなく、あなたの御心にかなうことが行われますように」。「御心にかなうことが。御心のままに」とは何でしょう。どういう意味で、どういう腹の据え方でしょうか。自分を愛してとても大切に思ってくれるお父さんやお母さんといっしょにいるときの、小さな子供の心です。
この祈りの格闘を弟子たちに語り聞かせ、告げ知らせてくださったのは、私たちそれぞれにも悲しくて惨めで辛くて、とてもとても困ったことがあるからです。あなたにも、おっかなくて苦しくて心細い日々があります。
つまり、神さまが本当に神さまらしく、ちゃんとやっててくださること。私たちが喜んだり悲しんだり、安心したり困って心細かったりすることの1つ1つに対して、神さまこそが全責任をもって、ちゃんと世話して必ずきっと助けてくださること。そういう神さまが生きて働いてくださって、この私のためにも助けてくださること。それを知って、私たちも安心して晴々として暮らしていけること。「しかし私が願うことではなく、御心に適うことが行われますように。おとうちゃん。おっとう」と主イエスは呼ばわります。私たちも、同じくそう呼ばわることができます。全幅の信頼を寄せて、聞き従いながら生きるに値する真実な父親が、あなたにもいてくださるからです。だから、私たちは神さまの子供たちなのです。ちょうどまったく、小さな子供が自分の親に呼びかけるように。ちょうどまったく、小さな子供が何の心配も遠慮もなく「おっとう。父ちゃん」と呼びかけるように。主イエスは、「私がそう呼ぶだけでなく、今やあなたも、天の御父に向かってそう呼びかけていい。さあ呼んでごらん」と招きます。「おっとう。父ちゃん」と呼びかけた主イエスの全幅の信頼と親しさに、それゆえ一途に聞き従う神への従順に、この私もぜひ預かりたい。その幸いと心強さを、この私も受け取りたい。若い青年の日々にそうであるだけでなく、やがて大人になった後でも、所帯をもって家庭を築き、子供の親として生きる日々にも「おっとう。父ちゃん」と天の父に目を凝らしたい。目を凝らしつつ生きることをしたい。年を取って、おじいさんおばあさんになっても。恐れと不安の中に奴隷のように閉じ込められることがもうない、というわけではありません。苦しむことも深く悩むこともあります。これからも何度も、「人からどう思われ、どう見られるだろうか」「私はこれからどうなってしまうのか」と私たちは恐れます。不安にかられ、さまざまな思い煩いにがんじがらめに縛り付けられる日々は次々とあるでしょう。けれど大丈夫。なぜならば、苦しみ悩む度毎に私たちはそこから、その度毎に連れ出され、何度でも何度でも、きっと救い出されていくからです。「おっとう。父ちゃん」と天の御父に目を凝らし、小さな子供が親に呼びかけるように呼ばわり、その父との格別な出会いを積み重ねているからです。これまでもそうだった。今も、これからもそうです。もし、せっかく祈るならば、世間様や人さまに向かってではなく人々の前ででもなく! ただただ神さまに向かって、神さまの御顔の前で心を注ぎだして、この私たちも祈りはじめましょう。
+付録 FEBC番組の予告;〈交わりのことば〉 聖書の豊かさ
3月28日(土) 夜10:04~
「あなたは どういう神を信じているのか。
~賢いおとめと愚かなおとめ 前半~」(約28分間)
金田聖治×(お相手)長倉崇宣
25:1 そこで天国は、十人のおとめがそれぞれあかりを手にして、花婿を迎えに出て行くのに似ている。2 その中の五人は思慮が浅く、五人は思慮深い者であった。3 思慮の浅い者たちは、あかりは持っていたが、油を用意していなかった。4 しかし、思慮深い者たちは、自分たちのあかりと一緒に、入れものの中に油を用意していた。5
花婿の来るのがおくれたので、彼らはみな居眠りをして、寝てしまった。6 夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。7 そのとき、おとめたちはみな起きて、それぞれあかりを整えた。8 ところが、思慮の浅い女たちが、思慮深い女たちに言った、『あなたがたの油をわたしたちにわけてください。わたしたちのあかりが消えかかっていますから』。9 すると、思慮深い女たちは答えて言った、『わたしたちとあなたがたとに足りるだけは、多分ないでしょう。店に行って、あなたがたの分をお買いになる方がよいでしょう』。10 彼らが買いに出ているうちに、花婿が着いた。そこで、用意のできていた女たちは、花婿と一緒に婚宴のへやにはいり、そして戸がしめられた。11 そのあとで、ほかのおとめたちもきて、『ご主人様、ご主人様、どうぞ、あけてください』と言った。12 しかし彼は答えて、『はっきり言うが、わたしはあなたがたを知らない』と言った。13 だから、目をさましていなさい。その日その時が、あなたがたにはわからないからである。(マタイ福音書25:1-13)
〈対話のためのメモ〉
1節で「そこで天国は、~に似ている」と始まる。
「天国。神の国」というのは、神が生きて働いておられ、その働きと力を及ぼしている恵みの領域です。マタイ福音書では、24章とこの25章のすべてを使って「終わりの日」のことがていねいに様々な角度からくわしく説き明かされつづけます。とても大切だということです(その直後26章冒頭でご自身の十字架の死が改めて弟子たちに予告されます)。とくに救い主イエスが2度目にこの世界に来られて、世界の救いを成し遂げることにたとえ話のすべてが集中して語られます。やがてふたたび来られる救い主イエスは、例えば「家に帰ってくる主人」として描かれ、またここでは、「花嫁と結婚の祝いをする花婿」として描かれます。旧約時代から、神と私たちとの親しく愛情深い関係は夫婦や恋人同士にたとえられつづけ、その土台の上に立って、花婿である主イエス、その花嫁とされたキリスト教会、その一人一人のクリスチャンです。
1-4節。あかりと、蓄えの十分な油が必要。花婿を待ち望む長い長い夜がつづく。
終りの日、それぞれの生涯の間も、耐え忍んで、約束を信じて待ち望み続けねばならない長い長い時間がある。「蓄えの十分な油」とは何か?
5節。花婿の到着がおくれて、皆、居眠りをして寝てしまった。
ここで居眠りは咎められない。ゲッセマネの園での3人弟子。思い煩いと疲れで、ついつい眠ってしまう。「目覚めて待つ」ことの難しさ。もちろん1日24時間ずっと起きて働けなどとムチャな要求ではなく、この世界や隣人のため、自分自身のためにも神さまが生きて働いておられることを心に留めて生活せよ。
6-9節。「油を分けてください。消えかかっていますから」「分けてあげるほどは無い。店に行って自分の分を買いに出るがよい」。A.受け皿の中の油は、受け取った恵みであり、救いの確信。主への信頼、主に対する感謝。この私自身の受け皿の中に、1滴また1滴と溜まり、集められてゆくのでなければ、それは私自身の信仰のともし火を燃やす油とはならない。そこに大きな道理。また、最期の最後に神さまご自身によって「戸が閉められ」、油や明かりを分けてもらったり、あげたりもできなくなる『〆切。門限』が定められている。厳粛に受け止めねばならない。最後の最後にはと。
B.実は正直なところ、この彼女たちの会話内容についてこの5~6年、「なんだかおかしい。腑に落ちない」と思い悩み続けてきた。1年くらい前に、とうとう気づいた。正しい真理も含みながら、けれど大切な何かが欠けて、抜け落ちている。「目を覚まして気づけ」と自分の心が揺さぶられつづけるような。福音の真実の別の大切な側面がある。たしかに最後の最後には。けれど今はどう? まだ残り時間があり、間に合うかも知れない。現に、「油を分けてあげたり、いただいたり」している私たちでもあると気づいた。例えば隣近所同士などの付き合いで、醤油や味噌を貸してあげる。生活が苦しくて、「すみません。お米2人分ほど分けてもらえませんか」。もちろん分けてあげます。しかも、その明かりは神さまを信じて生きるための明かりであり、油であるなら、その何倍も切実な訴えです。もし、油と明かりを求めている相手が生涯添い遂げると誓い合った愛する連れ合いだったら。もし、かけがえのない息子や娘たちだったら、どうするか。「自分の分は十分ある。けれど分けてあげて、一緒にその光と暖かさを喜び味わうほどには全然足りない。残念でした」などと冷たく追い払うだろうか。それではあまりにケチ臭く、安っぽく、薄情で無慈悲。「自分のためには十分ある。でも分けてあげるほどはない」というあまりに貧しい考え方はむしろパリサイ人や律法学者たちのいつもの了見の狭さや偽善にとてもよく似ている。習い覚えてきたはずの神とその福音の思いやり深さや温かさがわざと隠されているような。肝心要のところをちゃんと分かっているかどうかと試みられ、テストされているみたいです。憐み深い神であり、私たちが受け取ってきた恵みはただ価なしの無償の慈しみだった。救いは、その恵みをこそ唯一の土台としている。神の憐みのもとにある賢さは、もっと広々していて気前がよく、とても心安らかだったのでは。しかも憐れんでいただいた者たちは、その憐みを隣人に無償で差し出すことさえできるのでは? むしろ自分のための油の最後の数滴でさえ、「はい。どうぞ」と惜しみなく、喜んで贈り与えることもできる。なにより主イエスご自身こそが私たちのためにそのようにしてくださったと思い出した。油どころか、自分のすべて一切を投げ尽くして、ご自分を無になさった。だから彼女たちのやりとりは、私たちの心を激しく揺さぶります。
10-13節。到着し、「戸が閉められた」。「あなたがたを知らない」。
ノアの箱舟。「そこで主はノアのうしろの戸を閉められた」。ノアではなく他の誰でもなく、ただ神さまが扉の鍵を握っておられ、主なる神がそのとき戸を閉める。神に委ね、従うほかない決定的な時が待ち構えている。戸の中に誰と誰が入れていただけて、誰が外の闇に取り残されるのかは神だけが御存知。「門限があり、〆切期限がある」と知らされなければ、いつまでも眠りをむさぼりつづけてしまう私たち。それでは困る。
一度目に来られ、終りの日にもう一度ふたたび来られるだけではなく、実は、「私たちといつも共にいる」とも約束してくださった。これが告げ知らされ、習い覚えてきたはずのもう1つの真実。「主よ来てください」と待ち望むばかりでなく、「いつもいっしょにいてくださる」と確信し、実感し、支えられ守られつづけながら、安心して生活を建て上げてゆく私たちです。やがて来られる救い主イエスを待ち望み続けるためには、明かりと十分な蓄えの油が必要です。改めて驚かされますが、『片時も離れずいつも共にいてくださる主イエスご自身』こそが、この世界と私たち自身を明るく照らすまことの明かりであり、その蓄えの十分な油です。私たちを照らす光がすでに昇っており、汲んでも汲んでもなくならず湧き出しつづける生命の水・生命の油を贈り与えられているからです。一度目に来られて神の国を宣べ伝しはじめたとき、主イエスは「時は満ち、神の国は近づいた」また、「神の国はあなたがたの只中にある」と仰った。神の救いの御心と働きを背負って、救い主イエス自身が地上に降り立ったからです。その方によって、終りの日に、いよいよ神の御支配が地上に成し遂げられます。ですから、むしろ、「終わりの日々」はすでに始まっていると考えるべきかも知れません。私たちはこの『終りの日々。救いの完成される日々』にすでに辿り着いてしまっている。なぜなら、すべてのものの回復はただこのお独りの救い主の到来にかかっており、希望をもって、その日を待ち望む理由があるからです。さまざまな嵐が次々と襲いかかり、「その日が来れば」と待ち望むのでない限り、キリストの教会はすっかり、何度も何度も、打ち倒されていたはずだから。神を信じて生きる一人のクリスチャンも、まったく同じです。主を待ち望む者は新しい力を得、走っても疲れず、歩いても弱り果てることがないと証言されていますね。
私たちクリスチャンにとって、世界のはじめと終わりこそ神を信じて生きるための生命線であり続ける。はじめに神さまが私たちを救いへと選び出し、終りの日の審判を経てやがて永遠の御国へと招き入れられる希望を与えられている。それこそが、神さまの現実に向けて私たちの目を見開かせ、勇気を与え、励ましつづけます。
(番組の後編は、多分4月24日に放送・配信)
Wブレイク「十人の乙女たち」