2020年2月2日日曜日

2/2「主イエスの弟子であること」ルカ9:57-62


                        みことば/2020,2,2(主日礼拝)  252
◎礼拝説教 ルカ福音書 9:57-62                     日本キリスト教会 上田教会
『主イエスの弟子であること』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
 9:57 道を進んで行くと、ある人がイエスに言った、「あなたがおいでになる所ならどこへでも従ってまいります」。58 イエスはその人に言われた、「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない」。59 またほかの人に、「わたしに従ってきなさい」と言われた。するとその人が言った、「まず、父を葬りに行かせてください」。60 彼に言われた、「その死人を葬ることは、死人に任せておくがよい。あなたは、出て行って神の国を告げひろめなさい」。61 またほかの人が言った、「主よ、従ってまいりますが、まず家の者に別れを言いに行かせてください」。62 イエスは言われた、「手をすきにかけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくないものである」。   (ルカ福音書 9:57-62)
 主イエスの弟子になろうとした3人の候補者たちと主イエスとのやりとりです。主イエスの弟子であり、クリスチャンとされているとはどういうことであるのかが、ここで改めて告げられています。
 まず、57-58節。最初の一人との問答。「あなたがおいでになる所ならどこへでも従ってまいります」。主イエスはその人に言われました、「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない」。あなたがおいでになる所ならどこへでも従ってまいります。主イエスの弟子とされ、クリスチャンとされた私たちは、もちろん主イエスが歩んで行かれるその同じ一つの道を従ってゆきます。この直前、51節で、「イエスが天にあげられる日が近づいたので、エルサレムへ行こうと決意して」と報告されています。はずかしめられ、見捨てられ、十字架の上で殺され、葬られ、その三日目に死人の中からよみがえらされるという道です。だからこそ、主イエスについていきたいと願うならば、誰でも、自分を捨て、自分の十字架を負って、主イエスにこそ聴き従って、ついてゆくことになります。それはとても祝福された幸いな人生ですけれど、そこには苦しみや悩みや惨めさも伴います。労苦することもあり、はたはだしい心細さや恐れも待ち構えています。ほかのなによりも、「自分を捨てる」9:23ことが待ち構えています。

【補足/自分を捨てること】

……自分を捨てることがとても嫌だったからです。自分の命、自分の都合、自分のささやかな自尊心、自分の好き嫌いにばかり深く囚われすぎていて、それに邪魔されて、主イエスに従って生きることがとても難しかった。私たちも同じです。だからその同じことを何度聞いても、なんのことか分からず、隠されていて、この私たち自身も悟ることがなかなか出来ずにいます。けれども兄弟姉妹たち。自分勝手でわがままで頑固で、とても自己主張が強くて「私が私が」と言い張り続けることを『自己中、自己中(ジコチュウ)』と世間の人たちは言い慣わしています。自己中心という言葉を短く言い表していますが、むしろ本当は「中心」というより「中毒」「依存症」です。『自分中毒』、自分の肉の思いの言いなりにされ、奴隷にされています。その『自分の肉の思い。自分の好き嫌い』は自分をちっとも幸せにしてくれず、自分も家族もまわりの人たちも、かえってますます心が貧しくなり、不幸せになるばかりです。それは「自分」という病気です。その「自分」は無くてもいい自分であり、主に従って生きることを邪魔する厄介な「自分」です。『自分の肉の思い』を投げ捨てるのはもったいないし、難しいし、嫌だと思い込んでいました。でも本当は、もったいなくないし、無くても困らない。ポイと投げ捨てるのはとても簡単で、かえって晴れ晴れ清々します。「古い罪の自分と死に別れて、キリストと共に新しく生き始める」と何度も何度も教えられてきたではありませんか。「肉の思いに従ってではなく、神の御霊に従って生きる私たちだ」(ローマ手紙6:3-11,8:1-11参照)と習い覚えてきたではありませんか。なぜなら、自分自身が自分の主人である間は、神さまを自分のご主人さまとして迎え入れることが決してできないからです(目を凝らしてよくよく眺めてみると、いつもいつも大問題で厄介な「自分」は、「自分は正しい、正しい」と主張しつづける自分です。「神の義を知らないで、自分の義を立てようと努め、神の義に従わなかったからである」ローマ手紙10:1-4参照)要点は、神ご自身の御心と御わざに自分の場所をすっかり丸ごと明け渡すことです。神をご主人さまとして、自分の内に迎え入れることです。神さまを自分のご主人さまとして迎え入れ、自分の中に神の居場所と働き場所を確保するためには、自分を後ろへ退けて、神さまの脇に慎み深く控え、神ご自身に働いていただくために、この自分は休む必要があります。「私が私が」と我を張り続けている間は、神の御心とそのお働きは邪魔されつづけています。救い主イエスに主権を明け渡して、ご主人さまとして力を発揮していただくためには、その邪魔をしている『自分中毒』、『自分の腹の思い』(ローマ手紙16:18,ピリピ手紙3:19参照)をポイと投げ捨てる必要があります。できますよ。私たちの主であられます神さまご自身が、この私たちのためにも、必ずきっと成し遂げてくださるからです(ピリピ手紙2:6
            (ルカ福音書9:37-45の礼拝説教(2019,12,29)から抜粋)

59-60節。ほかの人に、「わたしに従ってきなさい」と主イエスが言われました。「まず、父を葬りに行かせてくださいと答えると、その人に向かって、「その死人を葬ることは、死人に任せておくがよい。あなたは、出て行って神の国を告げひろめなさい」。もちろん主イエスご自身もキリスト教会も、葬儀や葬りを決して軽んじるわけではありません。亡くなった方々の遺体を、葬りもしないでそのまま放置することは恥ずべき、また無慈悲で冷酷な行いです。葬りをすることは神の御心にかなったことであり、世々のキリスト教会は葬りを誠実に執り行いつづけてきました。それは第一に、終りの日のよみがえりと復活の生命の約束、神の国に招き入れられる希望を私たちの間にいっそう確かにすることになるからです。もし万一、私たちの希望や喜びがこの世に生きている間だけの、やがて朽ちてしまうはずのものであるなら、この私たちこそは最も惨めなものたちとなってしまうからです。では、何が告げられているのか? ずいぶん長い間、ユダヤの社会では、「あなたの父と母を敬いなさい」と教えられつづけてきた子供たちには、父とその家族に対して大きな義務が課せられていました。父の存命中は、その権威に服従しつづける、どんな指示にも従うという、他の何にも優先される最優先の責任です。「まず先に、父を葬りに行かせてください」。つまり、「やがて父が亡くなったなら、とうとう自由の身になって、あなたにでも誰にでも従ってゆくことができるし、自分の思い通りの生活を切り開いてゆくこともできます。けれども、それまでは何かしたくても私には父の許可と同意なしには何もできません」と遠回しに、主の招きを断っています。そういう社会と、そういう人々に向かって、「その死人を葬ることは死人に任せておくがよい」と主イエスはおっしゃいます。父親や親族、目上の人々の権威、家や社会の慣習やしきたりを自分自身のための主人とし、その主人たちに聞き従って生きることが自分自身の安全と安泰を保証しています。神に従う新しい生き方は、そうした古い生活と心得などと決定的に対立します。ようやく「死」と「死人」の中身が見えてきました。神に信頼を寄せ、神にこそ聴き従って生きることから私たちを脇道へと逸れさせ、神の御もとから引き戻そうとする様々な誘惑と迷いこそが『死んでしまうこと』の中身です。
61-62節。またほかの人が言った、「主よ、従ってまいりますが、まず家の者に別れを言いに行かせてください」。イエスは言われた、手をすきにかけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくないものである」。この「まず家の者に別れを言いに」と、先ほどの「まず、父を葬りに行かせてください」はとても良く似た同じような方便です。だからこそ、主イエスはここで、「家の者に別れを」と言う彼の心の隠された内面をはっきりと見抜いて、滅多に言わないほどの厳しい語りかけをしておられます。あの彼は、この世界と自分のいつもの今まで通りの古い在り方や暮らしにあまりに強く縛り付けられています。身動きもできないほどに。救い主イエスについてゆくことも、この主に聞き従うことも、自分を捨て去ることも、とうていできませんし、そんなことはしたくないと頑固に居座っています。すきに手をかけてしまったのに、あの彼は名残惜しくて名残惜しくて、それで後ろを振り返りつづけています。目も心も奪われながら。塩の柱になってしまったロトの妻のように。だからこそ、今にも滅びかけようとしているその魂を憐れみながら、その人のためにとても悲しみながら惜しみながら、主はおっしゃいます。「手をすきにかけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくない」。

               ◇

 もし、ただ自分自身を喜ばせ、人々に喜ばれることばかりに囚われて、神を忘れて生きるならば、その人たちは生きていても死んでしまったのと同然だと告げられます。しかも、『かつては罪の中に死んでいた私たち』が、神のもとにある新しい生命へと招き入れられたと聖書は証言します。この私たちは「先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者であって、かつてはそれらの中で、この世のならわしに従い、空中の権をもつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って、歩いていたのである。また、わたしたちもみな、かつては彼らの中にいて、肉の欲に従って日を過ごし、肉とその思いとの欲するままを行い、ほかの人々と同じく、生れながらの怒りの子であった。しかるに、あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって、罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし――あなたがたの救われたのは、恵みによるのである」(エペソ手紙2:1-5。父と、生まれ育った家、故郷などと深く結びついた人間的な権威、人間的なしきたりや慣習が『父に関する諸々の義務や服従』として立ちふさがっています。例えばアブラハムとサラ夫婦も、湖のほとりで主イエスの弟子とされた人々も、それらの古い主人や古い権威・伝統を後に残して、天におられる新しい主人に仕えて生きる生活へと招き入れられました。「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい」とは、このことです。「舟と網を捨て、父を後に残して従った」とは、このことです(創世記12:1,マルコ1:17-20。しかもこの私たちもまた、「主イエスについていきたいと願うならば、誰でも、自分を捨て、自分の十字架を負って、主イエスにこそ聴き従って」ついてゆくことになるからです。そのうえで、「あなたは出て行って、神の国を告げ広めなさい」と命じられたからです。それこそが、伝道者だけでなくすべてのクリスチャンにとって、自分自身がなすべき緊急の務めだからです。世々の教会と私たちが教えられ、習い覚えてきたことは、「王、祭司、預言者」という三つの職務を担って救い主イエス・キリストがお働きになる。それゆえ、主に従って生きる私たちすべてのクリスチャンも、この同じ「王、祭司、預言者」という三つの職務を担って働くのだと。それらの役割にふさわしくない、まったく値しない私たちだとしても聖霊なる神の支えと導きを受けて務めに立ち、働き、その働きは良い実を結ぶと約束されています。例えば、ひきつけを起こして倒れつづけていた一人息子と生きるあの一人のお父さんのようにです。「その人を、私のもとに連れてきなさい」(ルカ福音書9:41と主イエスから命じられました。あのお父さんも、この私たち一人一人も。「その人を私のもとに連れてきなさい」と、救い主イエスが憐みと慈しみを差し出そうとして、すでに準備万端であられるからです。私たち自身と、私たちの愛する家族の一人一人に対してさえも、この同じお独りの救い主が今も確かに生きて働いておられ、なお慈しみ深い力を発揮しておられるからです。だからこそ、この救い主イエスを信じる私たちもまた、自分自身とその大切な家族や親しい者たちのためにさえ、それぞれに精一杯の良い働きをすることができるからです。その喜びも、「いつも喜びなさい」と命じられたあの不思議な言葉の意味も、これです。そう簡単に喜べないとき、苦しくて苦しくて、心が今にも折れてしまいそうなとき、そのときこそどうやって喜ぶことができるのか。何を喜ぶことができるのか。聖書は証言します、「主は近い。何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう」(ピリピ手紙4:5-7)。主は近い。救い主イエス・キリストはその働きのはじめに、「時は満ちた。神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」と語りかけました。神の国が近づいたのは、救い主イエスご自身が地上に降り立ち、福音を宣べ伝え、その死と復活によって救いの御業を成し遂げてくださったからです。それによって信じる者たちとされた私たちの只中に、すでに神の国があるからです。その救い主がふたたび来られます終りの日、救いの完成される日が刻々と近づいているからです。だからこそ、クヨクヨと思い煩いつづけるのではなく、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、求めるところを神に申し上げる私たちです。「そうすれば」と確かな約束を与えられています。そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、私たちの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守ると。ただここにだけ、私たちは望みをかけています。もちろん、死んでそれで終わりではないからです。神によって造られたこの世界と私たちであり、それ以前に救いへと選ばれている私たちです。しかも、終りの日に救い主イエスによる裁きをへて、神の国へと招き入れられ、そこでいつまでも生きることにされている私たちだからです。他には、どんな晴れ晴れした生き方も死に方も、たしかな希望も慰めも、この私たちにはあり得ないからです。