みことば/2020,2,23(主日礼拝) № 255
◎礼拝説教 ルカ福音書 10:17-20 日本キリスト教会 上田教会
『名が天に書き記されている』
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC)
10:17 七十二人が喜んで帰ってきて言った、「主よ、あなたの名によっていたしますと、悪霊までがわたしたちに服従します」。18
彼らに言われた、「わたしはサタンが電光のように天から落ちるのを見た。19 わたしはあなたがたに、へびやさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けた。だから、あなたがたに害をおよぼす者はまったく無いであろう。20
しかし、霊があなたがたに服従することを喜ぶな。むしろ、あなたがたの名が天にしるされていることを喜びなさい」。 (ルカ福音書 10:17-20)
救い主イエスのもとから遣わされた72人の弟子たちが、主のもとへと戻ってきました。喜びにあふれて、その活動内容と結果を報告いたします。17節、「七十二人が喜んで帰ってきて言った、『主よ、あなたの名によっていたしますと、悪霊までがわたしたちに服従します』」。そのとおりです。ここで最も大切な点は、主イエスのお名前によってそれをした。だから、このような喜ばしい十分な結果となったということです。主イエスの名によってとは、その御人格と御心とご自身のお働きによってということです。他の何によってでもなく、ただただ「主イエスのお名前によって」、それこそが私たちのための希望と幸いの中身であり、その根本の土台でありつづけます。だからこそ例えば、やがて神殿の入り口に座っていた足の不自由な人と出会ったときにも、弟子たちはこう呼びかけました、「金銀はわたしには無い。しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」(使徒3:6)。金銀も、他その類いの良いものを何一つも持たない私たちである。けれど、わたしたちにある格別に良いものを、あなたにもぜひあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。私たち自身も同じように、何度も何度も立ち上がり、歩きつづけているわけです。それこそが私たちのための希望であり、支えと幸いでありつづけます。
また例えば、喜べないとき、苦しくて辛くて仕方がないときにも、「どんなときにも、喜べ」ととても奇妙で不思議なことを神さまから命じられ、それが出来ると約束されている理由も、同じ一つのことです。主にあって喜べ、と指図されています。そのためには、「何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう」(ピリピ手紙4:4-7)。主イエスの名によってとは、その御人格と御心とご自身のお働きによってということだと申し上げました。主ご自身こそがなさる。主が成し遂げてくださる。そのことに信頼を寄せ、聴き従って、していただく。ですから、あの彼らも私たちも、その一つ一つの働きの度毎に主への信頼と忠実こそが問われつづけることになります。「主よ、あなたの名によっていたしました。それで、このようになりました」と報告している中身は、このことです。
18-19節、「彼らに言われた、『わたしはサタンが電光のように天から落ちるのを見た。わたしはあなたがたに、へびやさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けた。だから、あなたがたに害をおよぼす者はまったく無いであろう』」。「サタンが電光のように天から落ちるのを見た。わたしはあなたがたに、へびやさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けた」と主がおっしゃるとき、私たちは自分自身を振り返り、胸に手を当てて、自分の心と普段の在り様とをつくづくと吟味してみる必要があります。語られていることは、そのとおりです。牧師や長老や執事、そのほかすべての働き人、そしてすべてのクリスチャンは自分たちが手掛けている働きが順調に成し遂げられてゆくことを願います。その願いは正しいし、良いことです。ものごとがうまく運ばず、障害にぶつかり、困った事態に陥るとき、私たちは落胆して心が挫けそうにもなるでしょう。同じように、とてもよく仕事や役割が果たされてゆくとき、私たちはつい思い上がってしまいます。まるで、自分自身の力と手の働きで何事かを成し遂げたかのように。だぁらこそ、神さまに仕える働き人たちのために警告も与えられています、「高慢になって、悪魔と同じ審判を受けるかも知れない。そしりを受け、悪魔のわなにかかる」(1テモテ手紙3:6-7)こともありうると。たしかに、私たちすべてのクリスチャンは、「へびやさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授け」られています。だから、私たちに害をおよぼす者はまったく無い。神に敵対するものたちはどこにいるでしょうか。その敵対者たちは、どんな力を私たちに及ぼしてくるでしょうか。やはり、最も恐るべき敵は自分自身のうちに潜んでいます。うちなる敵。神に敵対し、背かせようとする、自分自身の腹の思い、肉の思いです。自分の正しさやふさわしさを主張し、言い立てようとさせる悪魔の働きです。その最大最悪の敵にさえ打ち勝つことのできる圧倒的な権威を、すべてのクリスチャンは、つまりこの私たちもまた授けられています。「なぜなら、肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思うからである。肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。なぜなら、肉の思いは神に敵するからである。すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである。また、肉にある者は、神を喜ばせることができない」(ローマ手紙8:5-8)。つまり私たちもまた、肉の思いの言いなりにされなくてもよいのです。神の御心に従おうとすることを喜び、神に喜んでいただけることを願って一日一日と生きることができます。しかも権威だけでなく、権威や力と共に、主イエスご自身がいつも私たちと共にいると約束されています。だからです。だからこそ、私たちは、いつも慎み深くあるようにと勧められます。ゲッセマネの園で祈りの格闘をなさった主イエスのようにです。神さまに向かって、どんなことを願い求めても良いでしょう。しかも主イエスに仕えて働く働き人たちは、この私たちも、必ず、そこに、こう付け加えます。「しかし私の思いではなく、御心が成るようにしてください」(ルカ22:42)と。これこそが、贈り与えられた恵みのうちに留まるための、いつもの緊急かつ最優先の課題でありつづけます。自分自身の心に注意を払っていなければなりません。私たちの畑に、気が付かないうちに、悪魔がそっと悪い種をまいてゆくかも知れないからです。私たちはそれぞれに豊かさや知恵や力を手に入れて幸いに暮らしています。こう語りかけられます、「あなたは心のうちに『自分の力と自分の手の働きで、わたしはこの富を得た』と言ってはならない。あなたはあなたの神、主を覚えなければならない。主はあなたの先祖たちに誓われた契約を今日のように行うために、あなたに富を得る力を与えられるからである。もしあなたの神、主を忘れて他の神々に従い、これに仕え、これを拝むならば、――わたしは、きょう、あなたがたに警告する。――あなたがたはきっと滅びるであろう」(申命記8:17-19)。神の御心を押しのけて、御心をさしおいて、自分の思いや願いを先立ててしまいやすい私たちだからです。自分の思いや願いこそが、知らず知らずのうちにどこまでもどこまでも膨れ上がってしまいやすいからです。しかし私の思いではなく、御心が成るようにしてください。しかし私の思いではなく、どうぞぜひ御心が成るようにしてください。そのことを心から願い、喜んで受け止めることのできる私にならせてください。
20節、「しかし、霊があなたがたに服従することを喜ぶな。むしろ、あなたがたの名が天にしるされていることを喜びなさい」。自分自身の名が天に書き記されてある。そのことをこそ喜びなさい。恵みに値しない罪人を、にもかかわらず憐れむ神です。憐みを受けて、ただただその恵みによってこそ、神の国に入れていただけるはずの私たちです。例えば言葉巧みに、また雄弁に感動的に語ることが出来たとしても、賢く信仰深い知恵を仲間たちに披露できたとしても、キリスト教信仰の道理を十分に会得したとしても、聖書の言葉を思いのままに引用できても、それらは神の恵みの中の中心的な中身ではなく、しかも、それで救われるわけではありません。私たちも、また他の誰も彼もが罪に死んでいた者たちでした。けれど、ただ神の恵みによって神の国に入れていただき、神ご自身のお働きの只中にあって、そこで生きる者たちとされています。「主イエス・キリストの名によって、またわたしたちの神の霊によって、この私も洗われ、きよめられ、義とされた」(1コリント手紙6:11)のだと、あなた自身の魂に、神さまが語りかけ、「ほんとうにそうだよ」と知らせてくださるとき、そのときこそ私たちは、この自分の名前さえも、たしかに天の御父のひざ元にある命の書に書き記されてあると確かに知ることができるのです。そのことをこそ、心底から喜び感謝する私たちでありたいのです。
そのとき、私たちは救い主イエス・キリストと一つに結び合わされています。キリストが私たちの体のうちにおられます。
そのとき、私たちは、自分自身がキリストのことを書き記されたキリストご自身からの手紙とされていることに気づきます。「墨によらず生ける神の霊によって書かれ、石の板にではなく人の心の板に書かれた手紙としていただいた(2コリント手紙3:3)と。手紙なので、私たちは多くの人々に読まれ、知られます。キリストのことを書き記されたキリストご自身からの手紙とされているので、私たちの柔和さや、思いやり深い親切や、寛大さによって、へりくだった謙遜さによって、神を心から愛し、隣人を自分自身のように愛し尊ぶことによって、神への従順と誠実さによって、高清であることや平和を愛することによって、「ああ、この人は本当にキリストの手紙なんだな」と人々に知っていただくことになります。誰にでも、キリストのことを書き記されたキリストご自身からの手紙とされた私たちは、どこの誰にでもページを次々とめくられて、いくらでも、どこまででも、その手紙を読んでいただくことが出来ます。これらが救われていることの中身です。また、私たち自身と家族を救う信仰がもたらす実りです。神さまご自身が、それを成し遂げてくださいます。救い主イエス・キリストのお名前によって。つまり救い主イエス・キリストの、その御人格と御心とご自身のお働きによってこそ。