みことば/2020,2,9(主日礼拝) № 253
◎礼拝説教 ルカ福音書 10:1-10 日本キリスト教会 上田教会
『平安が この家にあるように』
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC)
10:1 その後、主は別に七十二人を選び、行こうとしておられたすべての町や村へ、ふたりずつ先におつかわしになった。2
そのとき、彼らに言われた、「収穫は多いが、働き人が少ない。だから、収穫の主に願って、その収穫のために働き人を送り出すようにしてもらいなさい。3 さあ、行きなさい。わたしがあなたがたをつかわすのは、小羊をおおかみの中に送るようなものである。4
財布も袋もくつも持って行くな。だれにも道であいさつするな。5 どこかの家にはいったら、まず『平安がこの家にあるように』と言いなさい。6 もし平安の子がそこにおれば、あなたがたの祈る平安はその人の上にとどまるであろう。もしそうでなかったら、それはあなたがたの上に帰って来るであろう。7
それで、その同じ家に留まっていて、家の人が出してくれるものを飲み食いしなさい。働き人がその報いを得るのは当然である。家から家へと渡り歩くな。8 どの町へはいっても、人々があなたがたを迎えてくれるなら、前に出されるものを食べなさい。9
そして、その町にいる病人をいやしてやり、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい。10 しかし、どの町へはいっても、人々があなたがたを迎えない場合には、大通りに出て行って言いなさい、11
『わたしたちの足についているこの町のちりも、ぬぐい捨てて行く。しかし、神の国が近づいたことは、承知しているがよい』。 (ルカ福音書 10:1-11)
ルカ福音書だけがこの出来事を報告しています。私たちの主は12人の弟子たちを町や村に送り出した(9:1-6)だけではなく、さらに72人の弟子たちをも送り出します。すると、もしかしたら第3次の派遣があり、第4、第5、第6と続き、おびただしい数の主の弟子たちが2人ずつ組にされて町や村へと、家々へと遣わされつづけてゆくのでしょう。主ご自身が行くはずの場所へ、主に先立って。送り出される際に彼らが受けた主からの指図は、とても興味深いものです。目を凝らして味わうに値します。
まず3節。多分、あの72人は格別に優れた資質を持っていたというわけでもなかったでしょう。どこにでもいるような、ごく普通の人々が、けれどなお主イエスの平和の使者として送り出されます。そこには侮りがたい危険と困難が数多く待ち構えます。「大丈夫、なんとかなるさ」などと、気休めを語ることはできません。乏しさを嘆き、恐れに打ちのめされる他ない旅です。この私たち一人一人も同じです。一筋縄ではいかない危険と困難が数多く、次々と待ち構えます。その連続です。あの彼らも私たちも、主のもとからこの世へと、つまりそれぞれの家庭や家族の只中へ、学校へ職場へ、それぞれの土地とそれぞれの集団の中へと毎週毎週送り出され、主の弟子として一週間ずつを生きて、主のもとへと水曜日や日曜日毎に立ち戻り、ふたたび送り出され、立ち戻り、また送り出され――と生きるのです。主のもとから主の弟子として遣わされ、その所々で生きる。その危険で困難な旅の期間は、ほんの数日、数ヶ月かも知れません。1週ずつ区切られた旅は、40、50年60年70年、あるいはもっと長い期間に及ぶかもしれません。
2,5-6節。「収穫の主に願って、その収穫のために働き人を送り出すようにしてもらいなさい」「平安がこの家にあるように、と言いなさい」。2種類の祈りについての主イエスからの指示です。だれかのために祈る前に、また皆のために祈る前にまず、主の弟子たちは自分自身のために祈り求めねばなりません。この私のためにも働き手を送ってくださるようにと。彼らは、自分たちの力だけでその仕事を成し遂げるようにとは求められていません。彼らを助けて、労苦や辛さを分かち合いながら共に働いてくれるものたちを必要としました。その働き手たちを送ってくださるように収穫の主ご自身に願い求めなさい、と命じられました。また、だからこそ、彼らは2人1組で送り出されたのです。ちょうど、そもそもの初めに、この世界を耕し守るために、土で造られた人が2人1組で送り出されたのと同じように。あのアダムとエヴァという名前の2人組です。「人が独りでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」(創世記2:15)。ゆだねられた土地を耕し守るという使命は、独りでは重すぎて担いきれませんでした。神からの祝福を受け取って喜びと感謝のうちに生きることも、独りではできませんでした。「これだけはしてはならない。慎め」という戒めに従って、神さまからの戒めと祝福のうちに留まって生きることも、ただ独りでは難しかったのです。2人1組である理由は、その土地を耕し守るという主からの使命を共々に担ってゆくために。2人1組である理由は、主からの祝福を受け取って共に喜び祝うために。2人1組である理由は、「これだけはしてはならない」という主からの戒めのうちに留まって生きるために。なにしろ、土の塵をこねて造られた者たち同士です。未熟であることも、ふつつかさも貧しさも、いたらなさも、それはお互い様でした。そうでしょう。だから私たちは、互いに許しあい、忍耐し合い、支えあうのです。困難な長い旅路をゆく旅の仲間たちは、道々互いに語り合います。「私の助けはどこから来るだろう。来るのか来ないのか。あるのかないのか」「何を言ってるのか。あなたは知っていたはずじゃないか。天地を造られた主のもとから来る」と互いに慰めあいます(詩121:1-)。「これだけはしてはならないと言われていたじゃないか。わきまえよ慎めと命じられていたじゃないか。あなたはもう忘れてしまったのか」と互いに戒めあいます。しかも収穫の主に願い求めつづける中で、さらに1人、また1人と、ふさわしい助け手が新しく造られ、新しく送り出され、少しずつゆっくりと働き手の輪が広がってゆきます。
4,7節。「財布も袋もくつも持っていくな。その同じ家に留まっていて、家の人が出してくれるものを飲み食いしなさい。家から家へと渡り歩くな」。前回12人の派遣の場合(9:1-6)にも、主イエスから同じ指示を与えられていました。杖も袋もパンも銭も持たず、また下着も二枚は持つな」。ひどい話です。まったく、勘弁していただきたいものです。それで、どうしろとおっしゃるのでしょう。そんなことで、現実の毎日毎日の生活が成り立つでしょうか。成り立つはずがありません。主のもとから送り出された弟子たちは、出掛けていってほんの1日か2日で、早くも生活に困りはじめます。何かをしようとする度に「さあ、どうしたらいいだろう」と頭を抱えます。食べるにも飲むにも服を着るにも不自由します。だって持っていくなと命じられたのですから。町や村へと遣わされていった弟子たちは、そこで、その土地に住む人々に頼って生活せざるをえません。「すみません。ちょっと食べ物を何か分けてもらえませんか。醤油と味噌と米と調味料と鍋を貸してほしいんですけど。それから箸と茶碗も。その玄関の隅っこで少し休ませてくださいませんか。申し訳ないけど、ちょっと手を貸してください」と。なんと不自由で肩身が狭く、心細いことでしょう。まるで、わざわざ、そのように仕向けられているかのようです。その通り。
それこそ『主の弟子として生きるための訓練』です。人様に頼り、主に頼る。主によって支えられ助けられ、人々によっても支えられ助けられる。人にも委ねながら、その中で主にこそ委ねることを学ぶのです。世渡り上手になるためではありません。流され、巻き込まれ、言いなりにされてゆくためでもありません。しかも「迎え入れられたその家に留まり、そこで出されるものを飲み食いしなさい。家から家へと渡り歩くな」と。「なぜ、よりにもよってこの家なのか。なぜ、この夫、この妻、この家族であり、どうしてよりにもよってこの職場なのだろう」と怪しみ疑うでしょう。むしろ相手のその彼らのほうが、あなたに対して度々首を傾げました。それでもキリスト教か、それがクリスチャンかと。なにしろ普段のいつもの姿を、いつもの右往左往や身勝手さやズルさを、あまりに臆病であることを、彼らの前にさらしているのです。家族への伝道が一番難しい。そのとおり、そのとおり。「家族や親しい友人たちへの伝道は、やっぱり私には無理だ」と多くのクリスチャンが諦めかけます。けれど、そここそが、あなたが耕し守るべき第一の守備範囲です。その家、その人々。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」(使徒16:31)と聴いて、私もあなた自身もその約束を信じたはずです。そうすれば、あなたも、あなたの家族も救われる。もちろんです。
9節。「神の国はあなたがたに近づいた、と言いなさい」。神の国とは、神さまが生きて働いてくださり、その所に確かに力を発揮し、神ご自身こそが力と支配を及ぼしてくださるということです。救い主が地上に降りてこられ、その方ご自身によって福音が告げ知らされ、主イエスの福音を信じて生きるものが一人また一人と起こされました。しかも、主イエスの福音の使者である彼らがその町に来たのは、その家族の只中へと送り出されてきたのは、やがて主イエスご自身がその町へ、その一軒の家へも来てくださるというしるしであり、先触れです。主がやがて自分で行こうとしている所へ、御自身に先立って、送り出されたのですから。『神の国はあなたがたに近づいた』という告知と『平安がこの家にあるように』という祈りとは1組です。主の弟子である私たちは、その一軒の家に平和があるためにこそ、主のもとから送り出されました。
付属幼稚園の子供たちに語り聞かせてきたことも、このことです。「友だちと、どうやって仲良しでいられるだろう。何でも言うことを聞いて、顔色やご機嫌をうかがってハイハイと言いなりになっても、それは仲良しじゃありません。自分の思い通りに従わせても、それは仲良しじゃありません。大きくて強そうに見える友達にもビビってはいけません。小さく弱々しそうに見える友だちも、軽んじてはいけません。付き合いにくいお友だちを、でも仲間外れにしちゃいけません。この人はこういう人だからと、簡単に決めつけてはいけません。苦しいときも、あきらめないで。あなたを助けてくれる人がきっといるから」と。これで十分かも知れませんが、大人の人たちにはもう少し語りましょう。あるとき、そこに、軽々しく他者を裁いてしまっているあなたがいます。あるとき、そこに、自分の思い通りに相手を従わせようとして、「どうしてそうなのか」と責め立てているあなたがいます。あるとき、そこに、惨めに身をかがめて言いなりにされてゆくあなたがいます。「許せない」と怒りつづけるあなたがいます。「どうして分かってくれないのか」と、すっかり失望してしまっているあなたがいます。「わたしは。わたしは」と我を張って私を主人とすることを止め、「だって、あの人がこう言う。この人がこうしろと言うから」と言いなりにされつづけて周りの人やモノを自分のためのご主人さまとすることを止めにしたいのです。主をこそ主とし、右にも左にもそれることなく心強く生き抜いてゆく私たちとなりたいのです。せっかく、神さまを信じて生きることをしはじめたのですから。兄弟たち。あなたの家にあるべき平和は、主による平和であり、主が勝ち取ってくださった平和です。あなたの職場にあるべき平和は、主による平和であり、主が勝ち取ってくださった平和です。その一人の人とあなたとの間にぜひとも回復されるべき平和は、建て上げられてゆくべき平和は、もちろん主による平和であり、主ご自身が勝ち取ってくださった平和です。この私たちが『平和と和解の使者』とされるとして、どういうふうにそれを成し遂げてゆけるでしょう。そのやり方は、コリント手紙(2)5:18-21。これは、よくよく覚えて身につけなければなりません。『神さまがキリストを通して私たちをご自分と和解させてくださった。罪の責任を問うことなく、それを確かに成し遂げてくださった』。これが、平和と和解の流儀です。していただいたとおりに、私たちもその同じやり方と流儀で働くのです。そのためにこそ、まずこの私たち自身こそが神さまと和解させていただこう、と勧められました。
町や村へとそれぞれに遣わされながら、あの弟子たちは、いったい何をしているのでしょう。主イエスの福音を伝え、イエスの弟子とする。神の国を宣べ伝える。あるいは、いつも私たちが言っているように、『伝道している』と言い換えてもよいでしょう。初めに、救い主イエスご自身が仰っていました。「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」と。また、「1人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない99人の、自分は正しいと思い込んでいる人たちに対してよりも、はるかに大きな喜びが天にある」と。罪深い、あまりに自己中心の身勝手な者であっても、なおその1人の人が神へと立ち返って生きるなら、それを大喜びに喜んでくださる神さまであったのです(マルコ1:15,ルカ15:7,10,24,32,エゼキエル18:23,31-32)。悔い改め。それは自分自身の在り方や腹のすえ方の向きを変えることです。目の前の楽しいことや嫌なこと、嬉しいことや辛いこと、自分がしてほしいこと、ほしくないことなど心を奪われ、一喜一憂して生きてきた者たちが、自分自身の腹の思いばかりに目を奪われていた者たちが、180度グルリと向きを変え、神さまご自身とその御心へと思いを向け返して生きること。そのために、この私たちも主イエスの弟子とされました。
主イエスの弟子たちは町や村へと遣わされつづけていきます。神の御前で、神さまに向かって生きる者たちが、その活動の中で1人また1人と生み出されていきます。悔い改めて、福音を信じる。神さまに背を向けて生きていた者たちがグルリと180度向きを変えて、神さまに向かって、神さまの御前に据え置かれて、そこで精一杯に生きはじめる。その、まったく新しい『方向転換』は、いつどこで、誰から始まるでしょう。私たちのための救いの時は、いつ満たされるでしょう。あなたの夫や息子たち娘たち、孫たちは大切な友人たちは、あなた自身は、いつ、どこで、どんなふうに方向転換し始め、神さまからの祝福と幸いを受け取りはじめるでしょうか。――主なる神さまへと思いを向け返すあなたを、まざまざと目の前に見たときに。悩みや辛さの只中で、「けれど私の願い通りではなく、あなたの御心のままになさってください」と願い求める1人のクリスチャンの生き様にふれたときに。そこで、そのようにして、神さまへと向かうあなた自身やこの私を見たときに。