2018年6月25日月曜日

6/24こども説教「なぜ、なんのために祈るのか?」ルカ22:39-46


 6/24 こども説教 ルカ22:39-46
 『なぜ、なんのために祈るのか?』

22:39 イエスは出て、いつものようにオリブ山に行かれると、弟子たちも従って行った。40 いつもの場所に着いてから、彼らに言われた、「誘惑に陥らないように祈りなさい」。41 そしてご自分は、石を投げてとどくほど離れたところへ退き、ひざまずいて、祈って言われた、42 「父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください」。43 そのとき、御使が天からあらわれてイエスを力づけた。44 イエスは苦しみもだえて、ますます切に祈られた。そして、その汗が血のしたたりのように地に落ちた。45 祈を終えて立ちあがり、弟子たちのところへ行かれると、彼らが悲しみのはて寝入っているのをごらんになって46 言われた、「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らないように、起きて祈っていなさい」。           (ルカ福音書 22:39-46

  十字架につけられ、殺されてしまうその前の晩に、主イエスは祈りの格闘をなさいました。43-44節と、その祈りがどれほどのものだったのかも知らされています。御使いが支えて、力づけるのでなければ、すっかり弱り果ててしまうほどの厳しい祈りを。「苦しみもだえて、ますます切に祈られた。そして、その汗が血のしたたりのように地に落ちる」ほどの祈りを。救い主イエスは本当に神でありながら、同時に人間でもあられ、私たちと同じ弱さや危なっかしさをもご自分の身に引き受けておられるからです。十字架につけえれ、人々から見捨てられ、恥とあざけりの中で罪人の死を味わうことは、主イエスにとっても苦しく辛いことだったからです。それでもなお、「わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください」と、御父への信頼と従順の中に留まりつづけることは、苦しみ悶えて、血の汗をしたたらせつづけるような戦いであるからです。
  しかも、その主イエスは弟子たちにも、「目を覚ましていて、同じように心底から必死になって祈りつづけなさい」とお命じになり、強く励ましつづけます40,46節)神さまに背かせようとする誘惑が、この私たちをも付け狙っているからです。神さまの支えなしには、誰一人も罪の誘惑に負けずに、神さまの恵みのもとに立ち続けることなどできないからです。ついつい眠っているうちに、神に逆らう罪の奴隷にされて、この私たちも、あまりに惨めで虚しい生き方へと転げ落ちてしまいかねないからです。それは恐ろしいことです。

【補足/弱く危うい者たちこそ、必死に祈りつづけよ】
弱く、案外に不信仰な自分であると自覚することができますか? それなら、あなたも祈りなさい。「悪魔の策略に対抗して立ちうるために・・・・・・祈りつづけなさい」「心は熱しているが、肉体が弱いのである」(エペソ手紙6:11-18,マタイ26:41参照)。


6/24「委ねられ、約束されている」マタイ28:16-20


                     みことば/2018,6,24(主日礼拝)  168
◎礼拝説教 マタイ福音書 28:16-20(最終回)    日本キリスト教会 上田教会
『しかし疑う者もいた』
               +これから14回の礼拝説教予定

 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
28:16 さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行って、イエスが彼らに行くように命じられた山に登った。17 そして、イエスに会って拝した。しかし、疑う者もいた。18 イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。19 それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、20 あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。                   (マタイ福音書 28:16-20)


  主イエスは十字架につけられ、死んで葬られ、その3日目に墓から復活なさいました。「故郷のガリラヤに帰り、あの山に登りなさい」と、その主から命じられていました。ですから命じられたとおりに、11人の弟子たちはガリラヤに行き、その山に登りました16節)。そこで約束どおりに、復活なさった主イエスにお会いしました。17節で「イエスに会って、拝した」と書いてあります。主イエスに対してひれ伏し、この方を拝んでいます。旧約聖書の時代にも新約聖書の時代にもその後もずっと、彼らも私たちも、『ひれ伏したり、よくよく聞き従ったり拝んだりする相手は、ただただ神さまだけ』と決めている者たちです。主イエスが十字架におかかりになる前、弟子たちはイエスさまのことを「先生、先生」と呼んで、たいへんに尊敬したり、慕ったりしていました。けれど、だからと言って、ひれ伏したり拝んだりは滅多にしなかった。ご立派な偉い大先生だとは思っていても、いままではそんなことはほとんどしませんでした。復活したイエスさまと出会って、ここで弟子たちは『ああ。やっぱり神さまだったのか』とようやく信じて、主イエスに対して、ひれ伏し拝んでいるのです(マタイ28:9,17,エステル3:1-8,列王記上19:18
  主イエスは命令なさいました。「わたしの弟子として、彼らに洗礼を施し、あなたがたに命じておいた一切のことを守るように教えよ」(19-20)。伝道伝道と、教会ではいつも熱心にいっています。そしてこの頃は、なんだかあまりうまくいかなくなって、チラシを山ほど配っても、友だちや近所の人や親戚や家族をいっしょうけんめいに誘っても、「じゃあ行ってみようか」と来てくれる人はほんの少ししかいないようです。そして皆は、「あら困った。どうしたらいいだろうか」と心細そうな顔つきで首を傾げているらしい。――え、どうしましょうですって。なんて言われていたんでしたっけ? 「わたしの弟子として、彼らに洗礼を施し、あなたがたに命じておいた一切のことを守るように教えよ」。主イエスが仰ったことは、はっきりしています。主イエスの弟子にし、また主が教えてくださったことを守るように教えること。そして、主が教えてくださったその中身こそが、主イエスの弟子である私共を、がっちりと堅く守りつづけます。なぜするかといえば、ただただ主のご命令であり、「よろしく頼みますよ」と主が私たちに大事な仕事を任せてくださったからです。それなら私共は、すべきことをすればよい。「しなさいよ」と命じられていることを、私共は心を込めて精一杯にすればよい。
  ひれ伏して、主イエスを礼拝する弟子たちの中には「疑う者もいた」(17)、と報告されています。正直な報告です。でも正直すぎるんじゃありませんか?「そこまで報告しなくたっていいじゃないか。体裁が悪いし、世間様からの評判にも立派な格式にも傷がつく」と嫌な顔をする弟子たちもいるでしょう。「ちゃんと皆が信じた」と書いたほうが見栄えも体裁もいいのに。あるいは、「命じられていたとおりに山に登った。ひれ伏して拝んだ。すると主はこう仰った」とだけ報告しておけばいいのに。あまりにバカ正直すぎます。でも、なぜ? このように聖書を読んでいて引っかかる場所に出会うとき、私たちは立ち止まって、そこでよくよく考え込みましょう。「中には疑う者もいた」とわざわざ報告しているからには、そうすべき理由もあるはずです。主イエスは仰いました;「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。本当かな、どうだろうかと疑う者たちも含めて、弟子たち皆に向かってそう仰ったのです。だから、「さあ、どうだろうか」と心配になったり迷ったりする弟子たちも、嫌々渋々と、主イエスの福音を宣べ伝えるために出かけていきました。尻込みしはじめ、逃げ腰になっていた弟子たちも、こわごわ恐る恐る出かけていきました。
 では、考えてみましょう。「そんな疑ったり迷ったりする弟子たちに大切な仕事を任せたって仕方がないじゃないか。そんなことでは、立派に務めをはたせるわけがない。主イエスをちゃんと十分に信じている、しっかりした弟子たちだけに福音を宣べ伝えさせたらいいじゃないか」と思いますか? いいえ、そうではありません。だって、主イエスは仰ったではありませんか、「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから」と。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。だから」と。ね、よくよく覚えていてください。これがキリストの教会のための主イエスご自身からの約束なのです。疑ったり迷ったり、たびたび心配になったりオロオロしたりする弟子たちです。それでも疑いながらでも、命じられたとおりに出かけていきました。命じられたとおりに、洗礼を施し、主イエスの弟子とし、教えつづけました。今でもそうです。これからもずっとそうです。そしてまた、はじめにはよくよく信じていたはずの弟子たちも、出かけていって途中で、やっぱり疑ったり恐れたり、尻込みしたりし始めたでしょう。どうしましょう。大丈夫。あのときと同じように主イエスは近づいて来て、「私は天と地の一切の権能を授かっている。だから」と語りかけてくださるからです。情けないような、ひどく惨めな気持ちになって、心がすっかり折れてしまいそうになる日々は誰にでも来ます。これからもそうでしょう。1個のキリスト教会にとっても、クリスチャンの家族1人1人にとっても。恐れや不安が山ほどあって、すっかり弱り果てて。そうしたら、ガリラヤの山の上で弟子たちに語りかけておられたその同じ主イエスが、その弟子たちの傍らにも近寄ってきて、語りかけます;「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ」(使徒18:9-10)。ね、あなたも聞きましたか。同じ主イエスからの同じ約束です。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから」と。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。だから」と。しかも、この町には私の民が大勢いると主は仰るのです。「ほんの1人か2人くらいだろう。もしかしたら、主を信じる人なんて、この町には誰もいないのかも知れない」と諦めかけていました。そうではなかった。たとえ私たちが知らなくても、まだ顔も見たことがなくたって、その人たち自身が『自分は主イエスの弟子の1人だ』なんて、今はまだ全然思ってもいなくたって、けれど何しろ、「わたしの民が大勢いる。この町にいる」と断固として仰るのですから。それならこの上田市にも、佐久平にも川上村にも長野市周辺にも塩田地区、長瀬地区、中之条地区にも必ずきっと大勢いるでしょう。同じ1軒の家に暮らす家族の中にも、主ご自身の民が隠れていて、探し出されるのを今か今かと待ち詫びているかも知れません。「いつでもどこでもどんな時にも、私こそがちゃんと一緒にいる。だから」と約束してくださった主イエスが、私共に命令しておられます。「わたしの弟子にしなさい。精一杯に教えなさい。あなたも尻込みしないで、さあ語りつづけなさい」と。
 復活の主イエスにお会いしたあの山の上、疑う者もいました。主の弟子たちの疑いは何度も何度もブリ返します。たちの悪い風邪のように、治ったかと思ったら、またぶり返し、治ったかと思ったら、またぶり返し。どうしましょうか。そう言えば、聖書の中に登場する信仰者たちは、あまりに不信仰で、ほとんどみな疑う者たちばっかりです。例えば、信仰の父と母であるアブラハムとサラも夫婦共々に、ずいぶん長く待たされた後で「救いの約束をかなえますよ」と神さまから告げられて、「嘘オ、100才の私にどうして子が生まれよう。妻も90才にもなって、どうして子を産むことができようか。できるはずもない」「私は衰え、主人もまたお爺さんになったのに、私たちに楽しみなどあるはずもない」と疑って、苦々しく笑いました。例えば士師のギデオンも格別に臆病で、「本当ですか。証拠を見せてください。もう1回もう1回」と羊の毛皮を表にしたり裏返したり表にしたり裏返したりと神さまを疑いつづけました。洗礼者ヨハネの父さんザカリヤもそうでした。主の弟子トマスも、かなり徹底して疑いつづけました(創世記17:17,18:12,士師記6:36-40,ルカ1:18,ヨハネ20:25すると多分、あなたや私も似たような者です。そうだとしてもなお私たちも、心を新たにされ、造りかえられてゆき、何が神の御旨であるか、何をすべきか何をすべきではないのか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかをだんだんと弁え知る者たちとされてゆくでしょう。生きて働いておられます神さまが、うかつな、気もそぞろの、あまりに不信仰なこの私たちにさえも、ちゃんと1つ1つ教えてくださるからです。なにしろ私たちは、主イエスの弟子とされ、主イエスから学びつづけよと命じられているのですから。教えられてきたことを守るようにと主イエスご自身から直々に命じられているのですから。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから」と。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。だから」と。
 ひれ伏して礼拝する弟子たちの中には、疑う者たちもいた。「疑う」とは、「心が引き裂かれて分かれること、信じ切れない有様」です。それが主イエスに従う弟子たちのいつもの姿でありつづけました。例えば、ガリラヤ湖を粗末で小さな舟で漕ぎ渡ったとき、またその湖の湖畔で、彼らは度々、「疑って」「主を礼拝して」「疑って」「主を礼拝して」と繰り返しました。湖の上を歩く主イエスを弟子たちが見た(マタイ14:13,31-33とき、わずかなパンと魚しかなかったのに多くの者が満たされたとき、疑い、心をさまよわせて、主から心を遠ざけようとしたとき、その度毎に彼らは主の格別な権威と力に深く驚いて、目を真ん丸に見開いて、膝を屈めさせられつづけました。主イエスとの間に距離を置こうとする弟子たちの方へ、復活の主の方から近づいて来られ、語りかけつづけます。心が引き裂かれ、信じ切れないでいる者たちも含めて弟子たち皆に、復活の主イエスは神の国の福音宣教を命じられる。つまりは主のものである働きに従事する只中でこそ、その疑いや信じ切れなさは少しずつ拭い去られていく他ないからです。主ご自身が近づいてこられ、語りかけてくださり、小舟の外側でも、自分自身の魂の内側でも吹き荒れる風や波を鎮めてくださる中で。私たちは信じたい。ますますはっきりと。
  さて、もう一つのこと。私たちが行って、主イエスの弟子とし、洗礼を施し、主イエスから命じられていたいっさいのことを守るように教えるべき「すべての国民」(19)とは、諸国民であり、諸民族です。やがてペンテコステの日に集まった人々は「自分の故郷の言葉で。わたしたちの言葉で」神の大きな働きを聞くのだし、そもそもアブラムへの祝福は「地のすべてのやから。地上の生き物たちすべて」(使徒2:6,11,創世12:3)のための祝福でした。またエジプトから脱出した神の民には、「多くの入り混じった群衆。種々雑多な人々」が新たに加えられてもいました(出エジプト12:38。預言者イザヤに対して語られた宣教命令もまた、諸国、諸民族、様々な生まれや育ちや入り混じった境遇の者のためのものでありつづけます(イザヤ42:6,49:6,51:5,60:3。しかも彼らは、それぞれ自分たちのいつもの生活の言葉で、神の大きな働きを、神の国の福音を聴くはずなのです。何とかして何人かでも救いに案内するため、むしろこの自分自身が福音に共にあずかる者となるために、その彼らのようになりなさいと私たちは促されつづけています(コリント手紙(1)9:22-23)。「わたしの弟子にしなさい。洗礼を施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えなさい」(19-20)

               ◇

なぜ、伝道であり宣教なのか。いったい何をするのか。何のために、それをするのか。19-20節の主のご委託とご命令はあまりに明確です。けれど、それと私たち自身の目の付けどころ、腹の据え方は、ちゃんと、よくよく一致しているでしょうか。主イエスの弟子にし、また主が教えてくださったことを守るように教える。主が教えてくださった中身こそが弟子たちを守るのです。なぜするかといえば、店が傾きかけているからでもなく、赤字続きで倒産しかけているからでもなく、閑古鳥が鳴きはじめているからでもありません。ただただ主のご命令とご委託であり、私たち自身と家族のための救いの約束だからです。それなら、すべきことをすればよい。できることを、せよと命じられたことを、精一杯になせばよい。してはならないと戒められていることは、決してしてはなりません。そのとき強い風や荒々しい大波に気がついて、私たちは怖くなるでしょうか。足元から沈みかけ、波が打ち寄せ、怖くなるでしょうか。なります。それならば、「主よ助けてください」(マタイ14:30と叫べばよい。必死に、主にしがみつけばよい。大慌てで、主の足元に駆け戻ればよい。主イエスの弟子たち、よくよく習い覚えてきたのはこのことです。疑う者も心をまよわせる者もいる。疑いや迷いは再燃し続けます。大丈夫。教えと、一切の権威を携えた主ご自身は、いつでも、どこで何をしていても、私どものすぐ近くにおられます(申命記30:11-14,ピリピ手紙4:5。ご主人さまであられる救い主イエス。その主にこそ全幅の信頼を寄せ、聴き従って一日また一日と生きる弟子である私たちです。



          +これから14回の礼拝説教の予定
7 1   テモテ手紙(1)1:12-17『罪人を救う救い主』
     8  創世記 1:26-2:3    『すべてのものを祝福する神』
    15    2:4-25        『荒れ果てた世界のために』
    22日  同3:1-24         『神への反逆のはじまり』
    29日  同4:1-16         『どうして怒るのか?』
 85日  同8:20-9:17      『悪いけれども救う』
  12日  同12:1-9          『祝福の出発点とされた』(召天者記念)
    19日  同12:10-20        『アブラムとサライの不信仰』
    26  出エジプト記14:1-18『鎮まれ、主の救いを見よ
9 2   同16:1-21, 31-36   『天からの恵みのパン』
     9  士師記7:1-8         『民が多すぎるので』
    16日 サムエル記上17:28-40『羊飼いの心得』
    23  列王記上19:1-14     『私ひとりだけが』
    30  ヨナ書3:1-4:11  『罪人をあわれむ神』







2018年6月18日月曜日

6/17こども説教「しかし今は、財布も剣も持て」ルカ22:35-38


 6/17 こども説教 ルカ22:35-38
 『しかし今は、財布も剣も持て』

22:35 そして彼らに言われた、「わたしが財布も袋もくつも持たせずにあなたがたをつかわしたとき、何かこまったことがあったか」。彼らは、「いいえ、何もありませんでした」と答えた。36 そこで言われた、「しかし今は、財布のあるものは、それを持って行け。袋も同様に持って行け。また、つるぎのない者は、自分の上着を売って、それを買うがよい。37 あなたがたに言うが、『彼は罪人のひとりに数えられた』としるしてあることは、わたしの身に成しとげられねばならない。そうだ、わたしに係わることは成就している」。38 弟子たちが言った、「主よ、ごらんなさい、ここにつるぎが二振りございます」。イエスは言われた、「それでよい」。   (ルカ福音書 22:35-38

  35節。「わたしが財布も袋もくつも持たせずにあなたがたをつかわしたとき、何かこまったことがあったか」と、主イエスはまず弟子たちに大切なことを思い出させました。二人ずつひと組にして町や村へと送り出した時のことです。弟子たちは、「いいえ、何もありませんでした」と答えました。このことが一番大事です。そして36-37節。「しかし今は、財布のあるものは、それを持って行け。袋も同様に持って行け。また、つるぎのない者は、自分の上着を売って、それを買うがよい。あなたがたに言うが、『彼は罪人のひとりに数えられた』としるしてあることは、わたしの身に成しとげられねばならない。そうだ、わたしに係わることは成就している」。しかし今はというのは、主イエスが十字架につけられて殺され、葬られている間のことです。ほんの数日間だけの期間限定です。その間だけは、主イエスは弟子たちを助けてあげることができません。三日目に墓からよみがえった後では、この世界の終わりまで、世界の救いが成し遂げられた後でももちろん、主イエスは主イエスに従って生きる私たち弟子を、ずっと、いつでもどこででも何度でも助けつづけることができます。だから町や村へと二人ずつひと組にして町や村へと送り出された時とまったく同じに、私たちはどこへでも手ぶらで安心して出かけてゆくことができます。どこで何をしていても、私たちには困ることなど何一つありえませんから。このことを、よくよく覚えておきましょう。やがて復活の主イエスはさらに念を押して、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。それゆえに、あなたがたは行って」(マタイ28:18-19,ルカ10:17-20,ヨハネ14:12-14,15:7-8,15:16,ローマ8:31-39を参照と指図と約束をなさいました。もちろん、困ることなど何一つありません。あなたも私も、これまでも今もこれからも、ず~っと、なにしろ主イエスにこそ聴き従って生きる弟子なので。





6/17「主イエスの復活、私たちの復活」マタイ28:1-10


                   みことば/2018,6,17(主日礼拝)  167
◎礼拝説教 マタイ福音書 28:1-10              日本キリスト教会 上田教会
『主イエスの復活、私たちの復活』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC 


28:1 さて、安息日が終って、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリヤとほかのマリヤとが、墓を見にきた。2 すると、大きな地震が起った。それは主の使が天から下って、そこにきて石をわきへころがし、その上にすわったからである。3 その姿はいなずまのように輝き、その衣は雪のように真白であった。4 見張りをしていた人たちは、恐ろしさの余り震えあがって、死人のようになった。5 この御使は女たちにむかって言った、「恐れることはない。あなたがたが十字架におかかりになったイエスを捜していることは、わたしにわかっているが、6 もうここにはおられない。かねて言われたとおりに、よみがえられたのである。さあ、イエスが納められていた場所をごらんなさい。7 そして、急いで行って、弟子たちにこう伝えなさい、『イエスは死人の中からよみがえられた。見よ、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。そこでお会いできるであろう』。あなたがたに、これだけ言っておく」。8 そこで女たちは恐れながらも大喜びで、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。9 すると、イエスは彼らに出会って、「平安あれ」と言われたので、彼らは近寄りイエスのみ足をいだいて拝した。10 そのとき、イエスは彼らに言われた、「恐れることはない。行って兄弟たちに、ガリラヤに行け、そこでわたしに会えるであろう、と告げなさい」。      (マタイ福音書 28:1-10)



 主イエスは十字架にかかって殺されてしまいました。それが金曜日の出来事です。主イエスの遺体は十字架から降ろされ、墓に葬られました。墓穴の入り口には大きな重い石が置かれ、番兵まで付けられました。「誰かが死体を盗んでいくかもしれない。主イエスは復活して今も生きているなどと嘘の噂でみんなを騙すかもしれない。そんなことになったら大変だ」と彼らは恐れたからです。日曜日の朝、夜が明けはじめる頃に、女の人たちが2人で主イエスの墓を見に行きました。そう、ここには恐がっている人たちの恐がっている様子がいっぱい出てきました。墓石の前に立って番をしていた番兵たちもガタガタ震えて、まるで死んだ人のようになっていました。主イエスの弟子たちもそうでした。あの女の人たちもやっぱりそうで、いろんなことを恐れていました。「墓を塞いでいる大きな石をいったいどうやって脇へよけたらいいだろうか、誰かが手伝ってくれるだろうか」と心細かったし、番をしているローマ人の兵隊たちが恐かったし、「主イエスを憎んで殺してしまった人たちが今度は私たちをどんな目にあわせるか、何をされるか分からない」と恐がりました。いったいこれからは何を頼みの綱として、誰を頼りに生きていけるだろうかと心細かったのです。そんな彼女たちに「恐れることはない」(5,10)と、御使いたちと主イエスご自身から繰り返して語られます。誰だっていろんなものが恐いし、強がって見せても誰でも本当はすごく心細い。小さな子供がいろんなものを恐がるだけでなく、お母さんもお父さんも。普段はとても堂々として何があってもビクともしないって顔をしている大きな立派そうに見える人であっても、やっぱりいろんなものを恐がっているし、本当はとても心細いのです。だからわざと堂々としているふりをして強がって見せています。ずいぶん長く、しかもとても幸いに生きてきたはずのおじいさんもおばあさんも。恐いものなんて一つもないなんていう人は誰一人もいません。神さまはそれがよくよく分かっています。分かった上で、「恐がらなくていい。恐がらないあなたにしてあげよう」と招いてくださっています。すごく臆病な飛びっきり弱虫のあなたでも、晴れ晴れのびのびと安心して生きていけるあなたにしてあげよう、と誘ってくださっています。
  10節。主イエスはおっしゃいました。「恐れることはない。行って兄弟たちに、ガリラヤに行け、そこで私に会えるであろう、と告げなさい」。故郷のガリラヤで弟子たちに会って、それで主イエスはどうなさるのでしょう。「わたしの兄弟たち」と言っています。あの弱虫の臆病な、それで主イエスを見捨てて自分たちだけ勝手に逃げてしまった弟子たちを、です。周りの大きな人々を恐れる思いの中で主イエスを信じる心がすっかり吹き飛ばされてしまった、あの肝っ玉の小さな弟子たちを、「わたしの大切な仲間だし、兄弟同士だ」と。あの彼らをもう一度集めて、神の国の福音を人々に伝える仕事をさせるのです。あの弟子たちはごく普通の貧しい漁師たちでした。特別に勉強がよくできたわけではなく、頭が良いわけではなく賢いわけでもなく、しかも今度は主イエスを見捨てて逃げ出した人たちです。「ああダメな自分だ。弱々しくて心細くて、全然当てにならない私だ」とガッカリしている人たちが、そのまま神さまの福音を伝える人にされます。どういうこと? そんな弱々しくてつまらない人を使わなくてはならないほど、よっぽど人手不足なのでしょうか? いいえ、とんでもない。わざわざそういう人たちにこそ、神の国の福音を伝える仕事をさせるのです。弟子たちがそうだったし、その弟子たちを呼びに行かせた女の人たちもとても心細くて恐がっていました。わざわざそういう人たちを使うのは、神の国の福音がそういう心細くて弱々しくて恐がっている小さな貧しい人たちのためのものだからです(コリント手紙(1)1:26-
 「救い主イエス・キリストは復活した」と彼らは言います。でも、それは本当のことなのでしょうか? 「弟子たちが夜中に来て、私たちが寝ている間にこっそりと彼の死体を盗んでいった。どこか別のところに死体を隠して、『イエスは死者の中から復活した』などと嘘ッパチの作り事を言いふらして、人々を惑わせている」(マタイ27:63-,28:13-参照)と言う人々も大勢います。ここで私たちも、あのときのあの彼らとまったく同じ場所に立たされます。どんなふうに生きていくのかという分かれ道に、です。今日の礼拝の一番最初に、聖書がどんなことを語ったのかを覚えていますか。コリント手紙(1)15:17-20;「キリストが復活しなかったのなら、私たちの信仰はむなしく、私たちは今もなお罪の中にあることになります。そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も皆むなしく滅んでしまったわけだし、私たちも惨めなまま滅んでしまうほかないわけです。この世の生活の中だけで、あるいは頭の中やただ心の中でだけ、キリストにほんのちょっと望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである」。これが、この信仰と、そこにある慰めの中身です。
 けれどどうしたわけか、「もっと慰めの言葉を聞きたい」と言われつづけます。「もっと人を活かす言葉を」と。奇妙なことです。キリスト教会と伝道者たちはそうした要望に応えようと慰めと癒しの言葉を何十年も何百年も語り、けれどその言葉は虚しくこぼれ落ちつづけてきたのかも。いいえ神ご自身こそが私たち人間を癒し、人間とすべての生き物を活かそうとしてきたのではなかったでしょうか。聖書をとおし、また主の働き人たちを用いて、慰めと癒しの言葉を神ご自身が語りつづけてきたはずではありませんか。それなのに、どうしたことか。立ち止まって真に問うべきだったのは、どんな慰めなのか。どこから出てきた癒しなのか。人間とすべての生き物を救いと祝福へと招き入れようとする神ご自身からの慰めと救いなのか。神ご自身からのいのちと平安なのか。あるいは、別のところから出てきた、別の慰めと救いなのか。神ご自身も私たちも慰めや癒しを心から願いつづけているとして、けれどわたしたちが思い描き、願い求めている「慰め」や「癒し」は、どこへと向かわせる慰めなのか。偽りの預言者たちがかつても今も、神を忘れさせようとして、神から離れ去らせようとして虚しい慰めをささやきつづけているからです。だからこそ主の働き人たちは「主のもとへと立ち帰れ」と呼ばわりつづけ、「悔い改めて、福音を信ぜよ」と告げつづけてきました。そういえば、キリスト教の根本的な希望と慰めを告げるローマ手紙6章は、「もし、わたしたちが死んだのなら、~生きることになる。もし、わたしたちがキリストと共に死んだのなら、また彼と共に生きる」とクドクドと語りかけます。つまり、「もし、死ななかったのならば、~生きることには決してならない」と。洗礼を受けてクリスチャンとされ、2ヶ月たち3ヶ月たち、3040年たって、けれどいっこうに新しい生命が始まる気配もない。どうしたわけか。もしかしたらずっと何十年も、古い罪の自分と死に別れ損なっているのかもしれません、この私たちこそが。古い罪の自分であることが大好きで、嫌だ嫌だとそこにしがみつきつづけているのかも知れません。この私たちこそが。死と滅びへと至る罪の奴隷状態のまま、罪と肉の思いにがんじがらめに閉じ込められつづけているのかもしれません、この私こそが。聖書自身が告げるところの『救い』の中身は、罪のゆるしです。罪あるままにいいよいいよと放置することではなく、罪深さにふかく囚われたまま平安平安と気安めを告げるのでもなく、罪の奴隷状態からの解放でありつづけます。罪から解放された者が神への従順に、具体的に現実的に新しく生きはじめることです。キリストが確かに十字架につけられ、死んで復活なさったからには、このわたしたち自身の内にある古い罪の自分もまたキリストと共に十字架につけられ、滅ぼされ、そのようにして新しい生命に生きる。それ抜きにして、どんな慰めや救いがありうるでしょう? 癒しを必要とする私たちですが、それは私たちがはなはだしく病んでいるからです。死と滅びに至る重い病いに。すると他のどの医者でもなく、格別に良い医者である神ご自身へと、私たち自身こそが大慌てで本気になって立ち戻らねばなりません。喜びと感謝にあふれて、晴れ晴れと生きるためには。主イエスは仰いました、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マルコ福音書2:17
 「クリスチャンになりたい。この主イエスというお独りの方を、本気で信じて生きて行きたい」と僕が願ったのが、30歳のときでした。あっという間に30年たちました。クリスチャンになった後でも、やっぱり恐いものがその都度その都度目の前にあって、次々にあって、悩んだり恐れたり、クヨクヨ考え込んで夜も眠れなくなるときもありました。多分きっと、心細さは死ぬまでついて回ります。それだけだったかというと、そうでもない。あの2人の女の人たちと同じに、「恐れながらも大喜びに喜んだ」8節)のでした。本当です。あの女の人たちも同じでした。ただ恐かっただけなら、「伝えなさい」と言われても黙って知らんぷりしていたでしょう。ただ恐かっただけでなく、「大喜びに喜んだ」8節)からこそ急いで走っていって、弟子たちに教えてあげることもできたのです。あなたや私も同じです。伝道伝道というけど、辛くて嫌なことなら、ただ苦労するだけの信仰なら、そんなつまらないものは人に押し付けてはいけません。自分だって、無理して我慢して抱えていなくてもいいんです。大きな喜びと慰めを味わった者だけしか、それを差し出すことはできません。「信仰をもって生きて来られて、本当に良かった。うれしかった。あのときも本当に心強く支えられ、慰められた。あの時もそうだった。あの時もあの時も。もし神さまが生きて働いていてくださらなかったら、その神を信じることができなかったとしたら、あの時、私はどうなっていたか分からない。つくづく私は幸せ者だ」と思い知ってきた、その格別な喜びと幸いを魂に刻み重ねてきた者だけしか、それを伝えることはできないのですから。主イエスは復活なさいました。その主が私たちに新しい生命を約束し、その生命の中に生きるようにと招いてくださっています。もし本当かも知れないと思えるなら、そして、そこにワクワクするような喜びがたくさんあるかも知れないと思えるなら、その誘いに乗ってみてもいい。そうでなければ、「いいえ、いいですよ。私は遠慮しておきます」と言ってそのまま通り過ぎてもいい。どっちでもいい。好きなほうを、あなたが自分で選ぶのです。
 都に向かう旅の途上で、救い主イエスはご自分の十字架の死と葬りと復活を弟子たちにくりかえし予告しつづけました。今日でも、これこそが語られ続けます。主イエスの弟子たちよ。なぜなら主イエスが死んで復活なさったからには、主を信じて生きる私たち一人一人もまた古い罪の自分を殺して葬り去っていただき、それと引き換えのようにして新しい生命に生きる者とされるからです。主イエスは仰いました、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか」(マタイ16:24-26もちろん主なる神さまは私たちに、喜びや楽しみをすっかり捨て去れなどと命じるのではありません。意味なく、ただやたらに苦痛や困難を求めよなどと乱暴な要求を突きつけるのでありません。けれど、鎮まって考えてみるならば、たしかに捨て去るべき『自分』があり、背負うべき『自分の十字架』があります。なぜなら、あまりに自己中心すぎる私たちです。小さな子供のように自分の気持ちや好き嫌いばかりを先立てて、それに頑固にしがみつき、「私は私は」と我を張りつづける私たちです。それでは、いつまでたっても主に従って生きる新しい生命が始まりません。肉の思い・腹の思いの言いなりにされて、それに引き回されて生きるなら、その惨めな私たちは死ぬほかはないからです。腹の思いと働きを殺すなら、そこでようやく私たちは生きるからです(ローマ8:12-13参照)
不思議な言い方がされています。「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう」(25)。自分の考えや願い通りに生きることが『自分の命』だと思い込んでいました。けれど、それは命でもなんでもなく、むしろ私を狭くて薄暗い場所に閉じ込めるだけの、古い罪の奴隷ではありませんか。そんなつまらない命を抱え続けていては、私たちはただウジウジと死んでゆくばかりです。そんな古い罪の自分などポイと投げ捨ててしまいましょう。「私の願いや気持ちや好き嫌いの通りではなく、ただただ御心のままになさってください」と、主イエスに従って生きることを、この私たちも、し始めることができます。もし、神さまからの新しい生命と慰めを求め、それだからこそ主イエスにこそ聴き従って生きてゆきたいと願うのならば。
 もし、あなたがそれを願うのならば。