みことば/2018,2,11(主日礼拝) № 149
◎礼拝説教 マタイ福音書 25:31-46 日本キリスト教会 上田教会
『私が飢えていたときに』
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)(ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC)
25:31 人の子が栄光の中にすべての御使たちを従えて来るとき、彼はその栄光の座につくであろう。32
そして、すべての国民をその前に集めて、羊飼が羊とやぎとを分けるように、彼らをより分け、33 羊を右に、やぎを左におくであろう。34 そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。35
あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、36 裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである』。37
そのとき、正しい者たちは答えて言うであろう、『主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。38
いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。39 また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか』。40
すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。41
それから、左にいる人々にも言うであろう、・・・・・・45『あなたがたによく言っておく。これらの最も小さい者のひとりにしなかったのは、すなわち、わたしにしなかったのである』。46
そして彼らは永遠の刑罰を受け、正しい者は永遠の生命に入るであろう」。 (マタイ福音書 25:31-46)
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理解することがとても難しい聖書箇所の1つです。
もし、ここだけを文字通りに、書かれているとおりに読むならば、福音の本質をすっかり読み間違え、見失ってしまうでしょう。なぜなら、「親切な良い行いをしたかどうかによって救われる者と滅びる者とを選び分ける」と書いてある、かのように見えるのですから。けれど、聖書全体が告げる福音の本質は違います。良い行いによってではなく、ただ恵みによって、救い主イエスを信じる信仰によって救われる。ふさわしくない罪人が、にもかかわらずただ憐れみを受け、ゆるされて救われる。救いの道筋はこの1本道しかない(ローマ手紙3:21-26,同4:16,同5:6-11,同10:9-13,テモテ手紙(1)1:13-16,ペテロ手紙(1)2:10参照)。だから、とても難しく、勘違いしやすい危ない聖書箇所です。それなら、なぜ、このように書かれているのか。良い行いがどうでもいいわけじゃなく、とても大切。救われて神の子供たちとされた者たちは、神から贈り与えられたその恵みの結果として、だんだんと良い子になっていきます。良い行いをすることが救いの条件ではなく、救われた者は、その後からだんだんと良い行いをする者たちへと新しくされてゆくのです。神さまが、それをしてくださいます。
すぐ目の前に、この自分よりもほんの少し小さな、ほんの少し弱々しい、ほんの少し人から迷惑がられたり除け者扱いされたり、軽く見られている、心細く惨め~な人がいるとします。神さまは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」(出エジプト記20:13-17,マタイ22:34-40)と私たちに告げます。あなた自身のように。その意味は、もし、そこにいるその人を自分自身だ、自分と同じだと感じることができるなら、その人を大切にしてあげることができる。思えないなら、できない。もし思えないなら、その人がいくら困っていても、可哀そうでも心細そうにしていても、あなたは知らんぷりをしつづけます。自分さえよければそれでいいと自分のことばかり考える、ひどくわがままで意地悪で冷たい人間でありつづけ、それで、ほんの少しも心が痛くならない。恐ろしいことですね。終わりの日に、救い主イエスがこの世界にやってきて、私たち皆を裁きます。そのとき、何て言って誉められたり叱られたりするのかを、私たちはよくよく覚えておきましょう。まず、35-40節。「あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである』。そのとき、正しい者たちは答えて言うであろう、『主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか』。すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』」。その人たちは、全然覚えがありません。42節以下、『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことだ』と言われても、なんのことかサッパリ分からないのです。もう一方に集められた人たちに向かっても、救い主イエスはこう仰います。「あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせず、かわいていたときに飲ませず、旅人であったときに宿を貸さず、裸であったときに着せず、また病気のときや、獄にいたときに、わたしを尋ねてくれなかったからである』。そのとき、彼らもまた答えて言うであろう、『主よ、いつ、あなたが空腹であり、かわいておられ、旅人であり、裸であり、病気であり、獄におられたのを見て、わたしたちはお世話をしませんでしたか』。そのとき、彼は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。これらの最も小さい者のひとりにしなかったのは、すなわち、わたしにしなかったのである』(42-45節)。それから、もちろん、こんなことも仰いますよ。「あのときの、あれはたしか君だった。君のことだ。君は、わたしが友だちから馬鹿にされたり、からかわれていたり、除け者扱いされていたとき、黙って、面白がって、ニヤニヤしながらただ眺めていたねえ。君は、その悪い友だちといっしょになって、からかって笑い物にしたねえ。あのとき笑い物にされ、除け者にされて悲しい嫌~な思いをしていた小さな者、あれは、私だったんだよ」と。
思い浮かべてみましょう。再び来られる救い主イエスは、変装の名人だったのです。私たちが思っても見なかった、似ても似つかない姿形でやってきます。いつも目にする、なんだか邪魔で目障りな、「あんな奴が目の前にいなけりゃ、どんなに晴れ晴れ清々するだろう。チェッ」とか、そういうふうに人から見られ、「そばに来ないで。どこかヨソに行ってよ、シッシッ」などとあちこちで冷たく追い払われる小さな人たちの姿で。いいえ、すでに私たちの目の前に何度も何度も来ておられました。「あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである」(40節)。「その温かい心遣い、その労わり、あなたが折々に差し出してくれたその慰めは、それは私にしてくれたことだ。とても嬉しかった。あなたの目の前に立っていた小さな1人の人。それは、この私自身だ」と主イエスは仰います。私たちが信頼を寄せ、目を凝らして仰ぎ見ているのは、「それは私自身だ」とおっしゃるこのお方です。最も小さい、心細い、惨めな淋しい者の1人の姿をとったこの私を、あなたはどうするつもりなのか。
なぜ、その人に心細い惨めな、嫌~な思いをさせてはいけないのか。なぜ、心を痛めさせてはいけないのか。なぜ、その人ががっかりして隅っこで小さくなっているのをそのままに放っておいてはいけないのか。なぜ傍らに立って、手を差し伸べてあげるべきなのか。聖書は証言します。「その1人の兄弟のために、キリストは死んでくださった」(ローマ手紙14:15,コリント手紙(1)8:11)と。しかもキリストは、その1人の兄弟のうちに生きてくださるからです。だから、キリストに対してするように、それと同じように、目の前の小さな1人の人に対してしなさい。それは断固たるご命令であると共に、それこそが同時に! キリストの教会自身に対する祝福であり、クリスチャンである私たちに対する格別な祝福です。主のものである小さな羊たちの世話をし、互いに心を配りあい、手を差し伸べあうことこそ、私たちが主から恵みと幸いを受け取る場所です。世話をしあい、互いに養いあい、その只中で恵みと幸いを受け取るあなたになることができる、という神さまからの約束です。
この最も小さい者の1人にしてくれたことは、この私にしてくれたことなのだ(40節)。小さな1人の人とは誰のことなのかを、私たちははっきりと知っておきましょう。私たちを幾重にも取り囲んでいる《最も小さい人々の顔ぶれ》を告げて、聖書は証言します。友だちの中に、その人がいます。隣近所や同じ町内や同じ団地の中に、その人がいます。あなたの夫や妻が、あなたのための小さな人です(コロサイ手紙3:19-4:1)。あなたの子供たちが、あなたのための小さな人である。あなたの年老いた父や母が、あなたのための小さな人である。あなたの職場の部下や上司たち、同僚たちが、あなたのための小さな人である。主を信じる者にふさわしくあなたは、その目の前の人たちに仕えなさいとは、このことです。主を信じ、主イエスにこそ聴き従って生きる私たちです。人にへつらおうとして、うわべだけで仕えてはならない。真心を込めてとは、このことです。何をするにも、誰に向かってするにも、人に対してではなく、主に対してするように。《主に対してするように》。それは、言葉のあやではなく、たとえや比喩でもなかったのです。何ということでしょうか。文字通りに、そこで、そのようにして主に対してしている私たちです。そこでそのようにして、主であるキリストに仕えている私たちです。では、そこで、その人に対して何をすべきであり、何をしてはならないのか。なにを語りかけるべきであり、何を言ってはならないのか。改めてこまごまと指図されるまでもありません。よくよく知らされている私たちです。なぜなら私たちには、「天に主人がおられます」(コロサイ手紙3:22-4:1参照)。その主人は隠れた姿をもって、ごく普通のどこにでもいるような、当たり前の人々の姿形をもって、私たちを何重にも取り囲んでおられます。1杯の水を求めながら。腹を空かせながら。心細そうに肩をすくめて、うなだれて人知れずに小さな溜め息をつきながら。「どうしたらいいだろう。誰が私を支え、私の傍らに立ってくれるだろう」と途方に暮れながら。あなたの夫や妻の心の痛みをもって。あなたの子供たちの淋しさをもって。ふつつかな小さな人の失望や落胆の顔つきをもって。その1つ1つの顔つきや眼差しを、私たちは思い浮かべることができます。ご覧なさい。そこに主がおられます。
そして皆さん。今日ここに集まった私たち自身が、折々に、小さな者の1人でもありました。それとも、もうすっかり忘れてしまったでしょうか。あの時のことです。そして、あの時。あの時にも。ほら、あなたが裸だったとき、寒さに凍えそうだったとき、やさしく服を着せかけてくれた者がありました。あなたががっかりして心細い惨めな思いを噛みしめていたとき、「ここで休んでいきなさい」と宿を貸してくれた者があったことを。1杯の水を飲ませ、「大変でしたね。調子はどうです。何か手元にほしいものがありませんか」などとあなたを見舞い、あなたを訪ねてくれた者たちがあったことを。枕もとに屈み込んで抱え起こし、また背中や足をいつまでもいつまでもさすってくれた者があったことを。たまたま偶然に、親切な人や家族がそこにいたと思っていたのでしょうか。あなたの目の前に立っていたその人。林檎の皮をむいたり、すりおろして、口元に運んでくれたその人。それは、姿を隠したキリストご自身だったのです。何ということでしょう。互いに1杯の水を飲ませあい、「大変だったね。大丈夫かい」などと見舞いあいながら、互いに心を配りあいながら、私たちは不思議な仕方で主イエスと出合いつづけてきました。1人の兄弟の姿を通して、主イエスご自身が、こんな私にも1杯の水を飲ませ、私にさえも食べ物を与え、裸の私に着るものを着せかけてくださり、私を見舞い、私のためにも心を砕いてくださり、私を格別な仕方で慰めつづけてくださいました。ご覧ください。隠れた姿の救い主イエスが、そこにおられます。あなたがいる場所に、家にいても道を歩いている時にも朝も昼も晩も、救い主イエスが、そこに必ずいてくださいます。「いつも共にいて、必ず救う」という主イエスご自身からの堅い約束です(申命記31:8,マタイ1:23,同18:20,同28:20)。