2018年2月19日月曜日

2/10「人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった」創世記2:4-25

                           号外/2018,2,10 結婚式のメッセージ
◎礼拝説教 創世記 2:4-25                       日本キリスト教会 上田教会
『人と妻は二人とも裸であったが、
恥ずかしがりはしなかった』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

2:4 これが天地創造の由来である。主なる神が地と天とを造られた時、5 地にはまだ野の木もなく、また野の草もはえていなかった。主なる神が地に雨を降らせず、また土を耕す人もなかったからである。6 しかし地から泉がわきあがって土の全面を潤していた。7 主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。8 主なる神は東のかた、エデンに一つの園を設けて、その造った人をそこに置かれた。9 また主なる神は、見て美しく、食べるに良いすべての木を土からはえさせ、更に園の中央に命の木と、善悪を知る木とをはえさせられた。・・・・・・15 主なる神は人を連れて行ってエデンの園に置き、これを耕させ、これを守らせられた。16 主なる神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。17 しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。18 また主なる神は言われた、「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」。
19 そして主なる神は野のすべての獣と、空のすべての鳥とを土で造り、人のところへ連れてきて、彼がそれにどんな名をつけるかを見られた。人がすべて生き物に与える名は、その名となるのであった。20 それで人は、すべての家畜と、空の鳥と、野のすべての獣とに名をつけたが、人にはふさわしい助け手が見つからなかった。21 そこで主なる神は人を深く眠らせ、眠った時に、そのあばら骨の一つを取って、その所を肉でふさがれた。22 主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り、人のところへ連れてこられた。23 そのとき、人は言った。
「これこそ、ついにわたしの骨の骨、わたしの肉の肉。
男から取ったものだから、これを女と名づけよう」。
24 それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。25 人とその妻とは、ふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった。(創世記 2:4-25)


まず4-7節です。神さまによって造られた初めのとき、この地上は草一本も生えない、荒れ果てて荒涼とした物淋しい大地だったと報告されます。どうしてかと言うと、その理由は2つ。まず、(1)雨がまだ大地に降り注いいなかったこと。また、(2)その恵みの雨を受けとめて土を耕す人がいなかったから(5)。雨と、そして土を耕す人。この世界が生命にあふれる、青々とした素敵な世界であるためには、雨が大地にたっぷりと降り注ぎ、そしてその恵みの雨を受けとめて土を耕す人がそこにいる必要がありました。「いつごろ雨が降るだろう。まだかなあ」と空を見上げて待っていましたら、空の上からではなく、地面の下から水が湧き出てきて大地を潤しました。土を耕す人も、わざわざ土の塵からペタペタペタと泥をこねて造られました(6,7)泥人形のように、土の塵で人が造られた。神さまがその鼻に生命の息を吹き入れた。それで、人は生きる者となった。そのことを、ずっと考え巡らせてきました。「オレって何て馬鹿なんだろう。なんて臆病でいいかげんで、ずるくて、弱虫なんだろう。ああ情けない」とガッカリして、自分が嫌になるときがあります。そういうとき、この箇所を読みました。「どうして分かってくれないんだ。なんで、そんなことをする」と周りにいる身近な人たちにウンザリし、すっかり嫌気がさしてしまいそうになるときに、この箇所を読みました。どんなに強くてしっかりしているように見える人でも、それでもなお、堅い石や鉄やダイヤモンドで造られた人なんか誰1人もいないのです。土の塵で、泥をこねて造られた私たちです。土を耕して生きるはずのその人も、土でできている。どういうことか分かりますか? その人の中に小さな1粒の種が芽生え、大きく育ち、素敵な花を咲かせ、やがて嬉しい実を結ぶためには、その人自身のためにも、やっぱり(1)恵みの雨と、(2)その人を耕してくれる別の耕す人が必要だってことです。もし、そうでなければ、その人も直ちにカラカラに乾いて、干からびて、草一本も生えない寒々しく荒れ果てた淋しい人間になってしまうかも知れなかった。しかも土の塵。石や鉄やダイヤモンドでできたビクともしない人など1人もいません。ですから、あんまり乱暴なことを言ったりしたりしてはいけません。あんまりその人が困るような無理なことをさせてはいけません。壊れてしまっては大変です。例えば信治には、互いの土地をずっと耕し合いつづけてきた賢治がいる。畑仕事を大好きにしてくれた千葉の信雄じいちゃんがいる。中学、高校のバスケの監督や大切な仲間たちがいた。それらの人々は信治という土地を耕してくれた人たちです。種を蒔き、雑草をむしり、肥料をほどこして。おくがの村の師匠の糸賀盛人さんと奥さん、村の人たち。津和野町の人たち、酒蔵のご主人、他にもたくさん。有季ちゃんの土地を耕し守ってくれた格別な働き人たちもいました。大石家の寅さんと奥さんと姉さん兄さんたち。長崎教会と筑紫野教会、この姫松教会の人々、職場の同僚たちもそうです。父さん母さんと奏ちゃんと和歩くんと。それらの人々こそ、この2人のための恵みの雨、土を耕し守る格別な人々でありつづけました。ありがとうございます。
  18節。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」。結婚相談所のキャッチフレーズではありません。結婚をしないで、ずっと独身で生涯をとても幸いに生きる人たちも大勢います。そうだとしても、その人たちも、ただ独りで生きているわけではありません。さて、「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」。これは、ただそれだけで語られているのではなくて、4-7節の成り立ちと、15,16,17節のつながりの中に置かれています。「主なる神は人を連れてきて、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し守るようにされた。主なる神は人に命じて言われた。『園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう』」。そして、だからこそ主なる神は言われるのです。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」と。素敵なエデンの園に連れてこられました。何のため? そこを耕し守るためにです。(1)その土地を耕し守って生きる、という大切な働きと役割。(2)すべての木から取って食べなさい、とあまりに気前よく恵みと祝福を与えられました。(3)ただし、『これだけはしてはいけない。慎んで留まれ』と戒めも与えられて。働きと役割。祝福と恵み。そして『これだけはしてはならない』という戒め(15,16,17)。しかも土で造られた私たち人間はあまりに不完全で、ひどく未熟でした。たびたび繰り返して意固地になり、心を閉ざして独り善がりになりました。ね、だからです。だからこそ、人が独りでいるのは良くない。独りでは、その土地を耕して守るという大きな重い務めを担いきれないからです。独りでは、あまりに気前よく与えられた祝福と恵みを本当に嬉しく喜び祝うことができないからです。独りでは、『これだけはしてはいけない。ダメだよ、止めなさい』という戒めのうちに身を慎んで留まることなどとうていできないからです。どうぞ、目の前のその人の不出来さ、了見の狭さ、うかつさをゆるしてあげてください。何度でも何度でも大目に見てあげてください。大目に見てゆるしながらも、それでも、その人が間違うときには「それは違う」、してはいけないことをしようとするときには「してはいけない」と折々に戒めることも互いにし合いたい。なぜなら私たちは生身の人間にすぎないからです。そういう兄弟が、助ける者として傍らに立っていてくれるならば、私たちは共々に、同じ1つの狭い土地を耕し守って生きることができるでしょう。安らかに晴れ晴れとして生きて、やがて祝福のうちに死んでゆくこともできるでしょう。
 信治と有季ちゃんも2人のためのエデンの園に連れてこられ、そこに据え置かれます。おくがの村です。朝昼晩とあなたたちが暮らすいつもの場所、いつもの家と家族、いつもの仲間たちと職場、そこが、信治と有季ちゃんのためのエデンの園です。その土地を耕し守って生きるという、あなたたちのための大切な役割と格別な祝福です。

       ◇

さて、もし、この二人が神を信じて生きていきたいと願っているなら、もう少し言い添えておくことがあります。どんなふうに暮らしていきましょうか? 「家族や仲間たちや隣人を愛し、精一杯に人と付き合い、骨惜しみせずよく働き、その後で、もし時間の余裕があったら神さまとも少しはお付き合いをする?」。いいえ、とんでもない。もし神を信じて、神さまから恵みと幸いを受け取りつづけて生きていきたいと本気で願うのならば、そうではありません。「第一に、なにより神を愛すること」(マタイ22:34-40と聖書は告げました。「なにしろ神が第一」と世々の教会は習い覚えつづけてきました。わざわざそう言うのは、水は低いほうへ低い方へとどんどんと流れ落ちてゆくからです。私たちはその水のようです。他に大切な用事や仕事や約束事が次々と出てきて、ふと気がつくと、神を愛することが二の次、三の次にされ、どんどん後回しにされつづけていき、やがて間もなく神のことを少しも思う隙のない、自分自身の腹の思いと周囲の人間たちのことばかり思い煩いつづける、心細く虚しい生活の中に沈み込んでしまうかも知れません。それは恐ろしいことです。例えば、夫婦が夫婦として一個の人間同士として愛し合い、尊び合い、一緒に生きることを互いに喜び合いつづけるのは、なかなか難しいことです。「愛している」と言いながら、自分の思い通りに言いなりにその相手を従わせたくなります。良かれと思って、けれど相手を苦しめたり、困らせたりしてしまうこともあります。「愛される」ことも難しいです。ゆるすことも信頼することもできなくなって、相手が何を考え、何を願っているのかもすっかり分からなくなって、淋しく背を向け合う日々が来るかも知れません。「どうせ分かってもらえない」と互いに心を閉ざしあってしまうかも知れません。夫婦も親子も、親しい仲間同士も。ぼくと真理も繰り返し大失敗して、「一体となる」はずがバラバラに砕け散ってしまいそうな崖っぷちが何度も何度もありました。神さまがつなぎとめてくださいました。多分、信治と有季ちゃんにもそういう日々があるでしょう。その崖っぷちの日々を乗り越えて、幸いに生涯ずっと良い助け手同士として添い遂げることができるでしょうか? 親しい仲間同士も同じです。誰でもとても弱くて、心細くて、独りで生きてゆくことなどできません。助けてくれる者が傍らにいてくれなければ。助けてくださる神が傍らにいてくださると気づいているのでなければ。そのために、あなたがたにとっては、神を本気で信じて生きることこそが肝心要の生命線でありつづけます。それが、新しく始まろうとするこの家族の土台です。だから、いちばん大切な第一の戒めです。あなたがたのためにも神は生きて働いておられ、他のどこからでもなく、ただただ天地を造られた神から、あなたがたのための助けが必ず来ます。主こそが私たちの思いを励まし、戒め、私たちの心を夜ごと諭し、生命の道を教えてくださる。そうであるからこそ、私たちは揺らぐことがない。そうでなければ、右へ左へと揺さぶられっぱなしだ。創世記2章の結びに、「2人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった」。この2人も自分たちが裸で小さくて、あまりに未熟で世間知らずで弱々しいってことを、小さな頃から知っていました。まわりにいる人間たちのことを恐がって、たびたび臆病風に吹かれました。神さまを信じて生きはじめる前には、まわりの強そうで何でも分かっていそうな賢そうに見える人間たちが恐くて恐くて、ビクビクして縮みあがっていました。何をされるか分からないと。何十年も神さまを信じて生きてきたはずの私たちクリスチャンたちも、たびたび周りにいる人間たちのことが恐ろしくなって、「あの人たちから何と思われるだろうか。どう見られてしまうだろう」などと心細くなって臆病風に吹かれます。そのときには大抵、神さまのことを忘れて、どんな神様なのかがすっかり分からなくなっています。だからです。だから、神ではない人やモノを恐がりはじめます。けれど、「神さまこそが自分たちよりもほかの誰彼よりも千倍も万倍もずっと強くて大きい」と思い出して、「神さまこそが、私やこの人が幸せに生きていくために神さまこそがちゃんと十分に守っていてくださる、本当にそうだ」と分かって、それでやっと安心しはじめます。その繰り返しです。実は、誰でも皆そうで、強がって見せても本当はとてもとても心細い。救い主イエスの弟子たちも何度も何度も臆病風に吹かれつづけて、けれどやがてとうとう神さまを本気で信じはじめました。とてもご立派で強くて賢そうに見える人たちに取り囲まれて厳しく脅かされたときに、胸を張って、晴れ晴れ清々して答えました。「神に従わないであなたがたに従うことが神の御前に正しいかどうか考えてください」と(使徒4:19,テモテ手紙(1)1:15-16,フィリピ手紙2:6-11,16:7-11。しかも信治と有季ちゃんが、神を自分のための神とするかどうかを自分自身で選び取ります。神さまによくよく信頼すること。周囲の人間たちにではなく、自分の腹の思いに聴き従ってでもなく、神さまの御心にこそ聴き従って一日また一日と暮らすことを習い覚え、困ったことや苦しみの只中にあっても神にこそ助けを1つ1つ願い求め、支えられ、助けられつづけて生きることができるなら、もしそうであるならば、その人たちはとても幸いです。