2018年2月4日日曜日

1/28こども説教「神に従って生きることができる」ルカ18:23-30

 1/28 こども説教 ルカ18:23-30
 『神に従って生きることができる』

  18:23 彼はこの言葉を聞いて非常 に悲しんだ。大金持であったからである。24 イエスは彼の様子を見て言われた、「財産のある者が神の国にはいるのはなんとむずかしいことであろう。25 富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。26 これを聞いた人々が、「それでは、だれが救われることができるのですか」と尋ねると、27 イエスは言われた、「人にはできない事も、神にはできる」。28 ペテロが言った、「ごらんなさい、わたしたちは自分のものを捨てて、あなたに従いました」。     (ルカ福音書18:23-28

  役人でもあり大金持ちでもある人が主イエスのところに来て、けれど悲しみながら立ち去っていきました18-25節)。この人は大好きな宝物をたくさん持っていて、しかも、とても自惚れ屋さんでした。大好きなたくさんの宝物のほうが、この人には、「神さまに従って生きること」よりも何倍も大切でした。しかも、「自分はちゃんとやってきた。何でも分かっている立派な私だ」と自惚れる気持ちがとても大きかったので、それも邪魔でした。小さな子供のようになる必要がありましたが、それは大嫌い。それで、この人はガッカリして帰っていきました。
  28節、「ごらんなさい、わたしたちは自分のものを捨てて、あなたに従いました」。エヘンと胸を張って自慢したペテロも、実は帰っていったさっきの人と同じでした。「自分はちゃんとやってきた。何でも分かっている立派な私だ」と自惚れる気持ちがとても大きくて、神さまに従って生きることを邪魔しつづけていました。それでも主イエスに従って来られたのは、ペテロが自分の力でしたことではなく、何でもできる神さまがしてくださったことでした。けれど、少しも叱られていません。「その考えは大間違いだ」とも言われません。お咎めナシです。今はまだペテロには分かりませんが、ずいぶん後になってから分かるときが来るからです(*1。『神にはできる。神にできないことは何一つない』(*2という一番大事なことが分かるためには、ペテロも私たちもまだまだ長い時間がかかる、かも知れません。ゆっくりと時間をかけてであれ、あっという間であれ、神さまこそが、ちゃんと十分に習い覚えさせてくださいます。





    【補足/伝えるべき時がある】(*1
     金持ちとペテロはまるで双子の兄弟のように、よく似ています。「子供の頃から皆すべて守ってきました」、「ご覧下さい。ほら、何もかも捨てて従ってきました」。エヘン、オホンと自惚れる二人に対して、主イエスからの最終的な答えは「人にはできない事も、神にはできる」27節)です。けれど二人とも、この大切な答えを受け取り損ねています。今は、二人とも理解することも受け取ることもできません。金持ちの人が悲しみながら立ち去ったように、ペテロも自分自身を恥じて、自分にすっかり絶望して(ルカ22:54-62参照)、その後で 27節の究極の答えを受け取ることになります。自分自身を恥じて、自分に絶望することが、『神を信じて新しく生きる』ことの下準備であり、出発点です。自信過剰だった彼らは、それまでは「神を」ではなく、神の代わりに「自分自身を」信じていたのですから。「神の力は私たちの弱さの中に十分に現わされ、発揮される。そこでようやく、神の恵みは私たちのためにも十分となる。それまでは、私たち自身の強さ、自信過剰と傲慢、心のかたくなさが、神ご自身の働きを邪魔しつづけていた」(コリント手紙(2)12:6-10参照)と聖書は証言します。

    【補足/神にはできる】(*2
     全能の神、何でもできる神です。私たちの理解や、科学や物理法則などの一般常識さえもはるかに飛び越えて、何でもできる神です。そんなバカな、と誰でも言いたくなります。聖書の中で直接に神から念入りに指導を受けたのは、このペテロと、アブラハムの妻サラ、ヨブ、イエスの母マリア、パウロの5人。とくにヨブは、「無知をもって神の計りごとを覆うこの者は誰か」と厳しく叱りつけられて、ハッと気づきました。なんと思い上がっていた浅はかな自分だろうかと恥じ入って、同時に、喜びにあふれて神の御前にひれ伏します。神を本気で信じて生きることが、そこから始まっていきます(当箇所,創世記18:14,ヨブ記42:1-6,ルカ福音書1:26-38,コリント手紙(1)1:18-2:5,ピリピ手紙4:11-13)。