みことば/2017,6,4(聖霊降臨日の主日礼拝) № 114
◎礼拝説教 マタイ福音書 17:22-23,ローマ手紙 6:1-11
日本キリスト教会 上田教会
『殺され、葬られ、
新しく生きはじめる』
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)(ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC)
6:1 では、わたしたちは、なんと言おうか。恵みが増し加わるために、罪にとどまるべきであろうか。2
断じてそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なお、その中に生きておれるだろうか。3 それとも、あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。4
すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。5
もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。6 わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。7
それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである。8 もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる。・・・・11
このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである。 (ローマ手紙 6:1-11)
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救い主イエスは、弟子たちとともにエルサレムの都へと向かう旅路を歩んでいました。その途中で、繰り返し何度も何度も弟子たちに、ご自分の成し遂げるはずの救いの御業について語り聞かせました。「人の子は人々の手にわたされ、彼らに殺され、そして三日目によみがえるであろう」(マタイ12:40,同16:21-26,同17:22-23,同20:19)。主イエスに従ってゆく弟子たちは、それを受け止めることがなかなかできませんでした。やがてしばらくして、主イエスが十字架につけられて殺される前の晩の最後の食事は、そのパンと杯は、成し遂げられようとする救いの御業を弟子たちに受け止めさせるための飲み食いでした。その飲み食いこそが、神をこそ信じて信仰をもっていきてゆくためのとても大事な教育でした。パンを掲げ、「これは私の体である」。杯を指し示し、「この杯は、わたしの血による新しい契約である。飲むたびに、わたしの記念として、わたしを心に覚え、魂に刻みなさい。十字架の上で引き裂かれるわたしの体と流されるわたしの血をあなたがたの血とし肉とするために、飲み食いしなさい」(マタイ26:26-29,コリント手紙(1)11:23-29参照)と。なぜなら主イエスの弟子たちよ。救い主イエスと同じ道筋をたどって、この私たちは救われるからです。殺され、葬られ、そのようにして新しい生命を神さまから受け取りはじめて。それは恐ろしいことでもあり、気が進まない、自分の好みや性分にも合わないとても苦い薬でもあったのです。けれど無理にもその苦い薬を飲み込むのでなければ、新しい生命も、新しい生き方や新しい喜びと希望も、神からのすべての恵みも、決してあり得ませんでした。
さて、ローマ手紙6:1-11。この6章こそ、キリストの教会と一人一人のクリスチャンにとって極めて重要です。洗礼を受けたはじめの日から息を引き取る最後のときまでの、つまりクリスチャン一人一人の全生涯にわたる人生設計がはっきりとここで告げ知らされているからです。6章1-3節と15-16節、ほぼ同じ言葉がしつこく繰り返されています。「恵みが増し加わるために罪に留まるべきだろうか。断じてそうではない。罪に対して死んだ私たちが、どうしてなおその中に生きておれるだろうか。それとも、あなたがたは知らないのか」「恵みのもとにあるからといって、私たちは罪を犯すべきだろうか。断じてそうではない。あなたがたは知らないのか」。ね。ほとんど、そっくりそのままです。この手紙も含めて、新約聖書に収められている手紙のおよそ半分ほどを書いたパウロは、たびたびこういう口調でモノを語ります。けっこうトゲトゲしいし、皮肉っぽいですね。偉そうだとか『上から目線』だとか槍玉にあげられ、それだけで無視されたり反発されたりもします。困りました。けれど特に、「あなたがたは知らないのか」は彼の大事な語りグセです。大切に思うことをなんとかして相手に伝えよう、ぜひ受け止めてもらいたいと願うとき、このように語り出します。「あなたがたは知らないのか。当然知っているはずだし、よくよく分かっているはずだが、うっかりして忘れてしまったのか。だから、このテイタラクか。この肝心要をなんとかして思い起こしてもらいたい」と。彼が「ええっ、知らないのか。まさか。よくよく知っていたはずなのに」などと言い始める度毎に、私たちは背筋をピンと伸ばして、耳をよくよく澄ませる価値があります。ですから、「知らないのか」とその同じ言葉で囲い込まれた3-14節こそが、立て直され、もう一度取り戻されるべき信仰と福音の中心点です。洗礼の日から始まっている、全生涯に及ぶ人生設計。神さまから贈り与えられています新しい生命と自由、その中身、それが実現していく道筋についてです。4-6節。「わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである」。キリストが十字架の上で殺され、葬られ、よみがえらされた。同じように私たちもまた、自分自身の内にある古い罪の人を殺され、葬っていただき、そのようにして新しく生きる者とされたし、されつづける。5節と8節で、「もし~なら、~になる」とわざとのように同じ言い回しが繰り返されます。もちろん、わざと目につくようにこう書き表しています。気づいて欲しいという願いを込めてです。もし、罪の奴隷とされていた古い自分と死に別れるならば、その場合には、そこでようやく、私たちもまた新しい生命に生きる者なる。けれどもし、古い罪の自分と腹の思いが生き延びつづけるならば、それならば、新しい生命もあるはずがない。「おかしいなあ。洗礼を受けて何十年もたったくせに、なかなか新しい生命にならないなあ」と、もしかしたら首を傾げつづけている人がいますか。ここに、ちゃんと約束されている。手順と道筋もこのとおりだと。それでも、なかなか新しい生命が始まらない。始まる気配も兆しもまったくない。……それじゃあ、もしかして、罪の奴隷とされていた古い自分とあなたは死に別れ損ないつづけているんじゃないですか。せっかく洗礼を受けてクリスチャンとしていただきながら、あれから何年も何十年も。いつまでも古い自分のままでいい、罪の奴隷のほうが性分にもあっているしとアグラをかいて、それで、せっかくの新しい生命を受け取り損ねつづけているのでは。8節も同じです。「もし、私たちがキリストと共に死んだのなら、また彼と共に生きることにもなる」。どういうことでしょう。つまり、逆に、キリストと共に死ななかったとしたら、それならば、彼と共に生きることにはならないということです。11節で、わざわざ「認むべきである」と釘をさされていました。神さまに対して、神さまに向かって、神さまの御前で生きている私たちだと、ちゃんとあなたは認めなさい。嫌だ嫌だと拒みつづけていないで。もしかしたら誰かから、「クリスチャンは罪人である。生涯ずっと同じく罪深い、あまりに生臭い、自分勝手で人を傷つけたり踏みつけにする人間であっていいし、仕方のないことだ」などとデマカセを告げられて、うっかり鵜呑みにしてしまったのかも知れません。生涯ずっと同じく変わらず罪深い? 「良い人間になれなくてもいい。一生涯ずっと死ぬまで、自分さえ良ければそれでいいとあまりに自分勝手でワガママで、意地悪で薄情で臆病で、あまりに頑固で、ずる賢い極悪人のままでいいですよ。ありのままの、そのままのあなたでいいんですよ?」。えええ、もしそれが本当なら、そんな信仰がいったい何の役に立つでしょう。そんなつまらない信仰を誰がいったい「私もそれをぜひ欲しい」と願い求めるでしょうか。誰も欲しがりません。もしそうならば、「それがクリスチャンか、それでもキリスト教か」とあなたの大切な家族は悲しんで、泣き喚きつづけるでしょう。「そんな信仰も、そんな神さまも要らない」と、あなたの娘も息子たちも、ご近所さんたちも職場の同僚たちも呆れ果てて、キリストの教会にも私たちクリスチャンにも見向きもしなくなるでしょう。たしかに罪人の集団にすぎません。罪深さや身勝手さ、自分自身の心があまりに頑固なことに私たちは生涯苦しめられるでしょうし、そのために人を傷つけたりもするでしょう。けれど聖書自身が告げていた真実は少し違う。「生涯ずっと同じく罪深い。仕方ないし、それでいい」ではなく、「罪との戦いと悪戦苦闘は生涯ずっとつづく」と。むしろ「感謝の実を結ばないはずがない。そんなことはありえない」(ハイデルベルグ信仰問答,問64参照,1563年)と太鼓判を押され、あなたはもう罪の奴隷にならなくてよい、と励まされています。もう百も承知でしょうけれど、それでもオサライをしておきましょう。聖書が告げる『罪』とは、神さまに逆らうことです。そこから様々な悲惨さが末広がりに溢れ出てきました。「自分は正しい。正しい」と我を張りつづけ、「私は私は」と自己主張しつづけることです。したいことはする、気の進まないことやしたくないことはしないと自分の腹の虫・腹の思いを主人として、その奴隷に成り下がりつづけること(ローマ手紙6:6,17,ピリピ手紙3:18-4:1)。これが罪の正体です。16-17節は、私たちの目の前に置かれた二つの道を指し示しました。二つの道のどちらか一つしか歩けない。死に至る罪のしもべとなるか、それとも、「私の願いどおりではなく神さまの御心にかなうことが成し遂げられますように」と神さまに従順に仕える僕とされて、義と生命にたどり着くか。そのどちらか一つ。しかもそれは主イエス直伝の教え、『二人の主人問題』です。どのしもべでも二人の主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方を疎んじるからである(ルカ16:13)。しかも兄弟姉妹たち、目の前に置かれた二つの道を見比べて、「さあて、どっちにしよう。あっちにしようか、それともこっちか」と思案しているわけではありません。すでに私たちは一つの道を選び取り、その一つの道を歩き始めています。「私の願いどおりではなく他の誰彼の考えや気分次第でもなく、ただただ神さまの御心にかなうことが成し遂げられますように」と神さまに従順に仕えるしもべとされて生きる道を。必ずきっと、義と生命にたどり着くはずの道を。だからこそ18節で直ちに、「しかし神は感謝すべきかな。あなたがたはかつては罪の僕であったが、……罪から解放され、義のしもべとなった」。
なぜでしょうか。それは、いつからでしょう。救い主イエスが死者の中からよみがえられたからです。そのお独りの方を信じて生きていこうと決心して洗礼を受けたその日から、この新しい生命の道に生きることが始まり、一日また一日と積み重ねられてきました。罪の奴隷とされていた古い自分と死に別れ、それを墓穴に葬り去っていただき、神さまの御前にある新しい生命に生きはじめる。死んで生きて、死んで生きて、死んで生きてと生涯の間ずっと繰り返しつづける。その一本道は救い主イエス・キリストという名前の道です。その新しい生命もまた、イエス・キリストという名前の生命です。あなたも、はっきりと覚えておられますね。主イエスは私たちに向かってこう仰っしゃいました。「私は道であり、真理であり、命である。誰でも私によらないでは、父のみもとに行くことはできない」(ヨハネ福音書14:6)。しかも、私たちはイエス・キリストというただ一本の道を歩きつづけています。イエス・キリストという名前の真理を学びつづけており、イエス・キリストという生命を受け取りつづけています。私たちはクリスチャンです。ここはキリストの教会です。誰でもイエス・キリストによらないでは、父のみもとに行くことはできない。つまり、キリストという一本道を歩いていきさえすれば、誰でも必ずきっと天の御父のもとに辿り着けるということです。キリストという真理を学び、習い覚えさえすれば、喜びに満ちて幸いに生きて死ぬための十分な真理を掴むと保証されています。キリストという生命を受け取りさえすれば、私たちは神さまに対して、神さまに向かって、神さまの御前を生きる者とされる。この後ごいっしょに歌う子供讃美歌(461番)は祈り求めながら、はっきりと確信していました。歌の4節;「私のボスであるイエスよ、私を清くしてくださって、こんな私にさえ良い働きをさせてください」と。「清くなることなどとても無理。逆立ちしても100万年かかってもできない」。その通りです。もし、神さまなどおられないならば。ただ居るだけで手出しも口出しもしない神さまなら。私たちをほとんど愛してもおらず、「いいよいいよ、どうでもいいよ」と放ったらかしにする無責任な神さまなら。でも大間違いです! ボスである、独り子なる神イエスにはできる。神にできないことは何一つないからです(マルコ福音書10:26-27参照)。私たちのボスであるイエスよ、私たちを清くしてくださって良い働きをなさしめてください。してよいことと悪いことがあります。しかも誰が見ていようがいまいが、誰が聞いていようがいまいが、いつでもどこででも、私たちそれぞれの振る舞いと口から出る普段の言葉と腹の思いとは、すでに隠しようもなく、白日のもとにさらされています。一人の伝道者もそうです。長老も執事も、一人一人のクリスチャンも皆そうです。神さまの御心をこそ願い求めて生きる私たちです。朝も昼も晩も、どこで何をしていても、自分の家の中で家族と一緒のときにも、道を歩いているときにも、職場や学校でも。誰と向き合っているときにも、ただ独りで過ごす日々にも。もちろん、今日ここにおいてもです。神さまに対して、神さまに向かって、神さまの御前で生きている私たちだと、ちゃんとあなたは認めなさい。はい分かりました。主なる神さまがそう仰るので、私たちはそれをします。肝に銘じて、一日一日を生きるようにと命じられ、ただ命じられているだけではなく、必ずきっとそうさせるという神さまご自身からの約束でもあります。こんな私たちのためにさえも、神さまが、きっと必ずしてくださるという根源的な希望でもあります。ぜひとも、そうなりたい。願いは叶えられます。なぜ? いったい、どうしてでしょう。叶えてくださる神さまが、この私たちのためにさえ生きて働いておられるからです。