◎とりなしの祈り
主なる神さま。「わたしが憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となれ」と、また「身を屈めて仕えるしもべとなりなさい」と命じられたことを私たちは覚えています。そのように毎日の生活を生きる私たちとならせてください。
自分たち自身の幸いや満足ばかりではなく、他の人々や隣人たちの幸いを願い求める私たちとならせてください。世界中の紛争地域のどこへでも送り出されて、人を殺したり殺されたりさせられることになってしまった自衛隊員たちと家族の安全と幸いを、私たちにも本気で願い求めさせてください。米軍基地を押し付けられ、ないがしろに扱われ、踏みにじられつづける沖縄の人々の怒りと悲しみを、どうか神さま、私たち自身の怒りと悲しみとさせてください。福島原子力発電所の事故はまだまだ少しも収束していません。そこで暮らす人々や避難している人々や、原子力発電所で働く下請けの下請けの労働者たちに対して、私たちには責任があります。安く働かされ、貧しく暮らす労働者たちと多くの子供たちに対して私たちには責任があります。農業実習生、職業訓練生という名目で安く便利に利用され、搾取されつづけるアジアからの出稼ぎ労働者たちに対して、「してはいけない悪いことを自分たちがしている」と知りながら、この国も地方自治体も、それぞれの農家も雇い主も行いを改めようとせず、責任を負おうとしません。ですからこの私たちには、果たすべき大きな責任があります。憐れみ深い神さまの御心にかなって生きることを、どうか私たちにも願い求めさせてください。なにより、この大きな危機と苦難の時代に、神さまにこそ全幅の信頼を寄せ、よくよく聴き従って生きる私たちとならせてください。
主イエスのお名前によって祈ります。アーメン
みことば/2017,6,25(主日礼拝) № 117
◎礼拝説教 マタイ福音書 18:2-11 日本キリスト教会 上田教会
『小さい者の一人に』
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)(ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC)
18:2 すると、イエスは幼な子を呼び寄せ、彼らのまん中に立たせて言われた、3 「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。4
この幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである。5 また、だれでも、このようなひとりの幼な子を、わたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。6
しかし、わたしを信ずるこれらの小さい者のひとりをつまずかせる者は、大きなひきうすを首にかけられて海の深みに沈められる方が、その人の益になる。7 この世は、罪の誘惑があるから、わざわいである。罪の誘惑は必ず来る。しかし、それをきたらせる人は、わざわいである。8
もしあなたの片手または片足が、罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい。両手、両足がそろったままで、永遠の火に投げ込まれるよりは、片手、片足になって命に入る方がよい。9
もしあなたの片目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。両眼がそろったままで地獄の火に投げ入れられるよりは、片目になって命に入る方がよい。10
あなたがたは、これらの小さい者のひとりをも軽んじないように、気をつけなさい。あなたがたに言うが、彼らの御使たちは天にあって、天にいますわたしの父のみ顔をいつも仰いでいるのである。 (マタイ福音書 18:2-10)
|
3-4節、「よく聞きなさい。心を入れかえて幼子のようにならなければ、幼子のように自分を低くするのでなければ、天国に入ることはできない」。つまり、「身を低くかがめ、心も低く屈めて神の憐れみを受けるのでなければ、主イエスの弟子になることも神の国に入れていただくこともできない」と主イエスは仰る。しかも、すでに主イエスの弟子とされているはずの者たちに向かって。この私たちはこのままでは、主イエスの弟子になれないかも知れないし、神の国に入り損ねてしまうかも知れないと。恐ろしいことが語られています。幼子のような低さとは、弱く小さく無力であり、無防備であり、それゆえもし、支えも助けもなくただ独りで放り出されるなら生き延びてゆくこともできない。だからこそ神からの助けと支えを願い求め、確信し、神に信頼を寄せ、一途に聴き従う。これこそが、主イエスの弟子であることの根本的な性質でありつづけます。そうであるからこそ、自分自身の力や知恵や働きなどを誇り、「大きくて強くて仕事がよくできてとても役に立って、だから」と人間的な業績、取り柄や働きの多い少ないにばかり心を奪われつづける代わりに、そうではなく、ただただ神の憐れみをこそ願い求めて、受け取ることもできるのです。
まず、一つのことを確認しておく必要があります。6節「わたしを信ずるこれらの小さい者をつまずかせる者は」。主イエスを信じているという条件が、ここでは付けられています。他のときには、主イエスを信じているかどうかなど一切問うことなしに、「これらの最も小さい者の一人にしてくれたのはわたしにしてくれたことであり、してくれなかったのはわたしにしてくれなかったことである」(マタイ25:40)と。誰が主イエスの友であり兄弟であるのかをはっきりと見分けることは私たちにはできません。しかも神は、ご自分が造ったこの世界とすべての生き物の生命を愛したのであり、ご自分に逆らい背を向け続ける罪人や悪人をさえ愛して止まない神であるからです。「わたしは悪人の死を好むであろうか。むしろ彼がそのおこないを離れて生きることを好んでいるではないか。・・・・・・あなたがたがわたしに対しておこなったすべてのとがを捨て去り、新しい心と、新しい霊とを得よ。イスラエルの家よ、あなたがたはどうして死んでよかろうか。わたしは何人の死をも喜ばないのであると、主なる神は言われる。それゆえ、あなたがたは翻って生きよ」(創世記1:31,ヨハネ福音書3:16,ローマ手紙5:6-11,エゼキエル書18:23-32)。このことを、私たちは決して忘れてはなりません。
そのことをよくよく胸に収めた上で、主イエスを信じて生きることをしはじめた小さな、身を低く屈めた弟子たちを助け、支え、その世話をするようにと命じられています。5節、「また、だれでも、このようなひとりの幼な子を、わたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである」。主イエスは途中から言葉を使い分けています。「身を低く屈めた幼子」を「主を信じる小さな者の一人」と。また、「罪を犯させる」を「つまずかせる」と。仰ろうとする意味は同じです。6-7節、「しかし、わたしを信ずるこれらの小さい者のひとりをつまずかせる者は、大きなひきうすを首にかけられて海の深みに沈められる方が、その人の益になる。この世は、罪の誘惑があるから、わざわいである。罪の誘惑は必ず来る。しかし、それをきたらせる人は、わざわいである」。「罪を犯す」ことと「つまずく」こと。言葉を言い換えたことには良い意味がありました。罪を犯さない者は一人もいません。むしろ、『神を信じて生きてゆく』という長い道のりが、ここで見据えられています。うっかりして無分別な悪いことを軽はずみにしでかしてしまうことは、誰にでもあり得ます。けれどその度毎に、悔い改め、神へと立ち帰り立ち帰りしつづけ、神の憐れみとゆるしをうけることができるなら、それならば、その人は幸いです。神の憐れみのもとに生きるはずの一人の人の心を惑わせ、その歩んでゆく道を迷わせ、神から離れ去らせてしまうならば、その責任はあまりに重大です。償うことも取り戻すこともできないほどに。「この世は、罪の誘惑がある。罪の誘惑は必ず来る。しかし、それをきたらせる人は、わざわいである」。そのとおり。だから8節以下、「もしあなたの片手または片足が、罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい。両手、両足がそろったままで、永遠の火に投げ込まれるよりは、片手、片足になって命に入る方がよい。もしあなたの片目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。両眼がそろったままで地獄の火に投げ入れられるよりは、片目になって命に入る方がよい。あなたがたは、これらの小さい者のひとりをも軽んじないように、気をつけなさい。あなたがたに言うが、彼らの御使たちは天にあって、天にいますわたしの父のみ顔をいつも仰いでいるのである」。
主イエスは、ご自身を信じる弟子たち同士の互いの付き合い方について警告しつづけています。「これらの小さい者のひとりをも軽んじないように、気をつけなさい」と。「小さな一人の者」とは、ここでは、無力な小さな幼子のように身を低く屈めている主の弟子たちです。それでマタイ福音書18章とともに、コリント手紙(1)4:6-8をご一緒に読みました。「兄弟たちよ。これらのことをわたし自身とアポロとに当てはめて言って聞かせたが、それはあなたがたが、わたしたちを例にとって、『しるされている定めを越えない』ことを学び、ひとりの人をあがめ、ほかの人を見さげて高ぶることのないためである。いったい、あなたを偉くしているのは、だれなのか。あなたの持っているもので、もらっていないものがあるか。もしもらっているなら、なぜもらっていないもののように誇るのか。あなたがたは、すでに満腹しているのだ。すでに富み栄えているのだ。わたしたちを差しおいて、王になっているのだ。ああ、王になっていてくれたらと思う。そうであったなら、わたしたちも、あなたがたと共に王になれたであろう」。痛いところを突かれました。ひとりの優れた大きく賢そうに見える人をあがめ、ほかの人を見さげて高ぶることのないため。これが世の中の人々のほとんど全部と私たちが普段いつもの暮らしの中でお互いにいつもやっていることです。何人かの人々がいる。その中の誰かを「たいしたものだ。立派だ、すばらしい」などと誉めたり、あがめたり、尊敬したり見上げたりする。その一方で、そうでもないように見える他の誰かを「たいしたことないなあ。つまらない人だ」と見下したり、侮ったり軽んじたりしている。そうしながら、周囲の人々に対しても神に対しても侮り、高ぶっている。コリント教会で起きていたことは、私たちの間でもたびたび有りつづけています。やがて同じ手紙の中で、主の弟子はこう語りかけます。「神の教会を軽んじ、貧しい人々をはずかしめるのか」(コリント手紙(1)11:22)。主に仕えて生きている一人の小さな者を軽んじ、辱め、侮るとき、それは直ちに、主イエスご自身と神の教会を軽んじ、辱め、侮っているではないかと。
身を低くかがめ、心も低く屈めて神の憐れみを受けること。神を信じて生きはじめる前には、私たちは自分自身の努力と甲斐性で自分の立場を獲得し、それを強く大きく高くしていこうとあくせくし続けていました。今では、その代わりに、天の国の贈り物として生命を受け取りはじめました。神に願い求め、神から受け取り、神にこそ感謝をしながら。するといつの間にか、大きいとか小さいとか賢いとか愚かだとか役に立つとかそうでもないとか、偉いとか偉くないなどと得意になったりいじけて僻んだりする虚しさをようやく手離しはじめていました。受け取った恵みの大きさに比べて私たち自身は小さい。受け取った恵みの豊かさに比べて、私たちは貧しい。恵みの賢さ、力強さに比べて、私たちはあまりに愚かであり、弱々しく、その恵みにまったく値しない者たちであると。値しないにもかかわらず、それなのに受け取った。だから、ただただ恵みなのだと。
身を低くかがめ、心も低く屈めて神の憐れみを受けること。神を信じて生きはじめる前には、「他人よりも偉くありたい。もっと賢く強く大きく立派な人間だと思われたい」と渇望して、周囲の人々と虚しい競争をしつづけていました。今では、その代わりに、兄弟や家族や連れ合いや友人たち、隣人たちに身を屈めて仕える者とされはじめました。その人々の益となり、互いの徳を高めるために。神さま御国の御用のためにこんな私をさえぜひ用いていただきたいと願いながら。「どちらが偉いだろう。誰がいちばん大きく賢くて役に立つだろう」と目の色を変えて競争し合い、他人よりも自分を高くあげようとして、その生臭い魂胆は、私たちの互いの結びつきやつながりを粗末で貧しいものにしつづけました。身を屈め、自分を低くし、幼子のようになるのでなければ誰も決して天国に入ることはできないと、救い主イエスご自身からキッパリと宣言されています。しかも主イエスこそが、わが子を愛して止まない親の心を覚えている『幸いな幼な子である』ことの手本を、それがいったいどういうことであるのかを、私たちに見せ、差し出してくださいました。十字架にかかる前の晩、ゲッセマネの園で。「アバ、父よ、あなたには、できないことはありません。どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」と。その幸いな幼な子の心をこの私たちも贈り与えられ、子である身分と中身を受けました。聖霊なる神を受け、その御霊に導かれつづけて。聖書は証言します;「すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる」(マルコ14:36,ローマ8:14-16)と。神の国に入り、そこで幸いに暮らすために授けられた幼な子の身分と中身はこれです。そのようにしてだけ天国に入れていただけるので、私たちは同じように、小さな一人の者たち同士として、互いに守り、支え、養い合う者たちとされました。ずいぶん昔、国を滅ぼされて遠い外国に捕虜として連れて行かれた人々が何十年も経ってようやくエルサレムの都に戻ってきました。神殿も町も打ち壊されてガレキの山です。その廃墟の中の何もない広場で、神の民はずいぶん久しぶりに礼拝をささげました。ともに祈り歌い、聖書朗読とその説き明かしを聴きました。「この日はあなたがたの神、主の聖なる日です。嘆いたり、泣いたりしてはならない。あなたがたは去って、肥えたものを食べ、甘いものを飲みなさい。その備えのないものには分けてやりなさい。この日はわれわれの主の聖なる日です。憂えてはならない。主を喜ぶことはあなたがたの力です」(ネヘミヤ記8:9-10)。すべての民は去って自分たちの村に帰り、告げられたとおりに飲み食いし、食べ物の備えのない者たちには分け与えて、大いに喜びました。「これは読み聞かされた言葉を、彼らが理解し、悟ったからである」と記されています。備えのまるで全然なかった私たちが、にもかかわらず肥えた良い肉と格別な甘い飲み物に預かっている。受け取って、それを味わっている。備えのまるで全然ない、ちっとも弁えない誰かに分け与えてあげるとき、「こんな私がいただいていいんですか。本当ですか。ありがとう。嬉しい」と、その驚いたような恐縮したような、恥ずかしそうな嬉しそうな顔に見覚えがあります。それは、ほんの少し前の私たち自身の驚きであり、喜びの顔だったのです。思い起こしました。「あなたがたは去って、肥えたものを食べ、甘いものを飲みなさい。その備えのないものには分けてやりなさい。この日はわれわれの主の聖なる日です。憂えてはならない。主を喜ぶことはあなたがたの力です」。主を喜び祝うことの中身は、主への感謝です。感謝は、主が惜しみなく分け与えてくださる方であることへと深い認識であり、信頼です。あなたも私自身も今まで、何か他のことを喜び祝っていました。自分自身の長所や短所をこね回して、それで喜んだり悲しんだりしていました。自分のまわりにいる他の誰彼の良い働きや悪い行いに一喜一憂し、泣いたり笑ったり、苛立ったりホッとしたり気を揉んだり。周囲の人々や私自身のいたらなさや貧しさや不足を嘆き悲しみ、そこに閉じ込められて上がったり下がったりしていた私たちが、けれどこれからは主の豊かさ、主の慈しみ深さへと思いを向け返される。主にこそ期待し、主に信頼し、主に願い求めて生きることをしはじめる。それを、この日から、ここから、改めてしはじめましょう。ずいぶん手間取り、あっちこっちで道草を食ってしまいましたが、それでもまだ遅すぎることはありません。まだ間に合います。人々はついに、語られた言葉をはっきりと理解しました。何を、どんなふうにして理解したのでしょう。「すべての民は去って自分たちの村に帰り、告げられたとおりに飲み食いし、食べ物の備えのない者たちには分け与えて、大いに喜びました。「これは彼らが読み聞かされた言葉を、彼らが理解し、悟ったからである」。はっきりと理解し、腹にすえたからです。帰ってゆくべき所に帰ったこと。食べたり飲んだりしたこと。備えのない者と分かち合ったこと。大いに喜び祝ったこと。それらの全体が、聞いて理解したことの中身であり、実態です。恵みによって与えられた豊かなものの一つ一つをもって、あなたは、主を喜び祝いなさい。それこそ、私たちにとっての力と喜びの源です。力と喜びそのものです。