6/4 こども説教 ルカ12:13-21
『あなたの魂は今夜にも取り去られる』
12:13 群衆の中のひとりがイエスに言った、「先生、わたしの兄弟に、遺産を分けてくれるようにおっしゃってください」。14
彼に言われた、「人よ、だれがわたしをあなたがたの裁判人または分配人に立てたのか」。15 それから人々にむかって言われた、「あらゆる貪欲に対してよくよく警戒しなさい。たといたくさんの物を持っていても、人のいのちは、持ち物にはよらないのである」。16
そこで一つの譬を語られた、「ある金持の畑が豊作であった。17 そこで彼は心の中で、『どうしようか、わたしの作物をしまっておく所がないのだが』と思いめぐらして、18
言った、『こうしよう。わたしの倉を取りこわし、もっと大きいのを建てて、そこに穀物や食糧を全部しまい込もう。19 そして自分の魂に言おう。たましいよ、おまえには長年分の食糧がたくさんたくわえてある。さあ安心せよ、食え、飲め、楽しめ』。20
すると神が彼に言われた、『愚かな者よ、あなたの魂は今夜のうちにも取り去られるであろう。そしたら、あなたが用意した物は、だれのものになるのか』。21 自分のために宝を積んで神に対して富まない者は、これと同じである」。
(ルカ福音書
12:13-21)
ケンちゃん。まったく同じ中身で、同じ毎日を暮らしても、「わあ嬉しい。ありがとう」って大喜びで暮らせるかも知れないし、正反対に、「ちぇっ」と悲しい渋~い顔をしてガッカリしながら一生を無駄に終えるかも知れません。主イエスから、大事な祈りを教えていただいています(ルカ11:1-4)。その中で、『我らの日毎の糧を今日も与えたまえ』って祈っています。生きてゆくために必要なもの全部を、どうか今日も贈り与えてください。生きてゆくために必要なもの全部の中に、今日の一日分の生命も入っていました。あ、生きてる? だから今日の分は、神さまから、それぞれもらえたわけだ。びっくりです。
そして、わざわざ「贈り与えてください」と願い求めているのは、もらえることもあるし、もらえないこともあるということです。いつまでも何年も何十年も、自分の望むだけ好きなだけ長生きできるわけではありませんでした。ほかのモノと同じく一日分、一日分と、贈り物としていただいています。しかも「私の願いどおりにではなく、ただただ天の御父の御心のままに」。この人に、今日の分の生命をあげたほうがいいだろうか。それとも、あげないほうがいいだろうかと、神さまが考えて、神さまがご自分で決めます。だから、このとても愚かなお金持ちのことをよくよく覚えておかなければなりません。そのとき、「ああ失敗した。がっかりだ。もう手遅れだ」と悲しまないためには。他の必要なすべても生命も一日分ずつ受け取ることができるといいですね。大喜びに喜んで、「ありがとうございます。嬉しいです」と感謝をして。そしたら、晴れ晴れして毎日毎日を生きて、その一日分の生命も大事に使うこともできます。
――だから今夜、眠るときにこの箇所を読んで、「神さま。愚かな者って私のことだったんですね。知りませんでした。誰か他の人たちのことだとばかり思っていました」と、よくよく念入りにお祈りして眠ります。あなたの人生の最後の夜です。嘘かと思うかもしれませんけど、本当のことですよ。もし万一、次の朝に目が覚めたらビックリ仰天です。わおっ。おまけのようにして付け加えていただいた新しい一日が、そこから始まります。
【補足/貪欲は、なぜ、どのように危険なのか?】
少し踏み込んで、説き明かします。15節で主イエスは、「あらゆる貪欲に警戒しなさい」とお命じになりました。貪欲は、神の恵みの贈り物に対して無自覚にさせ、神への感謝と信頼を奪い取ります。だから、とても危険なのです。「我らの日毎の糧を今日も与えたまえ」という祈りは、この危険に対する防護壁の役割を果たします。私たちが生きてゆくために必要なすべて一切を、神だけが、ただ恵みによってだけ贈り与えてくださる。そのことを確信し、魂に刻みながら祈ります。祈る度毎に、ますます神に感謝し、信頼を寄せ、聴き従って生きることを願い求めながら。例えば出エジプト記16章で、主なる神は言いました、「わたしはイスラエルの人々のつぶやきを聞いた。彼らに言いなさい、『あなたがたは夕には肉を食べ、朝にはパンに飽き足りるであろう。そうしてわたしがあなたがたの神、主であることを知るであろう』と」(12節)。天からの恵みのパン、天からの恵みの肉、天からの恵みの水を日毎に贈り与えられ、満ち足り、感謝をし、そのようにして『主が種であられることを知るようになる』。なかなかそうならなかったのは、私たち自身の貪欲が邪魔しつづけるからです。必要な分より多く集めたり、ズルして隠し貯めておいたり、野に出て集めてはいけないと禁じられていたのに集めようとしたりして。天からの恵みであるはずのものは、虫がついたり、腐って臭くなったりします。「これは何だろう?」(15節)と驚き感謝したことを忘れてはなりません。でも、忘れちゃいました! 荒野の40年の旅路が間もなく終わろうとするとき、民数記21:4-9、主が主であられることも、恵みの糧が恵みの糧であることも。「ここには食物もなく水もありません。わたしたちはこの粗悪な食物は嫌になりました」。「この粗悪な食物」とウンザリして、渋い顔をして眺めているものが何なのかを思うと、愕然とします。最初の頃、「これは何だろう?」と驚き感謝した天からの恵みのパン、天からの恵みの肉、天からの恵みの『日毎の糧』だったのですから。舌がおごると、心もおごって、神の恵みも神ご自身をさえも見下して軽んじはじめました。また例えば、箴言30:7-9。「貧しくもなく、富みもせず、ただなくてならぬ食物でわたしを養ってください」と願う『なくてならぬ食物』。これこそが、天からの恵みのパン、天からの恵みの肉、天からの恵みのすべて一切の贈り物でありつづけます。どうぞ、よい日々を。