2018年8月28日火曜日

8/26こども説教「イエスの葬り」ルカ23:50-56


 8/26 こども説教 ルカ23:50-56
 『主イエスの葬り』

23:50 ここに、ヨセフという議員がいたが、善良で正しい人であった。51 この人はユダヤの町アリマタヤの出身で、神の国を待ち望んでいた。彼は議会の議決や行動には賛成していなかった。52 この人がピラトのところへ行って、イエスのからだの引取り方を願い出て、53 それを取りおろして亜麻布に包み、まだだれも葬ったことのない、岩を掘って造った墓に納めた。54 この日は準備の日であって、安息日が始まりかけていた。55 イエスと一緒にガリラヤからきた女たちは、あとについてきて、その墓を見、またイエスのからだが納められる様子を見とどけた。56 そして帰って、香料と香油とを用意した。それからおきてに従って安息日を休んだ。              (ルカ福音書23:50-56

  ケンちゃん。救い主イエスが十字架につけられて殺され、墓に葬られました。やがて三日目に、墓の中からよみがえることになっています。さて、救い主イエスを墓に葬ったヨセフという人のことです。彼は「善良で正しい人だった」と書いてあります。どんなふうに善良だったのか、どこがどう正しかったのか。その中身は51節、彼が「神の国を待ち望んでいた」というただ一点です。「神の国」とは、神が王さまとして力を発揮し、王としての役割や仕事をきちんと果たし、国の隅から隅まで十分に心を配っているということです。つまり、神が生きて働いておられて、その働きとご支配の只中に自分自身も生きるということです。神を信じて、神の国を待ち望む人たちは、すでにもう、その神さまのお働きとご支配の中に生きています。その神さまのお働きとご支配の中に自分が置かれていることを知っているし、だからこそ 神さまの御心にかなって生きていきたいと願いながら、毎日毎日を生きています。主イエスが少し前に言いました、「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」、また「神の国はあなたがたの只中にある」(マルコ福音書1:15,ルカ福音書17:21と。

    【補足/神の国,天国】
     「神の国」とは、神が王さまとして力を発揮し、王としての役割や仕事をきちんと果たし、国の隅から隅まで十分に心を配っているその領土です。その国に生きる者たちの幸いと希望は、王である神さまがどんなお方かにかかっています。十分に力があり、また慈しみ深い王であるなら、そこに住む住民は幸いです。つまり、神が生きて働いておられて、その働きとご支配の只中に自分自身も生きるということです。「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」、また「神の国はあなたがたの只中にある」と主イエスが仰ったのは、神ご自身である主イエスご自身が地上に降りてこられ、その働きと力を私たちの上にも及ぼしはじめたからです。そこで「悔い改めて」とは、自分自身や周囲の人々の考え方ややり方、働きを第一とするモノの考え方や在り方をすっかり改めて、グルリと神へと向き直り、神のお働きと御心をこそ中心に据えて新しく生きはじめることです。そのようにして、神のご支配に服従して、御心にかなって生きようとする者たちが起こされています。


8/26「鎮まれ、主の救いを見よ!」出エジプト14:1-18


                      みことば/2018,8,12(主日礼拝)  175
◎礼拝説教 創世記12:1-9                          日本キリスト教会 上田教会
『しずまれ。主の救いを見よ』


牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

14:1 主はモーセに言われた、2 「イスラエルの人々に告げ、引き返して、ミグドルと海との間にあるピハヒロテの前、バアルゼポンの前に宿営させなさい。あなたがたはそれにむかって、海のかたわらに宿営しなければならない。3 パロはイスラエルの人々について、『彼らはその地で迷っている。荒野は彼らを閉じ込めてしまった』と言うであろう。4 わたしがパロの心をかたくなにするから、パロは彼らのあとを追うであろう。わたしはパロとそのすべての軍勢を破って誉を得、エジプトびとにわたしが主であることを知らせるであろう」。彼らはそのようにした。・・・・・・10 パロが近寄った時、イスラエルの人々は目を上げてエジプトびとが彼らのあとに進んできているのを見て、非常に恐れた。そしてイスラエルの人々は主にむかって叫び、11 かつモーセに言った、「エジプトに墓がないので、荒野で死なせるために、わたしたちを携え出したのですか。なぜわたしたちをエジプトから導き出して、こんなにするのですか。12 わたしたちがエジプトであなたに告げて、『わたしたちを捨てておいて、エジプトびとに仕えさせてください』と言ったのは、このことではありませんか。荒野で死ぬよりもエジプトびとに仕える方が、わたしたちにはよかったのです」。13 モーセは民に言った、「あなたがたは恐れてはならない。かたく立って、主がきょう、あなたがたのためになされる救を見なさい。きょう、あなたがたはエジプトびとを見るが、もはや永久に、二度と彼らを見ないであろう。14 主があなたがたのために戦われるから、あなたがたは黙していなさい」。15 主はモーセに言われた、「あなたは、なぜわたしにむかって叫ぶのか。イスラエルの人々に語って彼らを進み行かせなさい。16 あなたはつえを上げ、手を海の上にさし伸べてそれを分け、イスラエルの人々に海の中のかわいた地を行かせなさい。17 わたしがエジプトびとの心をかたくなにするから、彼らはそのあとを追ってはいるであろう。こうしてわたしはパロとそのすべての軍勢および戦車と騎兵とを打ち破って誉を得よう。18 わたしがパロとその戦車とその騎兵とを打ち破って誉を得るとき、エジプトびとはわたしが主であることを知るであろう」。   (出エジプト記 14:1-18)


アブラハムに対して語られていた約束の通り(創世記15:13-に、彼らは400年の間エジプトの国で奴隷にされていました。主なる神は彼らを憐れみ、そこから連れ出しました。神の民とされたイスラエルは、私たちの先祖たちは、葦の海を渡りました。1-4節。神の民は袋小路に追い込まれました。行く手は海、そしてエジプト兵が迫ってくる。どこにも逃げ道がない。たまたま偶然に、ではありません。主なる神こそが、わざわざそうなさったのです。パロの心が頑なになったのも、それもまた、主なる神ご自身が彼の心をかたくなにしたのだと念を押されます(4,8)どうしてなのか。なぜ、そうする必要があったのかと問わねばなりません。4節を見てください、「わたしがパロの心をかたくなにするから、パロは彼らの後を追うであろう。わたしはパロとそのすべての軍勢を破って誉れを得、エジプト人にわたしが主であることを知らせるであろう」。主が主であることを知るようになる。何度も何度も申し上げます。神と私たちとの関係で最も大切な肝心要は、それが『主従関係』であるということです。どっちがどっちでしょう。神さまがただお独りのご主人さま、私たちはその主人に仕える召し使いであり、手下の者たちにすぎません。「天に主人がおられ、その主人に仕えて忠実に働くはずのしもべたち同士」(コロサイ手紙4:1,コリント手紙(1)4:1-2参照)であると自分の魂に言い聞かせ言い聞かせしながら生きる私たちです。「主なる神」と申し上げ、「主イエス」と呼ぶ弟子であるとは、このことです。「~しなさい」と命じられ、「はい。分かりました」とご主人さまが命じるとおりに行い、このご主人さまにこそ十分に信頼を寄せ、主なる神さまによくよく聞き従って生きてゆくこと。エジプトの王も兵隊たちも、神の民イスラエルも、そして今日ここに集まった私たち自身も。今日ここに集まっている目的も、私たちがクリスチャンとされたことも、主が主であられることを知るためです。本当にそうだと、つくづくと知りつつ生きるために。
 救い主イエス・キリストによる救いの出来事は、『第二の過越し』と呼び習わされてきました。最初の過越しがあり、第二の過越しがあった。かつて子羊の血が家の戸口に塗られて災いが過ぎ越し、神の民が救い出されたように、やがて神の子羊である救い主イエスの血が流し尽くされて、私たち神の民が救われたと。神の民である私たちにとっては祭りは礼拝です。そこに集う者たちのいつもの心得は、そこで語られ、行われている救いの出来事を自分自身のこととして喜び味わうことです。それが、いつもの基本の心構え。なぜなら主なる神さまはかつてエジプトの国から彼らを救い出しただけではなく、今ここにいるこの私たち一人一人をさえ救い出そうとしているからです。かつて彼らに手を差し伸べてくださっただけではなく、今ここにいる私たちにも同じ救いの手を差し伸べておられるからです。エジプト脱出を祝う過越祭で、祭りに集う人々は皆で神さまへの感謝を魂に刻んで祈ります。神さまの慈しみと恵みの一つ一つを覚えるための、長い長い感謝と信頼の祈りがささげられます。『それでもなお満足』という祈りです。かいつまんで、簡略にご紹介します;

「なんと多くの素晴らしい恵みを聖なる神さまから私たちはいただいていることだろう。もし仮に、神がエジプトから私たちを導き出しながら、けれど私たちに向かって海を真っ二つに引き裂いてくださらなかったとしても、それでもなお私たちは満足である。……まして私たちは遍在者にして聖なる神さまから、その二倍も三倍もの何と素晴らしい恵みをいただいていることだろう。それは神さまがエジプトから私たちを導き出してくださり、海を私たちに向かって真っ二つに引き裂き、海の中の乾いた所を渡らせてくださった。また40年間の荒れ野での日々において私たちの必要を満たしてくださり、天からの恵みのマナをもって、天からの恵みの肉をもって、また岩からの恵みの水をもって私たちを養いとおしてくださり、安息日を与えてくださり、シナイ山に私たちを導いて十の戒めを授けてくださった。さらに、乳と蜜の流れる安息の地カナンに入らせてくださり、私たちのあらゆる罪をあがなうために、お望みになる神殿の建設を私たちに許してくださったからである」。
         (『過越祭のハガダー』山本書店より)

友だちは言います;「なるほどねえ。ユダヤ教徒もクリスチャンの方々も、神さまへの絶対的な信頼をもっているんですか。素晴らしいですね。けれど現在の私にはそれがなかなかできず、尻込みしてついつい二歩も三歩も下がってしまいます」。神への全面的な信頼。だから神にこそよくよく聞き従いつづけて生きること。確かに聖書と神ご自身は、これを私たち人間に要求しつづけました。けれど私たち人間は、ユダヤ教徒もキリスト教徒も、神さまに信頼することに失敗しつづけました。神さまに十分な信頼を寄せつづけて生きて死んだ人など一人もいない、と聖書自身は証言します(ローマ手紙3:9-,3:21-27。「神ではないものを恐れるな」と命じられつづけ、けれど神さまになかなか信頼できず、神ではない他アレコレを恐れたり信頼したりしつづけて。それが聖書全体の一貫する証言です。神さまへの信頼と感謝が日毎に増し加わり、「私たちの神は確かに生きて働いておられます」とその存在が色濃くなってゆくはずでした。が、どうしたわけか、そうはなりませんでした。神さまは片隅へ片隅へと押しのけられ続けて、今日に至るまで、ずっと影が薄いままです。なんということでしょう。だからこそ強がって見せても、誰も彼もが皆とても心細い。『それでもなお満足』という美しく素晴らしい祈りを、けれども神を信じて生きるはずの私たち自身の、その腹の思いは裏切りつづけました。あまりに裏腹な現実です。出エジプト記149節以下;「エジプトびとは彼らのあとを追い、パロのすべての馬と戦車およびその騎兵と軍勢とは、バアルゼポンの前にあるピハヒロテのあたりで、海のかたわらに宿営している彼らに追いついた。パロが近寄った時、イスラエルの人々は目を上げてエジプトびとが彼らのあとに進んできているのを見て、非常に恐れた。そしてイスラエルの人々は主にむかって叫び、かつモーセに言った、『エジプトに墓がないので、荒野で死なせるために、わたしたちを携え出したのですか。なぜわたしたちをエジプトから導き出して、こんなにするのですか。わたしたちがエジプトであなたに告げて、『わたしたちを捨てておいて、エジプトびとに仕えさせてください』と言ったのは、このことではありませんか。荒野で死ぬよりもエジプトびとに仕える方が、わたしたちにはよかったのです』。モーセは民に言った、『あなたがたは恐れてはならない。かたく立って、主がきょう、あなたがたのためになされる救を見なさい。きょう、あなたがたはエジプトびとを見るが、もはや永久に、二度と彼らを見ないであろう。主があなたがたのために戦われるから、あなたがたは黙していなさい』」(14:9-14)。パロとその軍勢はすでに間近に迫っています。イスラエルの人々が目を上げて見ると、エジプト軍はすでに背後に襲いかかろうとしていました。あの感謝の歌とは裏腹に、イスラエルの人々は非常に恐れ、主に向かって叫びました。「エジプトに墓がないので、荒野で死なせるために、わたしたちを携え出したのですか。なぜわたしたちをエジプトから導き出して、こんなにするのですか。わたしたちがエジプトであなたに告げて、『わたしたちを捨てておいて、エジプトびとに仕えさせてください』と言ったのは、このことではありませんか。荒野で死ぬよりもエジプトびとに仕える方が、わたしたちにはよかったのです」。この後も、彼らは「食べるものがない」と言っては不平不満をつぶやき、「水がない」と言ってはつぶやき続けます。あの感謝と信頼と喜びの歌とは裏腹に。読んでいて気づいたのですが、この、恐れと心細さに揺さぶられて不平不満をつぶやき続ける神の民イスラエルと、あの心を頑なにし続けるエジプト王パロとはよく似ていると思えます。10円玉の表と裏のように。鏡のこちら側とあちら側のように。『喉もと過ぐれば熱さを忘るる』と言いました。苦しみを忘れてしまうだけではありません。喜びも感謝も、主への驚きも信頼も、簡単に忘れてしまう。困ったものです。
 13-14節、モーセは民に答えました。「あなたがたは恐れてはならない。かたく立って、主がきょう、あなたがたのためになされる救を見なさい。きょう、あなたがたはエジプトびとを見るが、もはや永久に、二度と彼らを見ないであろう。主があなたがたのために戦われるから、あなたがたは黙していなさい」。どうしたら、恐れないでいられるでしょう。一体どうしたら、主なる神さまへの感謝と信頼のうちに、心安く晴れ晴れとした私たちであることができるでしょうか? 主の救いを見ることによってです。ご主人であられる神さまが、この私のためにさえ、先頭を切って第一に戦ってくださる。その姿をつくづくと見て、「本当にそうだ」と知ることによってです。「きょう、あなたがたはエジプトびとを見るが、もはや永久に、二度と彼らを見ないであろう」。それはつまり、これからも何度も何度も、度々繰り返して、彼らを見るという意味です。この私たちを奴隷にしようとするものたちが追いかけてきます。目の前に海が立ち塞がります。袋小路に据え置かれて、私たちは恐れと心細さに打ちのめされそうになります。いつもの職場でも、茶の間に座っていても、道を歩いているときにも。あなたの目の前にいる、あまりに気難しく頑固で偏屈な
パロは「ゆるす」と言い、すぐに心を変えて「ゆるさない」と言うでしょう。そのとき、あなたや私はどうするでしょうか。そのとき、恐れないあなたであることができるでしょうか。それともただただ言いなりにされ、臆病風に吹かれるでしょうか。恐れたりおじけたり、神ではないものを仕方なしに拝んだりさせられてしまうでしょうか。「仕方がない、仕方がない」と都合のよい言い訳を並べ立てながら。貧しく身を屈めさせられる日々が来ます。年老いる日々が来て、若者たちさえ疲れ、弱り果てる日々が来ます。歴戦の勇士たちもつまずき倒れる日々が、この私たちそれぞれのためにも来ます(イザヤ43:12。様々な悩みと思い煩いが海のように行く手を塞ぐときが、この私たちそれぞれのためにも来るでしょう。
 16節、「海の中の乾いた地を行かせなさい」と主がお命じになり、そのとおりにしていただきました。その後も、「海の中の乾いた地を。海の中の乾いた地を」22,29節)としつこく繰り返されます。泥水だらけのぬかるんだ道ではなく、乾いて歩きやすくしていただいた道を安心して落ち着いて渡りました。ここが、心に留めるべき大切な点です。だからこそ、年寄りや赤ちゃんや小さな子供、足腰衰えた者、病弱な者たちもも大勢いる中で、けれど皆で渡りきることができました。主なる神の慈しみ深い取り扱いが民の一人一人に及びつづけます。燃える火の中や大水の下をくぐる時にもです。苦難の只中にあっても、主はあなたを見放すことも見捨てることも決してなさらないからです。さて、生きることは、いつまでもどこまでも望むままに生きることを意味しません。若い日々にも健康で旺盛な日々にも、小さな子供の頃でさえ、生きることは死と隣り合わせ・背中合わせだったではありませんか。限りある、ほんの束の間のごく短い生命のときを、それじゃあ、この私自身はどうやって使おうか。どのように生きてゆこうか。やがて必ず来る死と終りを見据えて、だからこそ、そこで私たちは「じゃあ、この私はどんなふうに生きていこうか」と腹を据えたのでした。腹をくくって、よくよく心を鎮めましょう。たとえ予想できる最低最悪の事態がこの身に起こるときにも、「それでいい。分かりました」と受け入れ、従うことができます。あってよいことと、あってはならないことを決める立場に私たちはいません。私たちは神さまではないのですから、神より賢くあってはならないのですから(コリント手紙(1)1:18-25,ヨハネ手紙(2)9参照)。むしろ神さまにこそ信頼を寄せ、願い求め、神さまの真理と慈しみにすがって生きるはずの私たちですから。

             ◇

大切なことをお伝えします。2つです。(1)神さまがこの世界の全部を造り、神を信じる人たちをあらかじめ救いへと選んでくださっています。(2)やがて世界の終わりに、主イエスを信じて生きる人たちは、ただ「イエスを信じる」という一点だけで救われ、神の永遠の御国(=天国,神の国)に迎え入れられます。そこで、神さまと一緒に、幸いにいつまでも生きることになります。もし、聖書の神さまを信じて生きるなら、「死んだあとにも幸いな生命がある」と、ここまで信じることができるならば信じた甲斐があります。なぜなら、もし、この希望がないなら、聖書の教えも福音も人を少しも生かさないし、その人自身と家族を救うことも決して有り得ないからです。これが、神を信じて生きることの希望の中身です。その希望をもって一日一日を生きることができるなら、その人たちはとても幸いです。「天にいますわたしの御父の御心なしには髪の毛一本も私の頭から虚しく落ちることがない」、これからもそうです。しかも現に髪は抜けて薄くなり、白髪頭・ハゲ頭になり、足腰衰え、物忘れもひどくなりました。この私たち一人一人も、やがて間もなく次々と死んでいきます。しかも祝福と恵みを十二分に受け取りながら、天の御父の御心によって。


2018年8月22日水曜日

8/19こども説教「息を引き取った」ルカ23:44-49


8/19 こども説教 ルカ23:44-49
 『息を引き取った』

23:44 時はもう昼の十二時ごろであったが、太陽は光を失い、全地は暗くなって、三時に及んだ。45 そして聖所の幕がまん中から裂けた。46 そのとき、イエスは声高く叫んで言われた、「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」。こう言ってついに息を引きとられた。47 百卒長はこの有様を見て、神をあがめ、「ほんとうに、この人は正しい人であった」と言った。48 この光景を見に集まってきた群衆も、これらの出来事を見て、みな胸を打ちながら帰って行った。49 すべてイエスを知っていた者や、ガリラヤから従ってきた女たちも、遠い所に立って、これらのことを見ていた。                 (ルカ福音書23:44-49

  救い主イエスが、とうとう十字架の上で死んでしまいました。男の弟子たちがみな逃げ去る様子が、少し前に報告されていましたね。けれどこの大事な出来事を、「ガリラヤから従ってきた女たちが見ていた」と報告されています。遠く離れてではあっても、けれどこの女の弟子たちがいたと。また47節、ローマの軍隊の中の100人の部下を指導する外国人の百卒長がここにいて、「ほんとうに、この人は正しい人であった」と言っています。この「正しい」という意味は、「父なる神さまをよく信頼して、よく聴き従っている」という意味です。息を引き取るときに、救い主イエスが声高く叫んで「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」と叫んだのを見て、ああ本当にとこの百卒長には分かりました。十字架の上で死んでゆくときにさえ、父なる神さまへの主イエスの信頼は少しも揺れ動いていなかったのです。私たちにもそれぞれ困ったことや恐ろしいことや心細いことが次々とあります。どうしていいか分からないほど、すっかり心が挫けてしまう日々もあります。そうであっても、主イエスを信じて生きる私たちもこの方に導かれ、教えられつづけて、同じように神によく信頼して、よくよく聴き従って生きることができます。それはとても心強く、幸いなことです。


【補足/神に信頼して、ゆだねる信仰】
 この信仰の本質は、神によくよく信頼し、神さまに聴き従い、神にこそすべて一切をゆだねて生きる信仰です。つまり、神への信頼と従順です。信頼し、すべてをゆだねるに値する神と出会うことができるかどうかが、大きな分かれ道です。その信頼の姿を、まず救い主イエスこそが私たちに手本として示してくださいました。死の直前にもそうでした。また、この前夜のゲッセマネの園での祈りの中でも、父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください(ルカ22:42と。主イエスを信じて生きてゆく中で、「~私の思いや願いではなく、み心が成るように」と一日ずつを生きる私たちへと成長させられていきます。
 また、「正しい人は一人もいない」(ロ―マ手紙3:10-18,14:1-2,創世記8:21と聖書ははっきりと断言しています。正しく、またほんとうに善である方は神お独りです。ですから、人間について「正しい人」と聖書が言うとき、それは限界ある、ごく表面的で部分的な正しさであったり、「神を信じて生きようと願う」などという意味であったりします。あるいは、「人間たちの目から見ての正しさ」であったり。すべての人間が神に逆らう罪の根を深く抱えた存在であることを、決して忘れてはなりません(テモテ手紙(1)1:12-17,ローマ手紙3:21-27

8/19「アブラムとサライの不信仰」ローマ4:16-25、創世記12:10-20


                        みことば/2018,8,19(主日礼拝)  176
◎礼拝説教 創世記12:10-20,ローマ手紙4:16-25  日本キリスト教会 上田教会
『アブラムとサライの不信仰』

   牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

12:10 さて、その地にききんがあったのでアブラムはエジプトに寄留しようと、そこに下った。ききんがその地に激しかったからである。11 エジプトにはいろうとして、そこに近づいたとき、彼は妻サライに言った、「わたしはあなたが美しい女であるのを知っています。12 それでエジプトびとがあなたを見る時、これは彼の妻であると言ってわたしを殺し、あなたを生かしておくでしょう。13 どうかあなたは、わたしの妹だと言ってください。そうすればわたしはあなたのおかげで無事であり、わたしの命はあなたによって助かるでしょう」。14 アブラムがエジプトにはいった時エジプトびとはこの女を見て、たいそう美しい人であるとし、15 またパロの高官たちも彼女を見てパロの前でほめたので、女はパロの家に召し入れられた。16 パロは彼女のゆえにアブラムを厚くもてなしたので、アブラムは多くの羊、牛、雌雄のろば、男女の奴隷および、らくだを得た。17 ところで主はアブラムの妻サライのゆえに、激しい疫病をパロとその家に下された。18 パロはアブラムを召し寄せて言った、「あなたはわたしになんという事をしたのですか。なぜ彼女が妻であるのをわたしに告げなかったのですか。19 あなたはなぜ、彼女はわたしの妹ですと言ったのですか。わたしは彼女を妻にしようとしていました。さあ、あなたの妻はここにいます。連れて行ってください」。20 パロは彼の事について人々に命じ、彼とその妻およびそのすべての持ち物を送り去らせた。      (創世記12:10-20)


今日の礼拝説教は、いつにも増して聞き苦しく耳の痛い内容を含みます。できればこの箇所を省いて素通りしてしまいたかったのですが、けれどどうしてもそれは出来ませんでした。神の民とされたイスラエルの、その一番最初の大失敗だからです。しかも彼らはそれを何度も何度も繰り返し、今日に至るまで私たちの間でも、その失敗と過ちとは繰り返されつづけているからです。ですから、どうかおゆるしくださって、少し我慢してお聞きください。神さまから背いて罪と悲惨さの中へ落ちてしまったこの世界を救おうとなさって、神さまは、いよいよ本腰を入れて手を差し伸べはじめます。それが、創世記12章というタイミングです。2段階の救済処置です。(1)ひとにぎりの神の民を生み出すこと。そして、(2)やがて救い主イエスによる決定的な救い。神の民とされた私たちが、神さまを信じて、神さまにこそ信頼し、神さまの御心にかなうことを求めて生活しはじめる。そこでようやく、この世界と私たちのための祝福が現実に実を結びはじめます。

  十分な良い出発をとげたはずの彼らでした。けれど早々に、雲行きが怪しくなってきました。飢饉が起こり、自分たちが食べる食料が日毎に乏しくなってきました。しかもそれは、「あなたの子孫にこの土地を与える」(12:7)と神さまが保証してくださったはずのその約束の土地の只中で。なにしろ食べていけない。背に腹は代えられません。彼らは、約束の土地に踏みとどまることができませんでした。かといって故郷に逆戻りしてしまうこともできず、農産物の収穫が豊かであったエジプトへと一時的に緊急避難することを選びます。すっかり諦めて、神さまに従って生きはじめる以前の故郷へと逆戻りするわけではない。かと言って、約束の土地にそのまましがみつくこともできない。困りました。そこで飢饉が止むまで、ほんの一時的に避難し、やがてふたたび神さまがお示しになったこの土地にきっと必ず戻ってこよう。そして、そのエジプトの地で、大きな試練と誘惑が彼らを待ち構えていたのです。エジプトに入る直前、アブラム(=後に、神ご自身によって『アブラハム』と改名。創世記17:6は妻のサライにこう申し出ます;11-13節、「わたしはあなたが美しい女であるのを知っています。それでエジプトびとがあなたを見る時、これは彼の妻であると言ってわたしを殺し、あなたを生かしておくでしょう。どうかあなたは、わたしの妹だと言ってください。そうすればわたしはあなたのおかげで無事であり、わたしの命はあなたによって助かるでしょう」。妻は夫の申し出に同意し、二人は結託して嘘をつきはじめます。あの彼らをかばって弁護しようとする人たちは今も大勢います、「いいや、嘘といっては言いすぎだろう。実際に、遠い親戚同士でもあり、異母兄弟でもあったのだし」。・・・・・・どう思いますか。いいえ、だって自分の妻であることを伏せて、あの彼は神が結び合わせてくださった自分の妻を「はいどうぞ」とエジプトの王に差し出してしまったのですから。
  「あなたは何ということをしたのか。なぜ彼女が自分の妻であるのを私に告げなかったのか。なぜ、彼女はわたしの妹ですと言ったのか」(18-19)なんということをした。なんと不届きで不忠実なしもべか。神の民とされた人たちよ。たかだか外国人の王が叱りつけていると思ってはなりません。エジプトの王の口を用いて、神ご自身こそがアブラムをきびしく叱りつけています。アブラムとサライを心底から悔い改めさせるため、神の憐れみのもとへと立ち返らせるために、主である神さまは、エジプトの王をご自分の働きのための道具として用いました。旧約聖書にも新約聖書にも、神を知らない・信じないはずの人々を用いて、神さまがその人々に大きな役割を果たさせることが度々ありました。私たちの間でもまったく同じです。神さまを信じていないはずの人々から思いがけなく助けてもらったり、支えられたり励まされたり、あるいは、「お前は何ということをしたのか。どいういう了見か」と厳しく叱っていただいたり。神ご自身がアブラムとサライのはなはだしい裏切り行為に対して直接に介入し、彼らの現実をねじ曲げ、彼らの不信仰を力づくで組み伏せてしまわれます。そして末尾の20節;「パロは彼の事について人々に命じ、彼とその妻およびそのすべての持ち物を送り去らせた」。ハッピーエンドのように見えます。雨降って地かたまる、良かった良かった、と胸を撫で下ろしたくなります。
  けれども、あの彼らの不信仰と裏切りの根はとてもとても深かったのです。まるで印刷製本のミスかと疑いたくなるほどに、あまりによく似た、ほぼまったく同じ出来事がこのあと、同じ創世記の20章、26章と執拗に繰り返されます。まずこの数年後の20章で、別の土地に滞在していたときアブラハムは妻サラを「これは私の妹です。どうぞ、あなたの妻にでも側室でもそばめにでも、好きなようにしてください。はい、どうぞどうぞ」と外国人の王さまに差し上げようとします。そして26章。やがて彼らの子供たちの時代に、彼らの息子イサクは妻リベカのことを「はいはい、私の妹です。誰でもどうぞ望むままに、好きなようになさってください」と。不思議です。こうしたことが性懲りもなく繰り返されつづける理由は、いったいどこにあるのか。この、体裁のよい都合もいい方便を使おうと、いつ彼らは決めたのか、いつからこのあまりに不正な偽善と隠蔽工作を使いつづけてきたのか。そもそもの最初からでした。20章で、「なぜこんなことをしたのか」と外国人の王から尋問されて、アブラハム自身が自分自身の心の思いと判断とを告白しています。20:11-13;「この所には神を恐れるということが、まったくないので、わたしの妻のゆえに人々がわたしを殺すと思ったからです。また彼女はほんとうにわたしの妹なのです。わたしの父の娘ですが、母の娘ではありません。そして、わたしの妻になったのです。神がわたしに父の家を離れて、行き巡らせた時、わたしは彼女に、あなたはわたしたちの行くさきざきでわたしを兄であると言ってください。これはあなたがわたしに施す恵みであると言いました」。え、神が父の家から離れさせ、行き巡らせたとき? つまり、そもそもの最初から、ず~っと。なんということでしょう。どこへ行っても兄ですと言ってくれ。つまりは、この土地、あの土地、向こうの土地に神を畏れることがまったくないとか、「あの人たち、この人たちがちっとも神さまに信頼しない。だから」ということではなかったのです。他の誰のことでもなく、神を信じて生きるはずのあの彼ら自身にこそ神を畏れる心がほんの少しもない。それ以上にその何倍も、神ではない他のモノを恐れる心が多すぎました。この不信仰と生狡い策略は彼らに恵みを施すどころか、大きな災いと罠を招き寄せたのです。今日の箇所、1218-19節で「なんということをしたのか」と叱られて、彼らが反省して心を入れ替えたかに見えました。けれどまた20章で繰り返し、26章でも繰り返し、「なんということをしたのか」。三度か四度きびしく叱られる程度では、彼らは神さまへと思いを向け返しませんでした。背きの根はあまりに深かったのです。
 例えば、「約束どおり、子供がもうすぐ生まれる」と神から告げられたときだって、アブラハムは顔を伏せて苦笑いをしたじゃないですか。「100歳の男にどうして子供が生まれるだろうか。サラはまた90歳にもなって、どうして子供が産めるだろうか。いいや、産めるはずもない」と。妻のサラも同様でした。天幕の陰でその予告を聞きながら、彼女も淋しく笑いました。「私は衰え、主人もまた老人であるのに、わたしにもはや楽しみがあるはずもない」と(創世記17:17,18:12参照)。神さまを信じて生きるあの夫婦は、不信仰に陥ることが度々あったし、疑うことも神さまに背くことも何度も何度もありました。詳しく眺めましたように、神に従う旅に出た直後に、自分の妻を妹だと偽って王に「さあ好きなようにしてください」と差し出しました。お互い同士への、さらに神ご自身へのあきらかな、あまりにはなはだしい裏切りでした。同じことはもう一度あり、そんな親の不信仰に倣って、息子夫婦もまったく同じ裏切りを犯してしまうほどでした(創世記12:10-,20:1-,26:1-。自分の息子イシマエルを連れて女奴隷ハガルが家出しなければならなかったのも、アブラハムが妻サラに、「あなたの女奴隷はあなたのものだ。好きなようにするがいい」と言ったからでした(創世記16:6。自分の大切な妻を「いいえ妹です。どうぞお好きなように」と差し出したのとそっくり同じに。あの彼もあの彼女も、神さまとの約束をすっかり忘れていました。ほかにも色々。不信仰につぐ不信仰。疑いと裏切りの連続、それがあの夫婦の日々でした。困ったとき不都合なとき、なぜ不信仰に落ちいてしまうのか。「困ったとき、生きる道を見いだせないとき、そのときこそただただ神にこそ助けていただこう。この私は神にこそ必死にしがみつこう。きっと必ず助けてくださる神である」とはほんの少しも思っていなかったからです。
  ふと気がつくと、この私たち自身も同じことをしつづけています。恥ずかしいことです。けれど、せっかくこの聖書の神さまを信じたのです。アブラハムの日々と聖書自身を、現実離れした理想や絵空事にしてはなりません。不信仰に陥ることも信仰が弱まることも疑うこともなかったスーパーマンが、一体どうして私たちの『信仰の父』になれるでしょう。どうして私たちが、そんなどこにも存在しないような絵空事の人物を手本として生きられるでしょう。しかもその超人・超善人たちは、私たちが聞き届けてきたはずの福音の真理(ローマ3:21-,テモテ(1)1:12-17の枠外にいるというのでしょうか。私たちはキリストの十字架によって救われたが、けれどあの彼らは、彼ら自身の善行や美徳によって、正しくしっかりした強い信仰によって救われた、というのでしょうか。自分の目と心で確かめてみましょう。聖書のページを開き、また自分自身のこれまでの日々を振り返りながら。ですから今日、創世記12章の前にご一緒に読んだあのローマ手紙4:16-25は、あまりに寛大な、あまりに大目に見た報告であると言えるでしょう。事実に即して、もう少し丁寧に親切に報告を言い直すならば;「アブラハムは、たしかに信仰が弱まった。彼は不信仰に度々陥って、神の約束を何度も何度も疑った。繰り返し神の約束を忘れ、背き、罪を犯しつづけた。けれどなお神は、そんな彼らをさえ見捨てることも見離すこともなく、信仰が弱まる度毎に強めてくださり、背いて離れ去る度毎に連れ戻し、ついにようやく神を讃美して生きる人間としてくださった」と。

アブラハムの子孫たちよ。これが実態だったのです。手紙を書いたパウロ自身も、自分がアブラハムと同じくあまりに寛大な取り扱いを受けてきたことをよくよく知っていました。アブラハムもイサク、ヤコブ、パウロも、そして私たち皆も、《神さまからの憐れみの取り扱い》を受けました。憐れみを受けたのであり、限りなく忍耐され、ゆるされ続けてきたのです。ダビデもモーセもソロモンもノアも、まったく同様です。ここにいるこの私たち一人一人も。弱さや狡さや疑いや迷いや罪深さをそれぞれに山ほど抱えて、けれど、それなのに救われ、そうであるにもかかわらず神の民の一員としていただきました。だからこそ、あの不従順・不信仰の裏切りの連続だった彼こそが「私たちの信仰の父」と呼ばれます。だからこそ、「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」という証言は真実であり、私たちはそのまま信じて受け入れたのです。クリスチャンであるという中身はそのことです。「信仰は弱まらなかった。神の約束を不信仰のゆえに疑うことはせず、かえって信仰によって強められ、栄光を神に帰し、神はその約束されたことを成し遂げることができると確信した」(ローマ手紙4:16-25は、こうして私たち罪人に対する神ご自身の眼差しと取り扱い方法を示したのです。恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される神です(ヨナ4:2,出エジプト34:6,86:5,15。あまりに寛大なその同じ神が、この私たちを、こんな私たちさえも、あのアブラムのように扱ってくださっています。あなたも私もたしかに信仰が弱まった。これまでもそうだったし、多分これからも。不信仰に陥って、神の約束を何度も何度も疑いました。神の約束を忘れ、背き、罪を犯しつづけました。何度も何度も、度々しょっちゅうそうでした。けれどなお神は、そんなあなたをさえ見捨てることも見離すこともなく、信仰が弱まる度毎に強めてくださる。背いて離れ去る度毎に連れ戻し、ついにようやく神を讃美して生きる晴れ晴れとした人間としてくださいます。必ずきっと、そうしてくださいます。このことを心に刻んで生きることのできる人たちは、とても幸いです。

2018年8月13日月曜日

8/12こども説教「いっしょに楽園にいる」ルカ23:39-43


 8/12 こども説教 ルカ23:39-43
 『いっしょに楽園にいる』

23:39 十字架にかけられた犯罪人のひとりが、「あなたはキリストではないか。それなら、自分を救い、またわれわれも救ってみよ」と、イエスに悪口を言いつづけた。40 もうひとりは、それをたしなめて言った、「おまえは同じ刑を受けていながら、神を恐れないのか。41 お互は自分のやった事のむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ。しかし、このかたは何も悪いことをしたのではない」。42 そして言った、「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」。43 イエスは言われた、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。        
                         (ルカ福音書23:39-43

  ケンちゃん。救い主イエスがとうとう十字架の上で殺されようとしています。その両側には二人の罪人がいっしょに十字架につけられて殺されようとしています。一人は、主イエスを信じない罪人、もう一人は主イエスを信じる罪人。いまでも、救い主イエスを信じない多くの人々にとって、この場面はただ残酷で、恐ろしくて惨めなだけの場面です。けれど、救い主イエスを信じて生きている私たちにとっては、生きる希望をはっきりと告げているとても大切な場面です。なぜなら、救い主イエスを信じるこの罪人と同じに、この私たち一人一人も、やがて死んでいくときに、同じく救い主から、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいる。とても素敵な楽園に、いっしょにいる」と約束されるからです。多くの人たちは、死んだらそれでおしまいだと思っています。誰でも皆やがて死んでしまいますが、でも 死んでそれでおしまいではありません。死んだあとにも生命がつづき、しかも救い主イエスを信じる人々は、この救い主イエスと一緒にとても素敵な楽園に住むことになります。本当のことです。これを信じることができる人たちはとても幸せです。もし、聖書の神さまを信じて生きるなら、「死んだあとにも生命がある」と、ここまで信じることができると信じた甲斐があります。なぜなら、もし、この希望がないなら、聖書の教えも福音も人を少しも生かさないし、その人自身と家族を救うことも決して有り得ないからです。

   【補足/神を信じて生きる希望】
    大切なことを伝えますから、よく覚えていてください。(1)神さまがこの世界の全部を造り、神を信じる人たちをあらかじめ救いへと選んでくださっていました。(2)やがて世界の終わりに、主イエスを信じて生きる人たちは、ただ「イエスを信じる」という一点だけで救われ、神の永遠の御国(=天国,神の国)に迎え入れられます。そこで、神さまと一緒に、幸いにいつまでも生きることになります。(1)(2)これが、神を信じて生きることの希望の中身です。その希望をもって一日一日を生きることができるなら、その人たちはとても幸いです。


8/12「祝福の出発点とされて」創世記12:1-9

          みことば/2018,8,12(召天者記念の礼拝)  175
◎礼拝説教 創世記12:1-9                      日本キリスト教会 上田教会
『祝福の出発点とされて』


牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC


12:1 時に主はアブラムに言われた、「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。2 わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう。3 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地のすべてのやからは、あなたによって祝福される」。4 アブラムは主が言われたようにいで立った。ロトも彼と共に行った。アブラムはハランを出たとき七十五歳であった。5 アブラムは妻サライと、弟の子ロトと、集めたすべての財産と、ハランで獲た人々とを携えてカナンに行こうとしていで立ち、カナンの地にきた。6 アブラムはその地を通ってシケムの所、モレのテレビンの木のもとに着いた。そのころカナンびとがその地にいた。7 時に主はアブラムに現れて言われた、「わたしはあなたの子孫にこの地を与えます」。アブラムは彼に現れた主のために、そこに祭壇を築いた。8 彼はそこからベテルの東の山に移って天幕を張った。西にはベテル、東にはアイがあった。そこに彼は主のために祭壇を築いて、主の名を呼んだ。9 アブラムはなお進んでネゲブに移った。        (創世記12:1-9)


 まず、創世記12:1-4です。「時に主はアブラムに言われた。『あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地のすべてのやからは、あなたによって祝福される』。アブラムは主が言われたように出で立った」。例えば神の民のはじまりが、なぜ、あのアブラハム(後に、神ご自身によってアブラムは『アブラハム』、サライは『サラ』と改名。創世記17:5でありサラだったのか。聖書は、「ただ恵みによって。ただただ憐れみから」(ローマ手紙3:21-26,テモテ手紙(1)1:12-16と答えつづけます。道端の石ころからでもアブラハムの子を次々と生み出すことのできる、その同じ一つの神さまが(マタイ福音書3:9参照)、あなたや私にも目を留めつづけておられます。しかも皆さん。その人たちに何か見所や取り柄があって、というのではなくてです。なにしろ、とても寛大で慈しみ深い神さまなのです。あなたのためにも、その恵みと祝福を手渡そうとして待ち構えておられます。

 私たちはまた創世記12章というこのタイミングに、よくよく目を留めてみる必要があります。(この1ヶ月ほど、78日から5回にわたって、世界のはじまりから創世記12章の前までを読み味わってきました。ごく大まかに、そのあらすじを辿ります)この世界のすべては、神さまによって造られました。はじめには、地は形なく、むなしく、闇に覆われていました。まず神さまは「光あれ」と仰り、すると光があらわれ、そのように次々と命じられ、一つ一つを造られました。6日目に、主なる神さまはご自分でお造りになったすべてのものを、その一つ一つを御覧になった。つくづく眺め渡して、「それは極めて良かった。とてもいい」と大喜びに喜ばれました。7日目に神さまはご自分の仕事を離れてホッと一息つき、その安らかな息のうちに、ご自分が造られたすべてのものを祝福なさり、ご自分のものとされました。「祝福し、聖別した」(創世記2:3という『聖別』(せいべつ)とは、神さまがそれを、他の誰のものでもなくご自分のものとなさったということです。世界のはじまりは、もう一度、別の角度から報告されます。創世記24節以下です。地が形なく、むなしく、闇に覆われていたように、大地ははじめには草一本も生えない物淋しい土地でした。地上に青々とした植物が生い茂り、花を咲かせ、豊かな実を結ばせるためには、降り注ぐ恵みの雨によって潤され、その恵みを受け止めて大地を耕し守る者たちが必要でした。大地を耕し守る人々。それは土の塵から形作られ、鼻に生命の息を吹き入れられた人間たちです。働きと使命を与えられ、祝福と戒めを与えられ、互いに助け合う者たちの輪が2人から3人、4人5人へ、102030人へと末広がりに広がってゆく祝福のご計画でした(創世記2:4-25。けれど私たち人間はつまずき、そそのかす者に目を眩まされて、神さまに背いてしまいます。創世記3章にはじまった神への反逆は雪だるまを転がすようにどんどん大きくなり、私たち人間は坂道を転げ落ちるように神さまの祝福から遠ざかっていきました。創世記4章。そして6-8章。ノアの時代のあの大洪水は、人間の過ちをなにも解決しませんでした。「人が心に思い図ることは幼い時から悪い。けれどなお打つことも滅ぼすこともしない。ゆるそう」(創世記8:21-22参照)と。だからこそ11章のバベルの塔の町の出来事へと、神への背きと不従順とはとどまることなくますます大きくなり、なお根深く広がっていきました。雪だるまが坂道を転げ落ちてゆくように、世界は際限もなくどこまでもどんどん悪くなっていきました。そのどん詰まり、どん底が、12章というタイミングでした。大洪水を生き延びたわずかの者たちは決して善男善女、聖人君子というわけではなかったのです。「心に思い図ることは幼いときから悪い。誰も彼もがとても悪い。けれどなお、ゆるそう。滅ぼすこともせず、見捨てることもしない」(創世記8:21-22参照)と。ここで足を止めて、神のなさりようをきちんと受け止めなければなりません。私たち人間がごく普通に考えるなら、『悪いから滅ぼす。良いものを救う』と判断するはずです。けれど神さまは、『悪いけれど滅ぼさない。悪いけれど救う』と仰る。私たち人間の理性が納得するような真理ではありません。まったく道理にかなっていません。私たちが子供のころから家や学校や社会で習い覚えてきたはずのモノの道理や合理精神とはまったく違います。ですから、普通のモノの考え方では分からない、納得することも受け止めることもできないはずのことが告げられていると、承知していてください。道理にあわない、私たちが理解も納得もできないことをしばしばなさる神であると知って、その神の御前にへりくだって深く慎むことを私たちは習い覚えねばなりません。『悪いけれども、憐れんで救う』、これが神さまの断固たる決心です。悪いからといって、大地や人をこんなふうにことごとく打つことはもう二度と決してしない。けれど、見過ごして放置するのでもない。では、どうするのか? 神さまは、二段階の救いの道筋を用意なさいます。(1)神を信じて生きるひとにぎりの人々を生み出すこと(創世記12:1-4。そして、(2)救い主イエスによる決定的な救いの出来事と。やがて神さまは、悪い人間を懲らしめて厳しく打ちすえる代わりに、ご自身を厳しく打ちすえ、自分自身を打ち砕こうとなさるのです。十字架の上で救い主イエスは呼ばわります;「父よ、彼らをおゆるしください。自分が何をしているのか分らないのですから」(ルカ23:34)自分が何をしているのか分からない。どこにどう足を踏みしめて立っているのか。自分が何者なのか。何のために生きているのか。どこへと向かっているのかもサッパリ分からない。だから、ゆるして救う必要があります。憐れで、とても可哀想だからです。神の憐れみを受けた兄弟姉妹たち。これが、憐れんで救う神の御心です。こういう、あまりに情け深い神さまです。
  さて、創世記12:1-3、『あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地のすべてのやからは、あなたによって祝福される』。神さまからの祝福と平和が陸上競技のバトン・リレーのように差し出され、手渡されつづけ、末広がりにその輪が広がってゆく。祝福の土台・出発点となるように。これこそが、私たちのための神さまからの願いです。元々、アブラハムとサラと子供たち孫たちと親戚一同のためだけの祝福、ではなかった。神の民イスラエルのためだけの祝福ではなかったし、ただ人間様たちのためだけの祝福でもなかったのです(創世記9:8-17,マタイ福音書24:45-51参照)。その祝福の末広がりは、けれど、どのようにして成し遂げられてゆくでしょう。「国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい」(12:1)という指図は、いったい何でしょうか。
  聖書を読み味わってきた私たちの中で、あるとき、読んできた断片的で細切れな事柄が一つまた一つと互いに響き合い、結びつきはじめます。生まれ故郷、親族や父の家からも離れて。これとよく似たことを、どこかで読んだことがある、と。アダムとエバが神さまによって造られたとき、彼らはこう祝福されたのでした;「人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。人とその妻とは、ふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった」(創世記2:24-25)。赤の他人同士だったはずの2人が結び合わされて、一体となる。互いに恥ずかしがりもせず、恥ずかしがらせもせず、恐れたり恐れさせたり、無理に従わせたり従わさせられたりもせず、睦ましく添い遂げて暮らしてゆく。けれど、そのためには、ぜひとも離れ去るべき父母という存在がありました。また例えば、主イエスの弟子たちが招かれたとき、彼らは小さな湖で魚を獲って暮らしを立てる貧しい漁師たちでしたが、父を捨て、家を捨て、舟も仕事道具の網も捨て、仕事仲間たちからも離れて、そのようにして主に従いました。また例えば、福音を告げ知らせるために町々村々へと遣わされたとき、彼らは「下着2枚も持っていくな。杖も袋も金も持たずに行け」(マルコ福音書1:18-20,ルカ福音書9:1-3,10:1-4)と指図されました。奇妙な指示です。何も持っていってはならない。余分な杖もパンも金もキャッシュカードも、着替えの下着さえ。どういうことでしょうか。なんという無暴で世間知らずな。そんなことで現実の生活が成り立つでしょうか。――もちろん成り立つわけがありません。主のもとから送り出された弟子たちは、出かけていって一日二日で、早くも生活に困窮し始めます。何かをしようとする度に、「さあ、困った。どうしたらいいだろうか」と頭を抱えます。食べるにも飲むにも着るにも、何をするにも不自由します。町や村へと遣わされていった弟子たちは、そこで、その土地に住む人々に頼って生活せざるをえません。なんと不自由で肩身が狭く、なんと心細いことでしょうか。まるで、わざわざ、主によってそのように仕向けられているかのようです。その通りです。
 神の民とされ、主イエスの弟子たちとされた人々よ。捨て去るべきものは、それぞれ後生大事に抱えていた後ろ盾です。これがあるから大丈夫という、安心材料、頼みの綱。さらにもう一つの安心材料は、自分自身でした。これまでこうやって世の中を渡ってきたというそれぞれの小さな誇りであり、プライドでした。「しっかりしている。取り柄も見所も社会経験も見識もたっぷりある、なかなかたいした自分だ」という自負心でした。自分に頼って生きてきた優れた人物たちも、けれど信仰をもって生きる中で、その自信も小さなプライドも粉々に打ち砕かれ、大恥をかかされました。なぜ。何のために? 自分を信じるのではなく、主なる神さまをこそ信じるようにと。自分を誇り、自分を頼りとするのではなく、主をこそ誇り、主を頼みの綱として生きるようにと(コリント手紙(1)26-31,(2)1:8-10,ローマ手紙3:21-27。だからこそ、やがて彼らが道端で貧しい小さな人と出会ったとき、「さあほら、素敵でとても立派な私を見なさい」とは言いませんでした。この私が人様・世間様から見て素敵なのかそうでもないか、どんな見所と取り柄があるのか、そんなことと福音伝道とは何の関係もなかったのです;「さあ、私たちを見なさい。この私をよくよく見なさい。金銀は私にはないが、見所や取り柄があるわけでもないが、持っている飛びっきりに素敵なものをあなたにあげよう。ナザレ人イエスの名によって歩きなさい」(使徒3:4-6参照)と。だからこそ、その同じまったく新しい安心材料を受け取り、踊りあがって大喜びしながら生きる者たちが一人また一人と呼び出されていったのです。
 その日から、神の慈しみによって生きることが始まりました。「わたしが示す地に行きなさい」と命じられ、「はい。分かりました」と主が命じられたとおりに出発しました。私たちはよくよく習い覚えてきました。神と私たちとの関係で最も大事な肝心要は、それが『主従関係』であることです。神さまがご主人さま、私たちはその主人に仕える召し使いであり、手下の者です。「主なる神」と申し上げ、「主イエス」と呼ぶ弟子であるとは、このことです。「~しなさい」と命じられ、「はい。分かりました」と主が命じるとおりに、行い、聞き従って生きてゆくことです。聖書の別の箇所では、「それに従い、行く先を知らないで出ていった」(ヘブル手紙11:8と報告しています。その通りです。行く先を知らないで出ていっては、何か不足や不都合があるでしょうか? いいえ、何も困りません。それで十分です。なぜなら「わたしが示す地に行きなさい」と指図され、「はい」と出発したからです。いつごろ、どんな場所に辿り着くかは、はっきりとは知らされていません。けれど、なにしろ主に従って歩んでゆくと決めています。主が先立って導いてくださり、見捨てることも見放すこともなさらないと約束されています。そうでしたね。例えばこの後ごいっしょに歌う讃美歌288番の2節は、「行くすえ遠く見るを願わじ。主よ、わが弱き足を守りて、ひと足、またひと足、道をば示したまえ」と心安くほがらかに歌っています。行くすえ遠く、5年後10年後どうなっているかを知りたいとは願いません。また、私がやがて世を去った後で残された大切な連れ合いや息子や娘や孫たちがどんなふうに生きてゆけるのかを、私たちは知らされていません。いいえ、知らなくても結構。だって、すべて一切を主なる神さまにお任せして旅立った私共ですから。主よ、私の弱い足腰をどうか守り支えてくださって、ひと足、またひと足と道を示し、手を引くようにして天の都へと導きのぼっりつづけてください。それで十分、と歌っています。この祈りの人も、私共も、そしてもちろんアブラハム、サラ夫婦も。だからこそ折々に立ち止まり、その都度その都度、神からのご命令と指図とを仰がねばなりません。創世記12:7-9;「時に主はアブラムに現れて言われた、『わたしはあなたの子孫にこの地を与えます』。アブラムは彼に現れた主のために、そこに祭壇を築いた。彼はそこからベテルの東の山に移って天幕を張った。西にはベテル、東にはアイがあった。そこに彼は主のために祭壇を築いて、主の名を呼んだ。アブラムはなお進んでネゲブに移った」。立ち止まり、祭壇を築き、主の御名を呼ぶ。また立ち止まり、祭壇を築き、主の御名を呼ぶ。そしてまた。一週間また一週間と区切られた旅路を歩む私たちです。なぜ立ち止まり、主を礼拝し、なんのために主の御名を呼ぶのか。なぜ主からの御声に耳を傾けつづけるのか。自分が望むまま自由気ままにではなく、他の誰彼の指図に従ってでもなく、その都度その都度、神ご自身からのご命令と指図とを仰ぐためにです。主が示す地にやがて必ず辿り着くためにです。主からの助けと養いを受け取りつづけ、主によって支えられつづけて、その旅路を喜びと希望を持って、晴れ晴れと、心安く歩みとおすためにです。