2018年8月13日月曜日

8/12「祝福の出発点とされて」創世記12:1-9

          みことば/2018,8,12(召天者記念の礼拝)  175
◎礼拝説教 創世記12:1-9                      日本キリスト教会 上田教会
『祝福の出発点とされて』


牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC


12:1 時に主はアブラムに言われた、「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。2 わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう。3 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地のすべてのやからは、あなたによって祝福される」。4 アブラムは主が言われたようにいで立った。ロトも彼と共に行った。アブラムはハランを出たとき七十五歳であった。5 アブラムは妻サライと、弟の子ロトと、集めたすべての財産と、ハランで獲た人々とを携えてカナンに行こうとしていで立ち、カナンの地にきた。6 アブラムはその地を通ってシケムの所、モレのテレビンの木のもとに着いた。そのころカナンびとがその地にいた。7 時に主はアブラムに現れて言われた、「わたしはあなたの子孫にこの地を与えます」。アブラムは彼に現れた主のために、そこに祭壇を築いた。8 彼はそこからベテルの東の山に移って天幕を張った。西にはベテル、東にはアイがあった。そこに彼は主のために祭壇を築いて、主の名を呼んだ。9 アブラムはなお進んでネゲブに移った。        (創世記12:1-9)


 まず、創世記12:1-4です。「時に主はアブラムに言われた。『あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地のすべてのやからは、あなたによって祝福される』。アブラムは主が言われたように出で立った」。例えば神の民のはじまりが、なぜ、あのアブラハム(後に、神ご自身によってアブラムは『アブラハム』、サライは『サラ』と改名。創世記17:5でありサラだったのか。聖書は、「ただ恵みによって。ただただ憐れみから」(ローマ手紙3:21-26,テモテ手紙(1)1:12-16と答えつづけます。道端の石ころからでもアブラハムの子を次々と生み出すことのできる、その同じ一つの神さまが(マタイ福音書3:9参照)、あなたや私にも目を留めつづけておられます。しかも皆さん。その人たちに何か見所や取り柄があって、というのではなくてです。なにしろ、とても寛大で慈しみ深い神さまなのです。あなたのためにも、その恵みと祝福を手渡そうとして待ち構えておられます。

 私たちはまた創世記12章というこのタイミングに、よくよく目を留めてみる必要があります。(この1ヶ月ほど、78日から5回にわたって、世界のはじまりから創世記12章の前までを読み味わってきました。ごく大まかに、そのあらすじを辿ります)この世界のすべては、神さまによって造られました。はじめには、地は形なく、むなしく、闇に覆われていました。まず神さまは「光あれ」と仰り、すると光があらわれ、そのように次々と命じられ、一つ一つを造られました。6日目に、主なる神さまはご自分でお造りになったすべてのものを、その一つ一つを御覧になった。つくづく眺め渡して、「それは極めて良かった。とてもいい」と大喜びに喜ばれました。7日目に神さまはご自分の仕事を離れてホッと一息つき、その安らかな息のうちに、ご自分が造られたすべてのものを祝福なさり、ご自分のものとされました。「祝福し、聖別した」(創世記2:3という『聖別』(せいべつ)とは、神さまがそれを、他の誰のものでもなくご自分のものとなさったということです。世界のはじまりは、もう一度、別の角度から報告されます。創世記24節以下です。地が形なく、むなしく、闇に覆われていたように、大地ははじめには草一本も生えない物淋しい土地でした。地上に青々とした植物が生い茂り、花を咲かせ、豊かな実を結ばせるためには、降り注ぐ恵みの雨によって潤され、その恵みを受け止めて大地を耕し守る者たちが必要でした。大地を耕し守る人々。それは土の塵から形作られ、鼻に生命の息を吹き入れられた人間たちです。働きと使命を与えられ、祝福と戒めを与えられ、互いに助け合う者たちの輪が2人から3人、4人5人へ、102030人へと末広がりに広がってゆく祝福のご計画でした(創世記2:4-25。けれど私たち人間はつまずき、そそのかす者に目を眩まされて、神さまに背いてしまいます。創世記3章にはじまった神への反逆は雪だるまを転がすようにどんどん大きくなり、私たち人間は坂道を転げ落ちるように神さまの祝福から遠ざかっていきました。創世記4章。そして6-8章。ノアの時代のあの大洪水は、人間の過ちをなにも解決しませんでした。「人が心に思い図ることは幼い時から悪い。けれどなお打つことも滅ぼすこともしない。ゆるそう」(創世記8:21-22参照)と。だからこそ11章のバベルの塔の町の出来事へと、神への背きと不従順とはとどまることなくますます大きくなり、なお根深く広がっていきました。雪だるまが坂道を転げ落ちてゆくように、世界は際限もなくどこまでもどんどん悪くなっていきました。そのどん詰まり、どん底が、12章というタイミングでした。大洪水を生き延びたわずかの者たちは決して善男善女、聖人君子というわけではなかったのです。「心に思い図ることは幼いときから悪い。誰も彼もがとても悪い。けれどなお、ゆるそう。滅ぼすこともせず、見捨てることもしない」(創世記8:21-22参照)と。ここで足を止めて、神のなさりようをきちんと受け止めなければなりません。私たち人間がごく普通に考えるなら、『悪いから滅ぼす。良いものを救う』と判断するはずです。けれど神さまは、『悪いけれど滅ぼさない。悪いけれど救う』と仰る。私たち人間の理性が納得するような真理ではありません。まったく道理にかなっていません。私たちが子供のころから家や学校や社会で習い覚えてきたはずのモノの道理や合理精神とはまったく違います。ですから、普通のモノの考え方では分からない、納得することも受け止めることもできないはずのことが告げられていると、承知していてください。道理にあわない、私たちが理解も納得もできないことをしばしばなさる神であると知って、その神の御前にへりくだって深く慎むことを私たちは習い覚えねばなりません。『悪いけれども、憐れんで救う』、これが神さまの断固たる決心です。悪いからといって、大地や人をこんなふうにことごとく打つことはもう二度と決してしない。けれど、見過ごして放置するのでもない。では、どうするのか? 神さまは、二段階の救いの道筋を用意なさいます。(1)神を信じて生きるひとにぎりの人々を生み出すこと(創世記12:1-4。そして、(2)救い主イエスによる決定的な救いの出来事と。やがて神さまは、悪い人間を懲らしめて厳しく打ちすえる代わりに、ご自身を厳しく打ちすえ、自分自身を打ち砕こうとなさるのです。十字架の上で救い主イエスは呼ばわります;「父よ、彼らをおゆるしください。自分が何をしているのか分らないのですから」(ルカ23:34)自分が何をしているのか分からない。どこにどう足を踏みしめて立っているのか。自分が何者なのか。何のために生きているのか。どこへと向かっているのかもサッパリ分からない。だから、ゆるして救う必要があります。憐れで、とても可哀想だからです。神の憐れみを受けた兄弟姉妹たち。これが、憐れんで救う神の御心です。こういう、あまりに情け深い神さまです。
  さて、創世記12:1-3、『あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地のすべてのやからは、あなたによって祝福される』。神さまからの祝福と平和が陸上競技のバトン・リレーのように差し出され、手渡されつづけ、末広がりにその輪が広がってゆく。祝福の土台・出発点となるように。これこそが、私たちのための神さまからの願いです。元々、アブラハムとサラと子供たち孫たちと親戚一同のためだけの祝福、ではなかった。神の民イスラエルのためだけの祝福ではなかったし、ただ人間様たちのためだけの祝福でもなかったのです(創世記9:8-17,マタイ福音書24:45-51参照)。その祝福の末広がりは、けれど、どのようにして成し遂げられてゆくでしょう。「国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい」(12:1)という指図は、いったい何でしょうか。
  聖書を読み味わってきた私たちの中で、あるとき、読んできた断片的で細切れな事柄が一つまた一つと互いに響き合い、結びつきはじめます。生まれ故郷、親族や父の家からも離れて。これとよく似たことを、どこかで読んだことがある、と。アダムとエバが神さまによって造られたとき、彼らはこう祝福されたのでした;「人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。人とその妻とは、ふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった」(創世記2:24-25)。赤の他人同士だったはずの2人が結び合わされて、一体となる。互いに恥ずかしがりもせず、恥ずかしがらせもせず、恐れたり恐れさせたり、無理に従わせたり従わさせられたりもせず、睦ましく添い遂げて暮らしてゆく。けれど、そのためには、ぜひとも離れ去るべき父母という存在がありました。また例えば、主イエスの弟子たちが招かれたとき、彼らは小さな湖で魚を獲って暮らしを立てる貧しい漁師たちでしたが、父を捨て、家を捨て、舟も仕事道具の網も捨て、仕事仲間たちからも離れて、そのようにして主に従いました。また例えば、福音を告げ知らせるために町々村々へと遣わされたとき、彼らは「下着2枚も持っていくな。杖も袋も金も持たずに行け」(マルコ福音書1:18-20,ルカ福音書9:1-3,10:1-4)と指図されました。奇妙な指示です。何も持っていってはならない。余分な杖もパンも金もキャッシュカードも、着替えの下着さえ。どういうことでしょうか。なんという無暴で世間知らずな。そんなことで現実の生活が成り立つでしょうか。――もちろん成り立つわけがありません。主のもとから送り出された弟子たちは、出かけていって一日二日で、早くも生活に困窮し始めます。何かをしようとする度に、「さあ、困った。どうしたらいいだろうか」と頭を抱えます。食べるにも飲むにも着るにも、何をするにも不自由します。町や村へと遣わされていった弟子たちは、そこで、その土地に住む人々に頼って生活せざるをえません。なんと不自由で肩身が狭く、なんと心細いことでしょうか。まるで、わざわざ、主によってそのように仕向けられているかのようです。その通りです。
 神の民とされ、主イエスの弟子たちとされた人々よ。捨て去るべきものは、それぞれ後生大事に抱えていた後ろ盾です。これがあるから大丈夫という、安心材料、頼みの綱。さらにもう一つの安心材料は、自分自身でした。これまでこうやって世の中を渡ってきたというそれぞれの小さな誇りであり、プライドでした。「しっかりしている。取り柄も見所も社会経験も見識もたっぷりある、なかなかたいした自分だ」という自負心でした。自分に頼って生きてきた優れた人物たちも、けれど信仰をもって生きる中で、その自信も小さなプライドも粉々に打ち砕かれ、大恥をかかされました。なぜ。何のために? 自分を信じるのではなく、主なる神さまをこそ信じるようにと。自分を誇り、自分を頼りとするのではなく、主をこそ誇り、主を頼みの綱として生きるようにと(コリント手紙(1)26-31,(2)1:8-10,ローマ手紙3:21-27。だからこそ、やがて彼らが道端で貧しい小さな人と出会ったとき、「さあほら、素敵でとても立派な私を見なさい」とは言いませんでした。この私が人様・世間様から見て素敵なのかそうでもないか、どんな見所と取り柄があるのか、そんなことと福音伝道とは何の関係もなかったのです;「さあ、私たちを見なさい。この私をよくよく見なさい。金銀は私にはないが、見所や取り柄があるわけでもないが、持っている飛びっきりに素敵なものをあなたにあげよう。ナザレ人イエスの名によって歩きなさい」(使徒3:4-6参照)と。だからこそ、その同じまったく新しい安心材料を受け取り、踊りあがって大喜びしながら生きる者たちが一人また一人と呼び出されていったのです。
 その日から、神の慈しみによって生きることが始まりました。「わたしが示す地に行きなさい」と命じられ、「はい。分かりました」と主が命じられたとおりに出発しました。私たちはよくよく習い覚えてきました。神と私たちとの関係で最も大事な肝心要は、それが『主従関係』であることです。神さまがご主人さま、私たちはその主人に仕える召し使いであり、手下の者です。「主なる神」と申し上げ、「主イエス」と呼ぶ弟子であるとは、このことです。「~しなさい」と命じられ、「はい。分かりました」と主が命じるとおりに、行い、聞き従って生きてゆくことです。聖書の別の箇所では、「それに従い、行く先を知らないで出ていった」(ヘブル手紙11:8と報告しています。その通りです。行く先を知らないで出ていっては、何か不足や不都合があるでしょうか? いいえ、何も困りません。それで十分です。なぜなら「わたしが示す地に行きなさい」と指図され、「はい」と出発したからです。いつごろ、どんな場所に辿り着くかは、はっきりとは知らされていません。けれど、なにしろ主に従って歩んでゆくと決めています。主が先立って導いてくださり、見捨てることも見放すこともなさらないと約束されています。そうでしたね。例えばこの後ごいっしょに歌う讃美歌288番の2節は、「行くすえ遠く見るを願わじ。主よ、わが弱き足を守りて、ひと足、またひと足、道をば示したまえ」と心安くほがらかに歌っています。行くすえ遠く、5年後10年後どうなっているかを知りたいとは願いません。また、私がやがて世を去った後で残された大切な連れ合いや息子や娘や孫たちがどんなふうに生きてゆけるのかを、私たちは知らされていません。いいえ、知らなくても結構。だって、すべて一切を主なる神さまにお任せして旅立った私共ですから。主よ、私の弱い足腰をどうか守り支えてくださって、ひと足、またひと足と道を示し、手を引くようにして天の都へと導きのぼっりつづけてください。それで十分、と歌っています。この祈りの人も、私共も、そしてもちろんアブラハム、サラ夫婦も。だからこそ折々に立ち止まり、その都度その都度、神からのご命令と指図とを仰がねばなりません。創世記12:7-9;「時に主はアブラムに現れて言われた、『わたしはあなたの子孫にこの地を与えます』。アブラムは彼に現れた主のために、そこに祭壇を築いた。彼はそこからベテルの東の山に移って天幕を張った。西にはベテル、東にはアイがあった。そこに彼は主のために祭壇を築いて、主の名を呼んだ。アブラムはなお進んでネゲブに移った」。立ち止まり、祭壇を築き、主の御名を呼ぶ。また立ち止まり、祭壇を築き、主の御名を呼ぶ。そしてまた。一週間また一週間と区切られた旅路を歩む私たちです。なぜ立ち止まり、主を礼拝し、なんのために主の御名を呼ぶのか。なぜ主からの御声に耳を傾けつづけるのか。自分が望むまま自由気ままにではなく、他の誰彼の指図に従ってでもなく、その都度その都度、神ご自身からのご命令と指図とを仰ぐためにです。主が示す地にやがて必ず辿り着くためにです。主からの助けと養いを受け取りつづけ、主によって支えられつづけて、その旅路を喜びと希望を持って、晴れ晴れと、心安く歩みとおすためにです。

2018年8月7日火曜日

8/3号外/夏期学校メッセージ「父の家をでていった息子」ルカ15:11-24


 ルカ福音書15:11-24        号外/夏の日帰りキャンプで   2018,8,3
 『父の家をでていった息子』    
 牧師 かねだせいじ


15:11 また言われた、「ある人に、ふたりのむすこがあった。12 ところが、弟が父親に言った、『父よ、あなたの財産のうちでわたしがいただく分をください』。そこで、父はその身代をふたりに分けてやった。13 それから幾日もたたないうちに、弟は自分のものを全部とりまとめて遠い所へ行き、そこで放蕩に身を持ちくずして財産を使い果した。14 何もかも浪費してしまったのち、その地方にひどいききんがあったので、彼は食べることにも窮しはじめた。15 そこで、その地方のある住民のところに行って身を寄せたところが、その人は彼を畑にやって豚を飼わせた。16 彼は、豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいと思うほどであったが、何もくれる人はなかった。17 そこで彼は本心に立ちかえって言った、『父のところには食物のあり余っている雇人が大ぜいいるのに、わたしはここで飢えて死のうとしている。18 立って、父のところへ帰って、こう言おう、父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。19 もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇人のひとり同様にしてください』。20 そこで立って、父のところへ出かけた。まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した。21 むすこは父に言った、『父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もうあなたのむすこと呼ばれる資格はありません』。22 しかし父は僕たちに言いつけた、『さあ、早く、最上の着物を出してきてこの子に着せ、指輪を手にはめ、はきものを足にはかせなさい。23 また、肥えた子牛を引いてきてほふりなさい。食べて楽しもうではないか。24 このむすこが死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから』。それから祝宴がはじまった。                  (ルカ福音書 15:11-24)



  ここで、お父さんは、神さまのことです。息子たちは、わたしたち人間のことです。弟は、父さんの家で父さんといっしょに暮らしていくのが嫌になりました。「ああ、嫌だ嫌だ。これしなさいとか、これしちゃだめとか、ああだとかこうだとか。オラ、いやだなあ。どこか遠くへ行って、好きなように自分かってに暮らしていきたいなあ。父さん、オラ出ていくから、もらうはずのオラの分け前をちょうだい。じゃあね、バイバイ」。あっというまに全部なくなって、お腹がすいて、お腹がすいて、ブタのエサでも横取りして食べたいほどでした。「父さんの家に帰ろう。帰りたい。だって家では雇人たちさえ、あんなによくしてもらっていた。オラにはもう息子の資格はないから、雇人の一人にして雇ってもらおうっと」。今日帰ってくるか明日帰ってくるかと心配で心配で、父さんは毎日さがしに出て見まわしていました。ずっとずっと遠くにポツリと小さな豆つぶのようにして、変わり果てた息子の姿があらわれました。「あの子だ。とうとう帰ってきた」。かわいそうで、かわいそうで、父さんは大あわてで走り寄って、その首をギューッと抱きしめ、うれしくて接吻しました。「父さん。オラはオラは、あのね、ええと」。あんまりうれしくて、父さんは何も聞いていません。「ほらほら早く早く、一番いい着物をもってきてこの子に着せて、指輪を手にはめ、はきものを足にはかせてやりなさい。急いで急いで、よく育った子牛をほふって料理をしなさい。皆で喜び楽しもう。このむすこが死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから」。大喜びのお祝いパーティがはじまりました。


               【補足説明】
   目を凝らして見つめるべき主人公は、神さま(=父親)です。私たちをどんなに深く愛し、思いやってくださっているのかを、よくよく味わい、受け取りたいものです。弟の罪深さは、神を嫌って、神から離れさって生きようと願うことです。神のいない世界で自由に好き勝手に生きよう。それは、自分の腹の思いを神として生きる傲慢です。また「父の財産のうち自分がいただく分を」12節)と要求しているところ。自分には当然の権利があると思い上がって、だから贈られた恵みを虚しく使い潰してしまいます。傲慢さとむさぼりとは、しばしば対になって現れます。
   17節「本心に立ち返って」;彼が気づいたことは、「雇い人たちさえも気前よく、寛大に、慈しみ深く取り扱われていた。ましてや自分と兄は」と、神の慈悲深さでした。そこでようやく、「息子と呼ばれる資格のない、神に背きつづけてきた私だ」と自分自身の罪深さにも思い当たり、しかも神のもとに大きなゆるしがあることも思い出しています。だから帰りたい。こんな私でさえも父の家に帰ることができると。
   18-19節の詫びの言葉を、21節で、父である神はろくに聞いていません。嬉しくて嬉しくて、耳に入らないのです。反省して十分に悔い改めたからゆるすのではなく、遠く離れてポツンとその変わり果てた憐れな姿を目にして、そこで憐れみはじめたのでもなく、そもそもの最初から可哀想に思い、憐れんで、ゆるしています。20節以下、「まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて」と、息子への憐れみがあふれて、ほとばしりつづけます。こういう神であり、こういう憐れみを、この自分も注がれつづけていたのかと気づきたい。
  たとえ話の冒頭から息子との再会まで、父親の内面は巧妙に隠されつづけて、何を考え感じているのかさっぱり分からない謎の人物です。「分け前をほしい」と言われれば渡す。「家を出ていく」と言われれば、引き止めるでもなく、そのまま送り出す。けれど遠く離れてポツリと息子の姿が見えた瞬間から、息子を思う父親の愛情が激しく噴き出します。24節、「このむすこが死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」。ここに、神のもとへと立ち帰る一人の罪人(=神への反逆者)のために、神のもとに大きな喜びがある(ルカ15:7,10)理由のすべてがあります。裏返すと、背を向けて離れ去っていった一人の罪人のために、神のもとに大きな大きな悲しみと嘆きがありつづけたということです。だから、その失われ、死んでしまったかのように見えた罪人を探し求めて止まない神です。多種多様な罪人の姿;羊が迷子になったのは自分勝手だったからかも知れない。慌てもので注意散漫だったか、誰かからいじめられ、追い出されたからかも。銀貨は失われても、自分では痛くも痒くもない。出ていった息子は父から離れ去ることを自分で選び、やがて帰りたいと願った。家に留まりながら父の心を見失って嘆いていた息子(ルカ15:25-32)もいる。明日にも父の家を出ようと荷造りしはじめる息子がおり、放蕩の限りを尽くす最中の息子や娘たちがおり、ドン底で本心に立ち帰る息子たちもいるだろう。おびただしい数の放蕩の息子たち、娘たち。どの罪人のためにも、その一人が失われ、死にかけると神は嘆き悲しむ。見つけ出し、その一人が生き返ると大喜びに喜ぶ。それぞれの罪人のために、同じく激しく嘆き、激しく喜ぶ神がおられると知りましょう。あなたや私のためにさえも。これが、私たちのための神の心です。


8/5こども説教「彼らをゆるしてください」ルカ23:26-38


 8/5 こども説教 ルカ23:26-38
 『彼らをゆるしてください』

     23:32 さて、イエスと共に刑を受けるために、ほかにふたりの犯罪人も引かれていった。33 されこうべと呼ばれている所に着くと、人々はそこでイエスを十字架につけ、犯罪人たちも、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけた。34 そのとき、イエスは言われた、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」。人々はイエスの着物をくじ引きで分け合った。35 民衆は立って見ていた。役人たちもあざ笑って言った、「彼は他人を救った。もし彼が神のキリスト、選ばれた者であるなら、自分自身を救うがよい」。36 兵卒どももイエスをののしり、近寄ってきて酢いぶどう酒をさし出して言った、37 「あなたがユダヤ人の王なら、自分を救いなさい」。38 イエスの上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札がかけてあった。                        (ルカ福音書 23:32-38

  神さまにも、まわりにいる人間たちにも、ついつい逆らって「私が私が」と自分勝手になり、強情を張ってしまう私たちです。そのことを聖書は『罪』と言います。誰も彼もがとても悪い罪人です。また、そのことを『神に逆らう病気だ』とも主イエスは言いました(ルカ5:31-32健康な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」)。誰も彼もが、神に逆らう病気をもっています。罪をゆるしていただき、神に逆らう病気を治していただけなければ、誰も健康で元気な嬉しい人にはなれません。しかも神さまは、そういう私たちを可哀想に思って、「ぜひその病気を治してあげたい。ぜひその神に逆らう罪から自由にしてあげたい」と願ってくださいました。そのために、救い主イエスは十字架にかかりました。十字架の上で、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか分からずにいるのです」34節)。自分が何をしているのか分からない。どこにどう足を踏みしめて立っているのか。自分が何者なのか。何のために生きているのか。どこへと向かっているのかもサッパリ分からない。だから、ゆるして救う必要があります。他の罪深い人たちを救うために、その代わりに 自分自身を救わないでおきました。自分自身を救うより、罪人であり病人である私たちを救うことを、主イエスは自分で選びとってくださいました。

    【補足/恵みの領域に立って】
救い主イエスはご自分の死と復活をもって、私たち罪人を神さまの憐れみのもとへと招き入れ、天の御父からのゆるしを私たちのものとしてくださいました。救い主イエスの生命と引き換えにゆるされた罪人として。ゆるされて、なお罪人である者同士として。「彼らをおゆるしください」というあの叫びは、ここにいるこの私たちの救いのためでした。「いいえ、私はあの十字架とは何の関係もない。たとえごくわずかに罪や落ち度があったとしても、私自身によってか他の何かの手段によって十分に埋め合わせをしている。しかも警察に捕まったことも留置所に入れられたこともない。ちゃんとやっているし、なんのやましいところもない私だ」という人は、ここに留まることができません。この、ゆるしを受けつつ生きる恵みの領域には。


8/5「悪いけれども救う」創世記8:20-9:17




                      みことば/2018,8,5(主日礼拝)  174
◎礼拝説教 創世記 8:20-9:17                           日本キリスト教会 上田教会
『悪いけれども救う』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

8:20 ノアは主に祭壇を築いて、すべての清い獣と、すべての清い鳥とのうちから取って、燔祭を祭壇の上にささげた。21 主はその香ばしいかおりをかいで、心に言われた、「わたしはもはや二度と人のゆえに地をのろわない。人が心に思い図ることは、幼い時から悪いからである。わたしは、このたびしたように、もう二度と、すべての生きたものを滅ぼさない。22 地のある限り、種まきの時も、刈入れの時も、暑さ寒さも、夏冬も、昼も夜もやむことはないであろう」。9:1 神はノアとその子らとを祝福して彼らに言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ。2 地のすべての獣、空のすべての鳥、地に這うすべてのもの、海のすべての魚は恐れおののいて、あなたがたの支配に服し、3 すべて生きて動くものはあなたがたの食物となるであろう。・・・・・・14 わたしが雲を地の上に起すとき、にじは雲の中に現れる。15 こうして、わたしは、わたしとあなたがた、及びすべて肉なるあらゆる生き物との間に立てた契約を思いおこすゆえ、水はふたたび、すべて肉なる者を滅ぼす洪水とはならない。16 にじが雲の中に現れるとき、わたしはこれを見て、神が地上にあるすべて肉なるあらゆる生き物との間に立てた永遠の契約を思いおこすであろう」。17 そして神はノアに言われた、「これがわたしと地にあるすべて肉なるものとの間に、わたしが立てた契約のしるしである」。(創世記8:20-9:17)




 ノアの時代に起こった大洪水の全体を見渡します。創世記6章はじめから、9章の半ばまでです。まず、世界を覆い尽くす大洪水が神によって起こされたその発端に目を向けましょう。創世記65-7節;「主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた。主は地の上に人を造ったのを悔いて、心を痛め、「わたしが創造した人を地のおもてからぬぐい去ろう。人も獣も、這うものも、空の鳥までも。わたしは、これらを造ったことを悔いる」と言われた」。そして11-13節、「時に世は神の前に乱れて、暴虐が地に満ちた。神が地を見られると、それは乱れていた。すべての人が地の上でその道を乱したからである。そこで神はノアに言われた、「わたしは、すべての人を絶やそうと決心した。彼らは地を暴虐で満たしたから、わたしは彼らを地とともに滅ぼそう」。神さまがこの世界のすべてを造りました。草や木や海や空や、すべての生き物たちや、そして私たち人間を。とても素敵な世界になるはずだったんだけど、どうしてか、うまくいかなかった。そして雨が降り出しました。はじめはポツポツ、そしてザアザア、バッシャバッシャ降りつづいて、世界中を水浸しにして大水の下に沈めてしまうほどの大洪水になりました。神さまの言いつけに従って、ノアは大きな箱舟を作りました。神様のいうことを信じて箱舟に乗りたいと思う者なら、誰でも乗せてあげることができました。でも、ほとんど誰も見向きもしなかったのです。ほんのひとにぎりの人間と生き物たちが、神さまの呼び声を耳にして、箱舟へと集まってきました。「ノアは主の前に恵みを得た」(創世記6:8と報告されています。なぜなのか。なぜノアが恵みを受けたのか。それは私たちには分かりません。この私たち自身が神の恵みを十分に受けていることも、それがなぜなのかは私たちには分かりません。それは、ただ恵みを受けたのですから。けれどなお、神の恵みを受けた者は、受けた恵みにふさわしく行動し、生活していきます。神の御前に歩み、神の御声に聞き従って歩んでいきます。その間にも雨は降り続き、やがて箱舟のドアが神さまご自身の手によってバタンと閉められて、それでほかの皆は死んでしまいました。「主は彼の後ろで戸を閉ざされた」(創世記7:16と書かれています。扉を開くことも閉じることも、その鍵を握っているのは神さまであり、ときがきて神ご自身がその扉を閉めます。ノアも私たちも、その神に服従します。箱舟の中にノアと家族と、箱舟に乗り込んだ生き物たちだけが残りました。
  箱舟の外では大水が荒れ狂っていました(7:24)。ずいぶん長く、1年以上もの間、ノアと家族と生き物たちは箱舟の中でいっしょに暮らしました。81節に、「神はノアと、箱舟にいたすべての生き物と、すべての家畜とを心に留められた」と報告されています。神がこの自分たちのことも御心に留めていてくださると知っている者たちは幸いです。「御心に留めていてくださる」そのことを頼りにして、得体の知れない深い大水の上も、長くつづく波と風と嵐の日々をさえも、心安く生き延びてゆくことができるからです。やがて地上がすっかりまた乾いたので、そして神さまが「箱舟から出てきなさい」(創世記8:16)とお命じになったので、彼らは箱舟から出てきました。
  箱舟から出て、ノアと家族と生き物たちがまず最初にしたことは、神様を礼拝することでした。その礼拝の中で、神さまはこう仰いました。「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。地の続くかぎり、種蒔きも刈り入れも、寒さも暑さも、夏も冬も昼も夜も、やむことはない」(創世記8:21-22)。「人が心に思うことは幼いときから悪い」。『いつもいつも、朝から晩までず~っと、ただただ悪いことばっかりを思い企みつづけている』、という意味ではありません。それじゃあ、どういうことだと思いますか。実際には、ひどく自分勝手な人でも、ときどきは人のことを思いやることもあります。意地悪な人でも、なんとなく人に優しくしてあげたくなります。また逆に、とても親切な思いやり深い人であっても、どうしたわけか、ついつい意地悪をしてしまうのです。正しいことをしたいと心から願う人であっても、悪いこととは知りながら、悪いことをついついしてしまう。人を傷つけよう、わざと困らせてやろうと思ったわけではないのに、どうしたわけか、気がつくと、誰かを傷つけてしまっている。あとになって、「ああ。自分はどうしてあんなことをしてしまったんだろう」と後悔します。良いことを思うこともあり、悪いことを思ってしまうこともある。「人に親切にしてあげることができる、心の温かな、心の人々とした、思いやり深い良い人間でありたい」と、誰もが願っています。けれどもどうしたわけか、ついつい悪いことを心に思ってしまう。わたしたち人間は、そんなふうにできています。
 さて、「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい」。ここで足を止めて、神のなさりようをきちんと受け止めなければなりません。私たち人間がごく普通に考えるなら、『悪いから滅ぼす。良いものを救う』と判断するはずです。けれど神さまは、『悪いけれど滅ぼさない。悪いけれど救う』と仰る。私たち人間の理性が納得するような真理ではありません。まったく道理にかなっていません。私たちが子供のころから家や学校や社会で習い覚えてきたはずのモノの道理や合理精神とはまったく違います。ですから、普通のモノの考え方では分からない、納得することも受け止めることもできないはずのことが告げられていると、承知していてください。道理にあわない、私たちが理解も納得もできないことをしばしばなさる神であると知って、その神の御前にへりくだって深く慎むことを私たちは習い覚えねばなりません。『悪いけれども、憐れんで救う』、これが神さまの断固たる決心です。悪いからといって、大地や人をこんなふうにことごとく打つことはもう二度と決してしない。けれど、見過ごして放置するのでもない。では、どうするのか? 神さまは、二段階の救いの道筋を用意なさいます。(1)神を信じて生きるひとにぎりの人々を生み出すこと(創世記12:1-4。そして、(2)救い主イエスによる決定的な救いの出来事と。やがて神さまは、悪い人間を懲らしめて厳しく打ちすえる代わりに、ご自身を厳しく打ちすえ、自分自身を打ち砕こうとなさるのです。十字架の上で救い主イエスは呼ばわります;「父よ、彼らをおゆるしください。自分が何をしているのか分らないのですから」(ルカ23:34)。兄弟たち。神の憐れみによってその子供としていただいた者たちよ。これが大洪水のあとの、神さまの決心だったのです。『ゆるしたい。ぜひ、何としてでもゆるしてあげよう。その悪い心の泥沼から救い出してあげよう』と。悪いことをついつい心に思ってしまう、そういう私たちを、そういう私たちだということをよくよく分かった上で、けれどもなおゆるし、けれども迎え入れよう。そのようにして、この世界は、そこから新しく出発しました。キリストの教会は、そのようにして新しい土台を据え置かれました。
  ――もし、そうでなかったとしたら、どうでしょう。そうではなく、「人が今後は二度と悪いことをしないし、悪いことをほんの少しも心にも思わない。だから」と世界が再出発したのなら、キリストの教会がそのように土台を据えられたのだとしたら、どうでしょうか。「その正しく立派な善人たちの輪の中に、到底ぼくは入ることなどできない」と思いました。高校2年生の頃に、だからすっかり神様のことが分からなくなりました。信じられなくなったし、嘘っぱちだと思ったし、神さまなんかどこにもいないと思いました。たとえもし神さまがいるとしても、ぼくには何の関係もないと。けれどずいぶん後になって戻ってきて、キリストの教会で最初に教えてもらったのは、この大洪水のあとの神様です。「ほら。ここに、ちゃんと書いてあるだろう」と、その時、教会の牧師は教えてくれました。神さまは、悩んだり腹を立てて怒ったり、がっかりしたり心痛めたりもする。けれども、《ついついい悪いことを心に思ってしまう人間をゆるすと決心する。ゆるして迎え入れるためには、どんなことでもしてあげよう》と神さまのほうで決心してくださったのです。「こういう神様なら信じられる。こういう神様なら、信じて、付いていきたい」と、とても嬉しかったのです。本当に、とてもとても嬉しかった。ぼくは、この創世記8:21の神さまを信じています。教会に戻ってきてから、30年ほど経ちました。戻って来ることができて、この神さまを信じることができて本当に良かった。

  8章につづいて、9章で、神はご自分がお造りになったすべてのモノたちと改めて救いの契約を結びます。その守りと保護の相手は、私たち人間だけではありません。914節、「『わたしが雲を地の上に起すとき、にじは雲の中に現れる。こうして、わたしは、わたしとあなたがた、及びすべて肉なるあらゆる生き物との間に立てた契約を思いおこすゆえ、水はふたたび、すべて肉なる者を滅ぼす洪水とはならない。にじが雲の中に現れるとき、わたしはこれを見て、神が地上にあるすべて肉なるあらゆる生き物との間に立てた永遠の契約を思いおこすであろう』。そして神はノアに言われた、『これがわたしと地にあるすべて肉なるものとの間に、わたしが立てた契約のしるしである』」。すべて肉なるあらゆる生き物。すべて肉なる生き物。すべて肉なるあらゆる生き物との間に。雨ふりが続いた後で、暗い灰色の雲の隙間から日の光が差し込んで、きれいな虹が空にかかります。そのとき、「ああ。虹が出ているよ」と嬉しくなって眺めている人もいれば、「なんだ。ただの虹じゃないか」って見向きもしないでサッサと通り過ぎていく人たちもいるでしょうね。みなさんももう何回も虹を見てきたでしょう。その同じ虹を見て、こう言った人がいました――

        私の心は躍る
    虹が空にかかるのを見るとき。
        私のいのちの初めに、
小さな子供の頃にそうだった。
    私は今、大人になっても、
    あの頃と同じに心が躍る。
        私が年老いる日々にも、
やっぱりそうでありたい。
             (ワーズワース『虹』,1802年)

神様のことを何にも知らなくたって、信じていなくたって、きれいな虹を見たら少しは嬉しいかもしれません。でも神様を信じている私たちには、その虹の嬉しさは格別です。大洪水の後の、あのノアと家族と生き物たちが見た虹を思い起こすからです。
 「虹を見て、私は思い起こす。私は心に留める」(9:15-16)と神さまが仰います。だから私たちも、虹を見て、あのときのことを思い起こし、心に留めます。あのとき神さまが仰ったことを、思い起こします。ついつい悪いことを心に思ってしまう私たちだけれど、それでもゆるしてくださると仰ったこと(8:21)を。私たち人間とだけではなく、空の鳥も海の中のものもすべての生き物たちと神様が恵みの契約を結んでくださったことを。すべての生き物のことを神様が大切に思い、神さまが御心に留めておられること(9:10-12,15)を。そうそう、そして「人の血を流す者は人によって自分の血を流される。人は神にかたどって造られたからだ」(9:6)。人の血を流す。それは、ただ大ケガさせて、血がドクドク流れて、その人が死んでしまうことだけじゃないですよ。「そこまではしていないから、自分は人を殺したことがない。ちゃんとしている」とうぬぼれて、高をくくっていた人々に、主イエスはこう仰いました。「『馬鹿』と言った。それは人殺しと同じだ。「あんな奴いなければいい」と除け者にしたじゃないか。あなたは、自分の心の中で、すでにもうその人を殺している」(マタイ福音書5:21-26,7:1-)と。
 虹のしるしを見て、あるとき、だから私たちは「神さま、ごめんなさい」と謝りたくなります。友だちに意地悪なことをして、困らせたり嫌な気持ちにさせてしまったからです。本当は助けてあげることができたはずなのに、知らんぷりをして、「私には関係ないわ。面倒くさい」ってサッサと通りすぎてしまったからです。虹のしるしを見て、あるとき、だから私たちは「神さま、ありがとう」とお礼を言いたくなります。心細くて、さびしくて、なんだかひどくガッカリしていたときに、助けてくれた人がいたからです。「どうしたの。大丈夫かい」と優しく声をかけてくれた人がいたからです。空にかかる虹のしるしを見て、あるとき私たちは、腹を立てていた友達のことをゆるしてあげたくなります。陰口をきいたり悪口を言っていた相手のことを、もう一度、思い直し始めています。だって、ずいぶん大目に見てもらっている私たちです。「分かった、いいよいいよ」と何度も何度もゆるされてきた私たちだからです。いろいろな色の光が1つに合わせられて、空にかかる虹になって、そのように神様からの恵みを私たちに知らせているからです。「ああ。そうだった」と神さまは思い起こし、私たちを御心に留めつづけてくださいます。私たちも虹を見て、「ああ。そうだった」と神様との憐れみ深くとても寛大な救いの約束を思い起こします。朝も昼も晩も、思い起こしつづけます。