みことば/2021,11,7(主日礼拝) № 344
◎礼拝説教 ルカ福音書 21:1-4
日本キリスト教会 上田教会
『貧しいやもめのささげもの』
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC)
21:1 イエスは目をあげて、金持たちがさいせん箱に献金を投げ入れるのを見られ、2 また、ある貧しいやもめが、レプタ二つを入れるのを見て
3 言われた、「よく聞きなさい。あの貧しいやもめはだれよりもたくさん入れたのだ。4 これらの人たちはみな、ありあまる中から献金を投げ入れたが、あの婦人は、その乏しい中から、持っている生活費全部を入れたからである」。
(ルカ福音書 21:1-4)
12:1 兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。2
あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。3
わたしは、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりびとりに言う。思うべき限度を越えて思いあがることなく、むしろ、神が各自に分け与えられた信仰の量りにしたがって、慎み深く思うべきである。4
なぜなら、一つのからだにたくさんの肢体があるが、それらの肢体がみな同じ働きをしてはいないように、5 わたしたちも数は多いが、キリストにあって一つのからだであり、また各自は互に肢体だからである。6
このように、わたしたちは与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っているので、もし、それが預言であれば、信仰の程度に応じて預言をし、7 奉仕であれば奉仕をし、また教える者であれば教え、8
勧めをする者であれば勧め、寄附する者は惜しみなく寄附し、指導する者は熱心に指導し、慈善をする者は快く慈善をすべきである。9 愛には偽りがあってはならない。悪は憎み退け、善には親しみ結び、10
兄弟の愛をもって互にいつくしみ、進んで互に尊敬し合いなさい。 (ローマ手紙 12:1-10)
1-4節、「イエスは目をあげて、金持たちがさいせん箱に献金を投げ入れるのを見られ、また、ある貧しいやもめが、レプタ二つを入れるのを見て言われた、「よく聞きなさい。あの貧しいやもめはだれよりもたくさん入れたのだ。これらの人たちはみな、ありあまる中から献金を投げ入れたが、あの婦人は、その乏しい中から、持っている生活費全部を入れたからである」。救い主イエスがこの世界でなされる物事の一つ一つに、どんなに鋭くまた熱心に目を注いでおられるのか、と改めて気づかされます。そのように主イエスは目をあげて、金持たちがさいせん箱に献金を投げ入れるのを見られ、また、夫に先に死なれたある貧しい女性が、レプタ二つ(一デナリがおよそ一日分の労働賃金。一レプタはその128分の一。ごくわずかな金額の通貨)を入れるのを見たのです。この私たちに対しても、そのように、それぞれの一日一日の生活の出来事や、私たちの行いや心の思いに目を留め、心に留めつづけておられます。しかも、十字架につけられて間もなく殺されようとする、その最後の一週間においてさえも、こうなのです。弟子たちからも裏切られ、不法な裁きにかけられ、十字架につけられ、苦しみと嘲りと罪人としての惨めな死を耐え忍び、死んでいかれることが目の前に迫り、それをはっきりと知っておられながら、なお一人の貧しい女性の姿に目を留めておられます。それは、救い主イエスの十字架の死と復活が私たちのためであるように、この一人の貧しい女性のためでもあるからです。
救い主イエスは昨日も今日も、いつまでも変わることのないお方です(ヘブル手紙13:8)。金持ちたちと一人の貧しい女性とを見ておられるように、同じく、今日もこれからも、世界中のあらゆる出来事を、あらゆる人々の暮らしぶりに目を凝らしていてくださいます。もちろん、この私たちに対してもです。「主の目はどこにでもあって、悪人と善人とを見張っている」。そして、「わたしは貧しく、かつ乏しい。しかし主はわたしをかえりみられます。あなたはわが助け、わが救主です」(箴言15:3,詩40:17)と心底からつくづくと実感できるなら、その人は幸いです。憐み深い神が生きて働いておられますことが、その人を慎み深く、謙遜にさせ、また同時に、心強く励まし、勇気を与えてくれるからです。
さて、主イエスは言われました。「よく聞きなさい。あの貧しいやもめはだれよりもたくさん入れたのだ。これらの人たちはみな、ありあまる中から献金を投げ入れたが、あの婦人は、その乏しい中から、持っている生活費全部を入れたからである」。あの彼女は誰よりも多く献げた。なぜか。彼女は、とても感謝しているからです。神にとても信頼し、神を喜んでいるからです。なぜなら神から多く愛されつづけてきたことを今でははっきりと気づいており、よく分かっていて、それでとても嬉しくて、神を多く愛することができるようにしていただいたからです(ルカ7:36-50参照)。主イエスはささげものそのものよりも、むしろ、その人の心を見ておられます。あのカインのときのように。神へのささげものも、神に仕える奉仕の働きの一つ一つも、皆すべて一切が『感謝のささげもの』であるし、そうでなければとても困ったことになるからです。もし万一、私は良いささげものをし、神によく仕えて働いていると思ってしまった途端に、この私たちは自分の顏を神ご自身から背け始めてしまうからです。神など何者かと思い上がってしまい、あるいは、怒りと妬みから隣人や兄弟や家族に対して、さらに神に対してさえもはなはだしく憤ってしまうからです。ですから憐み深い神は心配してカインに対して語りかけ、マリヤの姉マルタに語りかけ、朝早くから働いたぶどう園の労働者たちに語りかけ、弟を妬んで家に入ってくることもできなくなった、あの放蕩息子の兄に語りかけたように。また、ニネベの町の数多くの人々と家畜と牛と羊たちのためのゆるしと救いを喜ぶことのできなかった、あの預言者ヨナに語りかけたように、この私たちに対しても神は同じ言葉を語りかけるでしょう。「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」(創世記4:6-7,ルカ10:38-42,マタイ20:1-16,ルカ15:23-31,ヨナ書3:4-4:11)と。
例えば、「わたしは、維持献金を毎月いくらくらい納めたらいいでしょう。他のみなさんは、どんなふうにしているのか教えてください」などと質問されることがあります。たしかに、「維持献金は毎月の教会の働きを維持するために献げられる。教会の財政は総会で定められた予算によって運営される。だから維持献金の額は予算が満たされるように配慮して決めましょう」と教えられます。また総会資料には、それぞれの教会によっては、一人当たりの献金額の統計グラフが参考のために示される場合もあり、「私は○○歳だから、献金はこのくらいか」と考えたりもします。それは一理あり、必ずしも間違いではないのかも知れません。けれども同時に、教会には様々な事情を抱えた人たちが集まります。裕福な人もいれば経済的に貧しい人もいますね。学生も子供も、失業した人も体が弱い人も病気の人も、年金暮らしの人もいます。大きな借金を抱えた人もいます。「私は今年はこのくらい献げよう」とよく考えて決めたとしても、年度途中で家の経済事情が変化して、献金額を減らさなければならなくなることも有り得ます。もし万一、参考資料として示された場合にも、統計の平均額は、ある程度の目安にすぎません。誰もが、自分が困らない範囲で、自分の家庭の経済状況に応じた額を安心して献げていただきたいのです。例えば中学生・高校生も陪餐会員になり、つまり一人前の大人扱いされるクリスチャンとなり、月々の維持献金を収めます。それは、自分の毎月の小遣いの中から、困らない範囲で自分自身で決めて、献げます。
さらに大切なことは、私たち人間が働いて献げているだけでなく、《神ご自身が生きて働いておられる》ということです。毎月の教会の働きも、教会員が十分にしっかり維持しなければ破綻してしまうのかといえば、決してそうではありません。神ご自身が断固として、第一に、全責任を負って維持なさり、牧師とその家族の生活もやはり神ご自身が恵みによって養ってくださっているということです。私たち自身のそれぞれの家庭や生活もまったく同様です。教会も一個のクリスチャンもすでに、自分の力と手の働きによって自分自身を養っているのではありません(申命記6:10-12,8:17-18,9:4-6)。
私たちが手にしているものすべてが、「神から与えられる日毎の糧」です。全収入、衣食住、生活費、一日ずつの健康、命、家族、居場所など必要なすべて一切を、神から感謝して受け取ります。例えば牧師の謝儀も、それぞれの家の収入も年金も子供たちの月々の小遣いもみな同じ。神からのその分け前を、「給料。給料」などと神を侮ってはなりません(「民数記18:8-19」の説き明かし。『家庭礼拝歴』2021,8,2の箇所を参照)。
また、「教会のため神さまのために、私には何ができるか」と考えることは尊いことですが、そればかりでなく、むしろ、「こんな私のためにさえ、神は何をしてくださるのか」と目を凝らしたいのです。私たちの主であられる神は、私たちが支えなければ倒れてしまう神ではなく、私たちが担いで運ばなければ動けない神ではありません。私たちが食べ物を供えなければ飢えて腹ペコになってしまう神でもありません。神は御自身を養い、私たちをも恵みによって養ってくださる方でありつづけます(詩40:7,51:18,127:1-2,イザヤ 1:11,46:1-2,エレミヤ10:5)。それをうっかり忘れてしまう時、キリストの教会はごく簡単に「人間による・人間のための・人間自身の集団」に成り下がってしまいます。私たちは、それをこそ恐れましょう。
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ささげものについて、さらに大切なことは、感謝献金や維持献金、礼拝献金、さまざまな奉仕など、折々に献げられる神へのささげものそのものは『自分自身とその生活を神にささげて生きるためのしるし』であるということです。『感謝のささげものである』と言われる、その究極の意味はそこにあります。聖書は証言します、「兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。わたしは、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりびとりに言う。思うべき限度を越えて思いあがることなく、むしろ、神が各自に分け与えられた信仰の量りにしたがって、慎み深く思うべきである」(ローマ手紙12:1-3)。私たち自身のからだと生活を、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげる。それが、私たちがなすべき霊的な礼拝である。「あなたがたは、この世と妥協してはならない」。この世と妥協するとは、「この世界のやり方や考え方、社会習慣などと同じ形になる」ということです。それでは、どういう形になるのかというと『キリストの形』になる、ということです。そのことが、ここで具体的に実践的にはっきりと説き明かされています。「心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知る」ことこそが、『キリストのかたち』であり、失われつづけていた『神のかたち』が救い主イエス・キリストを信じる信仰によって、私たちのうちに再び形づくられ、回復されるということです。こども説教で少し前に話しましたが、創世記1章26節で、「神のかたちに人を造る」と知らされていました。「神のかたち」とは、「神を信じて、神の御心にかなって生きることができる」という意味です。木の実を食べて、神に逆らったとき、「神のかたち」が壊されてしまいました。聖書は証言します、「救い主イエスこそが私たちのための神のかたちである。この方によってサタンが打ち砕かれる。また、この救い主イエスを信じる信仰によって、この私たちの中に『神を信じて、神の御心にかなって生きること』(=神のかたち)がふたたび回復される」(コロサイ3:10「造り主のかたちに従って新しくされ」,エペソ4:20-24,ピリピ2:6「キリストは神のかたちであられたが」,ローマ8:29「御子のかたちに似たものにしようと」『やがて救い主イエスによって~神のかたちが回復される』2021,10,10)と。