11/28 こども説教 創世記 9:18-29
9:18
箱舟から出たノアの子らはセム、ハム、ヤペテであった。ハムはカナンの父である。19 この三人はノアの子らで、全地の民は彼らから出て、広がったのである。20 さてノアは農夫となり、ぶどう畑をつくり始めたが、21 彼はぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。22 カナンの父ハムは父の裸を見て、外にいるふたりの兄弟に告げた。23 セムとヤペテとは着物を取って、肩にかけ、うしろ向きに歩み寄って、父の裸をおおい、顔をそむけて父の裸を見なかった。24 やがてノアは酔いがさめて、末の子が彼にした事を知ったとき、25 彼は言った、「カナンはのろわれよ。彼はしもべのしもべとなって、その兄弟たちに仕える」。26 また言った、「セムの神、主はほむべきかな、カナンはそのしもべとなれ。27 神はヤペテを大いならしめ、セムの天幕に彼を住まわせられるように。カナンはそのしもべとなれ」。28 ノアは洪水の後、なお三百五十年生きた。29 ノアの年は合わせて九百五十歳であった。そして彼は死んだ。
(創世記
9:18-29)
【こども説教】
「ノアは正しく、かつ全き人であった」(創世記6:9)と書いてありました。けれどもちろん、その正しさや完全さは、神のような正しさや完全さではありません。やがて大洪水後の最初の礼拝のなかで、「人が心に思い図ることは幼い時から悪い」(創世記8:21)と神さまから言い渡されるとき、その悪い人間の中にノア自身と家族も入っているからです。ノアの正しさはほどほどの正しさであり、悪い心や神に逆らう思いも含む正しさであると知っておく必要があります。あの大洪水を生き延びさせていただいた人間たちも、その子供の子供の子供も皆、ついつい悪いことを心に思い図ってしまう者たちです。私たちも同じです。そのことを覚えておくために、ノアの恥ずかしい姿が聖書にわざわざ報告され、語り伝えられます。そうではないと、私たちもついつい自分の正しさを言い張ってしまうからです。とても素敵そうに正しそうに見える誰かを、あるいは自分自身を、まるで神のように持ち上げてしまいやすいからです。うっかりして恥ずかしい姿をさらしてしまったノアも、それを笑ったり、ついつい馬鹿にしてしまう子供たちも皆、神さまの憐れみの中でゆるされなければ生きてゆけません。だからです。ですから、やがて救い主イエスが、あの恥ずかしいノアや子供たちや私たちのような罪人をさえ救うために、この世界に降りて来られました(1テモテ手紙1:15,1ペテロ手紙2:10)。
【大人のための留意点】
「粗野で品位に欠け、正体もなく酒におぼれたノアを見ることは、極めてつらいことです。確かに、多くの教育者や、大勢の教会学校の教師たちは、この部分の記事さえなければよかったのにと、残念に思ったことでしょう。……けれども、それは確かにそこに記されてあります。そして、なぜ、この記事がここに記されなければならないのかを、神は知っておられます。今日に至るまで、われわれ人間は自己神格化や自己崇拝に向かう傾向を顕著に示しています。アブラハム、ヤコブ、ダビデ、ペテロの場合がそうです。ノアの場合にも、です。罪のゆるしなしに生きた者は誰一人もいません。ノアもまた、ゆるしによって生きるのです。(聖書中に酔漢の出来事の報告があるのは)われわれの足下から自己義認の萌芽と残滓(ざんし=残りかす。良くないもののなごりの意味)とを取り除くのに役立つでしょう。同時に、われわれは神によって提供されている赦しを受けるべく招かれるのです。神の恵みに満足するようにとの招きです」(ヴァルター・リュティー『アダム』(創世記講解説教、「契約」p268-69))。
「ノアの泥酔」ベッリーニ、画