2021年11月29日月曜日

11/28「救いが近づいている」ルカ21:20-28

        みことば/2021,11,28(待降節第1主日の礼拝)  347

◎礼拝説教 ルカ福音書 21:20-28               日本キリスト教会 上田教会

『救いが近づいている』 

 

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

21:20 エルサレムが軍隊に包囲されるのを見たならば、そのときは、その滅亡が近づいたとさとりなさい。21 そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げよ。市中にいる者は、そこから出て行くがよい。また、いなかにいる者は市内にはいってはいけない。22 それは、聖書にしるされたすべての事が実現する刑罰の日であるからだ23 その日には、身重の女と乳飲み子をもつ女とは、不幸である。地上には大きな苦難があり、この民にはみ怒りが臨み、24 彼らはつるぎの刃に倒れ、また捕えられて諸国へ引きゆかれるであろう。そしてエルサレムは、異邦人の時期が満ちるまで、彼らに踏みにじられているであろう。25 また日と月と星とに、しるしが現れるであろう。そして、地上では、諸国民が悩み、海と大波とのとどろきにおじ惑い、26 人々は世界に起ろうとする事を思い、恐怖と不安で気絶するであろう。もろもろの天体が揺り動かされるからである。27 そのとき、大いなる力と栄光とをもって、人の子が雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。28 これらの事が起りはじめたら、身を起し頭をもたげなさい。あなたがたの救が近づいているのだから」。ルカ福音書 21:20-28

 

15:20 しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。21 それは、死がひとりの人によってきたのだから、死人の復活もまた、ひとりの人によってこなければならない。22 アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように、キリストにあってすべての人が生かされるのである。23 ただ、各自はそれぞれの順序に従わねばならない。最初はキリスト、次に、主の来臨に際してキリストに属する者たち、24 それから終末となって、その時に、キリストはすべての君たち、すべての権威と権力とを打ち滅ぼして、国を父なる神に渡されるのである。25 なぜなら、キリストはあらゆる敵をその足もとに置く時までは、支配を続けることになっているからである。 (1コリント手紙 15:20-25)


まず20-24節、「エルサレムが軍隊に包囲されるのを見たならば、そのときは、その滅亡が近づいたとさとりなさい。そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げよ。市中にいる者は、そこから出て行くがよい。また、いなかにいる者は市内にはいってはいけない。それは、聖書にしるされたすべての事が実現する刑罰の日であるからだ。その日には、身重の女と乳飲み子をもつ女とは、不幸である。地上には大きな苦難があり、この民にはみ怒りが臨み、彼らはつるぎの刃に倒れ、また捕えられて諸国へ引きゆかれるであろう。そしてエルサレムは、異邦人の時期が満ちるまで、彼らに踏みにじられているであろう」。ここで、救い主イエスによって預言されている出来事は、第一には、ローマ帝国によってエルサレムの都が奪い取られる日のことです。実際に西暦66年にはユダヤ戦争が勃発し、ユダヤ人はエルサレムに拠って抵抗したものの、4年後の70年にはエルサレムの城塞都市は陥落した。これ以後、ローマ軍団がエルサレムの都に駐屯するようになり、都にはユダヤ人の居住は禁止された。多くのユダヤ人たちはエルサレムを追われ、世界各地に散らされて住む(ディアスポラ)ことになりました。長い間、神がそこに住まう場所として尊ばれつづけた都が敵の手に落ちます。その様子が、あらかじめ救い主イエスによってくわしく報告されています。まるでご自身がその場にいて、自分の目で一つ一つをはっきりと見てきたかのように。そのとき子供を身ごもっており、あるいは小さな赤ちゃんを抱えたお母さんたちは窮地に立たされます。兵隊たちの剣によって殺され、倒れる者たちがおり、大勢の者たちが捕虜にされて諸国に連れ去られます。そして、国は支配者たちによって徹底的に踏みにじられます。およそ40年後にその町や国にどんなことが起こるのかを告げ知らせるのは、もちろん人間の能力を遥かに越えています。預言者イザヤの口を用いて神が告げていました、「わたしは神である、わたしと等しい者はない。わたしは終りの事を初めから告げ、まだなされない事を昔から告げて言う、『わたしの計りごとは必ず成り、わが目的をことごとくなし遂げる』と」(イザヤ書46:9-10

この預言は、エルサレムの都がローマ帝国の手に落ちる日のことを告げ、しかも同時に、世界の終わりの日のことを私たちに告げ知らせています。つまり、救い主イエスご自身がふたたび来られる、世界の終わりの審判の日についてです。救い主イエスが、すべてをすっかりご存知であられます。そのことを、神を信じて生きるすべてのクリスチャンは自分の心にしっかりと留めておかなければなりません。過ぎ去った過去のことも、今のことも、やがて来る日々についても、このお独りの方の目には、なにもかもがはっきりと知られています。若い頃から今まで、自分自身がどのように生きてきたのかを思い起こすことができれば、この私たちは、慎み深く謙遜にされ、へりくだることができます。いま現在、自分がどんなに不確かで危うく、もろい存在かと気づくなら、私たちは心細くなり、「では、どうやっていきていこうか」と真剣に思い巡らせ始めます。災いや大きな試練、苦難の日々がこの自分にも近づいて来ていると気づくなら、私たちの心は揺さぶられます。けれどなお、救い主イエスを信じるクリスチャンにとっては、『このお独りのお方が世界に対しても、私たちと家族の生涯についても、すべてをすっかり知っていてくださる』と思い起こすことができるなら、そこに強い確かな慰めと支えを見出すことができます。十分に救い主イエスに信頼を寄せることができるなら、この私たちもまた、『立ち返って、落ち着いているならば救われ、穏やかにして信頼しているならば力を得る』(イザヤ書30:15ことができます。

21節、「そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げよ。市中にいる者は、そこから出て行くがよい。また、いなかにいる者は市内にはいってはいけない」。危険が迫るとき、あなたはそこから逃れ出なさい、と教えられています。山へ逃げなさい。その町から外へ出て行きなさい。その町の中へ入ってはいけないと。危険が迫るとき、そこから逃れ出で身を守ろうと精一杯に努力することは臆病なのではありません。そうする価値があります。

22節。それは、「聖書にしるされたすべての事が実現する刑罰の日」だと告げられました。神の民とされた者たちが神を侮り、神に背きつづけた罪の結果であり、神がご自身の民を処罰しているのだと。私たちの信仰の先祖たちは、不信仰と強情さのために、何百年もの間ずっと、神の怒りを自分の頭の上にわざわざ積み上げ続けていたからです。

25-28節、「また日と月と星とに、しるしが現れるであろう。そして、地上では、諸国民が悩み、海と大波とのとどろきにおじ惑い、人々は世界に起ろうとする事を思い、恐怖と不安で気絶するであろう。もろもろの天体が揺り動かされるからである。そのとき、大いなる力と栄光とをもって、人の子が雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。これらの事が起りはじめたら、身を起し頭をもたげなさい。あなたがたの救が近づいているのだから」。裁きと救いをもたらすために、救い主イエスがふたたびこの世界に降りて来られます。そのとき、迫りくる神の怒りからすでに救われている者たちは幸いです。しかも、それはこの私たちのことです。わたしたちがまだ弱かったころ、キリストは、不信心な私たちのために死んで下さった。まだ神に逆らい、神を侮る罪人であった時、そのわたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたからです。わたしたちは、キリストの血によって今は義とされているのだから、なおさら、彼によって神の怒りから救われるからです。もし、わたしたちが敵であった時でさえ、御子の死によって神との和解を受けたとすれば、和解を受けている今は、なおさら、彼のいのちによって救われるからです。しかも、そればかりではなく、わたしたちは、今や和解を得させて下さったわたしたちの主イエス・キリストによって、神を喜びつつ日々を生きることができる者たちとされているからです(ローマ手紙5:6-11参照)。しかも私たちは、この世界と私たちの罪を取り除くために来られた神の小羊、救い主イエスの、その十字架の上で流された尊い血によって洗い清められた者たちだからです。だから、その日には、私たちは喜び祝うことが出来ます。

讃美歌94番は、「ずいぶん長い間、待ち望んできました。救い主イエスよ、どうぞ早く来てくださって、あなたの民である私たちを縛り付けている太い縄をほどいて、私たちを解き放ってください。捕らわれているあなたの民を解き放ってください」と歌いつづけています。あなたの民の縄目(なわめ=罪人として縄をかけられ、捕まること)。それは、テレビの時代劇などで、罪人が太いロープでグルグル巻きにされて市中を引き回しにされる処罰のシーンです。あの太いロープのグルグル巻きを思い浮かべてみてください。それが、縄目です。神の民は罪と悲惨の太いロープにグルグル巻きにされ、捕らわれている。自分自身でも、他の誰によっても、その縛りつけるロープから自由になることができませんでした。救い主イエスこそが、私たちを解き放ってくださると確信し、この主に向かって呼ばわっています、「救い主イエスよ。どうか早く来て、私たちを罪の支配から解き放ってください」と。

 

『いつ、救い主イエスは来るのか、来たのか。何回くらい来るのか』。最初のクリスマスの季節に来たし、終わりの日に世界を完成させる審判者として来られると私たちは教えられ、習い覚えてきました。いいえ、それだけではなく、礼拝の度毎に主イエスはそこに来て、確かに私たちと共にいてくださる。礼拝の時ばかりではなく、2人また3人が主イエスの御名によって集まるとき、主イエスご自身もまたそこにいてくださる。マタイ福音書の末尾、28:18以下、復活の主イエスが弟子たちを世界宣教へと送り出されるとき、こう仰いました。「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マタイ福音書28:18-20。いつも共にいてくださる、いつも来てくださる。それが、変わることのない約束でありつづけます。主よ、来てください。来てください。コリント手紙(1)16章末尾に「マラナ・タ」、主よ来てください、われらの主よ来りませと記されています。これが、クリスマスの季節だけではなくて、年中とおして生涯ずっと、クリスチャンが大切に抱えつづける心です。必ず来てくださるし、いつも共にいるのだと何度も何度も約束してくださっています。

そもそもの最初から、世の初めから、独り子なる神イエス・キリストが生きて働いておられました。その主イエスが弟子たちに、勝利の言葉を語りかけました。ヨハネ福音書16:33です。「これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」(ヨハネ福音書16:33)。本当にそうです。山ほどの苦難と悲しみと思い煩いの中に埋もれて、私たちは朝から晩までいらぬ心配をしつづけています。安心とはほど遠い所にいつづけます。主を待ち望む心を、なんとかして再び取り戻したい。主よ来てください。主よ来てくださいと。すでに私たちの目の前に来てくださっている主に気づき、驚いてハッと目を凝らす私たちでありたい。主が、私たちと共に、いつも、ここにおられます。そのことに信頼し、耳を傾けて聴き従う私たちでありたいのです。

                       (終りのとき③/全4回)

 

いのちと平和の与え主であられる神さま。

救い主イエスのお生まれを祝う季節を迎えています。待ち望み、御子を私たちの主として迎え入れるための備えをさせてください。

世界中で、多くの人々が互いに憎み合ったり、相手を押しのけて排除したり、傷つけたり殺し合ったりしています。虐げられ、身を屈めさせられて心細く暮らす人々を、どうか憐れんでください。この私たち自身も、普段の暮らしの中で小さな争いやいがみ合いの中にしばしば巻き込まれて暮らしています。この私たち一人一人もまた、生まれながらの怒りの子でであるからです。自分を正しいと強く言い立てる性分を強く抱えるものたちだからです。ですから私たちは日毎に3つのことを、あなたに願い求めます。神さまのお働きとその御心をはっきりと見ることができますように。神さまを心の底から愛し、隣人や家族を愛し、尊び、思いやることができますように。神さまの御心にかなって生きることを願いつづけ、神さまに近づいてゆくことができますように。

神を信じて生きる私たちのためには、すべての信頼を神さまに置いて、その御意思と御心に聞き従って、どこで何をしていてもそこでそのようにして神様に仕えて生きることができるように。どんな苦しみや悩みや辛さの只中にあっても、そこで神様に呼ばわって、救いとすべての幸いを神の中に求めつづける私たちであらせてください。

主イエスのお名前によって祈ります。アーメン

 

 

11/28こども説教「ノアの恥ずかしい姿」創世記9:18-2

11/28 こども説教 創世記 9:18-29

 ノアの恥ずかしい姿

 

9:18 箱舟から出たノアの子らはセム、ハム、ヤペテであった。ハムはカナンの父である。19 この三人はノアの子らで、全地の民は彼らから出て、広がったのである。20 さてノアは農夫となり、ぶどう畑をつくり始めたが、21 彼はぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。22 カナンの父ハムは父の裸を見て、外にいるふたりの兄弟に告げた。23 セムとヤペテとは着物を取って、肩にかけ、うしろ向きに歩み寄って、父の裸をおおい、顔をそむけて父の裸を見なかった。24 やがてノアは酔いがさめて、末の子が彼にした事を知ったとき、25 彼は言った、「カナンはのろわれよ。彼はしもべのしもべとなって、その兄弟たちに仕える」。26 また言った、「セムの神、主はほむべきかな、カナンはそのしもべとなれ。27 神はヤペテを大いならしめ、セムの天幕に彼を住まわせられるように。カナンはそのしもべとなれ」。28 ノアは洪水の後、なお三百五十年生きた。29 ノアの年は合わせて九百五十歳であった。そして彼は死んだ。

(創世記 9:18-29

 

 【こども説教】

 「ノアは正しく、かつ全き人であった」(創世記6:9と書いてありました。けれどもちろん、その正しさや完全さは、神のような正しさや完全さではありません。やがて大洪水後の最初の礼拝のなかで、「人が心に思い図ることは幼い時から悪い」(創世記8:21と神さまから言い渡されるとき、その悪い人間の中にノア自身と家族も入っているからです。ノアの正しさはほどほどの正しさであり、悪い心や神に逆らう思いも含む正しさであると知っておく必要があります。あの大洪水を生き延びさせていただいた人間たちも、その子供の子供の子供も皆、ついつい悪いことを心に思い図ってしまう者たちです。私たちも同じです。そのことを覚えておくために、ノアの恥ずかしい姿が聖書にわざわざ報告され、語り伝えられます。そうではないと、私たちもついつい自分の正しさを言い張ってしまうからです。とても素敵そうに正しそうに見える誰かを、あるいは自分自身を、まるで神のように持ち上げてしまいやすいからです。うっかりして恥ずかしい姿をさらしてしまったノアも、それを笑ったり、ついつい馬鹿にしてしまう子供たちも皆、神さまの憐れみの中でゆるされなければ生きてゆけません。だからです。ですから、やがて救い主イエスが、あの恥ずかしいノアや子供たちや私たちのような罪人をさえ救うために、この世界に降りて来られました(1テモテ手紙1:15,1ペテロ手紙2:10

 

  【大人のための留意点】

 「粗野で品位に欠け、正体もなく酒におぼれたノアを見ることは、極めてつらいことです。確かに、多くの教育者や、大勢の教会学校の教師たちは、この部分の記事さえなければよかったのにと、残念に思ったことでしょう。……けれども、それは確かにそこに記されてあります。そして、なぜ、この記事がここに記されなければならないのかを、神は知っておられます。今日に至るまで、われわれ人間は自己神格化や自己崇拝に向かう傾向を顕著に示しています。アブラハム、ヤコブ、ダビデ、ペテロの場合がそうです。ノアの場合にも、です。罪のゆるしなしに生きた者は誰一人もいません。ノアもまた、ゆるしによって生きるのです。(聖書中に酔漢の出来事の報告があるのは)われわれの足下から自己義認の萌芽と残滓(ざんし=残りかす。良くないもののなごりの意味)とを取り除くのに役立つでしょう。同時に、われわれは神によって提供されている赦しを受けるべく招かれるのです。神の恵みに満足するようにとの招きです」(ヴァルター・リュティー『アダム』(創世記講解説教、「契約」p268-69))










「ノアの泥酔」ベッリーニ、画

2021年11月22日月曜日

11/21「耐え忍ぶことが出来る」ルカ21:10-19

              みことば/2021,11,21(主日礼拝)  346

◎礼拝説教 ルカ福音書 21:10-19                   日本キリスト教会 上田教会

『耐え忍ぶことが出来る』


牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

21:10 それから彼らに言われた、「民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。11 また大地震があり、あちこちに疫病やききんが起り、いろいろ恐ろしいことや天からの物すごい前兆があるであろう。12 しかし、これらのあらゆる出来事のある前に、人々はあなたがたに手をかけて迫害をし、会堂や獄に引き渡し、わたしの名のゆえに王や総督の前にひっぱって行くであろう。13 それは、あなたがたがあかしをする機会となるであろう。14 だから、どう答弁しようかと、前もって考えておかないことに心を決めなさい。15 あなたの反対者のだれもが抗弁も否定もできないような言葉と知恵とを、わたしが授けるから。16 しかし、あなたがたは両親、兄弟、親族、友人にさえ裏切られるであろう。また、あなたがたの中で殺されるものもあろう。17 また、わたしの名のゆえにすべての人に憎まれるであろう。18 しかし、あなたがたの髪の毛一すじでも失われることはない。19 あなたがたは耐え忍ぶことによって、自分の魂をかち取るであろう。               ルカ福音書 21:10-19

 

16:25 真夜中ごろ、パウロとシラスとは、神に祈り、さんびを歌いつづけたが、囚人たちは耳をすまして聞きいっていた。26 ところが突然、大地震が起って、獄の土台が揺れ動き、戸は全部たちまち開いて、みんなの者の鎖が解けてしまった。27 獄吏は目をさまし、獄の戸が開いてしまっているのを見て、囚人たちが逃げ出したものと思い、つるぎを抜いて自殺しかけた。28 そこでパウロは大声をあげて言った、「自害してはいけない。われわれは皆ひとり残らず、ここにいる」。29 すると、獄吏は、あかりを手に入れた上、獄に駆け込んできて、おののきながらパウロとシラスの前にひれ伏した。30 それから、ふたりを外に連れ出して言った、「先生がた、わたしは救われるために、何をすべきでしょうか」。31 ふたりが言った、「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」。       (使徒行伝16:25-31)


10-14節、「それから彼らに言われた、「民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろうまた大地震があり、あちこちに疫病やききんが起り、いろいろ恐ろしいことや天からの物すごい前兆があるであろう。しかし、これらのあらゆる出来事のある前に、人々はあなたがたに手をかけて迫害をし、会堂や獄に引き渡し、わたしの名のゆえに王や総督の前にひっぱって行くであろう。それは、あなたがたがあかしをする機会となるであろう。だから、どう答弁しようかと、前もって考えておかないことに心を決めなさい」。まず最初に、「民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう」と救い主イエスが、この私たちに向けて仰います。身近な人々との争いや、もめ事、なかなか心が通じ合わない、分かってもらえないということは私たちにとってもありうる。国と国、またそれぞれの国の中でも、厳しく恐ろしい対立や迫害や弾圧などもあちこちで起こりつづけています。この日本の中でも、アジア諸国でも、アフリカでも、世界中のあちこちでも。心が痛みます。

また、「大地震があり、あちこちに疫病やききんが起り、いろいろ恐ろしいことや天からの物すごい前兆があるであろう。しかし、これらのあらゆる出来事のある前に、人々はあなたがたに手をかけて迫害をし、会堂や獄に引き渡し、わたしの名のゆえに王や総督の前にひっぱって行くであろう。それは、あなたがたがあかしをする機会となるであろう」と。さまざまな争いや対立があちこちで起こりつづけ、大地震があり、あちこちに疫病やききんが起り、いろいろ恐ろしいことや天からの物すごい前兆もあり、けれど、それらのごく一部分を私たちは目撃しているにすぎません。また、多くの人々は神の国の福音を拒みつづけます。

救い主イエスがふたたびこの世界に来られる、その終わりの日が近づいています。約束されている通りにです。神を信じて生きる私たちクリスチャンがなすべき務めは、とても単純明快で、はっきりしています。いつどこででも、何が起こっても、他の人たちがどんなふうに暮らしているとしても。なお神の招きに応えて、救いへと選ばれていることを確かな現実としようと務めて、その神さまの御心に対して忠実に生きることです。他の何よりも、神の国と神の義をこそ求めて生きることです。そのように生きるなら、大地が揺れ動き、土や泥水が押し寄せるときにさえ、その人は、大きな堅い岩の上に足を踏みしめて立っています。

また救い主イエスは、ご自身の弟子である私たちを襲う困難な状況についても、あらかじめ告げ知らせておられます。「人々はあなたがたに手をかけて迫害をし、会堂や獄に引き渡し、わたしの名のゆえに王や総督の前にひっぱって行くであろう。それは、あなたがたがあかしをする機会となる」と。迫害されることもあり、牢獄に閉じ込められる日々もあり、「王や支配者たちの前にひっぱって行かれ」、「裏切られ」、見捨てられることもあり、殺されることもありうると。救い主イエスの名のゆえに、このお独りのお方を信じて、この方に聴き従って生きていることを理由にして、ひどく憎まれることもありうると。使徒行伝16章でも、予告されていた通りのことが起こりました;「群衆もいっせいに立って、ふたりを責めたてたので、長官たちはふたりの上着をはぎ取り、むちで打つことを命じた。それで、ふたりに何度もむちを加えさせたのち、獄に入れ、獄吏にしっかり番をするようにと命じた。獄吏はこの厳命を受けたので、ふたりを奥の獄屋に入れ、その足に足かせをしっかりとかけておいた。真夜中ごろ、パウロとシラスとは、神に祈り、さんびを歌いつづけたが、囚人たちは耳をすまして聞きいっていた」(使徒16:22-25。何度も何度も読み返してきたように、繰り返しムチ打たれ、足かせをはめられ、牢獄に閉じ込められたその真夜中に、主イエスの弟子たちは、神をほめたたえる讃美の歌を歌っていました。ほかの囚人たちも、その歌声や祈りに耳を傾け、聴き入っていました。その牢獄の中は、不思議な静かさと穏やかさに満ちていました。なぜなら主の弟子たちは、神さまへと向かい、神の御前に据え置かれていたからです。また、そのために与えられていた信仰の道具を用いていました。神へと向かう讃美の歌と祈りと。それらの歌と祈りによって、彼らは思い煩うことから自由にされていました。その歌と祈りによって、『主がすぐ近くにいてくださる』ことを「確かに。本当にそうだ」と鮮やかに実感することもできました。その歌と祈りによって、彼らは神に打ち明け、神さまからの打ち明け話を聞き分けていました。そのようにして彼らは、自分自身の心と考えとをキリスト・イエスによって守られていました(ピリピ手紙4:6-7参照)。だからこそ、その驚くべき光景に目を見張る者たちがいました。耳を澄ませて、「その歌と祈りの秘密はいったい何だろうか、ぜひ知りたいものだ」と考えめぐらせる者たちがいました。ほかの囚人たちです。突然に大地震が起き、牢獄の土台が揺れ動きました。牢獄の戸がみな開き、すべての囚人たちの鎖も足枷も外れてしまいました。主なる神が、これをなさったのです。牢獄の土台が揺さぶられ、戸がみな開き、すべての囚人たちの鎖も足枷も外れ、にもかかわらず弟子たちも他の囚人たちも誰1人としてそこから逃げ出さない。彼らを助け出すためではなく、1人の看守を救い出すためにこそ、1人の看守とその家族に救いをもたらすためにこそ、神は働かれました。驚くべきことです。あのとき、「救われるために、この私はどうすべきでしょうか」と看守は主イエスの弟子たちに問いかけました。奇妙な質問です。地震が起きて牢獄の戸が開き、囚人たちの鎖も足枷も外れてしまった。けれど囚人たちは逃げなかった。お咎めなしです。つまり、逃げ出さずに留まっていた他の囚人たちも、同じことを問いかけ、同じ答えを聞き届けていることになります。衣服をはぎとられても、はぎ取られない豊かさです。ムチ打たれ、苦しめられても萎まない平和です。鎖につながれ、足枷をはめられ、牢獄の奥深くに閉じ込められても、なお晴々として、穏やかでいられる安らかさです。あの歌とあの祈りの声をもっと聞いていたい。「自分もあのように歌い、あのように祈ることができたらどんなに幸いだろうか」と彼らは思いました。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」(使徒16:31。これが、神さまからの約束です。このことについて先週も話しましたが、もう少し念を押しましょう。救われるために、神さまからの恵みと平和を受け取るために、どうしたらいいのか。主イエスを信じること。ただ、これだけです。

さて15-19節、「あなたの反対者のだれもが抗弁も否定もできないような言葉と知恵とを、わたしが授けるから。しかし、あなたがたは両親、兄弟、親族、友人にさえ裏切られるであろう。また、あなたがたの中で殺されるものもあろう。また、わたしの名のゆえにすべての人に憎まれるであろう。しかし、あなたがたの髪の毛一すじでも失われることはない。あなたがたは耐え忍ぶことによって、自分の魂をかち取るであろう」。末尾の19節で、「あなたがたは耐え忍ぶことによって、自分の魂をかち取るであろう」と告げられます。これは、「あなたがたは最期の最期まで耐え忍ぶことが出来る」という神からの保証であり、確かな約束です。私たちの教会がよって立つ信仰は、改革教会の伝統のもとにあります。それは、神中心の信仰であり、神の恵みによくよく目を凝らしつづける信仰です。カルヴァン主義の信仰の5原則(全面的堕落、無条件の選び、限定的贖罪、拒むことのできない恩恵、聖徒の堅忍)として教えられ、習い覚えてきた5項目のうちの最後の1つは、「神を信じる者たちが最後まで耐え忍ぶことができる」と断言します。神が、私たちを支え続け、神こそが私たちをその信仰のうちに耐え忍ばせ、やがて死の川波を乗り越えて永遠の御国へ辿り着かせてくださるという神の約束であり、神への信頼です。その要点は、(その人自身の側の信仰深さや、忍耐力などとは何の関係もなく)、ただただ憐み深い神の御心とその御力こそが何よりも強く確かであることです。神があらかじめ救いへと選び入れておられる者たちを、最期の最期まで御手のうちに固く守り抜いてくださること。そのことへの絶対的な信頼です。だからこそ、この信仰は、どこまでも神中心の信仰であり、神の恵みによくよく目を凝らしつづける信仰です。

例えば、「両親、兄弟、親族、友人にさえ裏切られることもありうる。無残に殺されることもありうる。また、救い主イエスの名のゆえに、イエスを信じて生きることのためにすべての人に憎まれ、踏みつけにされ、退けられることも有り得る」。たとえそうであっても、それでも何の不都合も不足もない。その安らかさと幸いの根拠は、ただただ、私たちを救いへと選び取り、守り、支え、保ち続けてくださる憐みの神のもとにあります。

「あなたがたの髪の毛一すじでも失われることはない」と保障されます。これは、やや言葉足らずな説明です。この約束の本意は、『憐み深い天の御父の御心によらないでは~失われない。憐み深い御心のもとに一本一本抜け落ちおてゆく』という約束です。もちろん、「いつまでも黒髪がふさふさしていて」ということではありません。いつまでも若々しく見える人もいますが、ほんの少しの個人差があるばかりで結局は誰の髪の毛も、一本また一本と抜け落ちていきます。そのように、物忘れをするようになり、足腰弱り、ほんの少し前までは簡単に出来ていたはずのことが次々と出来なくなります。身も心も、日に日に衰え弱ってゆき、さまざまな不具合や不自由や困難をも抱えつづけて生きて、やがて神さまが決めておられる時期と順番と在り方で必ず死んでゆく私たちです。しかも、私たちの頭の髪の毛一本一本と同じように、この私たち自身の心も体もしだいに衰え弱っていきます。

そのとおり。そのことを恐れなくても良いし、悲しみ嘆かなくてもよい。なぜなら、神の憐れみとゆるしのもとにそれぞれの頭の髪の毛が一本、また一本と抜け落ちてゆくように、私たちは神の憐れみのもとに衰え弱り、やがて死んでゆくからです。やがて神の永遠の御国に辿り着かせていただき、自分の朽ちることのない魂と生命を、神の憐れみによって贈り与えられることになっているからです。それで十分であるからです。 (終りのとき②/全4回)

 

 

 

11/21こども説教「すべての生き物との契約」創世記9:8-17

11/21 こども説教 創世記 9:8-17

 『すべての生き物との契約』

 

9:8 神はノアおよび共にいる子らに言われた、9 「わたしはあなたがた及びあなたがたの後の子孫と契約を立てる。10 またあなたがたと共にいるすべての生き物、あなたがたと共にいる鳥、家畜、地のすべての獣、すなわち、すべて箱舟から出たものは、地のすべての獣にいたるまで、わたしはそれと契約を立てよう。11 わたしがあなたがたと立てるこの契約により、すべて肉なる者は、もはや洪水によって滅ぼされることはなく、また地を滅ぼす洪水は、再び起らないであろう」。12 さらに神は言われた、「これはわたしと、あなたがた及びあなたがたと共にいるすべての生き物との間に代々かぎりなく、わたしが立てる契約のしるしである。13 すなわち、わたしは雲の中に、にじを置く。これがわたしと地との間の契約のしるしとなる。14 わたしが雲を地の上に起すとき、にじは雲の中に現れる。15 こうして、わたしは、わたしとあなたがた、及びすべて肉なるあらゆる生き物との間に立てた契約を思いおこすゆえ、水はふたたび、すべて肉なる者を滅ぼす洪水とはならない。16 にじが雲の中に現れるとき、わたしはこれを見て、神が地上にあるすべて肉なるあらゆる生き物との間に立てた永遠の契約を思いおこすであろう」。17 そして神はノアに言われた、「これがわたしと地にあるすべて肉なるものとの間に、わたしが立てた契約のしるしである」。           

(創世記 9:8-17

 

 【こども説教】

 全世界が危うく滅びかけた大洪水は、私たち人間の罪がとてもひどかったせいです。人間の罪のために(創世記6:5.12「人の悪」「すべての人が道を乱した」)、他すべての生き物までも一緒にすっかり滅ぼされてしまうところでした。けれど神は思い直しました。私たち人間が「小さな子供のころから、ついつい悪いことを思ってしまう」と知りながら、とても悪い張本人の私たち人間もゆるし、ほかの生き物すべても、救いと祝福の中へと招いてくださっています。心の優しい神さまです。神さまは、その救いの約束のしるしとして、空に虹を置きました。「虹を見るたびに、神のゆるしと、その心の優しさや温かさを思い出しなさい」と私たちに勧めるばかりでなく、なんと神さまご自身が真っ先に、その救いの約束を御心に噛みしめ、味わいつづけるとおっしゃるのです。こういう神さまです。

 ですから、神の心優しさを知った者たちは、空にかかる虹を見るたびに心が踊ります。とても嬉しくなります。神さまのその優しさや温かさや、思いやり深さを思い起こすからです。私のためばかりでなく、すべての人間を思いやり、人間ばかりでなく、神によって造られたすべての生き物を思いやる、その神さまの御心をはっきりと思い起こすからです。

 

 

 【大人のための留意点 ①②】

  しるしは元来、私たちのために与え

られるものです。ところが、神は「雲の中に虹が現れると、わたしはそれを見て、神と地上のすべての生き物、すべて肉なる者との間に立てた永遠の契約を心に留める」16節)と言われます。神ご自身がそれを見て率先して思い起こして下さるのです。ここにも神の忍耐と憐みの大きさが示されています。

 このような恵みの契約の中に招かれている私たちは、それゆえ一層、この地上において人間の命と被造世界全体が、御心にかなって保持されるために仕えなければなりません。神の恵みをあなどるわけにはいきません(「旧約聖書に聴く『原初史が語る人間と世界』(10)高松牧人、著 『福音時報』202110月号)

  私の心は踊る

虹が空にかかるのを見るときに

   私のいのちの初めにそうだった。

   私は大人になったが今でも同じだ。

   私が年老いたときにも

やはり同じであってほしい。

   もし、そうでないなら、

   生きていて何の意味があるだろう。

   こどもは大人のための父親役だ。

     願い求めます、

私が生きる一日一日が自然への敬愛と

堅く結ばれつづけることを。

(『虹』ワーズワーズ 1802年)

 

「父親役」;子供時代の心が基調・土台となって、やがてそこから大人の思想感情が生み出され、形成されてゆくの意味で。

 

 

2021年11月15日月曜日

11/14「古い神殿が崩れ落ちるとき」ルカ21:5-9

           みことば/2021,11,14(主日礼拝)  345

◎礼拝説教 ルカ福音書 21:5-9            日本キリスト教会 上田教会

『古い神殿が崩れ落ちるとき』

 

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

21:5 ある人々が、見事な石と奉納物とで宮が飾られていることを話していたので、イエスは言われた、6 「あなたがたはこれらのものをながめているが、その石一つでもくずされずに、他の石の上に残ることもなくなる日が、来るであろう」。7 そこで彼らはたずねた、「先生、では、いつそんなことが起るのでしょうか。またそんなことが起るような場合には、どんな前兆がありますか」。8 イエスが言われた、「あなたがたは、惑わされないように気をつけなさい。多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がそれだとか、時が近づいたとか、言うであろう。彼らについて行くな。9 戦争と騒乱とのうわさを聞くときにも、おじ恐れるな。こうしたことはまず起らねばならないが、終りはすぐにはこない」。ルカ福音書 21:5-9

 

6:3 それとも、あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。4 すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。5 もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。6 わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。7 それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである。8 もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる。9 キリストは死人の中からよみがえらされて、もはや死ぬことがなく、死はもはや彼を支配しないことを、知っているからである。10 なぜなら、キリストが死んだのは、ただ一度罪に対して死んだのであり、キリストが生きるのは、神に生きるのだからである。11 このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである。(ローマ手紙 6:3-11)


5-6節、「ある人々が、見事な石と奉納物とで宮が飾られていることを話していたので、イエスは言われた、「あなたがたはこれらのものをながめているが、その石一つでもくずされずに、他の石の上に残ることもなくなる日が、来るであろう」。救い主イエス・キリストがエルサレム神殿について語りかけておられます。この語りかけはとても大切で、注意深く思い巡らせる必要があります。人々は、その神殿のうわべの美しさや、荘厳華麗さに目を向けています。その大きさや、美術的な装飾の見事さ、またとても高額な費用が掛かったはずの建築物の細部のすばらしさなど。また、見た目の豪華さや華やかさばかりでなく、その神殿には十の戒めを記した石板が収められた『神の箱』が保管されており、神ご自身からのすべての贈り物の中の、もっとも象徴的なしるしがあります。神を信じる人々は一日に三度、神の御名が記されたエルサレム神殿に向かって祈りつづけてきました(列王上8:44,ヨナ書2:4,ダニエル書6:10。けれど、それらのことをよくよく分かった上で、なお、なおさらこう仰る。「あなたがたはこれらのものをながめているが、その石一つでもくずされずに、他の石の上に残ることもなくなる日が、来るであろう」。つまり、自然に偶然に打ち壊されるわけではなく、神ご自身の御心に従って、神ご自身の御手によって、神の神殿が跡形もなく打ち壊され、すっかり崩れ落ちるときがくる。そのときを、神ご自身が来させると。神を礼拝する場所の真実な栄光は、外面的な素晴らしさや装飾品などの見事さ、格調高さや美しさにはよらないという、神の力溢れる真実を私たちに教えるためにです。例えば、イスラエルの最初の王サウルに替わる次の王を選ぼうとしているとき、主は預言者サムエルに語りかけました、「顔かたちや身のたけを見てはならない。わたしはすでにその人を捨てた。わたしが見るところは人とは異なる。人は外の顔かたちを見、主は心を見る」(サムエル記上16:7。心を見る神です。神殿についても、ささげものについても、ささげられる一つ一つの礼拝についても、私たちそれぞれの日常生活についてもそうです。

私たち人間は建物の姿形や、礼拝の美しさや品格や言葉の美しさにばかり心を奪われてしまいやすいのです。けれど主なる神は、霊的な礼拝と、そこに聖霊なる神が共におられて私たちを導くことを願い求めつづけておられます。その心の中身をです。その当時のエルサレムの神殿には、そういう霊的な中身が決定的に欠けていました。救い主イエスは、その神殿と人々の在り方を喜ぶことがどうしても出来ませんでした。だから、救い主イエスは、「わが家は祈りの家であるべきだと書いてあるのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしてしまった」と仰いました。かつて預言者が「見よ、あなたがたは偽りの言葉を頼みとしているが、それはむだである。あなたがたは盗み、殺し、姦淫し、偽って誓い、バアルに香をたき、あなたがたが以前には知らなかった他の神々に従いながら、わたしの名をもって、となえられるこの家に来てわたしの前に立ち、『われわれは救われた』と言い、しかもすべてこれら憎むべきことを行うのは、どうしたことか。わたしの名をもって、となえられるこの家が、あなたがたの目には盗賊の巣と見えるのか。わたし自身、そう見たと主は言われる」(ルカ19:46,エレミヤ書7:8-11と人々を叱ったように。だからこそ、「この神殿をこわしたら、わたしは三日のうちに、それを起すであろう」と主イエスは仰り、そこで、ユダヤ人たちは言った、「この神殿を建てるのには、四十六年もかかっています。それだのに、あなたは三日のうちに、それを建てるのですか」。イエスは自分のからだである神殿のことを言われたのである。それで、イエスが死人の中からよみがえったとき、弟子たちはイエスがこう言われたことを思い出して、聖書とイエスのこの言葉とを信じた(ヨハネ福音書2:19-と報告されています。

7-9節、「そこで彼らはたずねた、「先生、では、いつそんなことが起るのでしょうか。またそんなことが起るような場合には、どんな前兆がありますか」。イエスが言われた、「あなたがたは、惑わされないように気をつけなさい。多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がそれだとか、時が近づいたとか、言うであろう。彼らについて行くな。戦争と騒乱とのうわさを聞くときにも、おじ恐れるな。こうしたことはまず起らねばならないが、終りはすぐにはこない」。あなたがたは惑わされないように気をつけなさい、と警告されています。多くの者が救い主の名を名のって現れ、自分がそれだとか、時が近づいたとか、言う。けれど彼らについて行くな。戦争と騒乱とのうわさを聞くときにも、大きな津波や地震や川の氾濫や大規模な土砂崩れ、新しい恐ろしいウイルスや疫病の噂を聴くときにも、私たちはむやみに恐れてはなりません。こうしたことはまず起らねばならないが、終りはすぐにはきません。

しかも、すぐには来ないとしても、目を覚まして気を配っていなければなりません。こう警告されています、「だから、目をさましていなさい。いつの日にあなたがたの主がこられるのか、あなたがたには、わからないからである。このことをわきまえているがよい。家の主人は、盗賊がいつごろ来るかわかっているなら、目をさましていて、自分の家に押し入ることを許さないであろう。だから、あなたがたも用意をしていなさい。思いがけない時に人の子が来るからである」(マタイ福音書24:42-44

 

さて、古い神殿が神ご自身の手によって打ち壊され、崩れ落ちる、その後に、もちろん人間の手によらず、ただ神ご自身の手によってまったく新しい神殿が建て上げられます。そのことを心に留め続けなければなりません。「この神殿をこわしたら、わたしは三日のうちに、それを起すであろう」と主イエスは仰り、「この神殿を建てるのには、四十六年もかかっています。それだのに、あなたは三日のうちに、それを建てるのですか」と問われました。救い主イエスは自分のからだである神殿のことを言われたのだと、弟子たちは主イエスが復活なさった後で、それを悟りました。(1)今あるすべてのキリストの教会が、救い主イエスを土台として立てられた、その新しい霊的な神殿です。(2)また同時に、神を信じて生きるすべてのクリスチャンが、神がその人の体の中に宿ってくださる神の新しい霊的な神殿とされました。「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。もし人が、神の宮を破壊するなら、神はその人を滅ぼすであろう。なぜなら、神の宮は聖なるものであり、そして、あなたがたはその宮なのだからである」(1コリント手紙3:16-17

(3)だからこそ、神の御心にかなった霊的な礼拝を積み重ね、霊的なささげものとして自分自身のからだと日々の生活とを神にささげながら、日毎に新しく生きる私たちです。折々に献げられる神へのささげものそのものは『自分自身とその生活を神にささげて生きるためのしるし』であるということです。『感謝のささげものである』と言われる、その究極の意味はそこにあります。聖書は証言します、「兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。わたしは、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりびとりに言う。思うべき限度を越えて思いあがることなく、むしろ、神が各自に分け与えられた信仰の量りにしたがって、慎み深く思うべきである」(ローマ手紙12:1-3。私たち自身のからだと生活を、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげる。それが、私たちがなすべき霊的な礼拝である。「あなたがたは、この世と妥協してはならない」。この世と妥協するとは、「この世界のやり方や考え方、社会習慣などと同じ形になる」ということです。それでは、そうではない別の、どういう形になるのかというと『キリストの形』になる、ということです。そのことが、ここで具体的に実践的にはっきりと説き明かされています。「心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知る」ことこそが、『キリストのかたち』であり、失われつづけていた『神のかたち』が救い主イエス・キリストを信じる信仰によって、私たちのうちに再び形づくられ、回復されるということです。聖書ははっきりと証言します、「神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。それは、御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった。そして、あらかじめ定めた者たちを更に召し、召した者たちを更に義とし、義とした者たちには、更に栄光を与えて下さったのである。それでは、これらの事について、なんと言おうか。もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか」(ローマ手紙 8:29-32。私たちがなすべき霊的な礼拝が一回、また一回と積み重ねられ、自分自身を神さまにささげて日々を生き、そのようにして、救い主イエスを信じる信仰によって、この私たちの生涯の中に『神のかたち』が回復されてゆくという約束です。「わたしは貧しく、かつ乏しい。しかし主はわたしをかえりみられます。あなたはわが助け、わが救主です」(詩40:17

11/14こども説教「洪水の終わり」洪水②創世記8:13-22

11/14 こども説教 創世記 8:13-22

 『洪水の終わり』 洪水②

 

8:13 六百一歳の一月一日になって、地の上の水はかれた。ノアが箱舟のおおいを取り除いて見ると、土のおもては、かわいていた。14 二月二十七日になって、地は全くかわいた。15 この時、神はノアに言われた、16 「あなたは妻と、子らと、子らの妻たちと共に箱舟を出なさい。17 あなたは、共にいる肉なるすべての生き物、すなわち鳥と家畜と、地のすべての這うものとを連れて出て、これらのものが地に群がり、地の上にふえ広がるようにしなさい」。18 ノアは共にいた子らと、妻と、子らの妻たちとを連れて出た。19 またすべての獣、すべての這うもの、すべての鳥、すべて地の上に動くものは皆、種類にしたがって箱舟を出た。20 ノアは主に祭壇を築いて、すべての清い獣と、すべての清い鳥とのうちから取って、燔祭を祭壇の上にささげた。21 主はその香ばしいかおりをかいで、心に言われた、「わたしはもはや二度と人のゆえに地をのろわない。人が心に思い図ることは、幼い時から悪いからである。わたしは、このたびしたように、もう二度と、すべての生きたものを滅ぼさない。22 地のある限り、種まきの時も、刈入れの時も、暑さ寒さも、夏冬も、昼も夜もやむことはないであろう」。                 

(創世記 8:13-22

 

 【こども説教】

 世界中を覆った大洪水がとうとう終わります。地の上の水は枯れ、見ると、地のおもては乾いていました。けれど、箱舟から外に出るのは、「箱船を出なさい」と神から命じられてからです。神の御命令によって箱舟に入り、神の御命令に従ってその箱舟から出る。ここが大切なところで、ノアと家族たちもすべての生き物も、そして私たちも、神さまに従って生きる者たちです。箱舟から出て最初にしたことは、皆で神さまへの礼拝をささげることです。20-21節、「ノアは主に祭壇を築いて、すべての清い獣と、すべての清い鳥とのうちから取って、燔祭を祭壇の上にささげた。主はその香ばしいかおりをかいで、心に言われた、「わたしはもはや二度と人のゆえに地をのろわない。人が心に思い図ることは、幼い時から悪いからである。わたしは、このたびしたように、もう二度と、すべての生きたものを滅ぼさない」。人が心に思い図ることは幼い時から悪い、と神さまから告げられました。しかも生き延びたのはノアと家族と生き物たちです。朝から晩まで悪いことばかりを思い図りつづけるというと言いすぎですが、どんなに清く正しそうに見える人であっても、誰でも、ついつい悪いことを思い図ってしまう。それが人間だ、と神は言います。しかも、『心に思い図ることは幼い時から悪い人間』の中に、ノア自身も家族も子孫たち皆も含まれます。その悪い人間たちと生き物たちをけれど滅ぼさず、憐れんで救おうとなさる神です。その救いの方法は後で示されます。そこには2つの中身が含まれています。(1)神を信じる一握りの人々を神が選び出すことと、(2)救い主イエスによって成し遂げられる救いの御業です。

 

 

 【大人のための留意点】

 神がノアとの間に立てられた契約には注目すべき特徴があります。まず、この契約はイスラエルの選びに先立つ契約であり、ノアを代表する全人類をその対象としています。また、この契約では、人間だけでなくすべての動物も契約の当事者として招かれています(創世記 910,12,15,16節)。人間の悪によって動物たちも洪水に巻き込まれたのですが、この契約において人間と被造世界との調和の回復が目指されています。……これらすべての契約(アブラハムとの契約、モーセによるシナイ山での契約、ダビデとの契約)に先立つノアの契約は、やがて立てられる新しい契約につながっていきます。人間の背反にもかかわらず、その人間を二度と呪わないと言われる神の決意は、御子の十字架の出来事を指し示しています(「旧約聖書に聴く『原初史が語る人間と世界』(10)高松牧人」 『福音時報』202110月号に掲載)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2021年11月8日月曜日

11/7「貧しいやもめのささげもの」ルカ21:1-4

            みことば/2021,11,7(主日礼拝)  344

◎礼拝説教 ルカ福音書 21:1-4              日本キリスト教会 上田教会

『貧しいやもめのささげもの』

 

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

21:1 イエスは目をあげて、金持たちがさいせん箱に献金を投げ入れるのを見られ、2 また、ある貧しいやもめが、レプタ二つを入れるのを見て 3 言われた、「よく聞きなさい。あの貧しいやもめはだれよりもたくさん入れたのだ。4 これらの人たちはみな、ありあまる中から献金を投げ入れたが、あの婦人は、その乏しい中から、持っている生活費全部を入れたからである」。                            ルカ福音書 21:1-4

 

12:1 兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。2 あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。3 わたしは、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりびとりに言う。思うべき限度を越えて思いあがることなく、むしろ、神が各自に分け与えられた信仰の量りにしたがって、慎み深く思うべきである。4 なぜなら、一つのからだにたくさんの肢体があるが、それらの肢体がみな同じ働きをしてはいないように、5 わたしたちも数は多いが、キリストにあって一つのからだであり、また各自は互に肢体だからである。6 このように、わたしたちは与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っているので、もし、それが預言であれば、信仰の程度に応じて預言をし、7 奉仕であれば奉仕をし、また教える者であれば教え、8 勧めをする者であれば勧め、寄附する者は惜しみなく寄附し、指導する者は熱心に指導し、慈善をする者は快く慈善をすべきである。9 愛には偽りがあってはならない。悪は憎み退け、善には親しみ結び、10 兄弟の愛をもって互にいつくしみ、進んで互に尊敬し合いなさい。      (ローマ手紙 12:1-10)


1-4節、「イエスは目をあげて、金持たちがさいせん箱に献金を投げ入れるのを見られ、また、ある貧しいやもめが、レプタ二つを入れるのを見て言われた、「よく聞きなさい。あの貧しいやもめはだれよりもたくさん入れたのだ。これらの人たちはみな、ありあまる中から献金を投げ入れたが、あの婦人は、その乏しい中から、持っている生活費全部を入れたからである」。救い主イエスがこの世界でなされる物事の一つ一つに、どんなに鋭くまた熱心に目を注いでおられるのか、と改めて気づかされます。そのように主イエスは目をあげて、金持たちがさいせん箱に献金を投げ入れるのを見られ、また、夫に先に死なれたある貧しい女性が、レプタ二つ(一デナリがおよそ一日分の労働賃金。一レプタはその128分の一。ごくわずかな金額の通貨)を入れるのを見たのです。この私たちに対しても、そのように、それぞれの一日一日の生活の出来事や、私たちの行いや心の思いに目を留め、心に留めつづけておられます。しかも、十字架につけられて間もなく殺されようとする、その最後の一週間においてさえも、こうなのです。弟子たちからも裏切られ、不法な裁きにかけられ、十字架につけられ、苦しみと嘲りと罪人としての惨めな死を耐え忍び、死んでいかれることが目の前に迫り、それをはっきりと知っておられながら、なお一人の貧しい女性の姿に目を留めておられます。それは、救い主イエスの十字架の死と復活が私たちのためであるように、この一人の貧しい女性のためでもあるからです。

救い主イエスは昨日も今日も、いつまでも変わることのないお方です(ヘブル手紙13:8。金持ちたちと一人の貧しい女性とを見ておられるように、同じく、今日もこれからも、世界中のあらゆる出来事を、あらゆる人々の暮らしぶりに目を凝らしていてくださいます。もちろん、この私たちに対してもです。「主の目はどこにでもあって、悪人と善人とを見張っている」。そして、「わたしは貧しく、かつ乏しい。しかし主はわたしをかえりみられます。あなたはわが助け、わが救主です」(箴言15:3,40:17と心底からつくづくと実感できるなら、その人は幸いです。憐み深い神が生きて働いておられますことが、その人を慎み深く、謙遜にさせ、また同時に、心強く励まし、勇気を与えてくれるからです。

さて、主イエスは言われました。「よく聞きなさい。あの貧しいやもめはだれよりもたくさん入れたのだ。これらの人たちはみな、ありあまる中から献金を投げ入れたが、あの婦人は、その乏しい中から、持っている生活費全部を入れたからである」。あの彼女は誰よりも多く献げた。なぜか。彼女は、とても感謝しているからです。神にとても信頼し、神を喜んでいるからです。なぜなら神から多く愛されつづけてきたことを今でははっきりと気づいており、よく分かっていて、それでとても嬉しくて、神を多く愛することができるようにしていただいたからです(ルカ7:36-50参照)。主イエスはささげものそのものよりも、むしろ、その人の心を見ておられます。あのカインのときのように。神へのささげものも、神に仕える奉仕の働きの一つ一つも、皆すべて一切が『感謝のささげもの』であるし、そうでなければとても困ったことになるからです。もし万一、私は良いささげものをし、神によく仕えて働いていると思ってしまった途端に、この私たちは自分の顏を神ご自身から背け始めてしまうからです。神など何者かと思い上がってしまい、あるいは、怒りと妬みから隣人や兄弟や家族に対して、さらに神に対してさえもはなはだしく憤ってしまうからです。ですから憐み深い神は心配してカインに対して語りかけ、マリヤの姉マルタに語りかけ、朝早くから働いたぶどう園の労働者たちに語りかけ、弟を妬んで家に入ってくることもできなくなった、あの放蕩息子の兄に語りかけたように。また、ニネベの町の数多くの人々と家畜と牛と羊たちのためのゆるしと救いを喜ぶことのできなかった、あの預言者ヨナに語りかけたように、この私たちに対しても神は同じ言葉を語りかけるでしょう。「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」(創世記4:6-7,ルカ10:38-42,マタイ20:1-16,ルカ15:23-31,ヨナ書3:4-4:11と。

例えば、「わたしは、維持献金を毎月いくらくらい納めたらいいでしょう。他のみなさんは、どんなふうにしているのか教えてください」などと質問されることがあります。たしかに、「維持献金は毎月の教会の働きを維持するために献げられる。教会の財政は総会で定められた予算によって運営される。だから維持献金の額は予算が満たされるように配慮して決めましょう」と教えられます。また総会資料には、それぞれの教会によっては、一人当たりの献金額の統計グラフが参考のために示される場合もあり、「私は○○歳だから、献金はこのくらいか」と考えたりもします。それは一理あり、必ずしも間違いではないのかも知れません。けれども同時に、教会には様々な事情を抱えた人たちが集まります。裕福な人もいれば経済的に貧しい人もいますね。学生も子供も、失業した人も体が弱い人も病気の人も、年金暮らしの人もいます。大きな借金を抱えた人もいます。「私は今年はこのくらい献げよう」とよく考えて決めたとしても、年度途中で家の経済事情が変化して、献金額を減らさなければならなくなることも有り得ます。もし万一、参考資料として示された場合にも、統計の平均額は、ある程度の目安にすぎません。誰もが、自分が困らない範囲で、自分の家庭の経済状況に応じた額を安心して献げていただきたいのです。例えば中学生・高校生も陪餐会員になり、つまり一人前の大人扱いされるクリスチャンとなり、月々の維持献金を収めます。それは、自分の毎月の小遣いの中から、困らない範囲で自分自身で決めて、献げます。

さらに大切なことは、私たち人間が働いて献げているだけでなく、《神ご自身が生きて働いておられる》ということです。毎月の教会の働きも、教会員が十分にしっかり維持しなければ破綻してしまうのかといえば、決してそうではありません。神ご自身が断固として、第一に、全責任を負って維持なさり、牧師とその家族の生活もやはり神ご自身が恵みによって養ってくださっているということです。私たち自身のそれぞれの家庭や生活もまったく同様です。教会も一個のクリスチャンもすでに、自分の力と手の働きによって自分自身を養っているのではありません(申命記6:10-12,8:17-18,9:4-6)

私たちが手にしているものすべてが、「神から与えられる日毎の糧」です。全収入、衣食住、生活費、一日ずつの健康、命、家族、居場所など必要なすべて一切を、神から感謝して受け取ります。例えば牧師の謝儀も、それぞれの家の収入も年金も子供たちの月々の小遣いもみな同じ。神からのその分け前を、「給料。給料」などと神を侮ってはなりません(「民数記18:8-19」の説き明かし。『家庭礼拝歴』2021,8,2の箇所を参照)

また、「教会のため神さまのために、私には何ができるか」と考えることは尊いことですが、そればかりでなく、むしろ、「こんな私のためにさえ、神は何をしてくださるのか」と目を凝らしたいのです。私たちの主であられる神は、私たちが支えなければ倒れてしまう神ではなく、私たちが担いで運ばなければ動けない神ではありません。私たちが食べ物を供えなければ飢えて腹ペコになってしまう神でもありません。神は御自身を養い、私たちをも恵みによって養ってくださる方でありつづけます(40:7,51:18,127:1-2,イザヤ 1:11,46:1-2,エレミヤ10:5)。それをうっかり忘れてしまう時、キリストの教会はごく簡単に「人間による・人間のための・人間自身の集団」に成り下がってしまいます。私たちは、それをこそ恐れましょう。

 

            ◇

 

ささげものについて、さらに大切なことは、感謝献金や維持献金、礼拝献金、さまざまな奉仕など、折々に献げられる神へのささげものそのものは『自分自身とその生活を神にささげて生きるためのしるし』であるということです。『感謝のささげものである』と言われる、その究極の意味はそこにあります。聖書は証言します、「兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。わたしは、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりびとりに言う。思うべき限度を越えて思いあがることなく、むしろ、神が各自に分け与えられた信仰の量りにしたがって、慎み深く思うべきである」(ローマ手紙12:1-3。私たち自身のからだと生活を、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげる。それが、私たちがなすべき霊的な礼拝である。「あなたがたは、この世と妥協してはならない」。この世と妥協するとは、「この世界のやり方や考え方、社会習慣などと同じ形になる」ということです。それでは、どういう形になるのかというと『キリストの形』になる、ということです。そのことが、ここで具体的に実践的にはっきりと説き明かされています。「心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知る」ことこそが、『キリストのかたち』であり、失われつづけていた『神のかたち』が救い主イエス・キリストを信じる信仰によって、私たちのうちに再び形づくられ、回復されるということです。こども説教で少し前に話しましたが、創世記1章26節で、「神のかたちに人を造る」と知らされていました。「神のかたち」とは、「神を信じて、神の御心にかなって生きることができる」という意味です。木の実を食べて、神に逆らったとき、「神のかたち」が壊されてしまいました。聖書は証言します、「救い主イエスこそが私たちのための神のかたちである。この方によってサタンが打ち砕かれる。また、この救い主イエスを信じる信仰によって、この私たちの中に『神を信じて、神の御心にかなって生きること』(=神のかたち)がふたたび回復される」(コロサイ3:10「造り主のかたちに従って新しくされ」,エペソ4:20-24,ピリピ2:6「キリストは神のかたちであられたが」,ローマ8:29「御子のかたちに似たものにしようと」『やがて救い主イエスによって~神のかたちが回復される』2021,10,10と。