みことば/2021,11,28(待降節第1主日の礼拝) № 347
◎礼拝説教 ルカ福音書 21:20-28
日本キリスト教会 上田教会
『救いが近づいている』
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC)
21:20 エルサレムが軍隊に包囲されるのを見たならば、そのときは、その滅亡が近づいたとさとりなさい。21 そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げよ。市中にいる者は、そこから出て行くがよい。また、いなかにいる者は市内にはいってはいけない。22 それは、聖書にしるされたすべての事が実現する刑罰の日であるからだ。23 その日には、身重の女と乳飲み子をもつ女とは、不幸である。地上には大きな苦難があり、この民にはみ怒りが臨み、24 彼らはつるぎの刃に倒れ、また捕えられて諸国へ引きゆかれるであろう。そしてエルサレムは、異邦人の時期が満ちるまで、彼らに踏みにじられているであろう。25 また日と月と星とに、しるしが現れるであろう。そして、地上では、諸国民が悩み、海と大波とのとどろきにおじ惑い、26 人々は世界に起ろうとする事を思い、恐怖と不安で気絶するであろう。もろもろの天体が揺り動かされるからである。27 そのとき、大いなる力と栄光とをもって、人の子が雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。28 これらの事が起りはじめたら、身を起し頭をもたげなさい。あなたがたの救が近づいているのだから」。(ルカ福音書 21:20-28)
15:20 しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。21 それは、死がひとりの人によってきたのだから、死人の復活もまた、ひとりの人によってこなければならない。22
アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように、キリストにあってすべての人が生かされるのである。23 ただ、各自はそれぞれの順序に従わねばならない。最初はキリスト、次に、主の来臨に際してキリストに属する者たち、24
それから終末となって、その時に、キリストはすべての君たち、すべての権威と権力とを打ち滅ぼして、国を父なる神に渡されるのである。25 なぜなら、キリストはあらゆる敵をその足もとに置く時までは、支配を続けることになっているからである。 (1コリント手紙
15:20-25)
まず20-24節、「エルサレムが軍隊に包囲されるのを見たならば、そのときは、その滅亡が近づいたとさとりなさい。そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げよ。市中にいる者は、そこから出て行くがよい。また、いなかにいる者は市内にはいってはいけない。それは、聖書にしるされたすべての事が実現する刑罰の日であるからだ。その日には、身重の女と乳飲み子をもつ女とは、不幸である。地上には大きな苦難があり、この民にはみ怒りが臨み、彼らはつるぎの刃に倒れ、また捕えられて諸国へ引きゆかれるであろう。そしてエルサレムは、異邦人の時期が満ちるまで、彼らに踏みにじられているであろう」。ここで、救い主イエスによって預言されている出来事は、第一には、ローマ帝国によってエルサレムの都が奪い取られる日のことです。実際に西暦66年にはユダヤ戦争が勃発し、ユダヤ人はエルサレムに拠って抵抗したものの、4年後の70年にはエルサレムの城塞都市は陥落した。これ以後、ローマ軍団がエルサレムの都に駐屯するようになり、都にはユダヤ人の居住は禁止された。多くのユダヤ人たちはエルサレムを追われ、世界各地に散らされて住む(ディアスポラ)ことになりました。長い間、神がそこに住まう場所として尊ばれつづけた都が敵の手に落ちます。その様子が、あらかじめ救い主イエスによってくわしく報告されています。まるでご自身がその場にいて、自分の目で一つ一つをはっきりと見てきたかのように。そのとき子供を身ごもっており、あるいは小さな赤ちゃんを抱えたお母さんたちは窮地に立たされます。兵隊たちの剣によって殺され、倒れる者たちがおり、大勢の者たちが捕虜にされて諸国に連れ去られます。そして、国は支配者たちによって徹底的に踏みにじられます。およそ40年後にその町や国にどんなことが起こるのかを告げ知らせるのは、もちろん人間の能力を遥かに越えています。預言者イザヤの口を用いて神が告げていました、「わたしは神である、わたしと等しい者はない。わたしは終りの事を初めから告げ、まだなされない事を昔から告げて言う、『わたしの計りごとは必ず成り、わが目的をことごとくなし遂げる』と」(イザヤ書46:9-10)。
この預言は、エルサレムの都がローマ帝国の手に落ちる日のことを告げ、しかも同時に、世界の終わりの日のことを私たちに告げ知らせています。つまり、救い主イエスご自身がふたたび来られる、世界の終わりの審判の日についてです。救い主イエスが、すべてをすっかりご存知であられます。そのことを、神を信じて生きるすべてのクリスチャンは自分の心にしっかりと留めておかなければなりません。過ぎ去った過去のことも、今のことも、やがて来る日々についても、このお独りの方の目には、なにもかもがはっきりと知られています。若い頃から今まで、自分自身がどのように生きてきたのかを思い起こすことができれば、この私たちは、慎み深く謙遜にされ、へりくだることができます。いま現在、自分がどんなに不確かで危うく、もろい存在かと気づくなら、私たちは心細くなり、「では、どうやっていきていこうか」と真剣に思い巡らせ始めます。災いや大きな試練、苦難の日々がこの自分にも近づいて来ていると気づくなら、私たちの心は揺さぶられます。けれどなお、救い主イエスを信じるクリスチャンにとっては、『このお独りのお方が世界に対しても、私たちと家族の生涯についても、すべてをすっかり知っていてくださる』と思い起こすことができるなら、そこに強い確かな慰めと支えを見出すことができます。十分に救い主イエスに信頼を寄せることができるなら、この私たちもまた、『立ち返って、落ち着いているならば救われ、穏やかにして信頼しているならば力を得る』(イザヤ書30:15)ことができます。
21節、「そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げよ。市中にいる者は、そこから出て行くがよい。また、いなかにいる者は市内にはいってはいけない」。危険が迫るとき、あなたはそこから逃れ出なさい、と教えられています。山へ逃げなさい。その町から外へ出て行きなさい。その町の中へ入ってはいけないと。危険が迫るとき、そこから逃れ出で身を守ろうと精一杯に努力することは臆病なのではありません。そうする価値があります。
22節。それは、「聖書にしるされたすべての事が実現する刑罰の日」だと告げられました。神の民とされた者たちが神を侮り、神に背きつづけた罪の結果であり、神がご自身の民を処罰しているのだと。私たちの信仰の先祖たちは、不信仰と強情さのために、何百年もの間ずっと、神の怒りを自分の頭の上にわざわざ積み上げ続けていたからです。
25-28節、「また日と月と星とに、しるしが現れるであろう。そして、地上では、諸国民が悩み、海と大波とのとどろきにおじ惑い、人々は世界に起ろうとする事を思い、恐怖と不安で気絶するであろう。もろもろの天体が揺り動かされるからである。そのとき、大いなる力と栄光とをもって、人の子が雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。これらの事が起りはじめたら、身を起し頭をもたげなさい。あなたがたの救が近づいているのだから」。裁きと救いをもたらすために、救い主イエスがふたたびこの世界に降りて来られます。そのとき、迫りくる神の怒りからすでに救われている者たちは幸いです。しかも、それはこの私たちのことです。わたしたちがまだ弱かったころ、キリストは、不信心な私たちのために死んで下さった。まだ神に逆らい、神を侮る罪人であった時、そのわたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたからです。わたしたちは、キリストの血によって今は義とされているのだから、なおさら、彼によって神の怒りから救われるからです。もし、わたしたちが敵であった時でさえ、御子の死によって神との和解を受けたとすれば、和解を受けている今は、なおさら、彼のいのちによって救われるからです。しかも、そればかりではなく、わたしたちは、今や和解を得させて下さったわたしたちの主イエス・キリストによって、神を喜びつつ日々を生きることができる者たちとされているからです(ローマ手紙5:6-11参照)。しかも私たちは、この世界と私たちの罪を取り除くために来られた神の小羊、救い主イエスの、その十字架の上で流された尊い血によって洗い清められた者たちだからです。だから、その日には、私たちは喜び祝うことが出来ます。
讃美歌94番は、「ずいぶん長い間、待ち望んできました。救い主イエスよ、どうぞ早く来てくださって、あなたの民である私たちを縛り付けている太い縄をほどいて、私たちを解き放ってください。捕らわれているあなたの民を解き放ってください」と歌いつづけています。あなたの民の縄目(なわめ=罪人として縄をかけられ、捕まること)。それは、テレビの時代劇などで、罪人が太いロープでグルグル巻きにされて市中を引き回しにされる処罰のシーンです。あの太いロープのグルグル巻きを思い浮かべてみてください。それが、縄目です。神の民は罪と悲惨の太いロープにグルグル巻きにされ、捕らわれている。自分自身でも、他の誰によっても、その縛りつけるロープから自由になることができませんでした。救い主イエスこそが、私たちを解き放ってくださると確信し、この主に向かって呼ばわっています、「救い主イエスよ。どうか早く来て、私たちを罪の支配から解き放ってください」と。
『いつ、救い主イエスは来るのか、来たのか。何回くらい来るのか』。最初のクリスマスの季節に来たし、終わりの日に世界を完成させる審判者として来られると私たちは教えられ、習い覚えてきました。いいえ、それだけではなく、礼拝の度毎に主イエスはそこに来て、確かに私たちと共にいてくださる。礼拝の時ばかりではなく、2人また3人が主イエスの御名によって集まるとき、主イエスご自身もまたそこにいてくださる。マタイ福音書の末尾、28:18以下、復活の主イエスが弟子たちを世界宣教へと送り出されるとき、こう仰いました。「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マタイ福音書28:18-20)。いつも共にいてくださる、いつも来てくださる。それが、変わることのない約束でありつづけます。主よ、来てください。来てください。コリント手紙(1)16章末尾に「マラナ・タ」、主よ来てください、われらの主よ来りませと記されています。これが、クリスマスの季節だけではなくて、年中とおして生涯ずっと、クリスチャンが大切に抱えつづける心です。必ず来てくださるし、いつも共にいるのだと何度も何度も約束してくださっています。
そもそもの最初から、世の初めから、独り子なる神イエス・キリストが生きて働いておられました。その主イエスが弟子たちに、勝利の言葉を語りかけました。ヨハネ福音書16:33です。「これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」(ヨハネ福音書16:33)。本当にそうです。山ほどの苦難と悲しみと思い煩いの中に埋もれて、私たちは朝から晩までいらぬ心配をしつづけています。安心とはほど遠い所にいつづけます。主を待ち望む心を、なんとかして再び取り戻したい。主よ来てください。主よ来てくださいと。すでに私たちの目の前に来てくださっている主に気づき、驚いてハッと目を凝らす私たちでありたい。主が、私たちと共に、いつも、ここにおられます。そのことに信頼し、耳を傾けて聴き従う私たちでありたいのです。
(終りのとき③/全4回)
いのちと平和の与え主であられる神さま。
救い主イエスのお生まれを祝う季節を迎えています。待ち望み、御子を私たちの主として迎え入れるための備えをさせてください。
世界中で、多くの人々が互いに憎み合ったり、相手を押しのけて排除したり、傷つけたり殺し合ったりしています。虐げられ、身を屈めさせられて心細く暮らす人々を、どうか憐れんでください。この私たち自身も、普段の暮らしの中で小さな争いやいがみ合いの中にしばしば巻き込まれて暮らしています。この私たち一人一人もまた、生まれながらの怒りの子でであるからです。自分を正しいと強く言い立てる性分を強く抱えるものたちだからです。ですから私たちは日毎に3つのことを、あなたに願い求めます。神さまのお働きとその御心をはっきりと見ることができますように。神さまを心の底から愛し、隣人や家族を愛し、尊び、思いやることができますように。神さまの御心にかなって生きることを願いつづけ、神さまに近づいてゆくことができますように。
神を信じて生きる私たちのためには、すべての信頼を神さまに置いて、その御意思と御心に聞き従って、どこで何をしていてもそこでそのようにして神様に仕えて生きることができるように。どんな苦しみや悩みや辛さの只中にあっても、そこで神様に呼ばわって、救いとすべての幸いを神の中に求めつづける私たちであらせてください。
主イエスのお名前によって祈ります。アーメン