2021年10月26日火曜日

10/24「生きている者のための神」ルカ20:27-40

             みことば/2021,10,24(主日礼拝)  342

◎礼拝説教 ルカ福音書 20:27-40            日本キリスト教会 上田教会

『生きている者のための神』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

20:27 復活ということはないと言い張っていたサドカイ人のある者たちが、イエスに近寄ってきて質問した、28 「先生、モーセは、わたしたちのためにこう書いています、『もしある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだなら、弟はこの女をめとって、兄のために子をもうけねばならない』。29 ところで、ここに七人の兄弟がいました。長男は妻をめとりましたが、子がなくて死に、30 そして次男、三男と、次々に、その女をめとり、31 七人とも同様に、子をもうけずに死にました。32 のちに、その女も死にました。33 さて、復活の時には、この女は七人のうち、だれの妻になるのですか。七人とも彼女を妻にしたのですが」。34 イエスは彼らに言われた、「この世の子らは、めとったり、とついだりするが、35 かの世にはいって死人からの復活にあずかるにふさわしい者たちは、めとったり、とついだりすることはない。36 彼らは天使に等しいものであり、また復活にあずかるゆえに、神の子でもあるので、もう死ぬことはあり得ないからである。37 死人がよみがえることは、モーセも柴の篇で、主を『アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神』と呼んで、これを示した。38 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である。人はみな神に生きるものだからである」。39 律法学者のうちのある人々が答えて言った、「先生、仰せのとおりです」。40 彼らはそれ以上何もあえて問いかけようとしなかった。ルカ福音書 20:27-40

 

 15:12 さて、キリストは死人の中からよみがえったのだと宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死人の復活などはないと言っているのは、どうしたことか。……16 もし死人がよみがえらないなら、キリストもよみがえらなかったであろう。17 もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり、あなたがたは、いまなお罪の中にいることになろう。18 そうだとすると、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのである。19 もしわたしたちが、この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば、わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在となる。20 しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。(1コリント手紙15:12-20)

当時の社会では、ユダヤ教徒には大きな勢力を持つ2つのグループがありました。サドカイ派の人々とパリサイ派の人々。サドカイ派の人々は「死人がよみがえることはない」教えられ、そう信じていました。パリサイ派の人々は「死人がよみがえる。死者の復活がある」と教えられ、そう信じていました。けれど、サドカイ派の人々を悪く言うことは出来ません。

なぜなら旧約聖書の中で、死人がよみがえることをはっきりと証言している箇所はごくわずかしかありません(ダニエル書12:1-2,イザヤ書26:19,ヨブ記19:25-27。旧約聖書の教えの大多数は、「死人がよみがえることはない」と告げています(詩115:17「死んだ者も、音なき所に下る者も、主をほめたたえることはない」)しかも彼らは真理を知るための確かな知識の根拠として旧約聖書しか持っておらず、救い主イエスの死と復活さえまだ知りません。ですから、この点について彼らには落ち度がほとんどありません。死人がよみがえることをはっきりと信じるためには、死んで復活した救い主イエスを信じる必要があり、その信仰によって新約聖書の証言に耳をよく傾けなければならないからです。しかも救い主イエスを信じるためには、神ご自身の助けと導きとがどうしても必要です(1コリント12:3「聖霊によらなければだれも『イエスは主である』と言うことができない」,ヨハネ6:44,65「父が与えてくださった者でなければ、わたしに来ることができない」)

 

まず27-33節。サドカイ人たちが復活ということはないと言い張っていたのは、そのように教えられ、そのように習い覚えてきたからです。「もし死んで生き返るなら、何度も何度も再婚して7人の夫をもった妻は、生き返ってから、どの夫と、どういう生活を送ることになるのか」などと言い出して、主イエスをやり込めようとします。

34-40節、「イエスは彼らに言われた、『この世の子らは、めとったり、とついだりするが、かの世にはいって死人からの復活にあずかるにふさわしい者たちは、めとったり、とついだりすることはない。彼らは天使に等しいものであり、また復活にあずかるゆえに、神の子でもあるので、もう死ぬことはあり得ないからである。死人がよみがえることは、モーセも柴の篇で、主を『アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神』と呼んで、これを示した。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である。人はみな神に生きるものだからである』。律法学者のうちのある人々が答えて言った、『先生、仰せのとおりです』。彼らはそれ以上何もあえて問いかけようとしなかった」。その新しい人間関係・夫婦や家族の関係については、私たちはあまり十分には理解できず、はっきりとは思い浮かべることができないかも知れません。けれどなにしろ主イエスがそう仰るので、そのまま受け入れます。すっかり丸ごと、お任せして、言われるとおりにそのまま信じて聞き従います。「主であられます神」と言い習わしつづけてきました。「イエスこそ主であり、私たちは主人に仕えるしもべであり弟子たちである」と習い覚えつづけてきました。それは、このことです。

37-38節は少し難しいです。「死人がよみがえることは、モーセも柴の篇(出エジプト記3:6,16で、主を『アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神』と呼んで、これを示した。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である。人はみな神に生きるものだからである」。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神。しかも、もし万一、アブラハム、イサク、ヤコブらが死んでしまったままであるならば、「アブラハム、イサク、ヤコブらが生きていた間には、あの彼らのための神だったが、彼らは死んでしまったので、もう彼らの神ではなく、彼らのための神としての役割は終わった」などと仰ったでしょう。この私たち自身も、神さまが決めておられるあり方と順番で、やがて次々と必ず死んでいきます。けれど、死んで、それで終わりではない。死んだあとにも、私たちの生命はつづく。そのことは、よくよく分かっている必要があります。実は、クリスチャンの中にも、あのサドカイ人たちと同じようなことを言い出して仲間たちを惑わせる者たちがいました。しかも使徒パウロによって養い育てられたはずの、あのコリント教会の中にです。またテサロニケ教会でも、死んだあとのことについてあまりよく分からずに、心細くなったり悩んだり困ったりする兄弟姉妹たちが多くいました。そういうわけでコリント人への第一の手紙15章の全体は、とくに復活の希望について詳しく説き明かし続けています。15:12-20、「さて、キリストは死人の中からよみがえったのだと宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死人の復活などはないと言っているのは、どうしたことか。もし死人の復活がないならば、キリストもよみがえらなかったであろう。もしキリストがよみがえらなかったとしたら、わたしたちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もまたむなしい。・・・・・・もし死人がよみがえらないなら、キリストもよみがえらなかったであろう。もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり、あなたがたは、いまなお罪の中にいることになろう。そうだとすると、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのである。もしわたしたちが、この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば、わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在となる。しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである」。聖書の神を信じて生きる者たちにとって、ここが最も大きな分かれ道となります。死者の復活を本気で心底から信じることができるのかどうか。救い主イエス・キリストが死んで三日目に墓からよみがえったように、この私自身も、決して、死んでそれで終わりではなく、さらにその先へと生命がつづく。神の御前に生きる新しい生命を、神さまご自身がこの私のためにも必ずきっと成し遂げてくださる。そのことを信じられるのかどうか。

ただこの世の生活の中でだけ、ただ頭の中でだけ信じているだけなら、「わたしたちはすべての人の中で最も惨めな、あわれむべき者」だと聖書は語ります。あなた自身は何をどう信じているのか、と問われています。救い主イエス・キリストは復活したのか、しなかったのかと。復活したのなら、このお独りの方を『初穂』として、私たちもまた新しい生命に生きることになる。私たちは、キリストに望みをかけている。その望みは、どこにまで及ぶでしょう。自分自身で答えねばなりません。聖書の別の箇所は、(テサロニケ手紙(1)4:13-14「兄弟たちよ。眠っている人々については、無知でいてもらいたくない。望みを持たない外の人々のように、あなたがたが悲しむことのないためである。わたしたちが信じているように、イエスが死んで復活されたからには、同様に神はイエスにあって眠っている人々をも、イエスと一緒に導き出して下さるであろう」。いつまでも好きなだけ生きるように、とは定められていません。例外なく、誰もが死ぬし、その時やあり方を自分自身では選べません。「はい。分かりました」と受け入れるほかありません。かつて土の塵から造られ、鼻に命の息を吹き入れられて生きる者とされた私たちです。そのように、「土から造られたあなたは、やがて土に還れ」(創世記2:7,90:3)と命じられています。やがていつか、あなたの愛する連れ合いや子供たちがこのことを腹に収めることができる日が来るでしょうか。いいえ、その前に、この私たち自身こそが。限りある、一回だけの人生であり、だからこそそれを惜しみながら魂に刻みながら、1日1日と精一杯に生きるのです。「日毎の糧を、主よ、どうか今日もお与えください。贈り与えてくださってありがとうございます」と。その日毎の糧の中に、1日分ずつの生命も入っています。さて、『死んで、それで終わりじゃない』という確かな希望をあなたも私も聞き届けてきたし、必要なだけ十分に知らされてきました。もし、その希望を思い起こせないなら、私たちも他の人々同様にただただ嘆き悲しむ他ありません。告げられ、そして信じてきた中身は、「わたしたちが信じているように、イエスが死んで復活されたからには、同様に神はイエスにあって眠っている人々をも、イエスと一緒に導き出して下さる」ということです。主と共にいる。目覚めていても眠っていても、生きていても死んだあとでも。元気ハツラツとした日々にも、そうでもない日々にも。しかも、『共にいる主』はただ共にいるというだけではなく、私たちを顧み、私たちのためにも良い業を成し遂げようと生きて働いておられる主です。主とは、最後の最後まで責任を負いとおしてくださる方、という意味です。

聖書と救い主イエスご自身は証言します、(ヨハネ福音書14:1-7「『あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。……わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。もしあなたがたがわたしを知っていたならば、わたしの父をも知ったであろう。しかし、今は父を知っており、またすでに父を見たのである』」。はっきりしたことが明確に語られていました。「わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである」と主イエスは、私たちのためにも、あなたの愛する連れ合いや家族皆のためにも仰ったし、はっきりと約束してくださいました。心が騒ぐし、たびたびザワザワと波立ちます。だからこそ主イエスを、この言葉を心底から信じて、なんとしてでも、魂に深々と刻み込む必要があります。なぜなら、「自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、ついにとうとう、あなたは救われる」(ローマ手紙10:9参照)からです。

 

 


10/24こども説教「なぜ怒るのか?」(後篇)創世記4:3-16

10/24 こども説教 創世記 4:3-16              

『なぜ怒るのか?』(後篇)

 

4:6 そこで主はカインに言われた、「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。……8 カインは弟アベルに言った、「さあ、野原へ行こう」。彼らが野にいたとき、カインは弟アベルに立ちかかって、これを殺した。9 主はカインに言われた、「弟アベルは、どこにいますか」。カインは答えた、「知りません。わたしが弟の番人でしょうか」。10 主は言われた、「あなたは何をしたのです。あなたの弟の血の声が土の中からわたしに叫んでいます。11 今あなたはのろわれてこの土地を離れなければなりません。この土地が口をあけて、あなたの手から弟の血を受けたからです。12 あなたが土地を耕しても、土地は、もはやあなたのために実を結びません。あなたは地上の放浪者となるでしょう」。13 カインは主に言った、「わたしの罰は重くて負いきれません14 あなたは、きょう、わたしを地のおもてから追放されました。わたしはあなたを離れて、地上の放浪者とならねばなりません。わたしを見付ける人はだれでもわたしを殺すでしょう」。15 主はカインに言われた、「いや、そうではない。だれでもカインを殺す者は七倍の復讐を受けるでしょう」。そして主はカインを見付ける者が、だれも彼を打ち殺すことのないように、彼に一つのしるしをつけられた。         (創世記 4:3-15

 

 

 【こども説教】

 兄のカインと弟のアベルは、それぞれ神さまに捧げものをささげました。神さまは弟の捧げものは喜んで受け取ってくださったのに、兄さんからのささげものを喜びませんでした。それで、兄さんは弟のことが妬ましくなりました。神さまに対してとても腹を立て、神の顔を見ることが出来ず、自分の顔を地面に伏せました。

 聖書の中で神が人間に質問しているとき、よく気をつけていなければなりません。何でも知っている神がわざわざ質問しているからです。その質問で、いつも、神さまがその人に大切なことに気づかせようとしています。まず6節でカインに、「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか」と質問しています。本当は、それは神さまへの感謝のささげものだったはずでした。腹を立てる前から、そのささげものは神への感謝ではなくなり、誉められたり、認められるための道具や手段になりさがっていました。神への感謝の心とはずいぶん違うものにすり替わっていました。神から顔を背けたとき、神さまは兄さんに、「危ない。気をつけるんだよ」と知らせてあげようとしていました。神に背く罪の心が荒々しい獣のように、あなたを待ち伏せしている。恐ろしい罪の力に飲み込まれ、喰い尽くされてしまいますよと。

 ささげものをし、神の御声を聴いた礼拝の帰り道、カインはアベルを殺してしまいました。そこで、神からの2つめの質問、9-10節、「弟アベルは、どこにいますか。あなたは何をしたのです」。共に生きる兄弟姉妹や隣人や友達が安心して生きていくことのために、私たちには責任があります。「わたしの罰は重くて負いきれません」と悲しみ嘆くカインを神さまはとても可哀そうに思って、カインが生きていくことが出来るように『しるし』をつけてあげました。神が彼を可哀そうに思って、必ずきっと守ってくださるというしるしです。

 

 

【大人のための留意点 ①②】

(1)9節「あなたの弟はどこにいますか」

「知りません。わたしが弟の番人でしょうか」;神に顔をあげなかったカインは、弟を知らないと言う人間になっていきます。助け手なしには生きていくことのできない人間が、共に生きるべき兄弟・隣人を失い、ひいては自己の存在自体を破綻させていきます(高松牧人『旧約聖書に聴く。原初史が語る人間と世界(6)』福音時報 2021年6月号)

(2)15節「しるし」;確かなことは、それが神の忍耐と憐みのしるしであること。(そのしるしは)殺人者の立場に身をお置きになったなった方のしるしであったとしても不思議ではない。かれ(十字架につけられた方)はカインの弟殺しを贖われる。われわれのうちなるカインにまさる方、世界の歴史と教会の歴史の中にいるカインにまさる方がおられる。それゆえに、カインのしるしは十字架のしるしです。Wリュティ創世記講解説教『アダム』該当箇所)

 そう、救い主イエスの御人格と御業によって、私たちに対する神の忍耐と憐みを知り、ついに私たちは神ご自身を知る(ヨハネ1:18「ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである」,14:9-10「わたしを見た者は、父を見たのである」)











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2021年10月18日月曜日

10/17「神のものは神に返しなさい」ルカ20:19-26

           みことば/2021,10,17(主日礼拝)  341

◎礼拝説教 ルカ福音書 20:19-26         日本キリスト教会 上田教会

『神のものは神に返しなさい』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC 

20:19 このとき、律法学者たちや祭司長たちはイエスに手をかけようと思ったが、民衆を恐れた。いまの譬が自分たちに当てて語られたのだと、悟ったからである。20 そこで、彼らは機会をうかがい、義人を装うまわし者どもを送って、イエスを総督の支配と権威とに引き渡すため、その言葉じりを捕えさせようとした。21 彼らは尋ねて言った、「先生、わたしたちは、あなたの語り教えられることが正しく、また、あなたは分け隔てをなさらず、真理に基いて神の道を教えておられることを、承知しています。22 ところで、カイザルに貢を納めてよいでしょうか、いけないでしょうか」。23 イエスは彼らの悪巧みを見破って言われた、24 「デナリを見せなさい。それにあるのは、だれの肖像、だれの記号なのか」。「カイザルのです」と、彼らが答えた。25 するとイエスは彼らに言われた、「それなら、カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」。26 そこで彼らは、民衆の前でイエスの言葉じりを捕えることができず、その答えに驚嘆して、黙ってしまった。ルカ福音書 20:19-26

 

11:3 わたしたちの日ごとの食物を、日々お与えください。ルカ福音書 11:3

 

8:3 それで主はあなたを苦しめ、あなたを飢えさせ、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナをもって、あなたを養われた。人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きることをあなたに知らせるためであった。4 この四十年の間、あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれなかった。……17 あなたは心のうちに『自分の力と自分の手の働きで、わたしはこの富を得た』と言ってはならない。18 あなたはあなたの神、主を覚えなければならない。主はあなたの先祖たちに誓われた契約を今日のように行うために、あなたに富を得る力を与えられるからである。                                       (申命記 8:3-18)


主イエスの敵対者たちが近づいてきます。言葉尻をとらえて主を捕まえようとして、こう質問します。22節、「ところで、カイザル(=ローマ皇帝)に貢ぎ(=この国を支配しているローマ帝国への税金)を納めてよいでしょうか、いけないでしょうか」。つまり私たちがローマ皇帝に税金を納めるこのは、神の律法にかなっているだろうか。かなっていないだろうかと。主イエスの弟子とされた私たちもまた、しばしばまったく同じ難しい質問を突きつけられます。当時、この国は強大なローマ帝国に支配され、その植民地とされて、首根っこを押さえ込まれていました。当時のユダヤ人たちは税金をローマ帝国に納めることは間違っていると十分に分かりながら、嫌々渋々と納めつづけ、その税金を取り立てる取税人を「罪人。裏切り者」と言って軽蔑し、憎みました。八つ当たりでした。本当は、支配者であるローマ帝国に腹を立てていたのですし、言いなりにされ身を屈めさせられている自分たち自身のふがいなさを軽蔑し、憎みたかった。この同じ憎しみと怒りが、主イエスに向かって今にも燃え上がろうとしていました。

24節。主イエスは、自分の手に持っている銀貨を出して確かめてみなさいと命じます。それは勿論、ローマ帝国銀行発行の銀貨です。「それにあるのは、誰の肖像、誰の記号なのか」。彼らは「カイザル(=ローマ皇帝)のです」と答えます。「それなら、カイザルのものはカイザル皇に。神のものは神に返しなさい」。

この地上の私たちの周囲には、いまや多種多様の大小様々な権威が立てられています。国には大統領や政府や総理大臣が立てられ、あるいは王様や天皇陛下が立てられました。都道府県や町や村には、県知事や村長や議会やその議員たちが立てられました。学校には校長や教頭や主任たちが立てられました。それぞれの町内会には、世話役が立てられました。それぞれの職場には管理職や上司がいます。一軒の家にも、お父さんお母さんがいます。一家の主人がおり、親戚のものたちがおり、共に暮す家族がいます。小学生や幼稚園児たちの中にさえ、他の仲間たちよりほんのちょっと強くて賢いボスがいて、まるで皇帝のように「あれをしろ。これはしちゃいけない」と指図し、思いのままに自分より小さく弱そうに見える他の子たちを操ろうとします。そんなふうにして大きな皇帝がおり、中くらいの皇帝がおり、すごく小さな皇帝たちもウジャウジャいて互いに命令したりされたり、従わせたり従ったりして、私たちの上に現実的な権威と影響力を持っています。困りました。私たちは、その大小様々な皇帝たちとの共存の仕方を問われつづけています。彼らの権威と影響力のどこからどこまでを受け入れ、どこをどう退けるべきか。どこを認め、どこをどう拒むことができるか。そして、私たち自身の何を大切にし、何を捨て去り、何にこだわり、何を明け渡してよいのかと。

ここで私たち全員は、ではそれならば、《神に返すべき神ご自身のもの》とは一体何なのかと問われます。それぞれ、自分の手の中に持っている豊かなものの一つ一つを吟味し、よくよく検討し、《神に返すべき、神ご自身のもの。神からのもの》を自分自身で見極めなければなりません。神ご自身の栄光は、神に返されねばなりません。神が感謝され、神こそが信頼を寄せられ、神がほめたたえられること。例えば、主の祈りは「御名をあがめさせてください」と祈り求め、「国と力と栄光とは限りなく、つまり何から何まで全部あなたのものだからです」と讃美しました。神に信頼と感謝を寄せること。神をこそ尊び、神に聞き従うこと。神にこそ願い求めること。それは義務である以上に、私たちが生きて死ぬことにとって生命線でありつづけます。私たちを心強く晴れ晴れとして生かしてくれる肝心要です。《この世の務めや責任を果たすこと》と《神のものを神に返すこと》とが対立し、矛盾することが度々あります。どちらかを選び取り、他方を後回しにし、退けねばならない時があります。

さて、主イエスが教えてくださったあの大切な祈り、主の祈りの中の第4の祈願です。「私たちに必要な毎日の糧を、どうぞ今日も与えてください」と私たちは祈ります。その願いは何でしょうか。「私たちに必要な毎日の糧。それは霊的な、とても高級な糧のことだろう」と推測した人々がいました。まさか、私たちが毎日食べるあのパンや米や味噌などといった取るに足りない、小さくささいなもののことではないだろうと。いいえ、とんでもない。違います。私たちの生活のすべての領域が、小さなことから大きなことまで、ごくささいなことから深刻で重大なことまですべて一切が、神の恵みのご支配の下に据え置かれています。そのことを弁えておくようにと命じられています。

「必要な糧を今日も」と願い求めるとき、私たちが生きることと死ぬことの一切がただ神にかかっていることに気づかされ、直面させられます。私たちの必要を満たすことのできるのは、ただ、ひとえに神さまだったのです。《日毎の糧》は、元々は戦いに出た兵隊たちに支給される1人分1日分の携帯食料のことを言い表しました。3人分4人分まとめてではなく、3日分4日分まとめてではなく、1人分ずつ1日分ずつ支給されます。そのように、私たちの必要が満たされることの一つ一つがまったく神にこそ依存しています。ほんの少し前の時代には、こういう事情について、人々はもっと敏感だったかも知れません。長雨や日照りや害虫の発生に悩まされる度毎に、空を見て、地面に目をこらしながら、彼らは「よい収穫を与えてください。どうか、よろしくお願いします」と神に願い求めました。生活の糧と生きる基盤とがまったく神ご自身によって据えられていることを、彼らは、ひしひしと実感することができたのです。今日では、うっかりすると、たとえ神を知り信じてもいるはずのクリスチャンであっても、神の力よりも人間の力にばかり目を奪われてしまうかも知れません。神さまに感謝や信頼が寄せられ権威をもっていてくださることよりも、自分自身や周囲の誰彼の栄光や権威にばかり心を惑わされてしまうかも知れません。それは、ありえます。それをこそ私たちは恐れ、十分に警戒しなければなりません。「米や味噌や生活費のことまで神に願い求めなくたって、私は困らない。そんなことまで神さまの世話になるつもりはない」と思う人がいるかも知れません。食べることや生活することくらい自分でやっている、と。自分で働いて生活費を稼いで、それで米と味噌を買っている。この家を建てたのも自分の甲斐性だし、毎月のローンを支払っているのも自分だし、家賃や光熱費を支払っているのも自分だしと。じゃあ、それなら、どういう領域の何について、あなたは神さまの世話になっているのかと問われて、私たちは何と答えましょう。

思い出しましょう。エジプトの奴隷の家から連れ出されたとき、荒れ野をゆく旅路がはじまってほんの数ヶ月で私たちが不平不満をつぶやきはじめたとき、主なる神は、私たちにこうおっしゃいました;「わたしはイスラエルの人々の不平を聞いた。彼らにこう伝えるがよい。『あなたたちは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンを食べて満腹する。あなたたちはこうして、わたしがあなたたちの神、主であることを知るようになる』と」(出エジプト16:12)。あの彼らも私たちも、《神がわたしたちの主である》ことを、度々すっかり忘れました。多くの思い煩いの中で、しなければならない多くのことの間で心が引き裂かれて、神を忘れました。皇帝のものは皇帝に、私のものは私に、あの彼らのものは彼らにと選り分けつづけて返すうちに、気がつくと、いつの間にか《神に返すべき、神ご自身のもの。神からのもの》がとてもとても少なくなってしまいました。さて、私の手の中にあった中の、何と何が神からのものだったか。どこからどこまでが、神ご自身のものだったでしょうか。それとも、神から来たものなど、元々、何一つなかったのでしょうか。この世界は私たち人間の世界でしょうか。私たちが生きて働いている、私たちによる、私たちのための世界だったのでしょうか。思い出すためには、天から降ってくる夕暮れの肉と、天からの朝のパンが必要でした。あの彼らも私たちも、そのようにして神が主であることを知ります。神から与えられた恵みの肉とパンを受け取って、驚いて、食べて、「ありがとうございます」と感謝して、そこで初めて、神が私にとっても主であってくださることを、ああ本当にそうだと知る。つまり、それまでは、あの彼らにも私たちにも、なかなか主を知ることができませんでした。約束の地に入るときを目前にして、モーセが告別の長い説教の中で語りつづけた福音も、ただこの一点でした。あなたの神、主が、あなたを導かれたこの40年の荒れ野の旅を思い起こしなさい;「あなたは食べて満足し、良い土地を与えてくださったことを思って、あなたの神、主をたたえなさい」(申命記8:10)。そうです。あの彼らも私たちも、こうして主をたたえます。食べて満足し、よい土地を与えてくださったことを思うのでなければ、その満足と幸いの一つ一つがただ神さまから贈り与えられたと知るのでなければ、そうでなければ私たちは、神に信頼することも喜びたたえることも、慎み深く聴き従うこともできないでしょう。私たちは晴れ晴れとして働くことができ、それだけでなく、すっかり手離して安心して休むことができます。その理由は、天の御父がこんな私のためにさえ先頭を切って、第一に、生きて働いていてくださるからです。私たちが主を主とする理由も、主が主であってくださることを喜ぶ理由も、ここにあります。

わたしたちの手の中にある一つ一つのものに刻まれている肖像と記号を、改めて確かめてみましょう。あなたの食べる毎日の米と味噌、肉と野菜と魚、月々の生活費、そこにはっきりと《神からの贈り物》と書いてあります。あなたの夫、あなたの妻、子供たち、友人たち、あなたに与えられている仕事や役割、そこにも《神からの恵みの贈り物》と書いてあります。あなたの健康、あなたの1日分ずつの生命、そこにも《神からの贈り物》と書いてあります。不思議なことです。あなたのまとう着物は少しも古びず、擦り切れず、あなたの足がはれることもありませんでした。どうしてでしょう。主によって担われ、支えられ、養われてきたからです。主の口から出るすべての言葉によって生きてきたあなたは、それだけでなく、たしかに現にパンによっても生きてきました。そのパンの一つ一つさえ、主のあわれみと恵みの御手から差し出されてきたものでした(申命記8:3-18参照)。主からのあわれみと恵みと、そして具体的な支えや養いがあって、確かにあって、私たちは今日ここにあるを得ております。なんという恵み、なんという喜びか。

















「晩鐘」ミレー

10/17こども説教「なぜ怒るのか?」創世記4:1-7

10/17 こども説教 創世記 4:1-7              

『なぜ怒るのか?』(前篇)

 

4:1 人はその妻エバを知った。彼女はみごもり、カインを産んで言っ た、「わたしは主によって、ひとりの人を得た」。2 彼女はまた、その弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。3 日がたって、カインは地の産物を持ってきて、主に供え物とした。4 アベルもまた、その群れのういごと肥えたものとを持ってきた。主はアベルとその供え物とを顧みられた。5 しかしカインとその供え物とは顧みられなかったので、カインは大いに憤って、顔を伏せた。6 そこで主はカインに言われた、「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。7 正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」。      (創世記 4:1-7

 

【こども説教】

 アダムとエバ夫婦の二人の息子たちのことです。兄はカイン、弟はアベルという名前です。兄さんと弟は、それぞれ神さまに捧げものをささげました。神さまは弟の捧げものには喜んだのに、兄さんからのささげものを喜びませんでした。兄さんは弟のことが妬ましくなりました。神さまに対してとても腹を立て、神の顔を見ることが出来ず、自分の顔を地面に伏せました。6-7節、「そこで主はカインに言われた、「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」。捧げものの中身や多い少ないによって区別する神ではありません。むしろ、ささげものをし、働きの収穫を差し出しているその人の心の中身を見る神です。喜んでもらえなかったと腹を立てる筋合いではありません。本当は、それは神さまへの感謝のささげものだったはずでした。感謝のささげものであること。それが、一番大切です。腹を立てる前からすでに、そのささげものは神への感謝ではなく、誉められたり、認められるための道具や手段になっていました。神への感謝の心とはずいぶん違うものにすり替わっていました。とても腹を立てたとき、隠してあった心が外にあふれました。神から顔を背けたとき、神さまは兄さんに、「危ない、危ない。気をつけなさい」と警告しています。神に背く罪の心が荒々しい獣のように、あなたを待ち伏せしている。恐ろしい罪の力に飲み込まれ、喰い尽くされてしまいますよと。けれどもちろん、荒々しい獣のような罪の力を抑えつけ、その言いなりにならないようにする力は人間にはありません。神さまがそこから救い出してくださるのでなければ、この私たちは誰でも皆、罪の奴隷にされつづけてしまいます。

 

【大人のための留意点 ①②③】

  1節「主によって、ひとりの人を得た」;詩篇127:3「子供たちは神から賜った嗣業であり、胎の実は報いの賜物」というように、子供たちは『神からの贈り物。祝福』と喜び、神に感謝している。手にしているすべて一切が『神からの贈り物』である。それどころか、この自分自身はもう自分のものではなく、私たちの真実な救い主イエス・キリストのものである(『ハイデルベルグ信仰問答』第1問答 1563)。

②6節「なぜ憤るのか」;カインは、自分が不当な扱いを受けたとして神に向かって激怒し、弟アベルに嫉妬します。……カインが迷い込んだのは、のちに律法学者やファリサイ派の人々、放蕩息子の兄やイスカリオテのユダが陥ったのと同じ場所だったのかも知れません。(高松牧人「旧約聖書に聞く『原初史が語る人間と世界』(6)」福音時報 2021年6月号)

7節「罪を治める」;神がカインに罪を制御するように戒告したとしても、だからといって人間にその能力があると結論付けることはできない。なぜなら、肉の欲が死なされて、人を支配できなくなるのは、聖霊の恵みのほかの何ものにもよらないことが確かだからである。Jカルヴァン「創世記注解」該当箇所)

 

2021年10月13日水曜日

10/12号外葬儀説教「人が独りでいるのは良くない」創世記2:4-18

 

                       2021,10,12 号外

◎葬儀説教 創世記 2:4-18              日本キリスト教会 上田教会

『人が独りでいるのは良くない』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

2:4 これが天地創造の由来である。主なる神が地と天とを造られた時、5 地にはまだ野の木もなく、また野の草もはえていなかった。主なる神が地に雨を降らせず、また土を耕す人もなかったからである。6 しかし地から泉がわきあがって土の全面を潤していた。7 主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。8 主なる神は東のかた、エデンに一つの園を設けて、その造った人をそこに置かれた。9 また主なる神は、見て美しく、食べるに良いすべての木を土からはえさせ、更に園の中央に命の木と、善悪を知る木とをはえさせられた。……15 主なる神は人を連れて行ってエデンの園に置き、これを耕させ、これを守らせられた。16 主なる神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。17 しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。18 また主なる神は言われた、「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」。   創世記 2:4-18


世界が造られた初めのとき、この地上は草一本も生えない荒涼とした不毛の大地だったと報告されます。なぜなら、雨がまだ大地に降り注いでおらず、またその恵みの雨を受けとめて土を耕す人がいなかったからと。雨、そして土を耕す人。造り主なる神は、私たちの予想を裏切って、不思議な仕方でこの問題を解決していかれます。まず空からではなく、地下から水が湧き出て土の面が潤されます。そして土を耕す人を、神は、土の塵をもって形づくります。どうして、土を耕す人を、わざわざ土の塵から形づくったのか? 人は、固い石や鉄やダイヤモンドから造られたのではなく、泥をこねて土の泥によって造られたのでした。それはまったく危うい生き物であり、それぞれに貧しさと欠けと弱さを抱えもち、自分自身の限界に悩む存在だということでしょう。そして面白いことに、耕す人とこの大地とは『土の塵でできている』という大きな共通点をもっています。恵みの雨が降り注いで潤されなければ、また雨を受けとめて土を耕す人がいなければ、この大地は草一本も生えない荒涼として荒れ果てた不毛の土地でありつづけたように、それとまったく同じく、私たち人間にも恵みの雨が降り注いで潤されなければ、また私たちを耕してくれる別の『耕す人』がいてくれなければ、この私たちも草一本も生えない荒涼として荒れ果てた不毛の存在になり果ててしまうということでしょう。恵みの雨、そして私たちを耕し守ってくれる別の働き人。しかもどの1人の働き人も例外なく、石や鉄やダイヤモンドでできた働き人など1人もおらず、皆それぞれに貧しさと欠けと弱さを抱え持った、危うさと限界に悩みつづける働き人たちだったのです。もし手荒に乱暴に扱えば、かんたんに心も体も壊れてしまうほどに脆い存在です。

7節「主なる神は土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」。神が吹き入れてくださった命の息、それは神からの恵みと祝福です。それぞれに貧しさや欠けをもち、いたらなさやふつつかさを山ほど抱え、乏しく危うい存在であり、けれどそれだけでなく神からの祝福を受け、恵みを贈り与えられている。だから生きる者とされた。これが私たち人間の本質です。

18節の言葉はよく知られています。結婚式のときによく語られるし、キリスト教のことをよく知らない人たちでも、この言葉をどこかで耳にします。「人が独りでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」。この18節は、ただそれだけで語られているのではなく、15節からのつながりの中に置かれています。「主なる神は人を連れて行ってエデンの園に置き、これを耕させ、これを守らせられた。主なる神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう』」。そして、だからこそ主なる神は言われるのです。「人が独りでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」と。エデンの園に連れてこられました。何のため? そこを耕し守るためにです。 (1)その土地を耕し守って生きるという使命と役割が与えられたのです。(2)すべての木から取って食べよ、とあまりに気前よく恵みと祝福を与えられました。(3)ただし、『これだけはしてはいけない。慎んで留まれ』と戒めも与えられて。使命と役割。祝福と恵み。そして『これだけはしてはならない』という戒め。しかも土で造られた私たちはあまりに不完全で、未熟でふつつかでした。だからです。だからこそ、人が独りでいるのは良くない。独りではそのその土地を耕して守るという大きな重い務めを担いきれないからです。独りでは、気前よく与えられた祝福と恵みを本当に嬉しく喜び祝うことができないからです。独りでは、『これだけはしてはいけない』という戒めのうちに身を慎んで留まることなどできないからです。助ける者がいてくれるなら、その人はその土地を耕して守りながら生きることができます。その人は祝福と恵みを受け取って喜び祝い、感謝にあふれて生きることができます。助ける者がいてくれるなら、その人々は戒めのうちに身を慎んで留まることができます。

ふさわしく助け合う者の輪が、少しずつ少しずつ広がって大きくなっていきます。2人から3人へ、やがて4人、5人、6人と。さらに10人、20人へと。私たちを助けてくれるふさわしい助け手。それは究極には、主であられる神さまです。神はご自身を信じて生きる者たちのためにこう約束しておられます、「わたしはあなたと共にいて、あなたがどこに行ってもあなたをまもり、あなたを連れ帰る。私は決してあなたを捨てず、あなたに語ったことを行う」(創世記28:15。それぞれに暮らしているその場所が、あなたのためのエデンの園です。心を込めて精一杯に耕し守りなさい。恵みと祝福の実を取って食べなさい。けれど、「これだけはしてはいけない」と戒められていることの内に身を慎んで留まっていなさい。大丈夫、あなたにはできます。神が味方であって下さいます。ふさわしい飛びっきりの助け手がいてくださいますので。救い主イエスが私たちの助け手として、今や私たちの傍らに立っていてくださいますから。

 

【式順序】

招きの言葉  詩篇139篇 8節

讃美歌      12番 ♪めぐみゆたけき主を (1,2節) 

聖書        創世記 24-18節 

葬儀の辞

祈り

讃美歌    355番 ♪主を仰ぎ見れば1,2節)

故人略歴     

頌栄      539番  ♪ああめつち こぞりて 

祝福       申命記 31章8節

 

 当教会では、「葬儀説教」(葬儀の辞)と「故人略歴」とをはっきり区別して扱っています。故人を過度にほめたたえて美化してしまわないために。また、聖書の説き明かしに集中するために。コロナウィルス警戒中でもあり、ごく少人数、また全体で25分程度の短縮版。基本的には、いつもの礼拝と同じです。


2021年10月11日月曜日

10/10こども説教「やがて救い主によってサタンが打ち砕かれ、神のかたちが回復される」創世記3:11-15

 10/10 こども説教 創世記 3:11-15

 やがて救い主によってサタンが打ち砕かれ、

神のかたちが回復される

 

   3:11 神は言われた、「あなたが裸であるのを、だれが知らせたのか。食べるなと、命じておいた木から、あなたは取って食べたのか」。12 人は答えた、「わたしと一緒にしてくださったあの女が、木から取ってくれたので、わたしは食べたのです」。13 そこで主なる神は女に言われた、「あなたは、なんということをしたのです」。女は答えた、「へびがわたしをだましたのです。それでわたしは食べました」。14 主なる神はへびに言われた、「おまえは、この事を、したので、すべての家畜、野のすべての獣のうち、最ものろわれる。おまえは腹で、這いあるき、一生、ちりを食べるであろう。15 わたしは恨みをおく、おまえと女とのあいだに、おまえのすえと女のすえとの間に。彼はおまえのかしらを砕き、おまえは彼のかかとを砕くであろう」。       (創世記 3:11-15

 

 

 【こども説教】

 女をだまして、「食べてはいけない」と神に禁じられていた木の実をその2人に食べさせた「へび」の正体は「サタン」だ、と世々の教会は聞き取ってきました。私たち人間はこうして神に背き、自分自身やお互い同士を苦しめたり困らせたりしてしまう罪の心を抱え、神さまに対しても他の人間たちに対しても、してはいけない悪いことをするようになりました。また、神と人間との良い関係が壊されてしまいました。困りました。やがて神によって成し遂げられる救いが15節であらかじめ告げられます。15節、「わたしは恨みをおく、おまえと女とのあいだに、おまえのすえと女のすえとの間に。彼はおまえのかしらを砕き、おまえは彼のかかとを砕くであろう」。へびの正体はサタンだと言いました。「女のすえ」とは、人間たちの子孫の中から生まれる救い主イエスのことです。このお独りの方こそが、やがてサタンを打ち砕く。

さて1章26節で、「神のかたちに人を造る」と知らされていました。「神のかたち」とは、「神を信じて、神の御心にかなって生きることができる」という意味です。木の実を食べて、神に逆らったとき、「神のかたち」が壊されました。聖書は証言します、「救い主イエスこそが私たちのための神のかたちである。この方によってサタンが打ち砕かれる。また、この救い主イエスを信じる信仰によって、この私たちの中に『神を信じて、神の御心にかなって生きること』(=つまり「神のかたち」)がふたたび回復される」(コロサイ3:10「造り主のかたちに従って新しくされ」,エペソ4:20-24,ピリピ2:6「キリストは神のかたちであられたが」,ローマ8:29「御子のかたちに似たものにしようと」)。 

 

 

 【大人のための留意点 ①②③】

  神のかたち;「神との親しい良い交わり、祈り、神との互いの意思疎通は人間だけに限定されない」と覚えておこう。他のすべての被造物(=神によって造られたもの)もまた、神と心を通じ合えるし、神に折り、神に応答しうる(創世1:31「(すべての物は)はなはだ良かった」,創世7:7-8(生き物たちが来て、箱舟に入った),創世9:10(被造物すべてとの契約),ローマ8:19-22(被造物に、望みが残されている)。もちろん人間は世界の主人ではなく、神に仕えるしもべであり、『人間中心の傲慢な世界観』を捨て去ることが私たちには望まれる(マタイ24:44-51を参照)

  「男と女に造った」を過度に読み込みすぎてはならず、慎み深く熟慮すべき。ある注解者は、「ここは男と女の問題を考える箇所ではない。むしろ世界を考える時の基本形とすべき箇所だ。異なる複数の存在として造った。異なる存在である男女が共に協力して生きて初めて人間だと言われている」(ヴェスターマン発言(p124)「原子力発電と日本社会の岐路」(姜尚中・上山修平、著)と主張する。新しい解釈の余地と可能性がある。LGBTQ(性的少数者)と共に生きる課題、男女の差異や役割の多様性を尊重する課題もある。

  さらに16-19節で、男女はその罪に対する裁きを神から受ける。「出産と労働」には痛みや辛苦を伴うが、そればかりでなく幸いと大きな喜び、恵み溢れる収穫や豊かな贈り物も、そこにある。21節で、着せかけられる「皮の衣」は、神からの保護と慈しみのしるしである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

10/10「主人の一人息子を殺した」ルカ20:9-19

          みことば/2021,10,10(主日礼拝)  340

◎礼拝説教 ルカ福音書 20:9-19      日本キリスト教会 上田教会

『主人の一人息子を殺した』


牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

20:9 そこでイエスは次の譬を民衆に語り出された、「ある人がぶどう園を造って農夫たちに貸し、長い旅に出た。10 季節になったので、農夫たちのところへ、ひとりの僕を送って、ぶどう園の収穫の分け前を出させようとした。ところが、農夫たちは、その僕を袋だたきにし、から手で帰らせた。11 そこで彼はもうひとりの僕を送った。彼らはその僕も袋だたきにし、侮辱を加えて、から手で帰らせた。12 そこで更に三人目の者を送ったが、彼らはこの者も、傷を負わせて追い出した。13 ぶどう園の主人は言った、『どうしようか。そうだ、わたしの愛子をつかわそう。これなら、たぶん敬ってくれるだろう』。14 ところが、農夫たちは彼を見ると、『あれはあと取りだ。あれを殺してしまおう。そうしたら、その財産はわれわれのものになるのだ』と互に話し合い、15 彼をぶどう園の外に追い出して殺した。そのさい、ぶどう園の主人は、彼らをどうするだろうか。16 彼は出てきて、この農夫たちを殺し、ぶどう園を他の人々に与えるであろう」。人々はこれを聞いて、「そんなことがあってはなりません」と言った。17 そこで、イエスは彼らを見つめて言われた、「それでは、『家造りらの捨てた石が隅のかしら石になった』と書いてあるのは、どういうことか。18 すべてその石の上に落ちる者は打ち砕かれ、それがだれかの上に落ちかかるなら、その人はこなみじんにされるであろう」。19 このとき、律法学者たちや祭司長たちはイエスに手をかけようと思ったが、民衆を恐れた。いまの譬が自分たちに当てて語られたのだと、悟ったからである。                       (ルカ福音書 20:9-19

 

118:22 家造りらの捨てた石は隅のかしら石となった。23 これは主のなされた事で、われらの目には驚くべき事である。24 これは主が設けられた日であって、われらはこの日に喜び楽しむであろう。25 主よ、どうぞわれらをお救いください。主よ、どうぞわれらを栄えさせてください。26 主のみ名によってはいる者はさいわいである。われらは主の家からあなたをたたえます。(詩118:22-26)

 9-15節、「そこでイエスは次の譬を民衆に語り出された、「ある人がぶどう園を造って農夫たちに貸し、長い旅に出た。季節になったので、農夫たちのところへ、ひとりの僕を送って、ぶどう園の収穫の分け前を出させようとした。ところが、農夫たちは、その僕を袋だたきにし、から手で帰らせた。そこで彼はもうひとりの僕を送った。彼らはその僕も袋だたきにし、侮辱を加えて、から手で帰らせた。そこで更に三人目の者を送ったが、彼らはこの者も、傷を負わせて追い出した。ぶどう園の主人は言った、『どうしようか。そうだ、わたしの愛子をつかわそう。これなら、たぶん敬ってくれるだろう』。ところが、農夫たちは彼を見ると、『あれはあと取りだ。あれを殺してしまおう。そうしたら、その財産はわれわれのものになるのだ』と互に話し合い、彼をぶどう園の外に追い出して殺した。そのさい、ぶどう園の主人は、彼らをどうするだろうか」。マタイ、マルコ、ルカ、3つの福音書がこの同じ1つの譬え話をとても詳しく丁寧に報告しています。とても大切なことが語られているからです。直接には、ユダヤ人とその指導者たちに向けて語られたたとえ話ですが、それだけではありません。そこには、すべてのキリスト教会とクリスチャンがよく心に刻んで覚えておくべき教えが含まれています。

 まず最初に知らされるのは、私たち人間の魂が深く汚されていることでえす。よこしまなこの農夫たちの振る舞いは、先祖と私たちが神に対してどう振る舞ってきたのかをはっきりと現わしています。神の民とされたイスラエルは、神の憐れみの契約と律法と神殿と土地と礼拝を授けられ、ほかのどの民族も与えられなかった特権を贈り与えられていました。ほかのどの国々も与えられなかった神からの警告を受けつづけながら、なお神の権威に逆らいつづけ、神を尊ぶことをせず、神が遣わした預言者たちの教えに背きつづけ、ついにとうとう、神の独り子である救い主イエス・キリストを十字架につけて殺してしまいました。元々ユダヤ人ではなかった私たち外国人のキリスト教会も、一人一人のクリスチャンも、同じ罪と反逆を繰り返しつづけてきました。「罪を犯しました。罪を犯しました。あなたに背きつづけました」と毎週毎週、礼拝の中で罪の告白が祈られるばかりでなく、それを自分自身のこととしてよくよく噛みしめる必要が、この私たちにはあります。ただ「人間は罪深い」というだけでなく、「この私こそ神に背く罪と、はなはだしい汚れに満ちている」と自分自身のこととして知る必要が私たちにはあります。つまり、「私たちはすべて一切の善を欠いており、失っている。私たちは罪の汚れによって汚れている。半死半生の、今にも死にそうな重病人である。神の御前にまったく値しない、ふさわしくない私たちである」と。これこそが、神の恵みを受け取るための備えです。自分自身のこの罪深さをはっきりと知るまでは、救い主イエスとそのお働きは、なお私たちの目から隠されつづけたままです。私たち自身の貧しさと、自分自身のとても重い病いを痛感させられて、そこでようやく格別に良い医者である主イエスへと私たちは向かい、ついにとうとう、そのお独りの方と出会うことが出来ます。

 16-18節、「彼は出てきて、この農夫たちを殺し、ぶどう園を他の人々に与えるであろう」。人々はこれを聞いて、「そんなことがあってはなりません」と言った。そこで、イエスは彼らを見つめて言われた、「それでは、『家造りらの捨てた石が隅のかしら石になった』と書いてあるのは、どういうことか。すべてその石の上に落ちる者は打ち砕かれ、それがだれかの上に落ちかかるなら、その人はこなみじんにされるであろう」。次に知らされるのは、先祖と私たちのために、主であられる神がとても忍耐深く、私たちが神の憐れみのもとへと立ち帰ることを待ち続け、心を痛め、願い続けてくださっていることです。預言者が神のもとから次から次へと遣わされつづけ、神からの知らせと、戒めと励ましが送られつづけました。キリスト教会には、誇るべき何ものをも持っていません。旧約聖書の時代にも、救い主イエスと最初の弟子たちの日々にも、また今日でも、神の憐れみが注がれつづけ、しかも私たちは自分たちが日毎に積み重ね続けているその罪と背きに値するほどの懲らしめを受けていません。驚いて、ただただ感謝するほかない私たちです。神さまの考えることは、私たち人間の考えることとだいぶん違うのです。だからこそ、私たち人間の目には、神のなさることは不思議に見えるのです(イザヤ55:8-9)

 神さまは、一人息子を殺してしまった悪い農夫たちを殺すことをしませんでした。そのために一人の農夫も殺さず、誰よりも悪い、極悪人の農夫さえ殺しませんでした。なぜなら、あの跡取りの独り息子は、殺されるときに「あの彼らを、とても悪い農夫たちをゆるしてあげてください」と言って、死んでいかれたからです。乱暴され、ひどい目にあわされて、馬鹿にされて、殺されてゆくその十字架の上で、「父よ。彼らをおゆるしください。あの人たちは、自分が何をしているのか分からないのですから」(ルカ23:34)。そして主人は、自分勝手な、とても悪い農夫たちをゆるしてあげました。

  『家造りらの捨てた石が隅のかしら石になった』。詩編118:22-23からの引用です。この石が、私たちの主、救い主イエス・キリストです。あの農夫たちは『ぶどう園』という名前の神の国を、またキリストの教会を、キリスト者という家を建てあげてゆくはずの者たちでした。彼らは、イエス・キリストという跡取り息子をひどい目に合わせて殺し、そのようにして捨ててしまいました。彼らが捨てたこのイエス・キリストというお方こそ、この《キリストの教会。1個のキリスト者》という家の土台の石となったのです。驚くべきことが起りました。

 18節は少し難しいです。「すべてその石の上に落ちる者は打ち砕かれ、それがだれかの上に落ちかかるなら、その人はこなみじんにされるであろう」。だれがこの石の上に落ちたのでしょう。この石は、誰の上に落ちたのでしょうか。あの悪い農夫たちでしょうか。そして「彼らは打ち砕かれ、押しつぶされて殺され、その後に、きちんきちんと収穫を納めるほかの、とてもふさわしく良い農夫たちに貸し与えられた。それが私たちだ」と、あなたはそう言うのでしょうか。私たちはぶどう園の労働者たちです。どんな労働者たちでしょうか。あなた自身は、どんな労働者ですか? たとえ聖書をあまり読んだことがなくても、それでも、自分がどんな労働者なのかということは分かります。つくづくと自分自身を振り返ってみて、私たちはむしろ、あの悪い農夫たちによく似ています。そっくりです。「すべてその石の上に落ちる者は打ち砕かれ、それがだれかの上に落ちかかるなら、その人はこなみじんにされる」。だれがこの石の上に落ちたのでしょう。この石は、いったい誰の上に落ちたのでしょう。救いにまったく価しない、神に背いてばかりいるとても悪い罪人を救うために、神の独り子イエス・キリストのいのちが十字架の上に投げ出され、そこで、その体が引き裂かれ、その血が流し尽くされたことを知って、そこで、ついにとうとう、頑なで思い上がっていった一人の人の石の心が粉々に打ち砕かれ、その人の中の古い罪の自分が押しつぶされて殺され、その後に、神の御心に聞き従って生きようとする新しい農夫が生まれたとするならば。一人、また一人と、そのように神の憐れみの御前に据え置かれて生きようとする新しい農夫が生まれつづけるとするならば、するとそのとき、ついに、悪い農夫たちに無残に殺されてしまった一人息子のただ1つの願いはとうとうかなえられたことになります。詩51:17で、「神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心をかろしめられません」と約束されていました。そう簡単には、『砕けた悔いた心』を造り出せません。人間に出来ることではなく、ただ神ご自身が私たちのとても堅く淋しい石の心を憐れんで、粉々に打ち砕いてくださいます。憐みの、救いの御業によって。それこそが、あの農場の主人と一人息子が心から願い求めつづけていることです。

 信仰と不信仰の間を揺れ動きながら、神を信じて生きようとすることと背いて離れ去ることを繰り返しながら、神に喜ばれることをしたいと願ったり、なんとも思わなかったりしながら日々を暮らしながら、なお私たちは神の慈愛と憐みのもとに据え置かれつづけています。聖書は証言します、「もし、麦粉の初穂がきよければ、そのかたまりもきよい。もし根がきよければ、その枝もきよい。しかし、もしある枝が切り去られて、野生のオリブであるあなたがそれにつがれ、オリブの根の豊かな養分にあずかっているとすれば、あなたはその枝に対して誇ってはならない。たとえ誇るとしても、あなたが根をささえているのではなく、根があなたをささえているのである。すると、あなたは、「枝が切り去られたのは、わたしがつがれるためであった」と言うであろう。まさに、そのとおりである。彼らは不信仰のゆえに切り去られ、あなたは信仰のゆえに立っているのである。高ぶった思いをいだかないで、むしろ恐れなさい。もし神が元木の枝を惜しまなかったとすれば、あなたを惜しむようなことはないであろう。神の慈愛と峻厳とを見よ。神の峻厳は倒れた者たちに向けられ、神の慈愛は、もしあなたがその慈愛にとどまっているなら、あなたに向けられる。そうでないと、あなたも切り取られるであろう。しかし彼らも、不信仰を続けなければ、つがれるであろう。神には彼らを再びつぐ力がある」(ローマ手紙11:16-23