2021年9月27日月曜日

9/26「強盗の巣」ルカ19:45-48

          みことば/2021,9,26(主日礼拝)  338

◎礼拝説教 ルカ福音書 19:45-48    日本キリスト教会 上田教会

『強盗の巣』

 

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

19:45 それから宮にはいり、商売人たちを追い出しはじめて、46 彼らに言われた、「『わが家は祈の家であるべきだ』と書いてあるのに、あなたがたはそれを盗賊の巣にしてしまった」。47 イエスは毎日、宮で教えておられた。祭司長、律法学者また民衆の重立った者たちはイエスを殺そうと思っていたが、48 民衆がみな熱心にイエスに耳を傾けていたので、手のくだしようがなかった。      ルカ福音書 19:45-48

                                               

7:4 あなたがたは、『これは主の神殿だ、主の神殿だ、主の神殿だ』という偽りの言葉を頼みとしてはならない。5 もしあなたがたが、まことに、その道と行いを改めて、互に公正を行い、6 寄留の他国人と、みなしごと、やもめをしえたげることなく、罪のない人の血をこの所に流すことなく、また、ほかの神々に従って自ら害をまねくことをしないならば、7 わたしはあなたがたを、わたしが昔あなたがたの先祖に与えたこの地に永遠に住まわせる。8 見よ、あなたがたは偽りの言葉を頼みとしているが、それはむだである。9 あなたがたは盗み、殺し、姦淫し、偽って誓い、バアルに香をたき、あなたがたが以前には知らなかった他の神々に従いながら、10 わたしの名をもって、となえられるこの家に来てわたしの前に立ち、『われわれは救われた』と言い、しかもすべてこれら憎むべきことを行うのは、どうしたことか。11 わたしの名をもって、となえられるこの家が、あなたがたの目には盗賊の巣と見えるのか。わたし自身、そう見たと主は言われる。  (エレミヤ書 7:4-11)

45-46節。主イエスは神殿に入り、「『わが家は祈の家であるべきだ』と書いてあるのに、あなたがたはそれを盗賊の巣にしてしまった」とその境内で商売をしていた商人たちやそこに居合わせた人々に言って、商人たちを追い出しました。商人たちは、はるばる遠くから礼拝にきた人々のために神へ献げものとする生き物などを売って商売をしていました。主イエスはその露天商、両替商の台や椅子をひっくり返し、商人たちだけではなくお客たちまでもみな追い出してしまいます。今日のキリストの教会では、この箇所をどういうふうに説き明かしているでしょうか。なによりまず、主イエスのこのあまりに非常識・反社会的とも見える乱暴狼藉(らんぼうろうぜき=ひどくあばれたり無法なふるまいをして他人に迷惑をかけること)。「イエス様って子供が大好きでいつも優しくて親切で、いつでも何があってもニコニコしていて」と教えられてきたかも知れません。もし万一こんな姿が世間様に知れたら、せっかくの良い評判がガタ落ちで、だれもキリスト教会に来なくなるかも知れません。けれど、奇妙な反応がここで沸き起こっています。その騒ぎの中で、なお大勢の民衆が、主イエスの語る神の国の福音に熱心に耳を傾けていました。だからこそ祭司長たちや律法学者たちはカンカンに腹を立て、主イエスを激しく憎みながらも、けれど喜び迎える多くの人々を恐れて、手出しも口出しもできません。だからこそ、イエスを殺したいとますます激しく憎み、「殺してしまおう。じゃあ、いつごろ具体的にどうやって」と密談し始めるほどです(ルカ19:47-48参照)。――もしかしたら、道理にかなって正しかったのは、あの彼らではなく乱暴狼藉を働いている主イエスのほうだったのかも。あのとき、主イエスは仰いました。「『わが家は祈の家であるべきだ』と書いてあるのに、あなたがたはそれを盗賊の巣にしてしまった」。モノを売っている商売人たちばかりでなく、それを買っている、神を信じているはずの礼拝者たちまで境内から冷酷非道に追い払って。それでもなお人々は、「その通りだ。本当だ」と主イエスの発言と振る舞いを強く支持しました。祭司長たちや律法学者たちはハラワタを煮えくり返しました。「すべての者たちの祈りの家であるべき。それなのに、あなたたちは」と断固として告げ知らされて、ある人々は大喜びし、別の人々は心を痛めて恥じ入ったり、カンカンに怒ったり。奇妙なのは、テーブルやイスをひっくり返され追い払われた商売人たち当人ばかりでなく、むしろ祭司長たちや律法学者たちこそがすごく怒っている。なぜ? もしかしたら、その信仰の指導者たちこそが神の神殿を祈りの家を強盗の巣にしてしまった腹黒い張本人たちだったのかも。

「まさか。それはこの私のことでは?」と心を痛めて、ここで本気になって、この私たちこそは我と我が身を振り返ってみましょう。あなたも、この私自身も。どんな救い主だと思っていましたか。主イエスは嬉しそうにニコニコしているときもあれば、それだけではなく心を痛めたり、嘆いたり、今回のようにカンカンに腹を立てて激しく怒ったりもなさいます。ただしい神であり、しかも憐れみ深い神でもあられるからです。それはちょうど、父さん母さんがわが子を愛するようにです。その子が親の言いつけをよく守り、お手伝いも喜んでするハキハキ明るい子であっても、あるいはあまりそうでなくても、なにしろ親は子を愛します。考えてみてください。もし仮に自分の子供が何をしても「いいよいいよ」とニコニコしている親がいるとしたら、その父さん母さんは多分もう、その子をあまり大切に思っていないでしょう。ときには声を荒げたり、本気になって厳しく叱るべきときがあります。子を愛して止まない親のような神さま。いいえ、親である神さまです(ローマ手紙8:14-17,ガラテヤ手紙4:5-7,ルカ福音書11:11-13,申命記8:5)。しかも救い主イエスは、初めから終わりまで徹底して『神殿の主』でありつづけます。12歳の迷子事件のとき、「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを知らなかったのですか」と仰り、サマリア人の女性と井戸の傍らで語り合ったとき、「まことの礼拝をする者たちが霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。神は霊である。だから、神を礼拝する者は霊と真理をもって礼拝しなければならない」と。エルサレムの都と神殿を見て嘆いて、「この神殿を壊してみよ。三日で立て直してみせる」(ルカ2:49,ヨハネ2:19-22,4:21-24)。そして今回、「『わが家は祈の家であるべきだ』と書いてあるのに、あなたがたはそれを盗賊の巣にしてしまった」と仰います。すべての国の人のための祈りの家でなければならない。ただ国籍や民族という枠組ばかりでなく、どこに住んでいる、どんな生い立ち、境遇の人も。どんな能力や経歴の、どんな性分のどんな暮らしぶりの人であっても。今日では、黄色や黒い肌の色の有色人種たちを見下して、世界中の多くの白人たちも得意がっていました。この国の多くの日本人たちも、日本に住む外国人たちを憎んで同じようなよく似た、とても悪い振る舞いをしつづけています。小さく身を屈めさせられた者たちの喘ぎ声や痛みや叫び声など耳に入りませんでした。そのようにして、祈りの家に住む私たちは度々繰り返して強盗や追い剥ぎに成り下がってしまいました。心が痛みます。預言者の口を用いて主ご自身がお語りになりました、「主からエレミヤに臨んだ言葉はこうである。「主の家の門に立ち、その所で、この言葉をのべて言え、主を拝むために、この門をはいるユダのすべての人よ、主の言葉を聞け。万軍の主、イスラエルの神はこう言われる、あなたがたの道とあなたがたの行いを改めるならば、わたしはあなたがたをこの所に住まわせる。あなたがたは、『これは主の神殿だ、主の神殿だ、主の神殿だ』という偽りの言葉を頼みとしてはならない。もしあなたがたが、まことに、その道と行いを改めて、互に公正を行い、寄留の他国人と、みなしごと、やもめをしえたげることなく、罪のない人の血をこの所に流すことなく、また、ほかの神々に従って自ら害をまねくことをしないならば、わたしはあなたがたを、わたしが昔あなたがたの先祖に与えたこの地に永遠に住まわせる。見よ、あなたがたは偽りの言葉を頼みとしているが、それはむだである。あなたがたは盗み、殺し、姦淫し、偽って誓い、バアルに香をたき、あなたがたが以前には知らなかった他の神々に従いながら、わたしの名をもって、となえられるこの家に来てわたしの前に立ち、『われわれは救われた』と言い、しかもすべてこれら憎むべきことを行うのは、どうしたことか。わたしの名をもって、となえられるこの家が、あなたがたの目には盗賊の巣と見えるのか。わたし自身、そう見たと主は言われる」(エレミヤ書71-11。エレミヤの時代の神殿と人々、そして今日のキリスト教会と私たちクリスチャン。では、わたしたち自身の目にはどう見えるでしょう。預言者エレミヤはなんと言うでしょう。神ご自身は? 「わが民イスラエルの悪のために、わたしが聖所を破壊した。今のあなたがたも同じだ。わたしはあなたがたにしきりに語ったけれど聞かず、あなたがたを呼んだけれど、あなたがたは答えようとしなかった。わたしの家を、ついに盗賊の巣にしてしまったではないか」と。荘厳な音楽に導かれ、美しい言葉で祈り、教養あふれる耳障りのよい説教を聞き、設立250年だ300年だなどと教会の権威や伝統を誇り、わたしたちも今日「救われた」「慰められた。とても励まされ、勇気と喜びを与えられた」などと互いに言い合うかも知れません。善良で清らかそうな顔をして、互いに「先生、先生」などと挨拶をし合うかも知れません。けれど、もし他方で互いに公正を行わず、家では家族を困らせたり殴ったり蹴ったりし、職場では部下やパートタイムの労働者たちに辛い思いをさせ、外国からの労働者と貧しい人々をしいたげ、そうやって神ではないモノたちと自分の腹の思いにばかり従っているならば。しかも、神殿を愛する救い主イエスの熱情こそが、これ語らせています。「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。もし人が、神の宮を破壊するなら、神はその人を滅ぼすであろう。なぜなら、神の宮は聖なるものであり、そして、あなたがたはその宮なのだからである」。だからこそ、いつも私たちの耳元にささやきかける声があります、「神に聞き従うよりも、周囲の誰彼や自分自身の腹の思いに聞き従う方が神の前に正しいかどうか、判断してもらいたい。いいや、ちゃんと十分に判断できるはずのあなたではないか。それなのに、あなたは何ということをしているのか」(マタイ21:13,24:2,ヨハネ2:19-22,ローマ手紙12:1-,コリント手紙(1)3:16-17,6:19-20,使徒4:19参照)

「この神殿を壊したら、わたしは三日のうちにそれを起こすであろう」と救い主イエスご自身が確かに約束なさり、それを成し遂げてくださっています。ご自身が新しい祈りの家の土台となり、わたしたちを招きます。聖書は語りかけます、「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた聖なる供え物としてささげよ。心を新たにし、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知りなさい。いいや、そのように心得て弁え生きるあなたとならせてあげよう。この私こそが、そういうあなたとならせる」と。ご自分がお造りになったこの世界と私たちすべてを愛して止まない神さまは、このほんの数日後に、ご自分の祈りの家をまったく新しく建て直しました。古い建物を丸ごとすっかり取り壊して。ご自身の体と生命をもって、死と復活をもって。驚くべきことです。キリスト教会とその共同体がそうだというばかりでなく、今や、主イエスを信じて生きる1人1人のクリスチャン皆が、自分自身の体を神の神殿とされました。そのとおりです。キリスト・イエスにある生命の御霊に法則は、罪と死との法則から私たちを解放したし、日毎に解放しつづけます。この私たち自身の体も魂も、『強盗の巣』から『生命の御霊の宿る神殿』へと移し変えられつづけます。虚しく惨めに死ぬべきだったはずの私たちの体は、神の御前で、神に向けて新しく生かされつづけます。なぜなら私たちはキリストの御霊をもち、イエスを死人の中からよみがえらせた天の御父の御霊が私たちの内に現に確かに宿っているからです。そのことを、私たちも知らされています(ローマ8:1-11参照)。ついにとうとう私たちも、自分自身の腹の思いにではなく、神の御心にこそ服従して、神に聴き従って生きる者たちとされているからです。