みことば/2021,9,19(主日礼拝) № 337
◎礼拝説教 ルカ福音書 19:41-44 日本キリスト教会 上田教会
『涙する救い主』
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)(ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC)
19:41 いよいよ都の近くにきて、それが見えたとき、そのために泣いて言われた、42
「もしおまえも、この日に、平和をもたらす道を知ってさえいたら………しかし、それは今おまえの目に隠されている。43 いつかは、敵が周囲に塁を築き、おまえを取りかこんで、四方から押し迫り、44
おまえとその内にいる子らとを地に打ち倒し、城内の一つの石も他の石の上に残して置かない日が来るであろう。それは、おまえが神のおとずれの時を知らないでいたからである」。 (ルカ福音書 19:41-44)
2:18 そこで、ユダヤ人はイエスに言った、「こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せてくれますか」。19
イエスは彼らに答えて言われた、「この神殿をこわしたら、わたしは三日のうちに、それを起すであろう」。20 そこで、ユダヤ人たちは言った、「この神殿を建てるのには、四十六年もかかっています。それだのに、あなたは三日のうちに、それを建てるのですか」。21
イエスは自分のからだである神殿のことを言われたのである。22 それで、イエスが死人の中からよみがえったとき、弟子たちはイエスがこう言われたことを思い出して、聖書とイエスのこの言葉とを信じた。(ヨハネ福音書 2:18-22)
1:15 「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった」という言葉は、確実で、そのまま受けいれるに足るものである。わたしは、その罪人のかしらなのである。16
しかし、わたしがあわれみをこうむったのは、キリスト・イエスが、まずわたしに対して限りない寛容を示し、そして、わたしが今後、彼を信じて永遠のいのちを受ける者の模範となるためである。17
世々の支配者、不朽にして見えざる唯一の神に、世々限りなく、ほまれと栄光とがあるように、アァメン。(1テモテ手紙1:15-17)
まず41-43節、「いよいよ都の近くにきて、それが見えたとき、そのために泣いて言われた、「もしおまえも、この日に、平和をもたらす道を知ってさえいたら………しかし、それは今おまえの目に隠されている」。救い主イエスが涙を流して、激しく嘆き悲しむ姿が報告されているのは、ラザロが死んだとき(ヨハネ福音書11:33-44)と、この場面のただ2回だけです。ラザロのときだけなら、もしかしたら、「特別に親しく付き合ったあの彼のために、救い主は深く嘆き悲しんだのか」と、うっかり誤解してしまうかも知れませんでした。そうではなかったのです。エルサレムの都を見て、深く嘆き悲しんだのは、もちろん、その荘厳華麗な立派で美しい建物のためではありません。どんなに美しく荘厳華麗で立派でも、たかが建物のために深く嘆き悲しむものなど滅多にいません。そこに住む人間たちのために、救い主イエスは涙し、深く嘆き悲しみました。そこには、どんな人間たちが暮らしていたでしょうか。エルサレムの都に暮らす多くの人々の心の中身を、救い主イエスはよくよく御存知でした。
なにより決定的であることは、救い主イエスを大歓迎で喜び迎えたその同じ人々が、ほんの数日後に、「彼を十字架につけろ。十字架につけろ」とますます激しく叫びたて、ますます大きく強く憎しみの声をあげつづけ、不法な裁判に彼を引き渡し、望み通りに十字架につけて殺してしまうことです。あらかじめ、そのことをはっきりと分かった上で、その彼らの頑なさと愚かさに目を凝らしながら、救い主イエスは都とそこに暮らす人々とを見つめて、その彼らのために深く悲しみ嘆き、憐れんでおられます。ほんのわずかな例外はあったとしても、彼らの多くはとても無慈悲で、冷酷で、自分を正しい人間であるとし、頑固で、神の慈しみと真実に逆らってばかりいる偏見の持ち主で、あまりに傲慢な思い上がった心を持っていました。つまり、ここにいる私たちと同じくらいに、とても罪深い人間たちです。それらすべてをよくよく分かった上で、その罪深い人々のために、救い主イエスは彼らを憐れんで、とても可哀そうに思って、その人々がやがてただ虚しく死んで滅び去ってしまうことを惜しんで、涙を流しておられます。もし万一、救い主イエスが、彼を信じる思いやり深く、謙遜で、寛大で、心が清らかな人々をこそ愛し、慈しむと思っていたのなら、それは大間違いです。彼は誰をも、分け隔てなく慈しんで、心にかけつづけておられます。恵みに価しない、すべての罪深い者たちを。だから、こんな私たちでさえ、ここにいることがゆるされます。
救い主イエスの憐れみはすべての男と女と小さな子供たちにも及び、いいえ、人間だけでなく、人間から軽蔑され毛嫌いされるような小さな虫に至るまで、すべての生き物に及びます(創世記9:10-17参照)。人間に関して言うならば、彼の御声を聴き分けて、彼に従ってくる従順な羊たちばかりではなく、とても邪(よこしま=道理に外れていて正しくない)で身勝手で頑固で傲慢で冷酷非道な者たちにさえも及びます。人間たちを慈しみ、その彼らを救うためには、神であられるこの救い主は、「神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられ」ねばなりませんでした。ふさわしく正しく理想的な人などどこにも誰一人もおらず、むしろ救い主は、自分をむなしくし、自分を徹底して低くし、そこでようやく人間であることの低さと貧しさを知るのです。十字架の死に至るほどの従順の限りを尽くさねばなりませんでした。神に背く罪人のいのちを惜しむあまりに、その憐みによって、恵みに価しない私たち罪人を招きつづけます、「わたしは悪人の死を好むであろうか。むしろ彼がそのおこないを離れて生きることを好んでいるではないか。……あなたがたがわたしに対しておこなったすべてのとがを捨て去り、新しい心と、新しい霊とを得よ。イスラエルの家よ、あなたがたはどうして死んでよかろうか。わたしは何人の死をも喜ばないのであると、主なる神は言われる。それゆえ、あなたがたは翻(ひるがえって=今ある在り方と正反対の方向へと向き直り、まったく新しくなって)って生きよ」(ピリピ手紙2:5-8,エゼキエル18:23-32)と。救い主はどんなに邪までねじ曲がった心の持ち主の死をも喜ばない。すべての者が悔い改め、神へと心を向け直して、新しく生きることをこそ心から願っておられます。心を頑なにしたはなはだしい罪人が自分自身を正当化して、たとえ様々に言い訳しようとも、この自分に対して救い主の憐れみが足りず、救ってくださろうとしなかったなどとは誰にも言えません。
43-44節、「いつかは、敵が周囲に塁を築き、おまえを取りかこんで、四方から押し迫り、おまえとその内にいる子らとを地に打ち倒し、城内の一つの石も他の石の上に残して置かない日が来るであろう。それは、おまえが神のおとずれの時を知らないでいたからである」。敵が周囲に塁を築き、おまえを取りかこんで、四方から押し迫り、おまえとその内にいる子らとを地に打ち倒し、城内の一つの石も他の石の上に残して置かない日が来る。まず直接的には、エルサレムの都の四方を敵が取り囲み、押し迫り、都に住む神の民を地面に打ち倒し、城の中のすべての家屋も王宮も神殿もすべての建物が徹底的に打ち壊されて、一つの石も他の石の上に残して置かない破滅の日が来ると救い主イエスは予告します。しかもそれこそが、神を信じて生きるはずの人々の死と滅びと、それにつづく新しい生命の回復を告げる希望の預言です。都とともに、この私たち人間の、死と復活の宣言です。「打ち壊されて、一つの石も他の石の上に残して置かない」と語りかけられて、同じ言葉を、その同じ救い主イエスの口から聞いたことを私たちは直ちに思い起こします。このわずか数日後、人々が荘厳な美しい神殿の境内でその美しさと立派さに目を奪われていたとき、主イエスは仰いました、「あなたがたはこれらのものをながめているが、その石一つでもくずされずに、他の石の上に残ることもなくなる日が、来るであろう」(ルカ21:6)。だから、やがて十字架につけられて死んでいこうとする救い主イエスをあざけって、人々が彼を笑いものにしたのです、「神殿を打ちこわして三日のうちに建てる者よ。もし神の子なら、自分を救え。そして十字架からおりてこい」と。また、ユダヤ人たちが問いかけ、主イエスご自身がこう答えています、「どんなしるしをわたしたちに見せてくれますか」。イエスは彼らに答えて言われた、「この神殿をこわしたら、わたしは三日のうちに、それを起すであろう」。そこで、ユダヤ人たちは言った、「この神殿を建てるのには、四十六年もかかっています。それだのに、あなたは三日のうちに、それを建てるのですか」。イエスは自分のからだである神殿のことを言われたのである。それで、イエスが死人の中からよみがえったとき、弟子たちはイエスがこう言われたことを思い出して、聖書とイエスのこの言葉とを信じた」(マタイ27:40,ヨハネ2:18-21を参照)。エルサレムの都と、そこに住むはなはだしく邪な罪人たちを憐れんで、その罪人の救いのために、主イエスはご自身の死と復活をもって、新しい霊的な神殿を建て直してくださいました。それが、今日のキリスト教会であり、私たちクリスチャンの一人一人です。それで、今では私たち一人一人が、神が自分の身体の中に住んでくださる神の、新しい生きた神殿とされています(1コリント手紙3:16-17)。何度も何度も語り聞かせられてきたことは、このことです。
恵みに価しない罪人を憐れんで救おうとなさる神です。ですから、もし、その罪人たちに対する神の深い憐みを知らないなら、私たちはこの信仰の中身についてほとんど何も知らないと言っていいほどです。もし仮に、私たちの家族や、連れ合い、子供たち孫たち、職場の同僚たち、隣り近所の人々のその魂の有様について、その人たちが救われようが滅びに落とされようがなんとも思わず、何の関心もないとするなら、もしそうであるなら、私たちの信仰はひどく不健全なものになってしまっているかも知れません。例えば詩篇の祈りの人は、エルサレムの都と人々を見つめる救い主イエスのように涙を流します、彼らの死と滅びの悲惨さを思い描き、深く憐れんで、「み顔をしもべの上に照し、あなたの定めを教えてください。人々があなたのおきてを守らないので、わが目の涙は川のように流れます」。主イエスの弟子の一人も、同胞であるユダヤ人たちを深く憐れんで、嘆き悲しみます、「わたしに大きな悲しみがあり、わたしの心に絶えざる痛みがある。実際、わたしの兄弟、肉による同族のためなら、わたしのこの身がのろわれて、キリストから離されてもいとわない」(詩119:135-136,ローマ手紙9:2-3)と。よこしまな人々を憐れんで、嘆き悲しみ、涙を梛出しておられる救い主イエスのように。
44節、「それは、おまえが神のおとずれの時を知らないでいたからである」。神の祝福と救いのときを、ほとんどすべての人々が知らずにいた間に、神ご自身が、その時をご自身で用意し、この地上に来たらせてくださいました。救い主イエスが最初にこの地上に降りて来られ、神の国の福音を宣べ伝えはじめたとき、「その時」が来たのであり、「その時」が神によって満たされたのでした。だから救い主イエスご自身が語りかけました、「ヨハネが捕えられた後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて言われた、『時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ』。また、ガリラヤ湖のほとりで漁師たちとこの私たちを、神を信じて聞き従う新しい人生へと招きはじめました、『わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう』」(マルコ1:14-17)。
私たちのためのその祝福と救いの時を来たらせるために、救い主イエスはエルサレムの都へと入ってゆき、不法な人々の手による不法な裁きに引き渡されようとしています。十字架の死へと、自ら進んで、それを引き受けることを心から願って、進んでいかれます。「聖書に書いてあるとおり、『目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮びもしなかったことを、神は、ご自分を愛する者たちのために備えられた』のである。そして、それを神は、御霊によってわたしたちに啓示して下さったのである」(1コリント手紙2:9-10)。
祈りましょう。