2021年9月27日月曜日

9/26「強盗の巣」ルカ19:45-48

          みことば/2021,9,26(主日礼拝)  338

◎礼拝説教 ルカ福音書 19:45-48    日本キリスト教会 上田教会

『強盗の巣』

 

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

19:45 それから宮にはいり、商売人たちを追い出しはじめて、46 彼らに言われた、「『わが家は祈の家であるべきだ』と書いてあるのに、あなたがたはそれを盗賊の巣にしてしまった」。47 イエスは毎日、宮で教えておられた。祭司長、律法学者また民衆の重立った者たちはイエスを殺そうと思っていたが、48 民衆がみな熱心にイエスに耳を傾けていたので、手のくだしようがなかった。      ルカ福音書 19:45-48

                                               

7:4 あなたがたは、『これは主の神殿だ、主の神殿だ、主の神殿だ』という偽りの言葉を頼みとしてはならない。5 もしあなたがたが、まことに、その道と行いを改めて、互に公正を行い、6 寄留の他国人と、みなしごと、やもめをしえたげることなく、罪のない人の血をこの所に流すことなく、また、ほかの神々に従って自ら害をまねくことをしないならば、7 わたしはあなたがたを、わたしが昔あなたがたの先祖に与えたこの地に永遠に住まわせる。8 見よ、あなたがたは偽りの言葉を頼みとしているが、それはむだである。9 あなたがたは盗み、殺し、姦淫し、偽って誓い、バアルに香をたき、あなたがたが以前には知らなかった他の神々に従いながら、10 わたしの名をもって、となえられるこの家に来てわたしの前に立ち、『われわれは救われた』と言い、しかもすべてこれら憎むべきことを行うのは、どうしたことか。11 わたしの名をもって、となえられるこの家が、あなたがたの目には盗賊の巣と見えるのか。わたし自身、そう見たと主は言われる。  (エレミヤ書 7:4-11)

45-46節。主イエスは神殿に入り、「『わが家は祈の家であるべきだ』と書いてあるのに、あなたがたはそれを盗賊の巣にしてしまった」とその境内で商売をしていた商人たちやそこに居合わせた人々に言って、商人たちを追い出しました。商人たちは、はるばる遠くから礼拝にきた人々のために神へ献げものとする生き物などを売って商売をしていました。主イエスはその露天商、両替商の台や椅子をひっくり返し、商人たちだけではなくお客たちまでもみな追い出してしまいます。今日のキリストの教会では、この箇所をどういうふうに説き明かしているでしょうか。なによりまず、主イエスのこのあまりに非常識・反社会的とも見える乱暴狼藉(らんぼうろうぜき=ひどくあばれたり無法なふるまいをして他人に迷惑をかけること)。「イエス様って子供が大好きでいつも優しくて親切で、いつでも何があってもニコニコしていて」と教えられてきたかも知れません。もし万一こんな姿が世間様に知れたら、せっかくの良い評判がガタ落ちで、だれもキリスト教会に来なくなるかも知れません。けれど、奇妙な反応がここで沸き起こっています。その騒ぎの中で、なお大勢の民衆が、主イエスの語る神の国の福音に熱心に耳を傾けていました。だからこそ祭司長たちや律法学者たちはカンカンに腹を立て、主イエスを激しく憎みながらも、けれど喜び迎える多くの人々を恐れて、手出しも口出しもできません。だからこそ、イエスを殺したいとますます激しく憎み、「殺してしまおう。じゃあ、いつごろ具体的にどうやって」と密談し始めるほどです(ルカ19:47-48参照)。――もしかしたら、道理にかなって正しかったのは、あの彼らではなく乱暴狼藉を働いている主イエスのほうだったのかも。あのとき、主イエスは仰いました。「『わが家は祈の家であるべきだ』と書いてあるのに、あなたがたはそれを盗賊の巣にしてしまった」。モノを売っている商売人たちばかりでなく、それを買っている、神を信じているはずの礼拝者たちまで境内から冷酷非道に追い払って。それでもなお人々は、「その通りだ。本当だ」と主イエスの発言と振る舞いを強く支持しました。祭司長たちや律法学者たちはハラワタを煮えくり返しました。「すべての者たちの祈りの家であるべき。それなのに、あなたたちは」と断固として告げ知らされて、ある人々は大喜びし、別の人々は心を痛めて恥じ入ったり、カンカンに怒ったり。奇妙なのは、テーブルやイスをひっくり返され追い払われた商売人たち当人ばかりでなく、むしろ祭司長たちや律法学者たちこそがすごく怒っている。なぜ? もしかしたら、その信仰の指導者たちこそが神の神殿を祈りの家を強盗の巣にしてしまった腹黒い張本人たちだったのかも。

「まさか。それはこの私のことでは?」と心を痛めて、ここで本気になって、この私たちこそは我と我が身を振り返ってみましょう。あなたも、この私自身も。どんな救い主だと思っていましたか。主イエスは嬉しそうにニコニコしているときもあれば、それだけではなく心を痛めたり、嘆いたり、今回のようにカンカンに腹を立てて激しく怒ったりもなさいます。ただしい神であり、しかも憐れみ深い神でもあられるからです。それはちょうど、父さん母さんがわが子を愛するようにです。その子が親の言いつけをよく守り、お手伝いも喜んでするハキハキ明るい子であっても、あるいはあまりそうでなくても、なにしろ親は子を愛します。考えてみてください。もし仮に自分の子供が何をしても「いいよいいよ」とニコニコしている親がいるとしたら、その父さん母さんは多分もう、その子をあまり大切に思っていないでしょう。ときには声を荒げたり、本気になって厳しく叱るべきときがあります。子を愛して止まない親のような神さま。いいえ、親である神さまです(ローマ手紙8:14-17,ガラテヤ手紙4:5-7,ルカ福音書11:11-13,申命記8:5)。しかも救い主イエスは、初めから終わりまで徹底して『神殿の主』でありつづけます。12歳の迷子事件のとき、「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを知らなかったのですか」と仰り、サマリア人の女性と井戸の傍らで語り合ったとき、「まことの礼拝をする者たちが霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。神は霊である。だから、神を礼拝する者は霊と真理をもって礼拝しなければならない」と。エルサレムの都と神殿を見て嘆いて、「この神殿を壊してみよ。三日で立て直してみせる」(ルカ2:49,ヨハネ2:19-22,4:21-24)。そして今回、「『わが家は祈の家であるべきだ』と書いてあるのに、あなたがたはそれを盗賊の巣にしてしまった」と仰います。すべての国の人のための祈りの家でなければならない。ただ国籍や民族という枠組ばかりでなく、どこに住んでいる、どんな生い立ち、境遇の人も。どんな能力や経歴の、どんな性分のどんな暮らしぶりの人であっても。今日では、黄色や黒い肌の色の有色人種たちを見下して、世界中の多くの白人たちも得意がっていました。この国の多くの日本人たちも、日本に住む外国人たちを憎んで同じようなよく似た、とても悪い振る舞いをしつづけています。小さく身を屈めさせられた者たちの喘ぎ声や痛みや叫び声など耳に入りませんでした。そのようにして、祈りの家に住む私たちは度々繰り返して強盗や追い剥ぎに成り下がってしまいました。心が痛みます。預言者の口を用いて主ご自身がお語りになりました、「主からエレミヤに臨んだ言葉はこうである。「主の家の門に立ち、その所で、この言葉をのべて言え、主を拝むために、この門をはいるユダのすべての人よ、主の言葉を聞け。万軍の主、イスラエルの神はこう言われる、あなたがたの道とあなたがたの行いを改めるならば、わたしはあなたがたをこの所に住まわせる。あなたがたは、『これは主の神殿だ、主の神殿だ、主の神殿だ』という偽りの言葉を頼みとしてはならない。もしあなたがたが、まことに、その道と行いを改めて、互に公正を行い、寄留の他国人と、みなしごと、やもめをしえたげることなく、罪のない人の血をこの所に流すことなく、また、ほかの神々に従って自ら害をまねくことをしないならば、わたしはあなたがたを、わたしが昔あなたがたの先祖に与えたこの地に永遠に住まわせる。見よ、あなたがたは偽りの言葉を頼みとしているが、それはむだである。あなたがたは盗み、殺し、姦淫し、偽って誓い、バアルに香をたき、あなたがたが以前には知らなかった他の神々に従いながら、わたしの名をもって、となえられるこの家に来てわたしの前に立ち、『われわれは救われた』と言い、しかもすべてこれら憎むべきことを行うのは、どうしたことか。わたしの名をもって、となえられるこの家が、あなたがたの目には盗賊の巣と見えるのか。わたし自身、そう見たと主は言われる」(エレミヤ書71-11。エレミヤの時代の神殿と人々、そして今日のキリスト教会と私たちクリスチャン。では、わたしたち自身の目にはどう見えるでしょう。預言者エレミヤはなんと言うでしょう。神ご自身は? 「わが民イスラエルの悪のために、わたしが聖所を破壊した。今のあなたがたも同じだ。わたしはあなたがたにしきりに語ったけれど聞かず、あなたがたを呼んだけれど、あなたがたは答えようとしなかった。わたしの家を、ついに盗賊の巣にしてしまったではないか」と。荘厳な音楽に導かれ、美しい言葉で祈り、教養あふれる耳障りのよい説教を聞き、設立250年だ300年だなどと教会の権威や伝統を誇り、わたしたちも今日「救われた」「慰められた。とても励まされ、勇気と喜びを与えられた」などと互いに言い合うかも知れません。善良で清らかそうな顔をして、互いに「先生、先生」などと挨拶をし合うかも知れません。けれど、もし他方で互いに公正を行わず、家では家族を困らせたり殴ったり蹴ったりし、職場では部下やパートタイムの労働者たちに辛い思いをさせ、外国からの労働者と貧しい人々をしいたげ、そうやって神ではないモノたちと自分の腹の思いにばかり従っているならば。しかも、神殿を愛する救い主イエスの熱情こそが、これ語らせています。「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。もし人が、神の宮を破壊するなら、神はその人を滅ぼすであろう。なぜなら、神の宮は聖なるものであり、そして、あなたがたはその宮なのだからである」。だからこそ、いつも私たちの耳元にささやきかける声があります、「神に聞き従うよりも、周囲の誰彼や自分自身の腹の思いに聞き従う方が神の前に正しいかどうか、判断してもらいたい。いいや、ちゃんと十分に判断できるはずのあなたではないか。それなのに、あなたは何ということをしているのか」(マタイ21:13,24:2,ヨハネ2:19-22,ローマ手紙12:1-,コリント手紙(1)3:16-17,6:19-20,使徒4:19参照)

「この神殿を壊したら、わたしは三日のうちにそれを起こすであろう」と救い主イエスご自身が確かに約束なさり、それを成し遂げてくださっています。ご自身が新しい祈りの家の土台となり、わたしたちを招きます。聖書は語りかけます、「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた聖なる供え物としてささげよ。心を新たにし、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知りなさい。いいや、そのように心得て弁え生きるあなたとならせてあげよう。この私こそが、そういうあなたとならせる」と。ご自分がお造りになったこの世界と私たちすべてを愛して止まない神さまは、このほんの数日後に、ご自分の祈りの家をまったく新しく建て直しました。古い建物を丸ごとすっかり取り壊して。ご自身の体と生命をもって、死と復活をもって。驚くべきことです。キリスト教会とその共同体がそうだというばかりでなく、今や、主イエスを信じて生きる1人1人のクリスチャン皆が、自分自身の体を神の神殿とされました。そのとおりです。キリスト・イエスにある生命の御霊に法則は、罪と死との法則から私たちを解放したし、日毎に解放しつづけます。この私たち自身の体も魂も、『強盗の巣』から『生命の御霊の宿る神殿』へと移し変えられつづけます。虚しく惨めに死ぬべきだったはずの私たちの体は、神の御前で、神に向けて新しく生かされつづけます。なぜなら私たちはキリストの御霊をもち、イエスを死人の中からよみがえらせた天の御父の御霊が私たちの内に現に確かに宿っているからです。そのことを、私たちも知らされています(ローマ8:1-11参照)。ついにとうとう私たちも、自分自身の腹の思いにではなく、神の御心にこそ服従して、神に聴き従って生きる者たちとされているからです。

 

 

9/26こども説教「恥ずかしいとは思わなかった」創世記2:19-24

 9/26 こども説教 創世記 2:19-24

 『恥ずかしいとは思わなかった』

 

2:20 それで人は、すべての家畜と、空の鳥と、野のすべての獣とに名をつけたが、人にはふさわしい助け手が見つからなかった。21 そこで主なる神は人を深く眠らせ、眠った時に、そのあばら骨の一つを取って、その所を肉でふさがれた。22 主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り、人のところへ連れてこられた。23 そのとき、人は言った。「これこそ、ついにわたしの骨の骨、わたしの肉の肉。男から取ったものだから、これを女と名づけよう」。24 それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。25 人とその妻とは、ふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった。       (創世記 2:19-24

 

23-25節、「そのとき、人は言った。「これこそ、ついにわたしの骨の骨、わたしの肉の肉。男から取ったものだから、これを女と名づけよう」。それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。人とその妻とは、ふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった」。ふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった。裸なのに、どうしてお互いに恥ずかしがらなかったのでしょうか。2章と3章を読み比べてみると、おかしなことに気づきます。『善悪を知る木の実』と言いながら、それを食べて、彼らは少しも賢くなったようには見えません。むしろ逆に心が鈍くされて、とても愚かになり、混乱して、貧しい悪い心を持つようになりました。しかもこの2章で、木の実を食べる前に、2人が何も知らなかったのかといえば、そうではありませんでした。「2人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった」。自分たちが裸で小さくて弱々しいことくらい、ちゃんと知っていました。それでも、格好悪いとも変だとも思わなかったし、お互いに恥ずかしがらせたり馬鹿にしたりはしませんでした。もともと1つの身体だったものが、神さまによってまた1つの体に結び合わされたことも知っていました。神さまが自分たちよりもずっと何倍も強くて大きくて、すごく賢いことも知っていました。それでも、だからといって、「何をされるかわからない。恐ろしい」とは夢にも思いませんでした。なぜならこの人たちは、もっと千倍も万倍も大切なことをよく知っていたからです。鼻から命の息を吹き入れられています。「土地を耕し守る」という役割を与えられ、恵みと祝福を与えられ、「これだけはしてはならない」と神からの戒めも与えられています。しかも神さまこそが、この私のこともこの人のことも大切に思ってくださり、私やこの人が幸せに生きていくために神さまこそが十分に守っていてくださると知っていました。どうしてかというと、自分たちへの神からの語りかけを聴いていたからです。

 












ミレー「晩鐘」

2021年9月20日月曜日

9/19「涙する救い主」ルカ19:41-44

            みことば/2021,9,19(主日礼拝)  337

◎礼拝説教 ルカ福音書 19:41-44         日本キリスト教会 上田教会

『涙する救い主』

 

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

19:41 いよいよ都の近くにきて、それが見えたとき、そのために泣いて言われた、42 「もしおまえも、この日に、平和をもたらす道を知ってさえいたら………しかし、それは今おまえの目に隠されている。43 いつかは、敵が周囲に塁を築き、おまえを取りかこんで、四方から押し迫り、44 おまえとその内にいる子らとを地に打ち倒し、城内の一つの石も他の石の上に残して置かない日が来るであろう。それは、おまえが神のおとずれの時を知らないでいたからである」。  ルカ福音書 19:41-44

 

2:18 そこで、ユダヤ人はイエスに言った、「こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せてくれますか」。19 イエスは彼らに答えて言われた、「この神殿をこわしたら、わたしは三日のうちに、それを起すであろう」。20 そこで、ユダヤ人たちは言った、「この神殿を建てるのには、四十六年もかかっています。それだのに、あなたは三日のうちに、それを建てるのですか」。21 イエスは自分のからだである神殿のことを言われたのである。22 それで、イエスが死人の中からよみがえったとき、弟子たちはイエスがこう言われたことを思い出して、聖書とイエスのこの言葉とを信じた。(ヨハネ福音書 2:18-22)

 

1:15 「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった」という言葉は、確実で、そのまま受けいれるに足るものである。わたしは、その罪人のかしらなのである。16 しかし、わたしがあわれみをこうむったのは、キリスト・イエスが、まずわたしに対して限りない寛容を示し、そして、わたしが今後、彼を信じて永遠のいのちを受ける者の模範となるためである。17 世々の支配者、不朽にして見えざる唯一の神に、世々限りなく、ほまれと栄光とがあるように、アァメン。(1テモテ手紙1:15-17)

まず41-43節、「いよいよ都の近くにきて、それが見えたとき、そのために泣いて言われた、「もしおまえも、この日に、平和をもたらす道を知ってさえいたら………しかし、それは今おまえの目に隠されている」。救い主イエスが涙を流して、激しく嘆き悲しむ姿が報告されているのは、ラザロが死んだとき(ヨハネ福音書11:33-44と、この場面のただ2回だけです。ラザロのときだけなら、もしかしたら、「特別に親しく付き合ったあの彼のために、救い主は深く嘆き悲しんだのか」と、うっかり誤解してしまうかも知れませんでした。そうではなかったのです。エルサレムの都を見て、深く嘆き悲しんだのは、もちろん、その荘厳華麗な立派で美しい建物のためではありません。どんなに美しく荘厳華麗で立派でも、たかが建物のために深く嘆き悲しむものなど滅多にいません。そこに住む人間たちのために、救い主イエスは涙し、深く嘆き悲しみました。そこには、どんな人間たちが暮らしていたでしょうか。エルサレムの都に暮らす多くの人々の心の中身を、救い主イエスはよくよく御存知でした。

なにより決定的であることは、救い主イエスを大歓迎で喜び迎えたその同じ人々が、ほんの数日後に、「彼を十字架につけろ。十字架につけろ」とますます激しく叫びたて、ますます大きく強く憎しみの声をあげつづけ、不法な裁判に彼を引き渡し、望み通りに十字架につけて殺してしまうことです。あらかじめ、そのことをはっきりと分かった上で、その彼らの頑なさと愚かさに目を凝らしながら、救い主イエスは都とそこに暮らす人々とを見つめて、その彼らのために深く悲しみ嘆き、憐れんでおられます。ほんのわずかな例外はあったとしても、彼らの多くはとても無慈悲で、冷酷で、自分を正しい人間であるとし、頑固で、神の慈しみと真実に逆らってばかりいる偏見の持ち主で、あまりに傲慢な思い上がった心を持っていました。つまり、ここにいる私たちと同じくらいに、とても罪深い人間たちです。それらすべてをよくよく分かった上で、その罪深い人々のために、救い主イエスは彼らを憐れんで、とても可哀そうに思って、その人々がやがてただ虚しく死んで滅び去ってしまうことを惜しんで、涙を流しておられます。もし万一、救い主イエスが、彼を信じる思いやり深く、謙遜で、寛大で、心が清らかな人々をこそ愛し、慈しむと思っていたのなら、それは大間違いです。彼は誰をも、分け隔てなく慈しんで、心にかけつづけておられます。恵みに価しない、すべての罪深い者たちを。だから、こんな私たちでさえ、ここにいることがゆるされます。

救い主イエスの憐れみはすべての男と女と小さな子供たちにも及び、いいえ、人間だけでなく、人間から軽蔑され毛嫌いされるような小さな虫に至るまで、すべての生き物に及びます(創世記9:10-17参照)。人間に関して言うならば、彼の御声を聴き分けて、彼に従ってくる従順な羊たちばかりではなく、とても邪(よこしま=道理に外れていて正しくない)で身勝手で頑固で傲慢で冷酷非道な者たちにさえも及びます。人間たちを慈しみ、その彼らを救うためには、神であられるこの救い主は、「神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられ」ねばなりませんでした。ふさわしく正しく理想的な人などどこにも誰一人もおらず、むしろ救い主は、自分をむなしくし、自分を徹底して低くし、そこでようやく人間であることの低さと貧しさを知るのです。十字架の死に至るほどの従順の限りを尽くさねばなりませんでした。神に背く罪人のいのちを惜しむあまりに、その憐みによって、恵みに価しない私たち罪人を招きつづけます、「わたしは悪人の死を好むであろうか。むしろ彼がそのおこないを離れて生きることを好んでいるではないか。……あなたがたがわたしに対しておこなったすべてのとがを捨て去り、新しい心と、新しい霊とを得よ。イスラエルの家よ、あなたがたはどうして死んでよかろうか。わたしは何人の死をも喜ばないのであると、主なる神は言われる。それゆえ、あなたがたは翻(ひるがえって=今ある在り方と正反対の方向へと向き直り、まったく新しくなって)って生きよ」(ピリピ手紙2:5-8,エゼキエル18:23-32と。救い主はどんなに邪までねじ曲がった心の持ち主の死をも喜ばない。すべての者が悔い改め、神へと心を向け直して、新しく生きることをこそ心から願っておられます。心を頑なにしたはなはだしい罪人が自分自身を正当化して、たとえ様々に言い訳しようとも、この自分に対して救い主の憐れみが足りず、救ってくださろうとしなかったなどとは誰にも言えません。

43-44節、「いつかは、敵が周囲に塁を築き、おまえを取りかこんで、四方から押し迫り、おまえとその内にいる子らとを地に打ち倒し、城内の一つの石も他の石の上に残して置かない日が来るであろう。それは、おまえが神のおとずれの時を知らないでいたからである」。敵が周囲に塁を築き、おまえを取りかこんで、四方から押し迫り、おまえとその内にいる子らとを地に打ち倒し、城内の一つの石も他の石の上に残して置かない日が来る。まず直接的には、エルサレムの都の四方を敵が取り囲み、押し迫り、都に住む神の民を地面に打ち倒し、城の中のすべての家屋も王宮も神殿もすべての建物が徹底的に打ち壊されて、一つの石も他の石の上に残して置かない破滅の日が来ると救い主イエスは予告します。しかもそれこそが、神を信じて生きるはずの人々の死と滅びと、それにつづく新しい生命の回復を告げる希望の預言です。都とともに、この私たち人間の、死と復活の宣言です。「打ち壊されて、一つの石も他の石の上に残して置かない」と語りかけられて、同じ言葉を、その同じ救い主イエスの口から聞いたことを私たちは直ちに思い起こします。このわずか数日後、人々が荘厳な美しい神殿の境内でその美しさと立派さに目を奪われていたとき、主イエスは仰いました、「あなたがたはこれらのものをながめているが、その石一つでもくずされずに、他の石の上に残ることもなくなる日が、来るであろう」(ルカ21:6。だから、やがて十字架につけられて死んでいこうとする救い主イエスをあざけって、人々が彼を笑いものにしたのです、「神殿を打ちこわして三日のうちに建てる者よ。もし神の子なら、自分を救え。そして十字架からおりてこい」と。また、ユダヤ人たちが問いかけ、主イエスご自身がこう答えています、「どんなしるしをわたしたちに見せてくれますか」。イエスは彼らに答えて言われた、「この神殿をこわしたら、わたしは三日のうちに、それを起すであろう」。そこで、ユダヤ人たちは言った、「この神殿を建てるのには、四十六年もかかっています。それだのに、あなたは三日のうちに、それを建てるのですか」。イエスは自分のからだである神殿のことを言われたのである。それで、イエスが死人の中からよみがえったとき、弟子たちはイエスがこう言われたことを思い出して、聖書とイエスのこの言葉とを信じた」(マタイ27:40,ヨハネ2:18-21を参照)。エルサレムの都と、そこに住むはなはだしく邪な罪人たちを憐れんで、その罪人の救いのために、主イエスはご自身の死と復活をもって、新しい霊的な神殿を建て直してくださいました。それが、今日のキリスト教会であり、私たちクリスチャンの一人一人です。それで、今では私たち一人一人が、神が自分の身体の中に住んでくださる神の、新しい生きた神殿とされています(1コリント手紙3:16-17。何度も何度も語り聞かせられてきたことは、このことです。

 恵みに価しない罪人を憐れんで救おうとなさる神です。ですから、もし、その罪人たちに対する神の深い憐みを知らないなら、私たちはこの信仰の中身についてほとんど何も知らないと言っていいほどです。もし仮に、私たちの家族や、連れ合い、子供たち孫たち、職場の同僚たち、隣り近所の人々のその魂の有様について、その人たちが救われようが滅びに落とされようがなんとも思わず、何の関心もないとするなら、もしそうであるなら、私たちの信仰はひどく不健全なものになってしまっているかも知れません。例えば詩篇の祈りの人は、エルサレムの都と人々を見つめる救い主イエスのように涙を流します、彼らの死と滅びの悲惨さを思い描き、深く憐れんで、「み顔をしもべの上に照し、あなたの定めを教えてください。人々があなたのおきてを守らないので、わが目の涙は川のように流れます」。主イエスの弟子の一人も、同胞であるユダヤ人たちを深く憐れんで、嘆き悲しみます、「わたしに大きな悲しみがあり、わたしの心に絶えざる痛みがある。実際、わたしの兄弟、肉による同族のためなら、わたしのこの身がのろわれて、キリストから離されてもいとわない」(詩119:135-136,ローマ手紙9:2-3と。よこしまな人々を憐れんで、嘆き悲しみ、涙を梛出しておられる救い主イエスのように。

 44節、「それは、おまえが神のおとずれの時を知らないでいたからである」。神の祝福と救いのときを、ほとんどすべての人々が知らずにいた間に、神ご自身が、その時をご自身で用意し、この地上に来たらせてくださいました。救い主イエスが最初にこの地上に降りて来られ、神の国の福音を宣べ伝えはじめたとき、「その時」が来たのであり、「その時」が神によって満たされたのでした。だから救い主イエスご自身が語りかけました、「ヨハネが捕えられた後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて言われた、『時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ』。また、ガリラヤ湖のほとりで漁師たちとこの私たちを、神を信じて聞き従う新しい人生へと招きはじめました、『わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう』」(マルコ1:14-17

 私たちのためのその祝福と救いの時を来たらせるために、救い主イエスはエルサレムの都へと入ってゆき、不法な人々の手による不法な裁きに引き渡されようとしています。十字架の死へと、自ら進んで、それを引き受けることを心から願って、進んでいかれます。「聖書に書いてあるとおり、『目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮びもしなかったことを、神は、ご自分を愛する者たちのために備えられた』のである。そして、それを神は、御霊によってわたしたちに啓示して下さったのである」(1コリント手紙2:9-10

祈りましょう。

 


9/19こども説教「役割、祝福、戒めのため」創世記2:15-18

 9/19 こども説教 創世記 2:15-18

 『役割、祝福、戒めのため』

 

2:15 主なる神は人を連れて行っ てエデンの園に置き、これを耕させ、これを守らせられた。16 主なる神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。17 しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。18 また主なる神は言われた、「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」。(創世記 2:15-18

 

 この世界が生きるに値する素晴らしい世界であることを、どうやってはっきりと分かることができるでしょう。ほんのつかの間に過ぎ去る、とても短い生涯を、私たちはどんなふうに生きることができるでしょう。

18節で、「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」。結婚式のときにも語られ、よく知られている言葉です。もちろん、あなたは結婚してもいいし、しなくてもいい。ただ独りきりで生きようとすればできるかも知れませんが、それは苦しく、とても淋しいことです。18節の本当の意味を知るために大切なことは、4-7節の成り立ちと、15節からのつながりです、「主なる神は人を連れて行ってエデンの園に置き、これを耕させ、これを守らせられた。主なる神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」」。だからこそ、主なる神は言われます。「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」と。素敵なエデンの園に連れてこられました。何のため? そこを耕し守るためにです。 (1)その土地を耕し守って生きる、という大切な働きと役割。(2)すべての木から取って食べなさい、とあまりに気前よく恵みと祝福を与えられました。(3)ただし、『これだけはしてはいけない。慎んで留まれ』と戒めも与えられて。つまり、働きと役割。祝福と恵み。そして『これだけはしてはならない』という戒め(15,16,17)。しかも土の塵で造られた私たち人間はあまりに不完全で、弱く愚かでした。意固地になり、独り善がりになりました。だからです。だからこそ、人が独りでいるのは良くない。独りでは、その土地を耕して守るという大きな重い務めを担いきれないからです。独りでは、あまりに気前よく与えられた祝福と恵みを本当に嬉しく喜び祝うことができないからです。独りでは、『これだけはしてはいけない。ダメだよ、止めなさい』という戒めのうちに身を慎んで留まることなどとうていできないからです。もし、その人を助けてくれる者がいてくれるならば、その人は、たとえあまりに不完全で、ひどく未熟だとしても、たびたび意固地になり、独り善がりになってしまいやすいとしても、それでもなおその土地を耕して守りながら生きることができます。もし助ける者がいてくれるなら、その人は祝福と恵みを十分に受け取って、「こんなに良いものを私なんかがいただいていいんですか。本当ですか。ああ嬉しい。ありがとうございます」と喜び祝い、感謝にあふれ、神さまからの祝福のうちに生きて死んでゆくこともできるでしょう。

 あなたのためにも、ふさわしい助け手が用意されてあります。その人たちを何としても探し出し、見つけて、いっしょに生きることをしはじめたいのです。

 

 

 

2021年9月14日火曜日

9/12「主が用いてくださる」ルカ19:28-40

            みことば/2021,9,12(主日礼拝)  336

◎礼拝説教 ルカ福音書 19:28-40            日本キリスト教会 上田教会

『主が用いてくださる』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

 19:28 イエスはこれらのことを言ったのち、先頭に立ち、エルサレムへ上って行かれた。29 そしてオリブという山に沿ったベテパゲとベタニヤに近づかれたとき、ふたりの弟子をつかわして言われた、30 「向こうの村へ行きなさい。そこにはいったら、まだだれも乗ったことのないろばの子がつないであるのを見るであろう。それを解いて、引いてきなさい。31 もしだれかが『なぜ解くのか』と問うたら、『主がお入り用なのです』と、そう言いなさい」。32 そこで、つかわされた者たちが行って見ると、果して、言われたとおりであった。33 彼らが、そのろばの子を解いていると、その持ち主たちが、「なぜろばの子を解くのか」と言ったので、34 「主がお入り用なのです」と答えた。35 そしてそれをイエスのところに引いてきて、その子ろばの上に自分たちの上着をかけてイエスをお乗せした。36 そして進んで行かれると、人々は自分たちの上着を道に敷いた。37 いよいよオリブ山の下り道あたりに近づかれると、大ぜいの弟子たちはみな喜んで、彼らが見たすべての力あるみわざについて、声高らかに神をさんびして言いはじめた、38 「主の御名によってきたる王に、祝福あれ。天には平和、いと高きところには栄光あれ」。39 ところが、群衆の中にいたあるパリサイ人たちがイエスに言った、「先生、あなたの弟子たちをおしかり下さい」。40 答えて言われた、「あなたがたに言うが、もしこの人たちが黙れば、石が叫ぶであろう」。ルカ福音書 19:28-40                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                       3:11 モーセは神に言った、「わたしは、いったい何者でしょう。わたしがパロのところへ行って、イスラエルの人々をエジプトから導き出すのでしょうか」。12 神は言われた、「わたしは必ずあなたと共にいる。これが、わたしのあなたをつかわしたしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたがたはこの山で神に仕えるであろう」。 (出エジプト記 3:11-12,創世記28:18-22)

 28-31節、「イエスはこれらのことを言ったのち、先頭に立ち、エルサレムへ上って行かれた。そしてオリブという山に沿ったベテパゲとベタニヤに近づかれたとき、ふたりの弟子をつかわして言われた、「向こうの村へ行きなさい。そこにはいったら、まだだれも乗ったことのないろばの子がつないであるのを見るであろう。それを解いて、引いてきなさい。もしだれかが『なぜ解くのか』と問うたら、『主がお入り用なのです』と、そう言いなさい」。まず、救い主イエスがすべてをすっかり全部見通しておられることに気づかされます。主イエスは2人の弟子をまず先に村に遣わし、「そこにはいったら、まだだれも乗ったことのないろばの子がつないであるのを見るであろう。それを解いて、引いてきなさい。もしだれかが『なぜ解くのか』と問うたら、『主がお入り用なのです』と、そう言いなさい」と指図なさいます。そのとおりになりました。救い主の眼差しの前には、すべてがすっかり明らかであり、例えば別の時には、敵対する人々が心に思っていることさえも見抜き、誰が信じるか信じないか裏切ろうとしているのかさえも承知して、語りかけもしています(マタイ12:25,ヨハネ2:25,6:64。たとえ人間同士が欺きあうことがありえても、「神がキリストイエスによって人々の隠れた事柄を裁かれるその日に、あきらかにされるであろう」(ローマ2:16と聖書は証言します。それは、私たちクリスチャンに深い慰めを与え、同時に、戒めと慎みを与えます。私の主人がいつもどこで何をしていても、私を見ておられる。救い主イエスの眼差しの下に生きて、しかも、そのことをはっきりと心に覚えつづけて生きる私でありたい。ほんの少し前に紹介したばかりですが、名前も知られない一人のクリスチャンがこう語りかけました、「主イエスは、わが家のご主人さま。食卓にいつもおられる、目に見えない大切なお客さまでもある。私たちの毎日の、いつもの、何気ないすべての会話に耳を傾けていてくださるお方です」(「主イエスは我が家のご主人さま」作者不明)。Christ is the  HEAD  of our house.The UNSEEN Guest at every  meal,The Silent  LISTENER  to  every  Conversation.Unknown(作者不明)」。そのとおりです。

32-35節、「そこで、つかわされた者たちが行って見ると、果して、言われたとおりであった。彼らが、そのろばの子を解いていると、その持ち主たちが、「なぜろばの子を解くのか」と言ったので、「主がお入り用なのです」と答えた。そしてそれをイエスのところに引いてきて、その子ろばの上に自分たちの上着をかけてイエスをお乗せした」。聖書は、やがて救い主がどんな姿でどのようにやって来るのかを、繰り返し繰り返し予告していました;「やがて時が来て、私たちの王が私たちの所へ来てくださる。すくいと解放をもたらすために。その方は高ぶることなく柔和に謙遜に、低く身をかがめて、そのとおり子供のロバの背にまたがってやってくる」(ゼカリヤ書9:9)。子供のロバを手に入れて、そのロバの背に乗り、主イエスはエルサレムの都に入っていかれます。聖書に親しんできた人々は、誰もが皆気づきました。「ああ、聖書に書いてあったとおりだ」と。聖書に書いてあった救いの光景そのままだ、この方こそ待ち望まれていた救い主だ、と。

 36-40節、「そして進んで行かれると、人々は自分たちの上着を道に敷いた。いよいよオリブ山の下り道あたりに近づかれると、大ぜいの弟子たちはみな喜んで、彼らが見たすべての力あるみわざについて、声高らかに神をさんびして言いはじめた、「主の御名によってきたる王に、祝福あれ。天には平和、いと高きところには栄光あれ」。ところが、群衆の中にいたあるパリサイ人たちがイエスに言った、「先生、あなたの弟子たちをおしかり下さい」。答えて言われた、「あなたがたに言うが、もしこの人たちが黙れば、石が叫ぶであろう」。人々は道の両側に立ち並んで、旗を振るようにシュロの枝を振り、神様を誉めたたえて叫び、自分の衣服を主が通っていかれる道に敷き詰め、そのようにして主イエスを喜び迎えます。主イエスを快く思わないパリサイ派の人々にも、そこで何が起こっているのかが、もちろん分かりました。だからこそ、見過ごすわけにはいきませんでした。「自分は神から遣わされた救い主だと嘘をついて、あのイエスという男は皆を騙している。皆は騙されている。これは神への冒涜だ。止めさせなければ」と。先生、あなたのお弟子さんたちを叱ってください。集まって騒いでいるこの人々を静かにさせてください。あんなことを言わせないでもらいたい。40節。主イエスは答えます;「言っておくが、もし、この人たちが黙れば、その代わりに、道端の石っころが叫び出す」。

  神は、どんな神だったのでしょう。人間の目に見えない隠れている事柄にも目を向け、人間の心の中にあるものを知り、先にある出来事のすべてをも見通す神でした。人間が生まれる前から、その人を知る神であります。ここにいるこの私たちに対しても、まったくそうです。《主なる神こそが知っていてくださり、ちゃんと分かっておられる》。この私たちのためにも、神様が生きて働いておられます。「ああ、そうだった」と目覚めさせられます。教会の頭であり、世界の王である方は、私たちを見ておられます。いつも、どんな時にも見ているのだし、すべてをすっかり見つめておられます。あなたは、どんなふうに感じるでしょうか。ある人は、なんだか居心地が悪いような、牢獄できびしい看守に監視されているようで、「放っておいてもらいたい。息が詰まる」などと思います。けれど、《主なる神こそが知っていてくださり、ちゃんと分かっていてくださる》。それこそが、私たちの慰めであり、喜びであり、心強い支えであり確かさであったのです。天の主人の慈しみ深い眼差しが、この私にも注がれ、あなたにも注がれている。例えば、誰かから誤解されるとき、誰にも分かってもらえないとき、不当な扱いを受けるとき、非難されるとき、ただ独りで恐れと不安の只中に置かれるとき、けれどなお私たちは心強い。なおそこで、私たちは勇気を与えられ、そこで辛うじて踏み止まる。なおそこで、晴れ晴れとして顔を上げます。なぜでしょうか。なぜならば、主が分かっていてくださり、主こそが私の味方であるからです。

  兄弟姉妹たち。ここにいる私たちはいったい何者でしょうか。『主がお入り用なのです』と答えて、それをするようにと命じられたあの2人の弟子たちです。見知らぬ村へと主に先立って遣わされ、そこに繋がれている子供のロバを連れてきます。あるいは別のときには、疲れ果てたおじいさんおばあさんの姿形をしたロバかも知れません。お父さんお母さんの姿形をしたロバ、中学生高校生、もしかしたらもっと若い子供の姿形のロバかも。病気がちで、この頃は歩くのもやっとのロバかも知れません。とても貧弱で貧相な、誰にも顧みられないような小さな弱々しいロバかも知れません。柵に繋がれている彼らを見つけ、ロープを解こうとして、「何をするつもりか」と問い詰められるかも知れません。「止めなさい。勝手なまねはするな」と厳しく叱られるかも知れません。どうしましょうか。『はい。主がお入り用なのです。主が、このロバを、ご自分のご用のために用いてくださいます』と答えましょう。聞き入れられず、跳ね除けられるかも知れません。馬鹿にされ、罵られ、恥をかくかも知れません。それでもなお私たちは、『主が、これを用いてくださるのです』と答えましょう。1度だけでなく、3度4度5度6度と、繰り返し答えましょう。私たちは皆、あの貧弱な子供のロバでした。主が、こんな私をさえ用いてくださる。「ぜひ使いたい」と仰った。主の御前へと連れ出され、それ以来、背中に主をお乗せして歩いている私たちです。それがクリスチャンの姿であり、実態であり、それがキリスト教会の姿です。もし、すべての人たち皆が押し黙るときが来るとしても、そのとき、道端の石っころのような私たちが叫び出します。主を誉めたたえて。感謝と喜びの歌を、大きな声で歌い出すでしょう。魂に刻んできた主への感謝が、主への驚きが、信頼が、喜びが、主への確信が、私たちを駆り立てて止まないからです。なにしろ、私たちを救うために《神の子羊》として救い主イエス・キリストが遣わされました。十字架の上で引き裂かれた主の体と、流し尽くされた主イエスの尊い血潮を注がれて、それで、だからこそ、私たちはここにいます。今日こうしてあるを得ております。

 

     《いのり》

なんでもおできになる全能の神さま。どうか、あなたの慈しみと福音の光が見える目を私たちにください。私たちは明るい日の日中でも目がよく見えないからです。「自分はよく見える。よく見える」と虚しく言い張ってしまう私たちだからです。偽りの光を捨て去らせて、あなたご自身の御言葉の光にこそ、私たちを導いてください。

    この世界に生きるすべての生き物を顧みて、憐れんでください。身を屈めさせられ、心細く貧しく暮らすものたちが大勢いるからです。食べるもの着るものにも不自由し、安心して体を休める場所も与えられない人や生き物もたくさんいるからです。あなたのお顔に、この顔でお目にかかるその日まで、今あなたから贈り与えられています知識に、慎ましく満足していられますように。私たちを、あなたの似姿に合わせて、日毎に新しくお造りください。そして、私たちの主イエス・キリストにあなたがお授けになった完全な栄光に、この私たちと家族と隣人たちをも入らせてください。

    主イエスのお名前によって祈ります。    アーメン


9/12こども説教「土の塵から人を造った」創世記2:4-18

9/12 こども説教 創世記2:4-18

 土の塵から人を造った

 

2:4 これが天地創造の由来である。主なる神が地と天とを造られた時、5 地にはまだ野の木もなく、また野の草もはえていなかった。主なる神が地に雨を降らせず、また土を耕す人もなかったからである。6 しかし地から泉がわきあがって土の全面を潤していた。7 主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった……15 主なる神は人を連れて行ってエデンの園に置き、これを耕させ、これを守らせられた。16 主なる神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。17 しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。18 また主なる神は言われた、「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」。

(創世記2:4-18

 

 この世界とはどういう世界なのか。そこに生きる私たちや他の生きものたちはどういうものなのか、どのように生きることができるのか。同じ一つのことが、創世記1章と2章で、2つの別の方向から眺められ、2つの少し違う説明の仕方をされます。どちらも本当のことです。なぜ2つの説明の仕方をされるのか、この大切なことをよく考え、もっとよく分かるためにです。

 はじめに世界が造られたとき、この世界は草一本も生えない、荒れ果てた、ものさびしく貧しい世界でした。なぜなら、神さまがまだ恵みの雨を降らせず、また、その恵みを受け止めて土地を耕す者もいなかったからです。恵みの水、そして恵みの雨を受け止めて土地を耕し守る者が、この世界が緑豊かな素晴らしい世界であるために必要でした。それが、私たちが生きる目的です。そこで地面から水が湧き出て、土を耕し守る人間が作られました。7節、「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった」。硬い石や鉄やダイヤモンドではなく、ただの土の塵から人間が造られたというのは、人間が乱暴に扱うと壊れてしまいやすい、カラカラに乾いてしまいやすい、弱い生き物だということです。鼻から吹き入れられた「命の息」は神の霊であり、神さまからの祝福です。そのように人は生きる者とされました。やがて、その命の息が神さまによって取り去られるとき、この私たちも死んで土に還ります。

 15節、「主なる神は人を連れて行ってエデンの園に置き、これを耕させ、これを守らせられた」。エデンの園に連れて来られたのは、その土地を耕し守るためでした。広々とした、大きな世界があり、それぞれに任せられた「それぞれのエデンの園」があります。そこを耕し守って、私たちは生きてゆきます。来週、つづきを話します。

 

 

2021年9月6日月曜日

9/5「良いしもべと悪いしもべ」ルカ19:11-27

           みことば/2021,9,5(主日礼拝)  335

◎礼拝説教 ルカ福音書 19:11-27        日本キリスト教会 上田教会

『良いしもべと悪いしもべ』

 

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

19:11 人々がこれらの言葉を聞いているときに、イエスはなお一つの譬をお話しになった。それはエルサレムに近づいてこられたし、また人々が神の国はたちまち現れると思っていたためである。12 それで言われた、「ある身分の高い人が、王位を受けて帰ってくるために遠い所へ旅立つことになった。13 そこで十人の僕を呼び十ミナを渡して言った、『わたしが帰って来るまで、これで商売をしなさい』。14 ところが、本国の住民は彼を憎んでいたので、あとから使者をおくって、『この人が王になるのをわれわれは望んでいない』と言わせた。15 さて、彼が王位を受けて帰ってきたとき、だれがどんなもうけをしたかを知ろうとして、金を渡しておいた僕たちを呼んでこさせた。16 最初の者が進み出て言った、『ご主人様、あなたの一ミナで十ミナをもうけました』。17 主人は言った、『よい僕よ、うまくやった。あなたは小さい事に忠実であったから、十の町を支配させる』。18 次の者がきて言った、『ご主人様、あなたの一ミナで五ミナをつくりました』。19 そこでこの者にも、『では、あなたは五つの町のかしらになれ』と言った。20 それから、もうひとりの者がきて言った、『ご主人様、さあ、ここにあなたの一ミナがあります。わたしはそれをふくさに包んで、しまっておきました。21 あなたはきびしい方で、おあずけにならなかったものを取りたて、おまきにならなかったものを刈る人なので、おそろしかったのです』。22 彼に言った、『悪い僕よ、わたしはあなたの言ったその言葉であなたをさばこう。わたしがきびしくて、あずけなかったものを取りたて、まかなかったものを刈る人間だと、知っているのか。23 では、なぜわたしの金を銀行に入れなかったのか。そうすれば、わたしが帰ってきたとき、その金を利子と一緒に引き出したであろうに』。24 そして、そばに立っていた人々に、『その一ミナを彼から取り上げて、十ミナを持っている者に与えなさい』と言った。25 彼らは言った、『ご主人様、あの人は既に十ミナを持っています』。26 『あなたがたに言うが、おおよそ持っている人には、なお与えられ、持っていない人からは、持っているものまでも取り上げられるであろう。27 しかしわたしが王になることを好まなかったあの敵どもを、ここにひっぱってきて、わたしの前で打ち殺せ』」。  

*20節「ふくさ」;上等で小さめの風呂敷    (ルカ福音書 19:11-27

 まず11節、「人々がこれらの言葉を聞いているときに、イエスはなお一つの譬をお話しになった。それはエルサレムに近づいてこられたし、また人々が神の国はたちまち現れると思っていたためである」。このたとえ話を語らねばならなかった理由と目的が最初にはっきりと告げられました。①「エルサレムに近づいている」ことと、②「人々が神の国はたちまち現れると思っていたため」であると。救い主イエスが地上に降りて来られた目的と使命が間近に迫っている。つまり、十字架の死と復活の御業とこのたとえ話が深い関りがあるということ。また、『神の国』について、弟子たちも含めて、人々が抱いている誤解を解いて、はっきりと教えておきたいと願ったからです。

12-19節、「それで言われた、「ある身分の高い人が、王位を受けて帰ってくるために遠い所へ旅立つことになった。そこで十人の僕を呼び十ミナを渡して言った、『わたしが帰って来るまで、これで商売をしなさい』。ところが、本国の住民は彼を憎んでいたので、あとから使者をおくって、『この人が王になるのをわれわれは望んでいない』と言わせた。さて、彼が王位を受けて帰ってきたとき、だれがどんなもうけをしたかを知ろうとして、金を渡しておいた僕たちを呼んでこさせた。最初の者が進み出て言った、『ご主人様、あなたの一ミナで十ミナをもうけました』。主人は言った、『よい僕よ、うまくやった。あなたは小さい事に忠実であったから、十の町を支配させる』。次の者がきて言った、『ご主人様、あなたの一ミナで五ミナをつくりました』。そこでこの者にも、『では、あなたは五つの町のかしらになれ』と言った」。救い主イエスはご自分がどういうお方で、これから何を成し遂げようとしておられるのかを、彼らと私たちに知らせようとしています。「ある身分の高い人」とは、救い主イエスご自身のことです。つまり救い主イエスは、ご自身が「遠い所へ旅立ち、やがて王とされ、彼自身の王国を受け取って、この世界へふたたび戻って来られる」。はっきりと話します。「救い主イエスは、復活し、天に昇っていかれ、御父の右の座に座り」と使徒信条で証言されていますが、その「御父の右の席」とは、助言者や補佐官の席などではなく、「王様の席」です。「彼自身の王国を受け取って、戻ってくる」と。つまりその王国は父の国であり、救い主イエスの王国でもあるということです。だからこそ聖書は、「すべての事は父からわたしに任せられています」「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。それゆえに」「それから終末となって、その時に、キリストはすべての君たち、すべての権威と権力とを打ち滅ぼして、国を父なる神に渡される。それまでは(神の国の)支配を続ける」(マタイ11:27,28:18,1コリント手紙15:24-25とはっきり証言しています。14節で、不吉で忌まわしいことが報告されています。「ところが、本国の住民は彼を憎んでいたので、あとから使者をおくって、『この人が王になるのをわれわれは望んでいない』と言わせた」。この世界には、救い主を憎み、『この人が王になるのをわれわれは望んでいない』多くの人々がいつづけるということです。キリスト教会と私たちクリスチャンの中にも、彼を憎み、軽んじて退けようとする悪い心・罪の思いが残りつづけます。『キリストが王であることを望まない』。それは、自分自身が王様であろうとする傲慢であり、自己中心の思いです。だからこそ救い主イエスは、「誰でも、わたしに付いてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、私に従ってきなさい」(ルカ9:23とお命じになったのです。キリストを王として迎え入れるためには、自分自身はその王に仕えるしもべとならなければなりません。自分自身の肉の欲望とかたくなさと傲慢とを退けつづけてです。

さて、主イエスを信じて生きる私たち弟子たちには、ふたたび主が戻って来られるまで果たしつづけるべき使命と役割を授けていかれました。ここが、今日の箇所の最重要ポイントです。救い主イエスはご自身を信じる弟子たちに、つまり、すべてのクリスチャン全員に、分け隔てなく公平に全員一律に、「1ミナ」ずつ貸し与えました。1ミナは100デナリ、つまり100日分の労働賃金です。『わたしが帰って来るまで、これで商売をしなさい』と指図を与えて。これが、クリスチャンの使命であり、主人から与えられた役割です。主人である救い主イエスから貸し与えられ、あるいは贈り与えられている『良いもの、財産、富』とは何でしょうか。第一の根本の意味としては、私たちが生きてゆくために必要なすべて一切、『日毎の糧』です。霊的なものも、物質的なものも、すべて一切。そこには、もちろん神さまからの愛、ゆるし、平和も含まれます。少し前に、民数記の説き明かしで、このことに関わって、「救い主イエスに導かれ、クリスチャンはみな王、祭司、預言者という三つの務めを担って働くからです。『神のものである供え物の一部をあなたに与える』と告げられました。これが『神から与えられる日毎の糧』であり、全収入であり、衣食住、生活費、一日ずつの健康、命、家族、居場所など必要なすべて一切を神から感謝して受け取ります。牧師の謝儀も、それぞれの家の収入も年金も子供たちの月々の小遣いもみな同じ。神からのその分け前を、『給料。給料』などと神を侮ってはなりません」(家庭礼拝歴「民数記18:8-19」)と説き明かしました。

10人の弟子(=すべてのクリスチャン)たちに、一律に、それぞれ100日分の労働賃金に当たる活動資金を預けました。十分な額です。もちろんその10人全員に会計報告を求めたはずです。その一例として、3人がその資金をそれぞれどう用いて、どういう結果になったかが紹介されています。1ミナを使って10ミナを儲けた者、1ミナを使って5ミナを儲けた者。そして1ミナをまったく使わずに上等な小型の風呂敷に包んで引き出しの奥深くにでもしまっておいて、厳しく叱られた者と。1ミナをまったく使わずに、ただしまっておいたしもべは1人しかいなかったのか、2~3人いたのかは分かりません。が、「活動資金を使いなさい」と命令されたのに使わなかったしもべはみな、同じく厳しく叱られたでしょう。実は、その1ミナは王となられる私たちのただお独りの主人から、願いと期待と、そのしもべたちを愛して止まない憐みの熱情をこめて差し出されたものでした。ですから大人も子供も年配の方々も皆、全員一律に1ミナずつだったのであり、その1ミナを使いさえすれば、もうけた額の違いは多少はあるにしても、使ったしもべ全員が誰一人も損害をこうむることなく必ず儲けて、よりいっそう豊かになったはずでした。その主人から指し出された富を用いて、それで損をしたり、減らしたり、すっかり無くしてしまうことなど有り得ませんでした。なぜなら、主のしもべであるしるしは、富を分け与えられているばかりでなく、「主イエスが共にいてくださり、必ず助け、支え、その人自身を持ち運びつづける」(創世28:15,3:12,申命記31:8,イザヤ41:10,マタイ1:23,使徒10:38ことであるからです。神から贈り与えられた愛、平和、ゆるしもまた同様です。2人ずつ組にして弟子たちが町々村々に遣わされたとき、「この家に平安があるように」と祈り求めるようにと指図されました。もし仮に、その家に平和の子が独りもいなくても、なんの不都合もありませんでした。「その場合には、願い求めたあなたのところにその平和が戻ってくる」と保障されたからです。また、「多く愛された者はますます多く愛することができ、多くゆるされた者は多くゆるすことができるし、そのようになる。少ししか愛されなかった者は少ししか愛せず、すこししかゆるすことができない」と約束されています。だからこそ、憐み深い神から咎められたり、叱られることがほとんどない私たちですが、ただ一つだけ厳しく釘を刺されています、「あわれみを行わなかった者に対しては、仮借のないさばきが下される。人に憐みをかけない者には、憐みのない裁きが下されます」(ルカ7:42-,10:6,ヤコブ2:12(口語訳,新共同訳))。惜しみなく、徹底して、深く憐れんでいただいた私たちだからです。

20-23節、「それから、もうひとりの者がきて言った、『ご主人様、さあ、ここにあなたの一ミナがあります。わたしはそれをふくさ(=上等な小型の風呂敷)に包んで、しまっておきました。あなたはきびしい方で、おあずけにならなかったものを取りたて、おまきにならなかったものを刈る人なので、おそろしかったのです』。彼に言った、『悪い僕よ、わたしはあなたの言ったその言葉であなたをさばこう。わたしがきびしくて、あずけなかったものを取りたて、まかなかったものを刈る人間だと、知っているのか。では、なぜわたしの金を銀行に入れなかったのか。そうすれば、わたしが帰ってきたとき、その金を利子と一緒に引き出したであろうに』。この悪いしもべは、むしろ、とても可哀そうです。どんな主人なのかを少しも知らかなったからです。かえって主人についての根も葉もない、デタラメな悪い評判を知らされて、それをよく確かめもしないで真に受けて、鵜呑みにしてしまったからです。「あなたはきびしい方で、おあずけにならなかったものを取りたて、おまきにならなかったものを刈る人なので、おそろしかった」。かわいそうに。だれが、そんなでたらめを彼らの耳に吹き込んだのか。

24-27節「そして、そばに立っていた人々に、『その一ミナを彼から取り上げて、十ミナを持っている者に与えなさい』と言った。彼らは言った、『ご主人様、あの人は既に十ミナを持っています』。『あなたがたに言うが、おおよそ持っている人には、なお与えられ、持っていない人からは、持っているものまでも取り上げられるであろう。しかしわたしが王になることを好まなかったあの敵どもを、ここにひっぱってきて、わたしの前で打ち殺せ』」。救い主イエスが王になることを好まなかったあの敵ども。それは、どこの誰なのか。かつての私たちです。また今でもなおしばしば、神を憎み、軽んじ、神に敵対する心が私たちの中で芽生え、育っていきます。お聞きください。神に敵対さえする不信仰で罪深いその私たちは、けれど、たとえ話の筋書きとは違って、殺されなかったし、追い払われもしなかった。むしろ正反対に、そのとても悪い私たちを滅びから救い出してくださるために、ぜひそうしたいと、救い主は自分のいのちをささげてくださいました。なんということでしょう。聖書ははっきりと証言します、「わたしたちがまだ弱かったころ、キリストは、時いたって、不信心な者たちのために死んで下さったのである。……しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。わたしたちは、キリストの血によって今は義とされているのだから、なおさら、彼によって神の怒りから救われるであろう。もし、わたしたちが敵であった時でさえ、御子の死によって神との和解を受けたとすれば、和解を受けている今は、なおさら、彼のいのちによって救われるであろう。そればかりではなく、わたしたちは、今や和解を得させて下さったわたしたちの主イエス・キリストによって、神を喜ぶのである」(ロ―マ手紙5:6-

 

9/5こども説教「祝福と聖別」創世記1:24-2:3

 9/5 こども説教 創世記1:24-2:3

 『祝福と聖別』

 

1:26 神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。27 神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。28 神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。29 神はまた言われた、「わたしは全地のおもてにある種をもつすべての草と、種のある実を結ぶすべての木とをあなたがたに与える。これはあなたがたの食物となるであろう。……31 神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。夕となり、また朝となった。第六日である。2:1 こうして天と地と、その万象とが完成した。2 神は第七日にその作業を終えられた。すなわち、そのすべての作業を終って第七日に休まれた。3 神はその第七日を祝福して、これを聖別された。神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからである。

(創世記1:24-2:3) 

 

 神が人を造ったとき、人に「生き物たちを治めなさい」と命令なさいました。人間はその言葉を間違って理解して、自分たちの思い通りに好きなように他の生き物たちを扱ってよいと思ってしまいました。自分たちのための世界だし、自分たちこそが王様だし、主人なんだからと。それで、この世界に対しても、ほかのすべての生き物や人間たちに対しても、とても悪いことをしつづけました。ずいぶん後になって、それは「神さまの御心にかなうように、大切に世話をし、養う」(マタイ24:45-51,1コリント手紙4:1-2参照)ことだと気づきました。

 31-23節、「神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。夕となり、また朝となった。第六日である。こうして天と地と、その万象とが完成した。神は第七日にその作業を終えられた。すなわち、そのすべての作業を終って第七日に休まれた。神はその第七日を祝福して、これを聖別された。神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからである」。6日目に、神さまは、ご自分が造ったすべての物を見て、「とても良い」と喜んだことと、7日目に創造のすべての働きを終わって神さまが休み、祝福して、聖別したことを覚えておきましょう。聖別とは、「神が、そのものを、ご自分のものとした」ということです。これが安息日のはじまりです。神が働きを休み、祝福し、聖別なさったので、私たちも自分の働きを離れて休み、神さまからの祝福を受け取り、『自分は自分のものではなく、神のもの』(*)だと心に良く覚えて、新しい一週間ずつを生き始めます。

 

 

      (*)『自分は自分のものではなく、神のもの』;「生きるにも死ぬにも、あなたのただ1つの慰めは何ですか」「それは、生きるにも死ぬにも、わたしは体も魂もわたしのものではなく、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであるということです。……それゆえ彼は聖霊をもたまわり、この御方によって、わたしに永遠のいのちの確証を与え、今後わたしは、彼のために生きることを心から喜び、その備えをしている者であるようにしてくださるのです」。

                   (「ハイデルベルグ信仰問答」第一問 1563年)

 

 

 

2021年9月1日水曜日

8/29「失われた者を探し出して救う神」ルカ19:1-10

             みことば/2021,8,29(主日礼拝)  334

◎礼拝説教 ルカ福音書 19:1-10              日本キリスト教会 上田教会

『失われた者を

探し出して救う神』


牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

19:1 さて、イエスはエリコにはいって、その町をお通りになった。2 ところが、そこにザアカイという名の人がいた。この人は取税人のかしらで、金持であった。3 彼は、イエスがどんな人か見たいと思っていたが、背が低かったので、群衆にさえぎられて見ることができなかった。4 それでイエスを見るために、前の方に走って行って、いちじく桑の木に登った。そこを通られるところだったからである。5 イエスは、その場所にこられたとき、上を見あげて言われた、「ザアカイよ、急いで下りてきなさい。きょう、あなたの家に泊まることにしているから」。6 そこでザアカイは急いでおりてきて、よろこんでイエスを迎え入れた。7 人々はみな、これを見てつぶやき、「彼は罪人の家にはいって客となった」と言った。8 ザアカイは立って主に言った、「主よ、わたしは誓って自分の財産の半分を貧民に施します。また、もしだれかから不正な取立てをしていましたら、それを四倍にして返します」。9 イエスは彼に言われた、「きょう、救がこの家にきた。この人もアブラハムの子なのだから。10 人の子がきたのは、失われたものを尋ね出して救うためである」。                  ルカ福音書 19:1-10

                                               

34:11 主なる神はこう言われる、見よ、わたしは、わたしみずからわが羊を尋ねて、これを捜し出す。12 牧者がその羊の散り去った時、その羊の群れを捜し出すように、わたしはわが羊を捜し出し、雲と暗やみの日に散った、すべての所からこれを救う。……15 わたしはみずからわが羊を飼い、これを伏させると主なる神は言われる。16 わたしは、うせたものを尋ね、迷い出たものを引き返し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くし、肥えたものと強いものとは、これを監督する。わたしは公平をもって彼らを養う。                        (エゼキエル書 34:11-16)

1-4節、「さて、イエスはエリコにはいって、その町をお通りになった。ところが、そこにザアカイという名の人がいた。この人は取税人のかしらで、金持であった。彼は、イエスがどんな人か見たいと思っていたが、背が低かったので、群衆にさえぎられて見ることができなかった。それでイエスを見るために、前の方に走って行って、いちじく桑の木に登った。そこを通られるところだったからである」。主イエスと弟子たちの一行を待ち構えているこのザアカイという男は、取税人の頭であり金持ちでした。この当時、この社会の中には、『取税人』と名付けられた一種独特な立場と境遇の人々がいました。今日の国税局や税務署職員などとはだいぶん違います。そもそも、この国はヨソの国に侵略され植民地にされていました。税金を侵略者であるローマ帝国に納めて言いなりにされる。人々は、自分たちのためではなく、ヨソの国の人々のための税金を嫌々渋々と納めつづけ、だからなおさら、その税金を取り立てる取税人を「罪人」と言って軽蔑し、「税金に不当に上乗せして取り立てて、汚い金を儲けている」などと非難し、憎みました。実際にそのように不当に儲けている者たちもいたかも知れませんが、けれど彼らの憎しみの大部分は八つ当たりです。本当は、侵略者たちに対して腹を立てていたのですし、その支配者の言いなりにされ、踏みつけにされている自分自身のあり方を軽蔑し、憎みたかった。面と向かって「それは嫌だ。間違っている」と言いたいのに言えない彼らは、その代りに、支配者の手先にされている取税人を軽蔑し、憎みました。ですから当時の取徴税人は、他の人たちから軽んじられ蔑まれ、片隅に退けられていた人々の代表格でした。ところが、その軽蔑されている取税人の中から、すでにレビという名前の1人の人が主イエスの弟子とされていました(ルカ5:27-)。主の弟子として迎え入れられたとき、そのレビは他の取税人仲間や友人たちを食事に招いて、彼らと主イエスを引き合わせました。この方に従って生きることの格別な幸いを、自分の仲間や友人たちにも告げ知らせ、できることなら分け与えてあげたかったからです。主イエスはその後も取税人たちとの親しい付き合いを続け、度々一緒に愉快に飲み食いもし、それは多くの人々が知るところとなりました(15:1-2を参照)。それが、ここまでのおよその経緯です。   

「ザアカイは取税人のかしらで、金持だった。彼は、イエスがどんな人か見たいと思っていたが、背が低かったので群衆にさえぎられて見ることができなかった。それでイエスを見るために、前の方に走って行って、いちじく桑の木に登った」と説明されています。なぜ、わざわざ木に登ってまで、イエスという方を見てみたいと思ったのか。単なる好奇心でしょうか。そうかも知れません。けれど、主イエスが取税人の1人を自分の弟子とし、また他の取税人たちとも親しく付き合っていたことも耳にしていました。主イエスに従う人々の中には、取税人のほかにも例えば片田舎の貧しい漁師たちがおり、無学な普通の人たちがおり、軽んじられ卑しめられてきた無数の人々がありました。重い皮膚病を患う人々にも救いの手を差し伸べ、外国人とも分け隔てなく語り合い、赤ちゃんや小さな子供たちさえ拒まれませんでした。「それなら、もしかしたら、こんな自分にさえも希望の扉が開かれているかも知れない」とザアカイは、ほんの少しは期待したかも知れません。それは、大いにありえます。

5-6節、「イエスは、その場所にこられたとき、上を見あげて言われた、『ザアカイよ、急いで下りてきなさい。きょう、あなたの家に泊まることにしているから』。そこでザアカイは急いでおりてきて、よろこんでイエスを迎え入れた」。主イエスはその場所まで来ると、立ち止まり、上を見上げて言われました。「ザアカイよ、急いで下りてきなさい。きょう、あなたの家に泊まることにしているから」。この「あなたの家に泊まることにしているから」という言い方は、とても奇妙な不思議な言葉です。主イエスとザアカイは、もちろん初対面で、いま初めて顔を合わして、言葉を交わしています。あらかじめ宿泊の約束をしていたわけでもありません。主イエスがおっしゃった元々の言葉では、「~泊ることになっている。泊まらなければならない」という意味です。つまり、『父なる神がそう決めておられるので、だから泊まらなければならない。神ご自身の決断のもとに、必ず泊まることに決まっている』という意味です。だからこそザアカイは急いで降りてきて、主イエスを迎え入れ、喜びにあふれました。

 罪人をあわれむ神である、とキリストの教会では何度も何度も語られてきました。耳にタコができるほどです。この2000年もの間、キリストの教会の伝道者たちは繰り返し語ってきました。前任の牧師もそうです。私も生涯語りつづけます。やがて私の後から来る牧師も、その次の牧師もそのまた次の牧師も、「罪人をあわれむ神である」と毎週毎週語り続けるでしょう。「聞き飽きた。そんなことは、もうよく分かっている」と言いたくなるほどにです。それでもなお今日も同じくまったく語らざるをえません。罪深い、恵みを受けるにふさわしくない、値しない惨めな者たちに対して、神のあわれみは注がれる。まったく自由に注がれつづけて決して止むことはないと。このザアカイの出来事は、それを、はっきりと告げます。「立ち止まってください」と求められたわけでもないのに、主イエスは立ち止まりました。「ぜひ語りかけてください」とは求められなかったのに、なにしろ主イエスは彼に語りかけます。「私の家に泊まってください」とも願い求められなかったのに、主イエスは、神ご自身はすでに決めておられました。この小さな男を神の国へと迎え入れることを。あわれみによって神の子たちの1人とすることを。それらすべては、ただ神のあわれみによったのです。

ザアカイばかりではありません。何かをしたからというのではなく、何かに値するからではなく、ふさわしかったからでもなく、誰もが、ただ恵みによって探し求められ、ただ恵みによって救われました。そうでなかった者など、誰一人もおりません。

7-8節、「人々はみな、これを見てつぶやき、『彼は罪人の家にはいって客となった』と言った。ザアカイは立って主に言った、『主よ、わたしは誓って自分の財産の半分を貧民に施します。また、もしだれかから不正な取立てをしていましたら、それを四倍にして返します』」。「もし、だれかから何かだまし取っていたら」とザアカイは言い始めます。もしかしたら、そういうことを私もしていたかも知れない。もし、そうだったらと。ですから、ここで早合点してはいけません。「取税人の頭で金持ちだった。だから当然、他人から不正に騙し取って財産と地位を築いたのに違いない」などと軽々しく決め付けてはいけません。彼は私たちと同じに、どこにでもいるようなごく普通の人間です。何の後ろ暗いこともない正しい人間のつもりで、この私たちと同じようにごく普通に生活してきました。ところが、ここで突然に神の憐れみというまぶしい光に照らされて、自分というものをつくづくと振り返らされてしまいました。福音の光が、彼の魂の暗がりを明るく照らし始めた。すると、「それまで当たり前のようにごく普通のつもりでやってきたことによって、けれど知らないうちに、他の人たちを押し退けたり傷つけたり、悲しませたりしてきたんじゃないか。気づかないままに、誰かから大切なものを奪い取ったり、誰かを辱めたりしてきたかも知れない。もしかしたら、この私も」と。「私の財産を貧しい人たちに施してあげたい」と思い至ったのも、受け取ってきた神の恵みの大きさと豊かさにここで直面させられたからです。それまでは、《自分で稼いだ自分の財産だ、自分が好きなように使って何が悪い》と思っていました。けれど、そうではなく、《神さまこそが貧しい私にこの財産を施してくださった、元々全部が神さまのものだった》と気づき始めたからです。神さまから私がとてもとても親切にしていただいたように、私も、他の人たちに親切に慈しみ深くしてあげたいと。そんなこと、今まで考えたこともありませんでした。まったく新しい福音の眼差しをもって、あの彼もまた、自分自身と周りの人やモノを新しく見つめることをし始めました。《否応なく、ついついそうさせられた》というのが適切でしょう。神のあわれみの御前に、こうして一人の新しい人間が誕生しました。

9-10節、「イエスは彼に言われた、『きょう、救がこの家にきた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子がきたのは、失われたものを尋ね出して救うためである』」。主イエスは、しばしばご自身のことを「人の子」とおっしゃいます。つまり、ここで主イエスは、「私は失われた者を尋ね出して救うために来た」とおっしゃいっています。ザアカイは、神の救いの領域から迷い出て、失われつづけていた者たちの1人でした。失われたまま、さまよい続けている者たちが他にも大勢います。

 主なる神はこう言われます;(エゼキエル書34:10-16)「『主なる神はこう言われる、見よ、わたしは牧者らの敵となり、わたしの羊を彼らの手に求め、彼らにわたしの群れを養うことをやめさせ、再び牧者自身を養わせない。またわが羊を彼らの口から救って、彼らの食物にさせない。主なる神はこう言われる、見よ、わたしは、わたしみずからわが羊を尋ねて、これを捜し出す。……わたしは、うせたものを尋ね、迷い出たものを引き返し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くし、肥えたものと強いものとは、これを監督する。わたしは公平をもって彼らを養う』」。神がご自身でその民を探し求め、連れ戻し、世話をしてくださるというのです。ザアカイの目の前に立っていた方が、その方です。私たちがそれぞれ出会った方が、このお独りの方でした。ナザレの人イエス。「わたしは。この私こそが」と断固としておっしゃる主なる神ご自身、この方こそが、約束されていた救い主である神です。

それまで神を知らなかった、神を信じることのなかった1人の人が、あるとき立ち返って、神を信じて生きることをし始めます。この私もそうでしたし、ここにいる者すべて全員がかつては神を知りませんでした。あるとき、何かのきっかけがあって、それぞれに主イエスと出会いました。この主は、取税人のザアカイにしてくださったとまったく同じことを、他の誰に対してもすることができ、また、喜んでそうしてくださいます。神さまは、私たちと出会おうとしてすでに準備万端です。