みことば/2021,5,23(聖霊降臨日の礼拝) № 320
◎礼拝説教 コリント人への第一の手紙 3:5-17 日本キリスト教会 上田教会
『あなたがたは
神の神殿である』
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)(ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC)
3:5 アポロは、いったい、何者か。また、パウロは何者か。あなたがたを信仰に導いた人にすぎない。しかもそれぞれ、主から与えられた分に応じて仕えているのである。6 わたしは植え、アポロは水をそそいだ。しかし成長させて下さるのは、神である。7 だから、植える者も水をそそぐ者も、ともに取るに足りない。大事なのは、成長させて下さる神のみである。8 植える者と水をそそぐ者とは一つであって、それぞれその働きに応じて報酬を得るであろう。9 わたしたちは神の同労者である。あなたがたは神の畑であり、神の建物である。10 神から賜わった恵みによって、わたしは熟練した建築師のように、土台をすえた。そして他の人がその上に家を建てるのである。しかし、どういうふうに建てるか、それぞれ気をつけるがよい。11 なぜなら、すでにすえられている土台以外のものをすえることは、だれにもできない。そして、この土台はイエス・キリストである。12 この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、または、わらを用いて建てるならば、13 それぞれの仕事は、はっきりとわかってくる。すなわち、かの日は火の中に現れて、それを明らかにし、またその火は、それぞれの仕事がどんなものであるかを、ためすであろう。14 もしある人の建てた仕事がそのまま残れば、その人は報酬を受けるが、15 その仕事が焼けてしまえば、損失を被るであろう。しかし彼自身は、火の中をくぐってきた者のようにではあるが、救われるであろう。16 あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。17 もし人が、神の宮を破壊するなら、神はその人を滅ぼすであろう。なぜなら、神の宮は聖なるものであり、そして、あなたがたはその宮なのだからである。 (1コリン手紙 3:5-17)
まず5-9節。コリントの町に立てられたこの一つのキリスト教会もまた、難しい課題を抱えていました。神を信じる信仰も、それぞれの思いも、ついつい人間中心のものに成り下がり、神ご自身の御心やそのお働きを脇に置いて、自分自身の思いと周囲の人間のことばかりを思い煩いがちになってしまいやすいことです。このコリント人への第一の手紙のごく最初の部分で、彼らの争いやもめ事の中身に早くも触れはじめています。1章11節以下です、「あなたがたの間に争いがあると聞かされている。はっきり言うと、あなたがたがそれぞれ、『わたしはパウロにつく』『わたしはアポロに』『わたしはケパに』『わたしはキリストに』と言い合っていることである。キリストは、いくつにも分けられたのか。パウロは、あなたがたのために十字架につけられたことがあるのか。それとも、あなたがたは、パウロの名によってバプテスマを受けたのか」。彼らはそれぞれに自分が教えを受け、養い育てられた敬愛する格別な先生や教師をもっており、そのことを誇りにも思っていました。けれども、その誇りは度が過ぎました。救い主イエス・キリストこそがすべてのクリスチャンのためのただお独りの先生であり、教師である。そのことを、まるで、すっかり忘れ果ててしまったかのようにです。だからこそ、この手紙の書き出しは、この信仰の中心の中身と出発点へと、あの彼らと私たちを招き寄せようとします。1章2節、「キリスト・イエスにあってきよめられ、聖徒として召されたかたがたへ。このキリストは、わたしたちの主であり、また彼らの主であられる」と。
アポロは、いったい、何者か。また、パウロは何者か。あなたがたを信仰に導いた人にすぎない。しかもそれぞれ、主から与えられた分に応じて仕えているのである。しかし成長させて下さるのは、神である。だから、植える者も水をそそぐ者も、ともに取るに足りない」。そこまで言わなければならなかったのは、なんとしても神ご自身へと目を向け返し、神の御心とそのお働きと存在とに共々に立ち返らねばならないからです。「大事なのは、成長させて下さる神のみである」と、その土台の上に固く立つ者たちでありたいからです。
すべての伝道者と、それだけでなくすべてのクリスチャンとが等しく、このへりくだった低い場所へと連れ戻されます。誰も彼もがみな何者でもない。それぞれ、主から与えられた分に応じて主であられる神さまに仕えている。「神に仕える者たち」である。これこそが、すべてのクリスチャンにとって、最も祝福された幸いな身元証明です。神に仕える者であるとは、神が用いてくださる手段であり、道具であるということです。それは、この私たちが、自分の力で何かをすることができるからではなく、神の道具として、その御手に導かれている者だからこそです。例えば、約束の土地を目前にして、モーセの口を用いて神ご自身が先祖と私たちをこう戒めました、「あなたは心のうちに『自分の力と自分の手の働きで、わたしはこの富を得た』と言ってはならない。あなたはあなたの神、主を覚えなければならない。主はあなたの先祖たちに誓われた契約を今日のように行うために、あなたに富を得る力を与えられるからである」(申命記8:17-19)。
「あなたがたを信仰に導いた人にすぎない。しかもそれぞれ、主から与えられた分に応じて仕えている」。神に仕える伝道者たちがおとしめられているわけではありません。ここに、格別な栄誉があります。私たちそれぞれが信仰を授かったのはその彼らの働きによった、とはっきり告げられるからです。つまり、主なる神があなたがたに、神に仕える仕え人を与えられたからこそ、あなたがたは信仰に導かれたのだと。
「わたしは植え、アポロは水をそそいだ。しかし成長させて下さるのは、神である。だから、植える者も水をそそぐ者も、ともに取るに足りない。大事なのは、成長させて下さる神のみである」。神ご自身のお働きを受けて成長させられてゆく私たちは、「畑」にたとえられ、「建物」にたとえられます。種が蒔かれ、土が耕され、水がまかれ、雑草や木や石ころが取り除かれ、肥料がほどこされます。そのほかいろいろな手間がかけられます。けれどなお、それらの人々の手の働きだけではまったく不十分でした。主なる神ご自身が太陽の日差しを注ぎかけ、暑さ寒さや厳しい日照りから守り、神ご自身が育て上げてくださるのでなければ、畑を耕す者たちのその膨大な労力はなんの実を結ぶこともありえませんでした。
神ご自身こそが成長させてくださる。この一点に、よくよく目を凝らさなければなりません。約束の土地を目前にして、モーセの口を用いて神が戒めつづけたのはこのことです。「あなたは食べて飽き、麗しい家を建てて住み、また牛や羊がふえ、金銀が増し、持ち物がみな増し加わるとき、おそらく心にたかぶり、あなたの神、主を忘れるであろう」(申す命記8:10-14)。心を高ぶらせて主を忘れることがないように、主を忘れることがないようにと。つまり、種を撒く者のためにも水を灌ぐ者のためにも、神ご自身のお働きがそこに伴ってあり続けました。聖霊の御力をもってその務めに光を添え、その働きが虚しいものとならないないようにしつづけてくださいました。神に仕える働き人たちの口から出る一つ一つの言葉をご自身の言葉とし、また聞く者たちの心にその言葉を刻み込んでくださいました。もしそうでなければ、その働きは死んだものでありつづけ、無益で虚しいものでありつづけたことでしょう。8節、「植える者と水をそそぐ者とは一つであって、それぞれその働きに応じて報酬を得るであろう」。多様な、様々な働きが1つとされるのは、それらを用いて、神ご自身が生きて働いておられるからです。しかも人間たちがではなく、神ご自身こそがそれぞれに報酬を与え、評価し、判決をくだされます。
10-15節。神に仕える働き人たちの働きとその役割について、パウロは自分と同労者たちを例にとって説明し始めます。彼は、建築士として土台を据えたのであり、その土台は救い主イエス・キリストである。それは、十字架につけられて死んで復活させられた救い主についての神の救いの知らせを宣べ伝えることであると。キリスト教会にとって唯一無二の土台は救い主イエス・キリストであり、それは取り替えがきかず、すでに据えられてある土台以外の他の土台を据えることは誰にもできないし、ゆるされない。キリスト教会の土台を据えた者たちの働きがあり、その仕事を引き継いで、さらに建て上げてゆく者たちの働きが後につづきます。一個のキリスト教会においてもそうであり、同時にまったく、一人のクリスチャンが生み出され、その信仰の生涯が続いて行くことも同様です。十字架につけられて死んで復活させられた救い主イエスという土台が据えられ、その上に、それぞれの家が建て上げられてゆく。
キリストという土台の上にキリスト教会が建て上げられてゆきます。やがて終わりの日に、なされたその仕事がどんなものだったのかがはっきりと現わされると告げられます。燃え盛る火によって試されるのであり、用いられた建築材料が「金、銀、宝石」という火によって燃え尽きないものなのか、あるいは「木、草、わら」という燃え尽きてしまう材料なのかどうかによって、すべてが明らかにされます。土台が『死んで復活なさった救い主イエスについての使信』であるならば、もちろん積み上げられる石の一つ一つもまた『死と復活の救い主イエスについての使信』でありつづけなければなりません。それでもなお、燃え尽きてしまう虚しい建築材料を用いてしまった愚かな建築家であってもなお、その人もまた「火の中をくぐり抜けてきた者」として救われるとはっきり証言されます。なぜなら、その建築家もまた、主イエスを信じて生きた一人のクリスチャンだからです。火のような試練を受け、そこで神の慈しみによって清められて救われる望みが残されています。しかも、「神ご自身が成長させる」(6-7節)と告げられていました。あの伝道者は「私は熟練した建築家として土台を据えた」と語りました。そうかも知れません。ただ、それでもなお神ご自身こそがその千倍も万倍もの熟練と知恵をもって第一の建築責任者として働き、建て上げてくださいます。私たち人間にできる精一杯の熟練は、その神ご自身の真実なお働きに全幅の信頼を寄せ、服従し、聴き従ってゆくことである他はありません。詩篇127篇を直ちに思い起こしました。「主ご自身が家を建てるのでなければ、家を建てる者が労苦することはむなしい」と。私たちの希望は、ここにあります。主ご自身が家を建てる建築責任者であり、土台そのものであり、建て上げてくださる働き手ご自身である。だから、その働きは決して虚しくはない。虚しくはさせない。
16-17節、「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。もし人が、神の宮を破壊するなら、神はその人を滅ぼすであろう。なぜなら、神の宮は聖なるものであり、そして、あなたがたはその宮なのだからである」。「あなたがたは知らないのか」と、それを十分に知っているはずのクリスチャンにわざわざ問いかけるのが、パウロの大事な口癖です。よく習い覚えて、分かっているはずのことがしばしば分からなくなり、忘れてしまう私たちだからです。そのために、道を踏み外してしまいやすい私たちだからです。そこで、「知らないのか」と、信仰の肝心要の生命の部分がこのように改めて差し出されます。キリスト教会とその信仰共同体が「キリストの体」であり、私たちはその肢(えだ)とされています。また同時に、クリスチャン一人一人が聖霊なる神がそのうちに住んでくださる神殿とされている。その両方の真実です。もし、神が住んでくださる神殿とされた一人のクリスチャンを壊そうとし、傷つけようとするならば、その一人の小さな人をわざと困らせたり苦しめようとするなら、そのとき私たちは神からきびしく咎められることになる。神が私たちの味方であり、同じくまったくその小さな人の味方でもあるとは、このことです。神の憐れみが私たちにも、その一人の小さな人にも同じく及ぶからです。