みことば/2021,5,2(復活節第5主日の礼拝) № 317
◎礼拝説教 ヨハネ福音書 21:1-14 日本キリスト教会 上田教会
『主であると分かった』
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC)
この彼らこそが、キリスト教会の基礎を築く人々とされたのです。格別な教育を受けたわけでもない、教養も知識もないはずの、どこにでもいるごく普通の、いいえ、無力な無きに等しい彼らが。だからこそ、やがて、「私たちを見なさい。私には金も銀もない。誇れるものを何一つ持たない私だが、持っている飛び切りに素敵なものをあなたにあげよう。ナザレの人イエスの名によって立ち上がり、歩きなさい」(使徒言行録3:6参照)と語りかける者たちとされていきました。本当に文字通りに、救い主イエスご自身こそが彼らの支えであり、頼みの綱であったからです。
5-11節。「イエスは彼らに言われた、「子たちよ、何か食べるものがあるか」。彼らは「ありません」と答えた。すると、イエスは彼らに言われた、「舟の右の方に網をおろして見なさい。そうすれば、何かとれるだろう」。彼らは網をおろすと、魚が多くとれたので、それを引き上げることができなかった。イエスの愛しておられた弟子が、ペテロに「あれは主だ」と言った。シモン・ペテロは主であると聞いて、裸になっていたため、上着をまとって海にとびこんだ。しかし、ほかの弟子たちは舟に乗ったまま、魚のはいっている網を引きながら帰って行った。陸からはあまり遠くない五十間ほどの所にいたからである。彼らが陸に上って見ると、炭火がおこしてあって、その上に魚がのせてあり、またそこにパンがあった。イエスは彼らに言われた、「今とった魚を少し持ってきなさい」。シモン・ペテロが行って、網を陸へ引き上げると、百五十三びきの大きな魚でいっぱいになっていた。そんなに多かったが、網はさけないでいた」。ここにいるこの私たちもそうであるように、主の弟子たちは様々な性分と持ち前の者たちでした。例えば、同じ小舟に乗り合わせた2人の弟子たちのうちの1人は、夜明けの薄暗い岸辺に立っているお方が主イエスだと真っ先に気づきました。「主だ」と言いました。けれどもう1人の弟子は湖に飛び込んで、主イエスのいる岸辺に向かって泳ぎはじめました。よく考えて判断してということではなく、むしろ後先考えず、そうせずにはいられなかったのです。主イエスを愛する心が1人の弟子に、「主だ」と気づかせます。その同じ心が、もう1人の弟子に、湖に飛び込ませます。
それよりも何よりも、救い主イエスが復活なさったのです。聖書は証言します;「兄弟たちよ。わたしが以前あなたがたに伝えた福音、あなたがたが受けいれ、それによって立ってきたあの福音を、思い起してもらいたい。もしあなたがたが、いたずらに信じないで、わたしの宣べ伝えたとおりの言葉を固く守っておれば、この福音によって救われるのである。わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと」(コリント手紙(1)15:1-8)。聖書が証言するばかりではありません。ここにいるこの私たちも同じく語り始めます。家にいるときにも道を歩いていても、家族の前でも誰の前でも、自分自身の魂に向かっても。朝も昼も晩も。キリストが、聖書に書いてあるとおり、この私自身の罪のためにも死んでくださったこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、多くの兄弟たちに現れ、そして最後にとうとう、月足らずで生まれたような私にも現れました。これこそ、この私にとっても最も大切なことです。なにしろキリストが死んで葬られ、復活してくださった。この私たちもまた、キリストに結ばれて、古い罪の自分と死に別れ、神さまに逆らう考えやあり方を葬っていただき、そのようにして神さまの御前で、神さまに向かって新しく生きる者とされた(ローマ手紙6:1-11)。告げ知らされてきた福音は、このことです。この私たち自身も受け入れ、これまでも生きてゆくことの拠り所としてきたし、今もこれからもそうです、と。
復活の主イエス・キリストは、7人の弟子たちの目の前に現れました。その生身の体をさらして。ガリラヤの湖のほとりで腰を下ろし、親しく語りかけ、弟子たちと一緒に食べたり飲んだりもなさいました。しかも、主イエスの弟子たちよ。この同じガリラヤの湖で、この同じ『元・漁師』たちのために、主イエスが彼らと出会った一番最初のときとまったく同じ出来事がわざわざ繰り返されたのです。出会った一番最初のとき。夜通し漁をして虚しく帰ってきた翌朝、「網を降ろしてみなさい」と主イエスから命じられ、半信半疑で、網を降ろしてみました。おびただしい数の魚に2艘の小舟が沈みそうになったとき、「主よ、私から離れてください。私は罪深い者です」と縮みあがってひれ伏したペトロでした(ルカ福音書5:8)。主よ、私から離れてください。私は罪深い者です。『私はとても汚れた者だし、恵みと祝福にまったく値しない罪人である』という認識はそのままに、やがてその同じ彼が、「だから離れてください」というのではなくて、「私はとてもとても汚れた者なのです。あなたがよくよくご存知のとおりに。ですから、どうか、私から離れないでいてください。こんな私を二度と再び離さないでください。あなたから離れては何もできず、何一つも実を結ぶことができない私だからです(ヨハネ福音書15:5参照)。頼みます。お願いですから」と、必死になってすがりつく者とされていきました。そのペテロが、岸辺に主イエスが立っておられると知った途端に湖に飛び込んで、泳いで近寄ってゆく彼とされていきます。
最初に、「子たちよ、何か食べるものがあるか。舟の右の方に網をおろして見なさい。そうすれば、何かとれるだろう」(5-6節)と指図なさった。弟子たちが期待に反して何の収穫もなく、手ぶらで戻ってくるその前から、岸辺では炭火が起こしてあり、その上に魚が載せてあり、パンさえもすでに用意してありました。「さあ、来て、朝の食事をしなさい」(12節)と招いてくださいました。彼らが食べる物を何も持たず、疲れ果てて、腹ペコであることを、復活の主イエスはよくよくご存知でした。あの彼らのことを、ここにいるこの私共のことさえも、ちゃんと顧みておられます。もう誰も、「あなたはどなたですか」と問いただそうとしません。すっかり十分に分かったからです。目の前にいるこのお独りの方が自分たちの主である、主に従って生きる私たちであると。陸に上がるとすでに炭火がおこしてあり、その上に魚が載せてあり、パンもすでに用意してあり、153匹もの大きな魚で網がいっぱいでした。153匹。とれた魚の数を一匹一匹、弟子たちにわざわざ数えさせているのは、主の恵みの御計らいを何一つも忘れず、すべての恵みを心に留め、刻み続けて生きるためです(詩103:1-2参照)。しかも、それほど多くの収穫だったのに、網は裂けずにしっかりと保たれてあったことも、皆すべて、神ご自身の格別な計らいでした。その恵みの収穫をあの彼らも私たちも喜び味わい、神さまへの感謝と信頼を深く心に刻みつけるためです。今日この箇所をご一緒に読んだのは、この私たちが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、信じて、イエスの名により生命を受けるためです。生命を受け取りつづけて一日ずつを生き延び、主イエスの復活の証人でありつづけるためです。『イエスは主である』と私たちも知っています。神さまご自身が教えてくださったからです。ある日、「私が暮らしてゆく毎日の生活と、この救い主とは関係がある。この一回の礼拝と、普段のいつもの暮らしの中で私が何をどう選び取り、何を捨て去り、何を掴み取り、何を投げ捨てることができるのか。どんな眼差しで物事を見据え、どういう腹積もりで生きることができるのかということとは大いに関係がある。むしろその礼拝の積み重ねの土台の上に立って、一日ずつを生きる私である」と、その人は気づきはじめました。神さまが、とうとうその人にも教えはじめてくださったからです。さまざまなことに振り回されつづけていた人が、あるとき気づきはじめます。「この私こそが主に逆らっていた。天の父の御心を知らされながら、なおそれを二の次三の次とし、後回しにしつづけていた。なんということだろう」と。神さまが、その人に教えてくださったのです。湖のほとりで「パンをとり彼らに与え、また魚も同じようにされた」(13節)ときにも、聖晩餐のパンと杯を受け取るときにも、「わたしたちに必要ないのちの糧を一日ずつどうぞ贈り与えてください」と願い求めて、主からの恵みの糧の一つ一つを感謝して受け取るときにも、この私たちもまた、それが主からの恵みの糧であると分かりはじめました。そのように主を知りはじめました。神さまご自身こそが、私たちにも、主が確かに主でありつづけてくださると教えてくださったのです。