2021年5月17日月曜日

5/16「わたしに従いなさい」ヨハネ21:18-19

        みことば/2021,5,16(復活節第7主日の礼拝)  319

◎礼拝説教 ヨハネ福音書 21:18-19               日本キリスト教会 上田教会

『わたしに従いなさい』


牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

21:18 よくよくあなたに言っておく。あなたが若かった時には、自分で帯をしめて、思いのままに歩きまわっていた。しかし年をとってからは、自分の手をのばすことになろう。そして、ほかの人があなたに帯を結びつけ、行きたくない所へ連れて行くであろう」。19 これは、ペテロがどんな死に方で、神の栄光をあらわすかを示すために、お話しになったのである。こう話してから、「わたしに従ってきなさい」と言われた。  ヨハネ福音書 21:18-19

                                               

9:21 イエスは彼らを戒め、この事をだれにも言うなと命じ、そして言われた、22 「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日目によみがえる」。23 それから、みんなの者に言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。24 自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを救うであろう。25 人が全世界をもうけても、自分自身を失いまたは損したら、なんの得になろうか。        (ルカ福音書 9:21-25)

 

11:28 すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。29 わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。(マタイ福音書11:28-30)


  18-19節、「『よくよくあなたに言っておく。あなたが若かった時には、自分で帯をしめて、思いのままに歩きまわっていた。しかし年をとってからは、自分の手をのばすことになろう。そして、ほかの人があなたに帯を結びつけ、行きたくない所へ連れて行くであろう』。これは、ペテロがどんな死に方で、神の栄光をあらわすかを示すために、お話しになったのである。こう話してから、『わたしに従ってきなさい』と言われた」。若いときには自分で帯を締めて行きたいところへ行っていた。しかし年をとると、こうやって両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、自分が望まない、行きたくないところへも無理矢理にも連れていかれる。目の前に差し出されている最初の意味としては、『捕まえられてあちこちへ引き回されてゆく囚人の姿』です。救い主イエスは、やがてペテロが迫害者の手に捕まり、殉教の死を遂げることをあらかじめ知っておられました。その殉教の死によってペテロが、神の栄光をあらわすことになるのだと告げて、ペテロを励まし、やがて迫って来ようとするきびしい戦いを耐え抜くようにと、そのための備えをさせています。

けれど、そればかりではなくて、クリスチャンは誰もが皆、このペテロのように生きてゆくのです。帯を締められ、クビキをかけられ、けれどもその手綱(たづな)を牢役人でも看守でも他の誰でもなく、救い主イエスこそが握っておられます。「わたしのクビキを負って、わたしに従ってきなさい」(マタイ福音書11:27-30参照)と、おっしゃっていたではありませんか。それこそが主イエスに従って生きることだと。しかも不思議なことに、それこそが格別な喜びと平安であり、背負ってゆく荷物もあまりに軽い。

くわしく味わいましょう。「若かった時には」、つまり神さまを信じて生き始める前には、自分が自分のための主人でした。行きたいところへ行ったし、行きたくないところへは行かなかった。嫌だとか気が進まないなどと断ればいいんですから。したいことをし、したくないことをしないで自由に勝手気ままに生きることができた。けれど神さまを信じて、もし、主イエスに従って生きはじめようとするならば、もし、神さまをこそ自分の主人とするならば、主であられる神さまから「~しなさい」と命じられれば、する。「~してはいけない」と言われれば、したくてしたくてウズウズしても、それをしないでおく。『イエスは主である。主イエスにこそ従う私である』。神を信じて生きることの嬉しさや心強さは、そのことだと。

 どんな死に方で神の栄光をあらわすかを示すために、お話しになった。どんなふうに生きて死ぬのかを、この私たちのためにも、神ご自身こそが決めておられ、その用意をすっかり整えていてくださる。その生涯をもって神の栄光をあらわすように定めていてくださる。それは、神を信じて生きる私たちに、これ以上はないほどの十分な慰めを与えます。もし仮に、自分自身にこれから起こる出来事のすべて一切があらかじめ知らされるとしたら、しかも、それは何一つも自分で選んだり変えたりできないことだとしたなら、多くの人々にとって、惨めで悲しく辛いことになるかも知れません。私たちの多くは他の何についてよりも、愛について苦しみ、傷つき、思い悩みます。身近な家族の愛を信じることができずに苦しむ人たちが大勢います。大切な人たちをかえってよそよそしく遠ざけ、毛嫌いし、心の底で憎んでしまう人たちもいます。妻を愛せない夫。夫を愛せない妻。わが子を愛せない親たち。あるいは逆に、連れ合いや父さん母さんから、この私は十分に愛されていない。子供たちから、仲間や友だちから、もっと愛してもらいたい、もっと大事に扱ってもらいたいと。愛されることが少なすぎるので、だからこの私は虚しくて惨めでと。

いいえ、神を信じて生きるクリスチャンにとっては、『自分の全生涯を神こそが決めていてくださる』と、それを思い起こすことは格別な、深い慰めと励ましになります。自分の全生涯が救い主イエス・キリストによって知られており、救い主イエスによってあらかじめ定められ、用意されている道であると気づくことができるならば。偶然や、運不運や、たまたまそうなってしまったという気まぐれなど、自分の人生の中に何一つもなく、救い主イエスによってあらかじめ定められていると気づくならば。しかも、このお独りの方は、十分に賢くて間違いを犯すことがなく、しかも私たちをとても愛していてくださるので、どこの誰も、私たちに意味なく危害を及ぼしたり、必要のない苦しみや痛みを味あわせることも決してできないのですから(ローマ手紙 8:31-39参照)

 私たちそれぞれが生きて死ぬことのすべて一切を、救い主イエスこそがあらかじめ定めていてくださり、用意していてくださる。その全生涯をもって、この私たち一人一人もまた、神の栄光をあらわすことになる。薄暗く危うい谷間を歩くような日々があり、はげしい嵐の中を心細い思いを抱えて歩く日々もあり、けれどそうした日々にも、「救い主イエスがこのことも知っていてくださり、私をご自分の弟子として招いてくださったときから、あらかじめ計画し、このことについても準備を十分に整えてくださっていた」ことを心に刻み込んでおきたいのです。神が味方であってくださるとは、このことです。思いがけない苦難や災いや厄介ごとが起こる度毎に、私たちを愛してくださる救い主イエスに向かって苦情や文句を言うのではなく、むしろ精一杯の信頼を寄せ、そこで支えと助けを神に願い求めることができます。「主はわたしの魂をいきかえらせ、み名のためにわたしを正しい道に導かれる。たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです」と。また、私たちは旅路を歩みながら互いに励まし合います、「わたしは山にむかって目をあげる。わが助けは、どこから来るであろうか。わが助けは、天と地を造られた主から来る。主はあなたの足の動かされるのをゆるされない。あなたを守る者はまどろむことがない。見よ、イスラエルを守る者はまどろむこともなく、眠ることもない」と。なにより父なる神に向かって、私たちは、「アバ父よ」と呼ばわることができます。「アバ、父よ、あなたには、できないことはありません。どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」(詩23:3-4,121:1-4,マルコ14:36と。主はすべて、あらかじめ御存知であり、もし、それが私の幸いと祝福のために役に立たないことであるなら、それを取り除いてくださるに違いないからです。神を信じて生きるクリスチャンのその生きることも死ぬことも皆すべて、ペテロだけでなく私たちすべてのクリスチャンの生涯のすべて一切が、神の栄光を現わすために神ご自身によって定められ、用意され、あらかじめ計画されていました。主なる神のために生きるだけでなく、主のために死ぬこともできる者とされている私たちです。

 先ほどご一緒に歌いました讃美歌285番。その1節は、「主よ、あなたの御手によって私の手を引くようにして導いていってください」と願い求めます。「そのようにして、ただ、私の主が選び取り、授けてくださる主の道をこそ、私は歩主に従ってんでいきます。その道がどんなに暗く険しくても、その道を歩むことが主の御旨であるなら、喜んで、私は従ってゆきます」。3節は、「主よ、わたしが飲むべき私の杯、あなたが選び取って私に与えてください。と願い求めています。それが喜びでも、あるいは悲しみであっても、主であられる神が私の杯にそれを満たしてくださるなら、満たしていただくままに、私はそれを受け取り、飲み干します」。4節も、「この世界を主におささげし、神の国としていただくためには、この私もそのために他人から責められることも恥を受けることも、安らかに受け取ります。それがいったいなにほどのことでしょう。主の御心にこそすべて一切をお任せし、お委ねして、歩んでいきます」と歌っています。自分が選んで決めた自分の道をではなく、主であられる神さまが選んで決めてくださる主の御心になかう道を歩みます。これが、クリスチャンの晴れ晴れとした広い道です。私たちに帯を締めるのも、その帯をもって連れて回るのも主イエスです。内心行きたくないなあと思っても、主イエスが連れて行くなら、たとえ嫌々渋々でも付いていきます。主イエスが引き止めるなら、私たちは行かない。したくても、主イエスがダメと仰るなら私たちは決してしない。しなさいと命じられるなら、自分自身の願いや計画や思いを脇に置いて、私たちはそれをする。つまり、主イエスへの従順と服従です。古い罪の自分と死に別れて、神の御前で新しく生きる者とされる。「この世を神にささげまつり、神の国となすためには」。難しいことを言います。この世界全体を神さまにささげ、世界のすべてを神さまのご支配のもとに置き、その王国とすることは、現実的に具体的には、どうやって実現していくでしょう。しかも、今はまだまだ、そうはなっていない。この難問を考えながら、主の祈りを思い浮かべていました。『御父よ。あなたの名を讚美させ、感謝と信頼を寄せさせてください。あなたの国を来らせてください。あなたの御心が天の上でなされるだけじゃなくて、この地上で、私たちの生活の只中で成し遂げられるようにしてください。……国と力と栄光とは、限りなく、すっかり全部、あなたのものだからです』。神さまにすべてをささげることと神の国の実現。それを拒んでいた張本人は、この私たち自身です。「私が私が」と言い張って、神さまの御心どおりではなく、むしろもっぱら、この私の願い通りにさせてくださいと拘って、心を頑固にしていました。神ご自身の国を拒みつづけて、すべてを自分の思いのままに抱え込んでいました。本当に、申し訳ありません。ですから、どうぞ、この歌の心を『私の新しい心』とさせてください。あなたの御旨を喜び、慕い求め、あなたにこそお委ねし、主にすっかり全部お任せして生きるしもべとならせてください。主に信頼し、聴き従って生きる私たちとならせてください。

 「私に従ってきなさい」と救い主イエスが、私たちを招きます。