2021年4月25日日曜日

4/25「信じる者になりなさい」ヨハネ20:24-31

         みことば/2021,4,25(復活節第4主日の礼拝)  316

◎礼拝説教 ヨハネ福音書 20:24-31                    日本キリスト教会 上田教会

『信じる者になりなさい』


牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

20:24 十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれているトマスは、イエスがこられたとき、彼らと一緒にいなかった。25 ほかの弟子たちが、彼に「わたしたちは主にお目にかかった」と言うと、トマスは彼らに言った、「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」。26 八日ののち、イエスの弟子たちはまた家の内におり、トマスも一緒にいた。戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って「安かれ」と言われた。27 それからトマスに言われた、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。28 トマスはイエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ」。29 イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。

30 イエスは、この書に書かれていないしるしを、ほかにも多く、弟子たちの前で行われた。31 しかし、これらのことを書いたのは、あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名によって命を得るためである。                         ヨハネ福音書 20:24-31

 救い主イエスは、ただ十字架にかけられて、苦しく惨めな死を遂げただけではありませんでした。惨めで無残な、見捨てられた者の死がそこにある。けれど、それだけではありません。勝ち取ってくださった『罪のゆるし』が、そこにあります。新しく生きるための格別な生命と、朽ちることも萎むこともない平和と救いの源がそこにあります。主イエスが死んで、新しい生命によみがえってくださったように、この私たちも古い罪の自分と死に別れさせていただいて、そのようにして新しい生命に生きる者たちとされます。主イエスの十字架の死と復活の、その1週間後のことです。

  まず24-25節。「十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれているトマスは、イエスがこられたとき、彼らと一緒にいなかった。ほかの弟子たちが、彼に『わたしたちは主にお目にかかった』と言うと、トマスは彼らに言った、『わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない』」。

デドモとは「ふたご」という意味のあだ名です。救い主イエス・キリストは、聖書の中であらかじめ予告されていたとおりに(イザヤ53:5-12,16:10,ホセア6:2,マタイ福音書16:24,ルカ福音書24:25-27,コリント手紙(1)15:3-5、十字架につけられて殺され、葬られ、その3日目に墓からよみがえりました。その復活した姿を弟子たちに見せてくださいました。弟子たちはそのとき、主イエスを殺したユダヤ人たちを恐れ、自分たちも何をされるか分からないと家の中に閉じこもりました。小さくなって震えていました。そこへ主イエスが来て、彼らの真ん中に立ちました。「安らかでありなさい。あなたがたに平和があるように」と仰いました。そう言ってから、手と脇腹に残った十字架刑の傷跡を見せました。弟子たちはその傷跡を見て、喜びにあふれました(19-20)。けれどそのとき、12人の弟子の1人トマスは、そこにいませんでした。ほかの弟子たちは、「私たちは復活なさった主イエスを、この目で見た。本当なんだ」と言います。けれどトマスは、頑として聞き入れません。

  つづいて26-28節を読みましょう。「八日ののち、イエスの弟子たちはまた家の内におり、トマスも一緒にいた。戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って「安かれ」と言われた。それからトマスに言われた、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。トマスはイエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ」。8日後にもう一度、主イエスが現れてくださったのは、特には、あの疑い深いトマスのためです。トマスに目を向けます。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ。また、この手をそのわき腹に入れてみなければ」。この疑い深さは、良いことです。私たちもそうであるように、この人にも長所と短所があるでしょう。けれどこの彼の一番良い所は、ここです。疑い深いこと。そう簡単に信じたり飛びついたりしないこと。なぜなら簡単に信じた人は、同じように、ごく簡単に失望してガッカリしてしまうかも知れません。気軽に飛びついた人は、同じように気軽に、あっさりと捨て去ってしまうかも知れません。

  もう一か所、使徒言行録17:10-12に、疑い深いことのとても素敵な良い手本があります。ベレア地方の人々です。彼らは主の弟子たちを迎え入れ、その人々が語る福音の説教を熱心に聴きつづけました。そればかりでなく、聴いた後で、「そのとおりかどうか、毎日、聖書を調べていた。そこで、そのうちの多くの人々が信じ、信仰に入った」と。礼拝説教を聴いて、「素晴らしい。感動した」と感じるときがあります。あるいは逆に、「つまらなかった。少しも心に響かなかった」と。けれど、その時々の気分や感情は、実は、あまり当てになりません。長続きもしません。それよりも、そのメッセージが本当に神さまから来ているのかどうか。それこそが大切です。もし神からのものであれば、聴きづらくても耳痛くて苦くても、それを飲み込みたいのです。もし人間からのものであれば、たとえ雄弁で耳障りが良くても、決して鵜呑みにしてはいけません。そのためにこそ、それぞれ手元に1冊ずつの聖書を持っています。主イエスのところへ行き、この独りの方から格別な生命を受け取るために(ヨハネ福音書5:39-40。ベレア地方の人々のように。あるいは疑い深いトマスのように。

 まず、本当かどうか疑う。次に、自分で聖書を調べて、確かめてみる。だからこそ、その人々は、やがて生身の人間たちをではなく、神ご自身を信じて頼みの綱とする者たちへと育っていきます。説教を聴いて、「本当かどうか」と引っかかる時もあります。心がざわめき、疑わしく思えるときもあります。聖書のページを自分で開いて、自分自身の心で確かめてみましょう。もし、そのとおりだったら、それは受け入れて聴き従うに値します。それが本当に神からのものであるならば、聴いた言葉はあなたを生かし、あなたを心強く導きはじめるでしょう。

 ですから、疑い迷うその人たちを侮ってはいけません。ためらって考え込んでいるその人を、見くびってはなりません。手間取り、疑ったり悩んだり迷ったりし、行きつ戻りつして足踏みした者たちは、本気で信じるための準備をしています。行きつ戻りつして踏みしめられた足元の地面は、踏み固められ、やがてその人がしっかりと立つための堅いガッシリした土台となります。「手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ。また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、決して信じない」。トマスの魂の叫びが聞こえます。「私は決して信じない」。それは、ぜひ信じたいと叫んでいます。私も信じたい。信じて生きることをしてみたい。そのためならば、この指を伸ばして、あの方の釘跡に触ってみさえする。この手をそのわき腹に入れ、その深い傷跡の中にぜひとも手を触れてみたい。

  主イエスは、11人のためにご自分の姿を現わしてくださいました。疑い深いトマスのためにも、ご自分の姿を現わしてくださいました。あの一人の彼のことも、ちゃんと顧みておられるのです。それぞれの恐れと悩みをよく知っておられるからです。ぜひ信じたいという、その願いを知っておられるからです。あなたがたに平和があるように。十字架にかけられる前の晩に主イエスはおっしゃいました、「わたしは平安をあなたがたに残し、わたしの平安をあなたがたに与える。私が与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなあたがたは心を騒がせるな。またおじけるな」(ヨハネ福音書14:27。それぞれに抱えもった恐れと思い煩いの中でも消えて無くならない、主イエスご自身から贈り与えられた平和と心の安らかさがあるように。あるとき誰かが、あなたにちょっとしたことを言います。分かってもらえないことはあります。誤解されたり、ひどくねじ曲げられることも。誰も賛成してくれなかったり、誰一人も支えてくれないこともあります。かえってきびしく非難されたり叱られたり、見下されたり知らんぷりされたり。すると、鍵をかけたくなります。家の中に閉じこもって、小さくなって震えていたくなります。「こんなことをしたら世間の皆さまからどう思われるか。いったい、なんと見られるだろうか」と。

ですから、27-29節をよく確かめましょう。「それからトマスに言われた、『あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい』。トマスはイエスに答えて言った、『わが主よ、わが神よ』。イエスは彼に言われた、『あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである』」。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい」と勧められて、トマスはその後、どうやって主イエスを信じたでしょう。指を傷跡に入れたか、入れなかったのか。もし指と手のひらで触れてみたのなら、とても重要なことなので、「触れてみた。差し入れてみた」と、はっきり書いてあるはずです。けれども、そうしたとは一言も書いてありません。聖書が何のために書かれ、どのように書かれているのかを聖書自身が明確に証言します、「しかし、これらのことを書いたのは、あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名によって命を得るためである」(ヨハネ福音書20:31と。その証言を受け止めて、世々の教会は「聖書には、罪人が救い主イエスを信じて救われるために必要なすべて一切が、十分に書かれてある」と習い覚えてきました。もし指と手のひらで触れてみたのなら、「触れてみた。差し入れてみた」とはっきり書いてあるはず。けれども、そうしたとは一言も書いていない。つまり、あのときトマスは、自分の指を主イエスのてのひらの釘跡に当ててみませんでした。自分の手を主イエスの脇腹の傷跡に入れてみませんでした。そんなことをわざわざしてみるまでもなく、疑いは拭い去られ、すでにはっきりと信じていたからです。「指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。さあ、どうぞ。あなたは信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。そのように目の前で自分に向かって本気で語りかけてくださり、「あなたの指をここにつけて。手を伸ばして、わたしの脇腹に」と強く促していただいたとき、それでもう十分に分かりました。主イエスご自身の心が彼の心にも届いて、彼の疑いと迷いがすっかり拭い去られていました。「わたしの主、わたしの神」とトマスは、ついにとうとう救い主イエスの御前に身を屈めさせていただきました。わたしの主、わたしの神。救い主イエスに対して直接に、はっきりと「神」と呼び、しかもとうとう「わたしの神」とさえ呼ばわることができた弟子はトマスが最初でした。疑い深く、心がやや頑固でもあった彼こそがまず最初に、神ご自身の憐れみによってねじ伏せられ、主であり神であられます救い主イエスへの信仰を言い表す者とされました。なんということでしょう。しかも今では、この私たちも、救い主イエスのお姿を見たわけでもなく、手で触れたわけでもなく、その御声をこの耳で直接に聴いたわけでもなく、にもかかわらず、はっきりと信じています。神ご自身がこの私たちをも、神を信じて生きる者たちとしてくださったからです。

 


4/25こども説教「神が約束した希望」使徒26:1-8

  4/25 こども説教 使徒行伝26:1-8

 『神が約束した希望』

 

26:1 アグリッパはパウロに、 「おまえ自身のことを話してもよい」と言った。そこでパウロは、手をさし伸べて、弁明をし始めた。「……4 さて、わたしは若い時代には、初めから自国民の中で、またエルサレムで過ごしたのですが、そのころのわたしの生活ぶりは、ユダヤ人がみんなよく知っているところです。5 彼らはわたしを初めから知っているので、証言しようと思えばできるのですが、わたしは、わたしたちの宗教の最も厳格な派にしたがって、パリサイ人としての生活をしていたのです。6 今わたしは、神がわたしたちの先祖に約束なさった希望をいだいているために、裁判を受けているのであります。7 わたしたちの十二の部族は、夜昼、熱心に神に仕えて、その約束を得ようと望んでいるのです。王よ、この希望のために、わたしはユダヤ人から訴えられています。8 神が死人をよみがえらせるということが、あなたがたには、どうして信じられないことと思えるのでしょうか。    (使徒行伝26:1-8

 

 ローマ帝国から遣わされた役人と、その植民地とされたユダヤの王の前で、パウロはキリスト教の信仰の中身がどういうものであるのかを説明しはじめました。それは同時に、ユダヤ人が神から約束され、信じ続けてきた希望でもあったのです。6-8節、「今わたしは、神がわたしたちの先祖に約束なさった希望をいだいているために、裁判を受けているのであります。わたしたちの十二の部族は、夜昼、熱心に神に仕えて、その約束を得ようと望んでいるのです。王よ、この希望のために、わたしはユダヤ人から訴えられています。神が死人をよみがえらせるということが、あなたがたには、どうして信じられないことと思えるのでしょうか」。神が死人をよみがえらせることができる。そのように救い主イエスが父なる神の御力によって死人の中からよみがえらされた。救い主イエスに率いられて、この私たちも同じよみがえりの生命に生きる者とされること。なんでもおできになる神が、それをなさった。神にできないことは何一つもないし、そのうえ、その同じ神が私たちの味方であってくださる。これが、このキリスト教信仰の中身です。

 

2021年4月20日火曜日

4/18こども説教「訴える理由」使徒25:23-27

 4/18 使徒行伝25:23-27

 『訴える理由』

 

25:23 翌日、アグリッパとベルニケとは、大いに威儀をととのえて、千卒長たちや市の重立った人たちと共に、引見所にはいってきた。すると、フェストの命によって、パウロがそこに引き出された。24 そこで、フェストが言った、「アグリッパ王、ならびにご臨席の諸君。ごらんになっているこの人物は、ユダヤ人たちがこぞって、エルサレムにおいても、また、この地においても、これ以上、生かしておくべきでないと叫んで、わたしに訴え出ている者である。25 しかし、彼は死に当ることは何もしていないと、わたしは見ているのだが、彼自身が皇帝に上訴すると言い出したので、彼をそちらへ送ることに決めた。26 ところが、彼について、主君に書きおくる確かなものが何もないので、わたしは、彼を諸君の前に、特に、アグリッパ王よ、あなたの前に引き出して、取調べをしたのち、上書すべき材料を得ようと思う。27 囚人を送るのに、その告訴の理由を示さないということは、不合理だと思えるからである」。    

(使徒行伝25:23-27

 

25-26節、「しかし、彼は死に当ることは何もしていないと、わたしは見ているのだが、彼自身が皇帝に上訴すると言い出したので、彼をそちらへ送ることに決めた。ところが、彼について、主君に書きおくる確かなものが何もないので、わたしは、彼を諸君の前に、特に、アグリッパ王よ、あなたの前に引き出して、取調べをしたのち、上書すべき材料を得ようと思う」。主イエスの弟子であるパウロが、「私はローマ皇帝に上訴する」と言い出しています。それで、ローマ皇帝からユダヤの国に遣わされてきた役人フェストは困った立場に置かれました。もし、わざわざパウロを罪人として皇帝のもとに送り届けるならば、ちゃんとした事情や理由を説明した手紙を添えて送らなければなりません。けれどそのはっきりした理由が見当たらないのです。「彼(パウロ)は死に当たることは何もしていないと私は見ている。そして、彼について主君に書き送る確かなものが何もない」とフェストは言います。この取り調べで、なんとかして、ローマ皇帝に説明する材料を手に入れなければなりません。

 

4/18「安らかでありなさい」ヨハネ20:19-23

       みことば/2021,4,18(復活節第3主日の礼拝)  315

◎礼拝説教 ヨハネ福音書 20:19-23                 日本キリスト教会 上田教会

『安らかでありなさい』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

20:19 その日、すなわち、一週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人をおそれて、自分たちのおる所の戸をみなしめていると、イエスがはいってきて、彼らの中に立ち、「安かれ」と言われた。20 そう言って、手とわきとを、彼らにお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ。21 イエスはまた彼らに言われた、「安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」。22 そう言って、彼らに息を吹きかけて仰せになった、「聖霊を受けよ。23 あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう」。(ヨハネ福音書 20:19-23

                                               

5:18 しかし、すべてこれらの事は、神から出ている。神はキリストによって、わたしたちをご自分に和解させ、かつ和解の務をわたしたちに授けて下さった。19 すなわち、神はキリストにおいて世をご自分に和解させ、その罪過の責任をこれに負わせることをしないで、わたしたちに和解の福音をゆだねられたのである。20 神がわたしたちをとおして勧めをなさるのであるから、わたしたちはキリストの使者なのである。そこで、キリストに代って願う、神の和解を受けなさい。21 神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。                  (2コリント手紙 5:18-21)


 救い主イエス・キリストはエルサレムの都に上ってくる旅の途中で何度も何度も、ご自分の死と復活を予告しつづけました。その約束通りに、人間たちの不当な裁判にかけられ、はずかしめられ、十字架につけて殺され、墓に葬られ、やがて三日目に復活なさいました。しかも、人間たちの不当な裁きだったばかりではなく、十字架の上で死んで復活してくださることが、神ご自身の御心であり、救いの御計画でもありました。その日の夕方のことです。

 19節、「その日、すなわち、一週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人をおそれて、自分たちのおる所の戸をみなしめていると、イエスがはいってきて、彼らの中に立ち、『安かれ』と言われた」。恐れて、自分たちのおる所の戸をみな閉めて、小さくなって閉じこもっていた。これが、彼らと私たちの現実です。19,20節と、2度続けて「安かれ」と弟子たちに語りかけます。「あなたがたに平安があるように」という、ごく普通に用いられていた挨拶でもあります。こんにちはとか、お変わりありませんかなどのように。そのごく普通の挨拶でもある同じ言葉が、けれどここでは、いつもとは違う格別な意味合いを込めて語りかけられます。なぜなら、復活なさった主イエスが弟子たちに最初に語りかけたこの「安かれ」、『平安・平和』という言葉は、同じ主イエスが十字架にかかる前夜の最後の食事の席で弟子たちにぜひ伝えようとしていた『平安・平和』だったからです。あのとき主イエスは弟子たちにこうおっしゃいました、「これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい」。また、その『平安・平和』は、十字架の上で死なれる前の最後の贈り物でもあったからです。「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな」(ヨハネ福音書14:27,16:33。この『平安・平和』を思い起こさせようとして、ここで安かれ、「平安。平安」と重ねて語りかけています。「安かれ。あなたがたに平安・平和があるように」。平安・平和があるのかないのか。それこそが、この世界にとっても、また私たちのいつもの普段の暮らしにとっても、夫婦や親子の間でも、隣近所同士の付き合いでも職場でも、肝心要でありつづけます。この数日の間に弟子たちの身に何が起こり、彼らが何を味わい、今どんな気持ちでいるのか。またこの後、彼らにどんな出来事が待ち構えているのかをつくづくと思い描きながら、主イエスは仰るのです。「あなたがたの心が安らかであり、平和があるように。私の平和を、あなたがたにぜひ贈り与えたい」と。なぜなら、平和とは程遠いところに彼らはいました。主イエスを十字架にかけて殺したユダヤ人の仲間たちが、今度はこの自分たちをも同じヒドイ目に合わせるのではないかと恐れていました。いったい何をされるか分からない、自分たちがどうなってしまうか分からないと。主イエスを裏切って、見捨てて、逃げてしまった自分たちでもあります。その自分たち自身の弱さ、だらしなさ、とても不誠実であったことに自分たち自身でガッカリしていました。けれども皆さん。その彼らに向かって、「どういうつもりか」と叱るのでもなく、責めるのでもなく、いたらなさや欠点を1つ1つ並べ立てるのでもなく、「安らかでありなさい。私の平安・平和をあなたがたにあげましょう」と主イエスは仰います。この救い主は、私たちに平安・平和があるためにこそ救いの御業をすっかり十分に成し遂げてくださいました。

すると、ここで私たちは、奇妙な堂々巡りの輪の中に閉じ込められていることに気づきます。約束されている事柄とすでに実現している事柄との間に。差し出されているものとすでに受け取って手にしているものとの間にある奇妙なズレと隔たりに。救い主イエスは十字架の上にご自身の体をささげてくださり、さらに死人の中から復活して永遠の生命の保証を私たちに与え、私たちのための格別な平和をそこで確かに獲得してくださった。それなのになぜ、いまだに、私たちの中に『平和であること』と『平和ではないこと』とが混じり合って残るのでしょう。なぜ度々、安らかさや平和とは程遠い所に私たちは閉じ込められて、誰かや何事かを恐れたり恐れさせたり、恥じたり恥じ入らせたり、悔やんだり苛立ったり嘆いたりしているのか。罪をゆるすことについても同様です。私たち人間の罪をゆるすことができるのは、ただ神お独りだけでした。それが、聖書から教わってきたことです(マルコ2:7-10,使徒5:31)。それなのに、ここで、「誰の罪でも、あなたがたがゆるせば、その罪はゆるされる。誰の罪でも、あなたがたがゆるさなければ、ゆるされないまま残る」(23)と主はおっしゃる。あなたがゆるすならゆるされる。あなたがゆるさなければ、ゆるされないままずっといつまでも残る。どういうことか。 

 あの日の夕方、主イエスは、恐れて閉じこもっていた弟子たちの真ん中に立って19節)、そこで「安かれ。あなたがたに平安・平和があるように」とおっしゃいました。十字架の上でご自分の生命を投げ捨ててくださって、そのようにして勝ち取ってくださった特別仕立ての、大切な平和です。だからこそ、てのひらの釘跡と、脇腹の槍で刺された傷跡を、よくよく見せてくださいました。それを見るまでは、彼らも私たちも心から喜ぶことがどうしてもできませんでした。それを見て、とうとう弟子たちは喜びにあふれました。「私は平安をあなたがたに残し、わたしの平安をあなたがたに与える」。だから受け取りなさい。この私たちは、いつまでも真ん中に立ち続けていてはいけません。謙遜にされて、慎み深く、脇へ二歩三歩と退く必要があります。「平和があるように」とおっしゃる主イエスが私たちの真ん中に立ってくださるとき、つまり、私たちがこのお独りの方をこそ私たちの真ん中に迎え入れるとき、その時にこそ、そこで初めて私たちに主イエスの平和があります。自分は正しい正しいと言い立て、語りかける声に耳を塞ぎつづけ、いつの間にかはなはだしい傲慢に陥っていたあのヨブのためにも、とうとう神の御前に自分自身が打ち砕かれるときが来ました。「まことに、私は、自分で悟りえないことを告げました。自分でも知りえない不思議を分かったふりをして述べ立てつづけました。私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。それで私は自分自身を恥じ、自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔いています」(ヨブ記42:1-6 新改訳聖書を参照)

ご覧なさい。「安らかであれ。あなたがたに平和があるように」とおっしゃって、主は手とわき腹とを見せてくださった。あなたも見せていただいた。てのひらの釘の跡、わき腹の槍で刺し貫かれた傷跡、その傷跡は、私たちへの主の慈しみと憐れみを物語ります。はっきりと、見過ごしようもないほど明らかに物語っています。それなのに誰がいったい私たちの心を惑わせたのか。目の前に、十字架につけられたキリストが示された。示されつづけている(ガラテヤ手紙3:1-。惜しみなく、いいえ、むしろ徹底して私たちを惜しんでくださり、神の憐れみの子供たちとして迎え入れてくださったただお独りの方がおられます。そのために尊厳も体裁も面目も、生命さえ投げ捨ててくださったただお独りの方がおられます(ピリピ手紙2:5-。その方は、十字架の上でただ惨めで無残な死をとげただけではありません。ただ死んで葬られただけではありません。死んで、三日目に死人の中から復活なさいました。

22-23節です。主イエスは弟子たちに息を吹きかけて、平和とゆるしとを告げました。「聖霊を受けよ。あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残る」。主からの平和の中に生きることは、主からの生命の息(=聖霊なる神のお働き)を受け取って生きることでした。それは、具体的なこの私たちの毎日毎日の営みです。『この私があの人を、あのことを、ゆるすこと』だというのです。「あなたがたがゆるせば、ゆるされる。ゆるさなければ、それはゆるされないまま残る」。もちろん神ご自身がゆるしてくださる他ありません。神がゆるし、神ご自身が解き放ってくださるのでなければ、私たちは、私たちを縛りつけるものから自由になることはできません。あのとき、あの十字架の上で、主イエスはこう呼ばわっていました。「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(ルカ福音書23:34。主はこのように願い求め、まったく何をしているのか自分で自分が分からない私たちをゆるし、再び憐れみの神のもとへと連れ戻すために、そのためにこそ、あの木の上でご自分の血を流しつくしてくださいました。ご自身の体を引き裂いてくださいました。兄弟姉妹たち。だから、私たちは罪をゆるされているのです。すでに決定的に。

十字架にかかる直前、その前の夜、ご自身がはっきりと仰いました。「父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう。わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな」(ヨハネ福音書14:26-27)キリストの教会と一人一人のクリスチャンの務めと役割は、この地上に、私たちの間に平和をもたらす悪戦苦闘でありつづけます。それが救い主イエスが語った神の国の福音の主要な内容でありつづけます。第一には、ご自身の尊い血潮による罪のあがないによって打ち立てられた『神と人間』との間の平和であり、次に、『人間と人間同士。人間とこの世界、すべて生命あるものたちとの間』の平和です。救い主イエスによってはっきりと差し出された神の恵みと慈しみとを、この世界と自分自身の中に注ぎ込まれる。それによって成し遂げられ、建て上げられてゆく平和です。キリストの教会と一人一人のクリスチャンの務めと役割はここにあります。自分自身と大切な家族のための救いも、ここにあります。

救い主イエス・キリストはエルサレムの都に上ってくる旅の途中で何度も何度も、ご自分の死と復活を予告しつづけました。その約束通りに、人間たちの不当な裁判にかけられ、はずかしめられ、十字架につけて殺され、墓に葬られ、やがて三日目に復活なさいました。しかも、人間たちの不当な裁きだったばかりではなく、十字架の上で死んで復活してくださることが、神ご自身の御心であり、救いの御計画でもありました。その日の夕方のことです。

 19節、「その日、すなわち、一週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人をおそれて、自分たちのおる所の戸をみなしめていると、イエスがはいってきて、彼らの中に立ち、『安かれ』と言われた」。恐れて、自分たちのおる所の戸をみな閉めて、小さくなって閉じこもっていた。これが、彼らと私たちの現実です。19,20節と、2度続けて「安かれ」と弟子たちに語りかけます。「あなたがたに平安があるように」という、ごく普通に用いられていた挨拶でもあります。こんにちはとか、お変わりありませんかなどのように。そのごく普通の挨拶でもある同じ言葉が、けれどここでは、いつもとは違う格別な意味合いを込めて語りかけられます。なぜなら、復活なさった主イエスが弟子たちに最初に語りかけたこの「安かれ」、『平安・平和』という言葉は、同じ主イエスが十字架にかかる前夜の最後の食事の席で弟子たちにぜひ伝えようとしていた『平安・平和』だったからです。あのとき主イエスは弟子たちにこうおっしゃいました、「これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい」。また、その『平安・平和』は、十字架の上で死なれる前の最後の贈り物でもあったからです。「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな」(ヨハネ福音書14:27,16:33。この『平安・平和』を思い起こさせようとして、ここで安かれ、「平安。平安」と重ねて語りかけています。「安かれ。あなたがたに平安・平和があるように」。平安・平和があるのかないのか。それこそが、この世界にとっても、また私たちのいつもの普段の暮らしにとっても、夫婦や親子の間でも、隣近所同士の付き合いでも職場でも、肝心要でありつづけます。この数日の間に弟子たちの身に何が起こり、彼らが何を味わい、今どんな気持ちでいるのか。またこの後、彼らにどんな出来事が待ち構えているのかをつくづくと思い描きながら、主イエスは仰るのです。「あなたがたの心が安らかであり、平和があるように。私の平和を、あなたがたにぜひ贈り与えたい」と。なぜなら、平和とは程遠いところに彼らはいました。主イエスを十字架にかけて殺したユダヤ人の仲間たちが、今度はこの自分たちをも同じヒドイ目に合わせるのではないかと恐れていました。いったい何をされるか分からない、自分たちがどうなってしまうか分からないと。主イエスを裏切って、見捨てて、逃げてしまった自分たちでもあります。その自分たち自身の弱さ、だらしなさ、とても不誠実であったことに自分たち自身でガッカリしていました。けれども皆さん。その彼らに向かって、「どういうつもりか」と叱るのでもなく、責めるのでもなく、いたらなさや欠点を1つ1つ並べ立てるのでもなく、「安らかでありなさい。私の平安・平和をあなたがたにあげましょう」と主イエスは仰います。この救い主は、私たちに平安・平和があるためにこそ救いの御業をすっかり十分に成し遂げてくださいました。

すると、ここで私たちは、奇妙な堂々巡りの輪の中に閉じ込められていることに気づきます。約束されている事柄とすでに実現している事柄との間に。差し出されているものとすでに受け取って手にしているものとの間にある奇妙なズレと隔たりに。救い主イエスは十字架の上にご自身の体をささげてくださり、さらに死人の中から復活して永遠の生命の保証を私たちに与え、私たちのための格別な平和をそこで確かに獲得してくださった。それなのになぜ、いまだに、私たちの中に『平和であること』と『平和ではないこと』とが混じり合って残るのでしょう。なぜ度々、安らかさや平和とは程遠い所に私たちは閉じ込められて、誰かや何事かを恐れたり恐れさせたり、恥じたり恥じ入らせたり、悔やんだり苛立ったり嘆いたりしているのか。罪をゆるすことについても同様です。私たち人間の罪をゆるすことができるのは、ただ神お独りだけでした。それが、聖書から教わってきたことです(マルコ2:7-10,使徒5:31)。それなのに、ここで、「誰の罪でも、あなたがたがゆるせば、その罪はゆるされる。誰の罪でも、あなたがたがゆるさなければ、ゆるされないまま残る」(23)と主はおっしゃる。あなたがゆるすならゆるされる。あなたがゆるさなければ、ゆるされないままずっといつまでも残る。どういうことか。 

 あの日の夕方、主イエスは、恐れて閉じこもっていた弟子たちの真ん中に立って19節)、そこで「安かれ。あなたがたに平安・平和があるように」とおっしゃいました。十字架の上でご自分の生命を投げ捨ててくださって、そのようにして勝ち取ってくださった特別仕立ての、大切な平和です。だからこそ、てのひらの釘跡と、脇腹の槍で刺された傷跡を、よくよく見せてくださいました。それを見るまでは、彼らも私たちも心から喜ぶことがどうしてもできませんでした。それを見て、とうとう弟子たちは喜びにあふれました。「私は平安をあなたがたに残し、わたしの平安をあなたがたに与える」。だから受け取りなさい。この私たちは、いつまでも真ん中に立ち続けていてはいけません。謙遜にされて、慎み深く、脇へ二歩三歩と退く必要があります。「平和があるように」とおっしゃる主イエスが私たちの真ん中に立ってくださるとき、つまり、私たちがこのお独りの方をこそ私たちの真ん中に迎え入れるとき、その時にこそ、そこで初めて私たちに主イエスの平和があります。自分は正しい正しいと言い立て、語りかける声に耳を塞ぎつづけ、いつの間にかはなはだしい傲慢に陥っていたあのヨブのためにも、とうとう神の御前に自分自身が打ち砕かれるときが来ました。「まことに、私は、自分で悟りえないことを告げました。自分でも知りえない不思議を分かったふりをして述べ立てつづけました。私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。それで私は自分自身を恥じ、自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔いています」(ヨブ記42:1-6 新改訳聖書を参照)

ご覧なさい。「安らかであれ。あなたがたに平和があるように」とおっしゃって、主は手とわき腹とを見せてくださった。あなたも見せていただいた。てのひらの釘の跡、わき腹の槍で刺し貫かれた傷跡、その傷跡は、私たちへの主の慈しみと憐れみを物語ります。はっきりと、見過ごしようもないほど明らかに物語っています。それなのに誰がいったい私たちの心を惑わせたのか。目の前に、十字架につけられたキリストが示された。示されつづけている(ガラテヤ手紙3:1-。惜しみなく、いいえ、むしろ徹底して私たちを惜しんでくださり、神の憐れみの子供たちとして迎え入れてくださったただお独りの方がおられます。そのために尊厳も体裁も面目も、生命さえ投げ捨ててくださったただお独りの方がおられます(ピリピ手紙2:5-。その方は、十字架の上でただ惨めで無残な死をとげただけではありません。ただ死んで葬られただけではありません。死んで、三日目に死人の中から復活なさいました。

22-23節です。主イエスは弟子たちに息を吹きかけて、平和とゆるしとを告げました。「聖霊を受けよ。あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残る」。主からの平和の中に生きることは、主からの生命の息(=聖霊なる神のお働き)を受け取って生きることでした。それは、具体的なこの私たちの毎日毎日の営みです。『この私があの人を、あのことを、ゆるすこと』だというのです。「あなたがたがゆるせば、ゆるされる。ゆるさなければ、それはゆるされないまま残る」。もちろん神ご自身がゆるしてくださる他ありません。神がゆるし、神ご自身が解き放ってくださるのでなければ、私たちは、私たちを縛りつけるものから自由になることはできません。あのとき、あの十字架の上で、主イエスはこう呼ばわっていました。「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(ルカ福音書23:34。主はこのように願い求め、まったく何をしているのか自分で自分が分からない私たちをゆるし、再び憐れみの神のもとへと連れ戻すために、そのためにこそ、あの木の上でご自分の血を流しつくしてくださいました。ご自身の体を引き裂いてくださいました。兄弟姉妹たち。だから、私たちは罪をゆるされているのです。すでに決定的に。

十字架にかかる直前、その前の夜、ご自身がはっきりと仰いました。「父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう。わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな」(ヨハネ福音書14:26-27)キリストの教会と一人一人のクリスチャンの務めと役割は、この地上に、私たちの間に平和をもたらす悪戦苦闘でありつづけます。それが救い主イエスが語った神の国の福音の主要な内容でありつづけます。第一には、ご自身の尊い血潮による罪のあがないによって打ち立てられた『神と人間』との間の平和であり、次に、『人間と人間同士。人間とこの世界、すべて生命あるものたちとの間』の平和です。救い主イエスによってはっきりと差し出された神の恵みと慈しみとを、この世界と自分自身の中に注ぎ込まれる。それによって成し遂げられ、建て上げられてゆく平和です。キリストの教会と一人一人のクリスチャンの務めと役割はここにあります。自分自身と大切な家族のための救いも、ここにあります。

2021年4月12日月曜日

4/11「泣かなくても良い」ヨハネ20:11-18

       みことば/2021,4,11(復活節第2主日の礼拝)  314

◎礼拝説教 ヨハネ福音書 20:11-18                 日本キリスト教会 上田教会

『泣かなくても良い』

 

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne

20:11 しかし、マリヤは墓の外に立って泣いていた。そして泣きながら、身をかがめて墓の中をのぞくと、12 白い衣を着たふたりの御使が、イエスの死体のおかれていた場所に、ひとりは頭の方に、ひとりは足の方に、すわっているのを見た。13 すると、彼らはマリヤに、「女よ、なぜ泣いているのか」と言った。マリヤは彼らに言った、「だれかが、わたしの主を取り去りました。そして、どこに置いたのか、わからないのです」。14 そう言って、うしろをふり向くと、そこにイエスが立っておられるのを見た。しかし、それがイエスであることに気がつかなかった。15 イエスは女に言われた、「女よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」。マリヤは、その人が園の番人だと思って言った、「もしあなたが、あのかたを移したのでしたら、どこへ置いたのか、どうぞ、おっしゃって下さい。わたしがそのかたを引き取ります」。16 イエスは彼女に「マリヤよ」と言われた。マリヤはふり返って、イエスにむかってヘブル語で「ラボニ」と言った。それは、先生という意味である。17 イエスは彼女に言われた、「わたしにさわってはいけない。わたしは、まだ父のみもとに上っていないのだから。ただ、わたしの兄弟たちの所に行って、『わたしは、わたしの父またあなたがたの父であって、わたしの神またあなたがたの神であられるかたのみもとへ上って行く』と、彼らに伝えなさい」。18 マグダラのマリヤは弟子たちのところに行って、自分が主に会ったこと、またイエスがこれこれのことを自分に仰せになったことを、報告した。           (ヨハネ福音書 20:11-18

 復活なさった救い主イエスとマグダラのマリヤとの対話を、このヨハネ福音書だけが報告しています。二人の弟子ペテロとヨハネが家に帰っていった後、なおもこの一人の女性は救い主イエスが葬られた墓を離れずに、そこに留まりつづけていました。それで、死人の中からよみがえらされた主イエスと彼女が一番最初に出会うことになり、主の御声を最初に聴き、最初にこの主イエスと言葉を交わすことになりました。

 11-15節。彼女はとても悲しみ、泣きつづけています。二人の御使いが彼女に問いかけました、「女よ、なぜ泣いているのか」。彼女は答えました、「だれかが、わたしの主を取り去りました。そして、どこに置いたのか、わからないのです」。うしろをふり向くと、そこにイエスが立っておられるのを彼女は見ました。しかし、それがイエスであることに気がつきませんでした。目と心が塞がれており、見るべきものがたとえそこに確かにあっても気がつかないからです。主イエスは彼女に言われました、「女よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」。彼女は、その相手が園の番人だと思って答えました、「もしあなたが、あのかたを移したのでしたら、どこへ置いたのか、どうぞ、おっしゃって下さい。わたしがそのかたを引き取ります」。このように私たちも、しばしば恐れや悲しみ、思い煩い、嘆きに深く囚われてしまいます。目の前にある恐れや嘆きに目と心をすっかり塞がれてしまうからです。例えば、アブラハムとサラ夫婦の家を追い出された女奴隷のハガルも、同じように悲しみ嘆いていました(創世記16:4-14参照)。「サライが彼女を苦しめたので、彼女はサライの顔を避けて逃げた」と報告されています。その前に、アブラハムは妻サラにこう言っています、「あなたの女奴隷ハガルはあなたの手のうちにある。あなたの好きなようにしなさい」と。つまりアブラハムとサラ夫婦が、サライを苦しめ、彼女が逃げるほかないように仕向けたのでした。しかもハガル自身こそが子を授けられたことで思い上がり傲慢になって、自分の女主人であるサラを見下したことが争いの発端でした。「ハガル自身の罪が自分を苦しめた」と言ってよいでしょう。アブラハム、サラ、ハガル、3人それぞれに、自分自身の罪が招き寄せた苦しみを味わいました。主の御使いが、「あなたは女主人サラのもとに帰って、その手に(自分の)身を任せなさい」と、へりくだるようにハガルをいさめながら、励ましと支えを約束します。そこで、自分のすぐ傍らに豊かな水が湧き出る井戸があることに彼女は気づきます。その井戸を、『主が私を顧みていてくださる(=エル・ロイ)』と名づけました。顧みていてくださり、支えの御手を差し伸べようとしておられる神は、私たちのすぐ傍らにありつづけます。けれどもその神の真実を見失うとき、私たちもまた彼女たちのように傲慢に陥り、あるいは恐れに取りつかれつづけます。女奴隷ハガルを思い起こしたのは、彼女たちにはいくつかの大切な共通点があるからです。悲しみ嘆いていた2人であること。自分自身の罪深さを抱え、神の憐れみによって救い出された者たちであること。マグダラのマリヤは主イエスを目の前に見ていながら、それに気づきませんでした。ハガルは、すぐ傍らにあった豊かな井戸に気づかず、御使いの語りかけによって目を開かれて、そこに井戸があることに驚きます。そして、マグダラのマリヤと向かい合っていた復活の主イエスこそ、かつてサマリヤで、「わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」(ヨハネ福音書4:14とおっしゃった方です。主イエス・キリストによってこそ彼女たちも私たちも神の憐れみを知り、主なる神が私たちを顧みていてくださることを信じる者たちとされました。

嘆いたり泣いたり、恐れたりせざるをえない理由を私たちはそれぞれに山ほど抱えています。悩みも恐れも、一生涯ずっと次々にあり、クリスチャンである私たちにもついて回ります。そのことをよく分かった上で、「恐れなくても良い。もう悲しんだり泣いたりしなくても良い」と、憐み深い神が語りかけます。私たちの恐れや嘆きを取り去ってあげようという招きです。もし、その御声が耳にも心にも届くなら、神にこそ十分な信頼を寄せることができるなら、そこでようやく思い煩いも恐れも、皆すべて取り除かれます。

 16-18節。イエスは彼女に「マリヤよ」と言われた。マリヤはふり返って、イエスにむかってヘブル語で「ラボニ」と言った。それは、先生という意味である。イエスは彼女に言われた、「わたしにさわってはいけない。わたしは、まだ父のみもとに上っていないのだから。ただ、わたしの兄弟たちの所に行って、『わたしは、わたしの父またあなたがたの父であって、わたしの神またあなたがたの神であられるかたのみもとへ上って行く』と、彼らに伝えなさい」。マグダラのマリヤは弟子たちのところに行って、自分が主に会ったこと、またイエスがこれこれのことを自分に仰せになったことを、報告した」。目を開かれ、心の曇りもすっかり取り除かれて、マグダラのマリヤはその方が主イエスだとようやく分かりました。まず、「わたしにさわってはいけない。わたしは、まだ父のみもとに上っていないのだから」と語られたことに目を留めなければなりません。思わず手を伸ばして、主イエスの御体に、あるいは衣にでも触れてみたくなりました。とても驚いたからです。主イエスを失ったと思った大きな悲しみや絶望が、いきなり大きな喜びに変えられたからです。けれど、「わたしに触れてはいけない」。どういうことなのか。厳粛な思いを与えられ、神を畏れ敬う従順を求められます。ちょうどモーセが燃えて無くならない柴の木の前に立たせられたように(出エジプト記3:2-6。彼女も私たちも、主イエスというお方が『神であり、同時にまったく人間でもあられる』ことをよくよく覚えていなければなりません。その人間性にばかり気をとられて、神であられることを十分に受け止められなくなることがあるからです。地上に降りて来られ、生身の人間の姿形をとられてからも、救い主イエスは神であられることをほんの片時もお止めになりません。だからこそ、このお独りの方こそが、私たちをすべての罪から救い出すことができるのです(ヘブル手紙2:17-18,4:14-16。わたしは、まだ父のみもとに上っていない。だから、今はまだ、私に触ってはいけない。むしろ、あなたが今すべきことがある。神を信じて生きる仲間たち、主イエスの兄弟とされたものたちに、『主イエスは、父なる神のみもとへ上って行く。しかもイエスの父である神は今や、この私たちのとっても真実な父となってくださった』と伝えなさい。そのことを伝えて、恐れと心細さの中に閉じ込められている仲間たちを勇気づけ、励ます務めが主から与えられています。折々の自分自身の気持ちよりも、そのことのほうが何倍も大切です。私たち自身も、今この目で救い主イエスを見ることはできません。主イエスが私たちの心に住んでいて下さることを信仰によって知り、また、二人また三人が主イエスの御名のもとにあつまるとき、『私もそこにいるのである』と御自身の口から約束されていることを信仰によって信じ、受け止めて、それで十分に満足することができます。さらには、終わりの日に、ふたたび来られる救い主イエスとそのとき本当にお目にかかるとも約束されています。ですから、主を待ち望んで希望をもって生きることができます。

 また、ここで主イエスがご自分の弟子たちに対して、とても思いやり深く温かい心で語っておられることにも、よく目を留めておきましょう。伝言を弟子たちに伝えさせるとき、主イエスは、弟子たちのことを『私の兄弟たち』と呼んでおられます。また、ご自分の父は私たち主イエスの弟子たち皆にとっても『私たちの父』であり『私たちの神』でもあると。だから今では、神の子供たちとされ、父なる神をそのようにお呼びすることが出来る私たちです。しかもその三日前に、主イエスを見捨てて、散り散りに逃げ出した弟子たちです。このあわれみ深い主は、すべてがゆるされているとして、彼らと私たちを取り扱っておられます。戸惑い、道に迷ってしまった者たちをふたたびご自身のもとに連れ戻してくださることを、まず第一に考えておられるからです。心が挫けてしまいそうな者たちに、何よりも、ふたたび勇気を与え、神を信じて生きいる信仰を回復させてくださろうとしています。後戻りしてしまった者たちを、けれども主は決してお見捨てになりません。あわれみ深い主であられるからです。詩篇103篇は語りかけます、「父がその子供をあわれむように、主はおのれを恐れる者をあわれまれる。主はわれらの造られたさまを知り、われらのちりであることを覚えていられるからである」13-14節)と。救い主イエス・キリストによって神のあわれみを知った私たちです。主イエスご自身がこうはっきりと証言しておられます、「父がわたしに与えて下さる者は皆、わたしに来るであろう。そして、わたしに来る者を決して拒みはしない。わたしが天から下ってきたのは、自分のこころのままを行うためではなく、わたしをつかわされたかたのみこころを行うためである。わたしをつかわされたかたのみこころは、わたしに与えて下さった者を、わたしがひとりも失わずに、終りの日によみがえらせることである。わたしの父のみこころは、子を見て信じる者が、ことごとく永遠の命を得ることなのである。そして、わたしはその人々を終りの日によみがえらせるであろう」(ヨハネ福音書6:37-40と。これが、私たちの確かな希望であり、ただ一つの安心材料です。

 

 

         【補足】#ミャンマー国軍クーデター #エチオピア #香港 #ミャンマーに関する日本政府の人道的措置を求める要請文 一般のニュース報道では十分な情報がなかなか届いていません。けれど、怖ろしいことが起こっています。軍事クーデターや武力衝突、きびしい迫害と弾圧の中にある人々に、暴力から逃れて生き延びる道が備えられるように。いのちをつなぐための食料と水と安全な居場所を彼らに与えられるように。私たちも日本政府も、彼らのために正義と公正と平和とが守られるように手を差し伸べる者たちでありたい。彼らは身近な隣人です。

 日本キリスト教協議会は4月7日付で、日本政府が国軍クーデターに加担することなく、むしろ非暴力による不服従抵抗運動を貫く人々を守るために人道的な措置を取るようにと要請文を公表しました。どうぞ読んでください。このことを知ってください。

 

内閣総理大臣  菅 義偉様

外務大臣   茂木 敏充様

私たち日本キリスト教協議会は 2021 2 1 日にミャンマーで引き起こされた国軍による軍事クーデター と、それに抗議する民衆たちへの無差別な武力攻撃によって多くの死傷者が出ていることに、心を痛めています。 ミャンマーの民衆が粘り強く築きあげてきた民主主義を、暴力によって破壊し、それに抗して非暴力による不服 従抵抗運動 (CDM)を貫く人々へのさらなる武力弾圧は、決して容認できるものではありません。日本政府は 一刻も早くこの事態を終結させるため、国際社会と共に、あらゆる働きかけをおこなって下さい。また国軍の利 益供給につながるあらゆる日本企業の交易のパイプを速やかに凍結させるよう措置して下さい。

また、悲痛な思いを持って日本国内に生きるミャンマー人たちにも、この CDM 運動は広がっています。私たち 日本キリスト教協議会は、この CDM 運動を支持し、この運動に身を投じている人々に連帯します。とりわけ、 CDM 運動に参与し、不服従の意思表示のため職務遂行を中断している在日ミャンマー大使館の職員 2 名につ いて、その身分保障、法的地位の保障が保たれるべきと考えます。しかし、ミャンマー国軍政府はこの 2 名に代え て国軍派遣の職員を日本に派遣しようとしています。それは、CDM を表明した 2 名の職員を解職することを意 味すると共に、在日ミャンマー人たちにとっての圧力ともなり、CDM 運動への弾圧に他なりません。したがって、 日本政府は、新たに在日ミャンマー大使館に国軍側から派遣されようとしている職員に対して、決してビザ発給 をしないでください。

 以下に CDM 運動に踏み切った 2 名の職員が、勇気をもって表明した要請文を掲載いたします。当事者の深刻 な訴えを受けとめ、これらの人々の生命の保護、法的地位の確保のために日本政府として人道的な措置を講じ るよう、日本キリスト教協議会として要請いたします。

 

【当事者による要請文】

日本政府はミャンマー国軍側である「国家統治評議会」が新たに任命した2名に対し、 新規外交官ビザ発給をしないでください

2021 2 1 日にミャンマー国軍はクーデターを起こし、民主的に選出された国家元首であるウィンミィン 大統領、アウンサンスーチー国家顧問、その他の政治家、内閣幹部を拘束しました。以降、ミャンマー国内では、連 日、国軍の武力鎮圧により死傷者が出ており、私たちミャンマー国民、在日ミャンマー人は、民主主義が奪われる ことに、大きな不安を抱えています。 国軍による人権侵害を憂慮し、民主主義を求めるミャンマーの国家公務員は、市民的不服従運動(CDM) に参 加し、国民と共に抗議活動を行ってきました。アウンサンスーチー国家顧問が外相を務める外務省、ネピドー本 省、そして世界各国に赴任している在外ミャンマー大使館職員(公務員)が、CDM に参加しました。

在日ミャンマー大使館に勤務する一等書記官ウー・アウン・ソー・モー(U Aung Soe Moe)氏、二等書記官ドー・ エインドラ・タン(Daw Eaindra Than)氏も、2021 3 6 日に CDM に参加しました。この二人は、不服 従運動に参加したのであり、ミャンマー国の公務員である外交官を辞職したわけでは、ありません。二人の在日 外交官は、暴力によって制圧される国民の側に立ち、共に抗議するために外交官として CDM に参加していま す。よって、両氏は現時点においても、民主的に選出された政府により任命され、正式に日本へ派遣された外交官 です。 ミャンマー国民の側に立ち、CDM に参加した外交官に代わって、国軍側は、軍出身公務員を交代要員として赴 任させることを計画しました。在ミャンマー日本大使館(ヤンゴン)に、国軍からの外交官ビザ申請があった場合、 日本政府は、その申請を決して受理しないよう強く要請します。

不当に政権を掌握し、暴力的に国民を虐殺し続けているミャンマー国軍により結成された国家統治評議会が任 命し、派遣する外交官に、日本政府が外交ビザを発行することは、日本政府が国家統治評議会と正規に連携を取 り、ミャンマー国内での虐殺を幇助することを表明することとなります。元来、外交官の派遣は正当な政権により二国間で承認を得て行われるものです。そのため、国軍が任命する 「外交官」2 名に対し日本政府が外交ビザを発行し、入国させることは、国軍の国家統治評議会を日本が正式に 認めたと、在日ミャンマー国民全員が受け止めます。 日本政府に対し、ミャンマー国軍、国家統治評議会と一切連携を取らぬよう、我々在日ミャンマー国民は何回も 要請してまいりました。この度は、日本政府として、在日ミャンマー大使館勤務のため、国家統治評議会が派遣す る2名に新規外交ビザを決して発行されませんよう、強く要請いたします。

4/11こども説教「その言い分を聞いてみたい」使徒25:13-22

 4/11 こども説教 使徒行伝25:13-22

 『その言い分を聞いてみたい』

 

25:13 数日たった後、アグリッパ王とベルニケとが、フェストに敬意を表するため、カイザリヤにきた。14 ふたりは、そこに何日間も滞在していたので、フェストは、パウロのことを王に話して言った、「……18 訴えた者たちは立ち上がったが、わたしが推測していたような悪事は、彼について何一つ申し立てはしなかった。19 ただ、彼と争い合っているのは、彼ら自身の宗教に関し、また、死んでしまったのに生きているとパウロが主張しているイエスなる者に関する問題に過ぎない。20 これらの問題を、どう取り扱ってよいかわからなかったので、わたしは彼に、『エルサレムに行って、これらの問題について、そこでさばいてもらいたくはないか』と尋ねてみた。21 ところがパウロは、皇帝の判決を受ける時まで、このまま自分をとどめておいてほしいと言うので、カイザルに彼を送りとどける時までとどめておくようにと、命じておいた」。22 そこで、アグリッパがフェストに「わたしも、その人の言い分を聞いて見たい」と言ったので、フェストは、「では、あす彼から聞きとるようにしてあげよう」と答えた。          (使徒行伝25:13-22

 

 ユダヤの国全体は、ローマ帝国の植民地にされ、ローマから送られてきた役人(=総督。そうとく)の力と責任のもとに支配されています。「植民地」というのは、土地も人も財産もみなローマ帝国のものにされているということです。「総督」はローマ皇帝の下で働く役人たちの一人です。そしてユダヤの国はいくつかの地域に分けられて、地域ごとに形ばかりのユダヤ人の王が立てられています。訪ねてきたアグリッパも、そういう形ばかりの王の1人です。いっしょについてきたベルニケはアグリッパ王の奥さんです。新しく総督になったばかりのフェストに、アグリッパ王とその妻ベルニケは挨拶をしにきました。そこでローマ帝国の役人フェストは、裁判に訴えられているパウロのことを2人に話してやりました。18-21節、「訴えた者たちは立ち上がったが、わたしが推測していたような悪事は、彼について何一つ申し立てはしなかった。ただ、彼と争い合っているのは、彼ら自身の宗教に関し、また、死んでしまったのに生きているとパウロが主張しているイエスなる者に関する問題に過ぎない。……ところがパウロは、皇帝の判決を受ける時まで、このまま自分をとどめておいてほしいと言うので、カイザルに彼を送りとどける時までとどめておくようにと、命じておいた」。アグリッパ王は「わたしも、その人の言い分を聞いて見たい」と総督に申し出ました。神の国の福音について。そして何よりも、死んでしまったのに生きているとパウロが主張しているイエスについてです。

 

 

2021年4月5日月曜日

4/4「主は墓におられなかった」ヨハネ20:1-10

            みことば/2021,4,4(イースター礼拝)  313

◎礼拝説教 ヨハネ福音書 20:1-10                    日本キリスト教会 上田教会

『主は墓に おられなかった』

 

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

20:1 さて、一週の初めの日に、朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリヤが墓に行くと、墓から石がとりのけてあるのを見た。2 そこで走って、シモン・ペテロとイエスが愛しておられた、もうひとりの弟子のところへ行って、彼らに言った、「だれかが、主を墓から取り去りました。どこへ置いたのか、わかりません」。3 そこでペテロともうひとりの弟子は出かけて、墓へむかって行った。4 ふたりは一緒に走り出したが、そのもうひとりの弟子の方が、ペテロよりも早く走って先に墓に着き、5 そして身をかがめてみると、亜麻布がそこに置いてあるのを見たが、中へははいらなかった。6 シモン・ペテロも続いてきて、墓の中にはいった。彼は亜麻布がそこに置いてあるのを見たが、7 イエスの頭に巻いてあった布は亜麻布のそばにはなくて、はなれた別の場所にくるめてあった。8 すると、先に墓に着いたもうひとりの弟子もはいってきて、これを見て信じた。9 しかし、彼らは死人のうちからイエスがよみがえるべきことをしるした聖句を、まだ悟っていなかった。10 それから、ふたりの弟子たちは自分の家に帰って行った。ヨハネ福音書 20:1-10                                        

                                               

10:9 すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。10 なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。11 聖書は、「すべて彼を信じる者は、失望に終ることがない」と言っている。      (ローマ手紙10:9-11)

 4つの福音書すべてが、救い主イエスの死と復活の出来事の前で立ち止まり、そこによくよく目を凝らしつづけます。世界と私たちを救うキリスト教信仰のすべて一切が、この2つの出来事にかかっているからです。1節、「さて、一週の初めの日に、朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリヤが墓に行くと、墓から石がとりのけてあるのを見た」。救い主イエスの遺体が置かれた墓に最初に出かけていったのはマグダラのマリヤという女性だった、とヨハネ福音書は報告します。彼女の生涯について、聖書は多くを語りません。どんな人物で、どういう生涯を送ったのかについて、私たちはほとんど知ることが出来ません。ただ、彼女が七つの悪霊に取りつかれ、サタンの支配下に囚われていたのを、救い主イエスがその悪霊どもを追い払い、彼女を自由の身にしてやりました(マルコ16:9,ルカ8:2。「マグダラのマリヤは救い主イエスが十字架の上で殺されたとき、最後まで十字架のもとに留まっていた女性たちの一人だったし、また彼の墓に最初にかけつけた者だった」と聖書は報告します。その通りです。なぜ彼女がそうしたかと言いますと、そうせざるをえなかったほど救い主イエスに対して深く感謝しているからであり、その行いは神への感謝の献げものであるからです。例えば、一人の罪深い女性が主イエスの足に高価な香油を注ぎかけ、自分の髪の毛と涙でその足をぬぐった出来事(ルカ:37,マタイ26:6,ヨハネ12:1を覚えておられますか。あの女性がマグダラのマリヤだったとはっきり言い切ることはできません。彼女とは別の女性だったかも知れません。けれど少なくともマグダラのマリヤもあの女性も同じ大切なことを体験し、同じ感謝を心に刻みつけた者たちでした。香油を注ぎかけられ、髪の毛と涙で足をぬぐってもらったとき、主イエスはおっしゃいました。「この女は多く愛したから、その多くの罪はゆるされているのである。少しだけゆるされた者は、少しだけしか愛さない」(ルカ7:47。そのとおりです。もし、私たち自身が救い主イエスに対しても、この信仰についても何か冷淡であり、よそよそしいとするならば、「私は罪をゆるされたことも神から愛されたことも、とても少ない」あるいは、「ほんの少しもない」と感じているせいかも知れません。多くの罪をゆるされ、多くのものを贈り与えられ、多く愛されたので、受け取ってきた恵みの結果として、それだけ深く多くその人は救い主イエスを愛しています。聖書は証言します、「なぜなら、キリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである。わたしたちはこう考えている。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである。そして、彼がすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである」(2コリント手紙5:14-15

 2-10節、「そこで走って、シモン・ペテロとイエスが愛しておられた、もうひとりの弟子のところへ行って、彼らに言った、「だれかが、主を墓から取り去りました。どこへ置いたのか、わかりません」。そこでペテロともうひとりの弟子は出かけて、墓へむかって行った。ふたりは一緒に走り出したが、そのもうひとりの弟子の方が、ペテロよりも早く走って先に墓に着き、そして身をかがめてみると、亜麻布がそこに置いてあるのを見たが、中へははいらなかった。シモン・ペテロも続いてきて、墓の中にはいった。彼は亜麻布がそこに置いてあるのを見たが、イエスの頭に巻いてあった布は亜麻布のそばにはなくて、はなれた別の場所にくるめてあった。すると、先に墓に着いたもうひとりの弟子もはいってきて、これを見て信じた。しかし、彼らは死人のうちからイエスがよみがえるべきことをしるした聖句を、まだ悟っていなかった。それから、ふたりの弟子たちは自分の家に帰って行った」。最初に墓に駆け付けたあの一人の女性も、知らせを聞いて墓に走っていった二人の弟子たちも、それぞれに主イエスに対する大きな熱情をもっていました。信仰の種をたしかに心に植え付けられていた、と言えます。先に墓に辿り着いて、けれども墓の中を覗いてみるだけで、なかなか墓の中に入って確かめてみようとしなかった一人も、すぐに墓の中に入って中の様子を確かめた年配の方の弟子も。それでもなお、救い主イエスの復活を知らないでいる間は、その信仰はまだまだ弱く小さく、ほとんど赤ん坊以下の状態にあったと言えます。

 先に墓について、後から墓に入ってきて、もう一人の弟子は、(8節)「見て信じた」と書いてありました。何をどう信じたのか。「イエス・キリストの遺体がどこかに持ち去られたらしい」ことを見て信じた、と考える人々もいます。いいえ、そうではありません。たしかにその直後に、「しかし、彼らは死人のうちからイエスがよみがえるべきことをしるした聖句を、まだ悟っていなかった。それから、ふたりの弟子たちは自分の家に帰って行った」とも報告されています。「信じた」といいながら、同時に、「しかし彼らは死人のうちからイエスがよみがえるべきことをしるした聖句をまだ悟っていなかった」のです。二人とも、救い主イエスが死人の中から確かによみがえり、復活なさったのだと、はっきりと確信しているわけではありません。どっちつかずのあやふやな状態のまま、頭を抱えて困り果てながら家に帰っていきました。「見て信じた」。つまり、「信じはじめていた」のです。「その信仰はまだまだ弱く小さく、ほとんど赤ん坊以下の状態にあった」と申し上げました。小さないのちがお母さんのお腹に宿ったときから、お母さんはその小さな弱々しいいのちを養い、育てています。同じように、神を信じる信仰のいのちを、それがまだまだとても小さく弱々しいものだとしても、神さまご自身が守り、養い育ててくださいます。その信仰は育って、やがて必ずきっと実を結びます。神さまこそが実を結ばせて下さるからです。(私は)必ず多くの苦しみを受け、捨てられ、また殺され、三日目によみがえる」(ルカ9:22-27,9:44,18:31-34など)と救い主イエスご自身から繰り返し聞かされてきましたが、それがどういうことか分からず、また弟子たち皆は恐ろしくて分かろうともしませんでした。聖書自身も、遣わされた救い主が殺され、やがてよみがえることをはっきりと証言していました(詩16:10-。けれど、心を鈍くされて、誰一人も悟ることができませんでした。

 折々に、あの弟子たちも私たちもしばしば心を鈍くされて、神の言葉と御心を見失いました。例えば、主イエスが十字架の死と復活を予告なさったとき、弟子の一人は、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません。あっては困ります」と主をいさめようとしたとき、主イエスはその弟子をきびしく叱りつけました。「サタンよ、引き下がれ。私の邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人間のことを思っている」(マタイ福音書16:23と。私たちは、あの弟子たちとほぼ同じです。生まれつき心が鈍いわけではなく、ただついつい気が散ってしまい、他のことに気を取られるあまりに、神を思う暇が少しもなくなり、四六時中、ただただ自分自身と周囲の人間たちの行動や、誰がどう思うかとばかり思い煩いつづけてしまう。とうとう、どんな神であるのか。どういう救いの約束を受け取って、どう生きることが出来るのかもすっかり分からなくなってしまいやすい。例えばあの弟子たちは、湖のほとりで多くの人々がわずかなパンと魚によって養われ、満たされたあとで、小舟に乗って湖の中へ漕ぎだしました。「向こう岸へ渡りなさい」と、救い主イエスに無理矢理に、そう促されたからです。突風が吹き、大きな波が立って、小舟が激しく揺り動かされたとき、彼らは恐れおののきました。よく似たことが以前にもありました。前のときには、主イエスは小舟の隅で眠っておられまし。今回は、主が小舟の中にはおられません。救い主イエスを揺さぶり起こして、助けを求めることもできません。すると、湖の上を歩いて主イエスが小舟に近づいて来られ、波と風に「鎮まれ」と命じて、鎮めてくださいました。あの彼らはなぜ驚き慌てたのか、どうして波と風を恐れて、おびえたのか。「先のパンのことを悟らず、心が鈍くなっていたからだ」(マルコ福音書6:52と聖書は、手厳しく報告しています。つまり、大勢の人々がほんのわずかなパンと魚で満たされたことがどういうことなのかをはっきりと分かっていたならば、今回の湖の荒れ狂う波と風にも驚き慌てることがなかったはずだと。憐み深い神が、この世界のためにも私たちのためにも生きて働いてくださっているからです。すべての良いものと救い助けは、ただ神から来るということをです。ですから、「どんな困窮と災いの中にあっても、救いと助けを、ただ神にこそ願い求めて生きる」(ジュネーブ信仰問答 問7)べきことをです。「新型コロナウィルス感染拡大のこの大きな災いのときに、どういう心得をもって生きるべきか」と定期総会のときに改めて問われました。折々に、具体的に、ていねいに示しつづけてもらいたいと要望を受けました。お答えします。いつでも、どんな災いや困難のときにも、私たちにとって必要なのは同じ一つの心得です。『大勢の人々がわずかなパンと魚によって養われ、十分に満たされた』という心得であり、『小舟で湖の中を渡るとき、突風が吹き荒れ、大きな波が舟を激しく揺さぶり動かすときにも、なお救い主イエスに信頼し、寄り頼み、聞き従って生きる』という、全生涯に及ぶ只一つの心得です。

  むしろ、神ご自身の秘儀は、神が教えてくださるのでない限り、人間の頭と知恵では理解することができないものです。神を信じる信仰を与えてくださった神ご自身こそが、彼らにもこの私たちにも、やがて必要なすべて一切を教えてくださいます。神の憐みによって救われるために、ぜひとも知っておくべきことは、決して多くはありません。むしろ、ごくわずかです。私たち自身の罪とよこしまさがどんなにはなはだしいか、ということ。救い主イエスがどのように救ってくださるのか、ということ。悔い改めて神へと立ち返りつづける必要があること。なにより、救い主イエスを信じて、神のあわれみの御心に聞き従って生きてゆきたいと願うこと。

 

 あのときは、よく分かっていなかった弟子たちがやがて時が来て、確信をもって語りはじめます。「イスラエルの全家は、この事をしかと知っておくがよい。あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は、主またキリストとしてお立てになったのである」。すると人々は強く心を刺され、「兄弟たちよ、わたしたちは、どうしたらよいのでしょうか」と尋ねました。また、「ナザレ人イエス・キリスト。この方による以外に救いはない。私たちを救いうる名は、これを別にしては、天下の誰にも与えられていない」(使徒2:36-37,4:10-12と。まったく、そのとおりです。