2020年10月8日木曜日

#嘆きに応える神の御言 「王と太后への哀歌」エレミヤ13:18-25

  #嘆きに応える神の御言  ~エレミヤ書を読み味わう~              

 第27回 エレミヤ13:18-25「王と太后への哀歌」

 

 

 こんばんは。エレミヤ書をごいっしょに読み味わっていきましょう。13:18-25です、

「王と太后とに告げよ、「あなたがたは低い座にすわりなさい。麗しい冠はすでにあなたがたの頭から落ちてしまったからです」。ネゲブの町々は閉ざされて、これを開く人がない。ユダはみな捕え移される、ことごとく捕え移される。「目をあげて、北の方からくる者を見よ、あなたに賜わった群れ、あなたの麗しい群れはどこにいるのか。彼らがあなたの親しみ慣れた人たちを、あなたの上に立ててかしらとするとき、あなたは何を言おうとするのか。あなたの苦しみは、子を産む女の苦しみのようでないであろうか。あなたが心のうちに、『どうしてこのようなことがわたしに起ったのか』というならば、あなたの罪が重いゆえに、あなたの着物のすそはあげられ、はずかしめを受けるのだ。エチオピヤびとはその皮膚を変えることができようか。ひょうはその斑点を変えることができようか。もしそれができるならば、悪に慣れたあなたがたも、善を行うことができる。わたしはあなたがたを散らし、野の風に吹き散らされるもみがらのようにする。主は言われる、これがあなたに授けられた定め、わたしが量ってあなたに与える分である。あなたがわたしを忘れて、偽りを頼みとしたからだ」。

 

 

「あなたがたは低い座に座りなさい。冠はすでにあなたがたの頭から落ちてしまった」。王とその母親に対してだけでなく、神を信じて生きるはずの先祖と私たちは度々同じような厳しい言葉を語りかけられました。「思い上がって心が高ぶるとき、主を忘れるだろう」と警告されつづけました。主を忘れることが無いよう慎まなければならないと。ここでもさらに主ご自身からの厳しい懲らしめが告げられます。なぜ、懲らしめを受けるのか。「あなたがわたしを忘れて、偽りを頼みとしたからだ」と。

 

 祈りましょう。

 主なる神さま。様々な虚しいものに心を奪われ、惑わされて、あなたの御声になかなか耳を傾けようとしない私たちです。思い煩いと悩みの中でわれを忘れている私たちです。どうか私たちの心を明るく照らしてくださって、あなたからの諭しと戒めを心に留めることができるようにさせてください。あなたが憐み深い方であることに十分に信頼させてください。あなたの御声に聴き従って、この私たちも平和と恵みと生命を得ることができますように。主イエスのお名前によって祈ります。   アーメン

 

 

まず18節、「王と太后とに告げよ、『あなたがたは低い座にすわりなさい。麗しい冠はすでにあなたがたの頭から落ちてしまったからです』」。預言者は、エホヤキム王とその母親に直接に語りかけるように神から命じられます。預言者たちの口を用いて神から告げられる真実は、世界中のすべての権威や権力をはるかに超えているからです。エレミヤが預言者として立てられたとき、主は彼にこう語りかけました。「わたしはきょう、あなたを万民の上と、万国の上に立て、あなたに、あるいは抜き、あるいはこわし、あるいは滅ぼし、あるいは倒し、あるいは建て、あるいは植えさせる」1:10と。また、救い主イエスの母マリヤは神を讃美してこう歌いました、「そのあわれみは、代々限りなく主をかしこみ恐れる者に及びます。主はみ腕をもって力をふるい、心の思いのおごり高ぶる者を追い散らし、権力ある者を王座から引きおろし、卑しい者を引き上げ、飢えている者を良いもので飽かせ、富んでいる者を空腹のまま帰らせなさいます。主は、あわれみをお忘れにならず、その僕イスラエルを助けてくださいました、わたしたちの父祖アブラハムとその子孫とをとこしえにあわれむと約束なさったとおりに」(ルカ1:50-55主なる神からの憐みは主を恐れかしこむ者に及ぶ。一人の女性は自分自身が受け取った幸いと重ね合わせて、神の民とされたイスラエル全体の幸いを見渡しています。自分自身も神からの憐みを受けた。神の民イスラエルもあわれみを受けた。主ご自身は先祖と私たちへの憐みをいつまでも忘れない。他方で、この私たちは思い上がるときに、受け取ってきた憐みを簡単に忘れてしまいます。王と太后も、また私たち自身も、思い上がって神とその預言者を侮り、語りかけられる言葉を退けつづけます。どうして主はみ腕をもって力をふるい、心の思いのおごり高ぶる者を追い散らし、権力ある者を王座から引きおろすのか。なぜ、卑しい者を引き上げ、飢えている者を良いもので飽かせ、富んでいる者を空腹のまま帰らせるのか。こうした「上げたり下げたり、満ちたらせたり、追い散らしたり」という神の取り扱いは、「高ぶっている者。富める者。権力ある者たち」にとっても、「低い者。小さく貧しい者」にとっても、その両者にとって「憐みの取り扱い」であったかも知れません。「自惚れてはいけない。思い上がってはいけない」と先祖と私たちは何度も何度も釘をさされつづけました。そうでなければ、神さまからの憐みを受け取り損ねるからです。王と太后も、先祖とこの私たちも皆、神さまからの憐みの取り扱いを憐みとして喜び感謝するためには、低くされ、麗しい冠を頭から投げ捨てられ、恥ずかしめを受ける必要がありました。だからこそ先祖と私たちが思い上がるとき、神は憐みをもって私たちを追い散らし、引き下ろし、追い返し、懲らしめさえなさいます。その低い場所こそが、「主を恐れかしこむ者」たちが幸いと祝福を受け取るためのいつもの定位置だからです。

 19節、「ユダはみな捕え移される、ことごとく捕え移される」。ユダとエルサレムの人々が遠い外国に捕虜として捕らえ移されてゆく日々が、いよいよ目前に迫っています。バビロンへの捕囚です。少し前にも「主の群れがかすめられた」と語られ、「あなたに賜わった群れ、あなたの麗しい群れはどこにいるのか」と、やがて来る荒廃が指し示されます。神を信じて生きるはずの人々が散り散りにされ、遠い外国に捕らえ移されてしまいます。

 24-25節でも、主は先祖と私たちに対して厳しい裁きを下すと改めて語りかけます、「わたしはあなたがたを散らし、野の風に吹き散らされるもみがらのようにする。主は言われる、これがあなたに授けられた定め、わたしが量ってあなたに与える分である。あなたがわたしを忘れて、偽りを頼みとしたからだ」。なぜ、主なる神は主を信じて幸いに生きるはずの先祖と私たちを散らし、風に吹きさらされるもみがらのようにし、懲らしめるのか。私たちが主を忘れて、偽りを頼みとするからだという。「偽りを頼みとする」とは、どういうことでしょう。それは、迷信や神ではない様々なものを崇めたり拝んだりする偶像崇拝に陥ることでもあり、また、生き延びるための虚しい策略や手段に囚われることでもあります。それは、いつもの具体的な暮らし方でもあります。ずいぶん長い間、イスラエルは自分よりもはるかに強く大きな国々に取り囲まれて生きてきました。アッシリヤ、エジプト、バビロンなど。強い敵が攻めてくるとき、これまでいつもイスラエルはそれと対抗するために、他の強い国と軍事同盟を結んで身を寄せ、その親しい友となったふりをして助けを求めます。形勢が不利になると、身をひるがえして、かつて敵であった国々と手を結ぼうとします。生き延びるために鳥の仲間になったり動物の仲間のふりをしてフラフラさまよいつづける、あの生ずるいコウモリのようにです。もしエジプトやアッシリヤやカルデアなどの近隣諸国と親しい関係を保っておきさえすれば、彼らの支援と助けを受けてどんなに恐ろしい危機でも軽々と乗り切ることができるだろうと見込んでいます。けれどそれらの友人の誰もが、支えや助けになどなりません。主なる神にこそ信頼して、堅く依り頼んでいるべきだったのに。別の預言者も警告していました。「あなたがたは立ち返って、落ち着いているならば救われ、穏やかにして信頼しているならば力を得る」。しかし、あなたがたはこの事を好まなかった。かえって、あなたがたは言った、「否、われわれは馬に乗って、とんで行こう」と。それゆえ、あなたがたはとんで帰る。また言った、「われらは速い馬に乗ろう」と。それゆえ、あなたがたを追う者は速い」(イザヤ30:15-16。今や神ご自身が、かつて友であった者たちを恐るべき敵とし、ご自身の道具としてイスラエルを懲らしめるために襲いかからせようとしています。

 さて23節、「エチオピヤびとはその皮膚を変えることができようか。ひょうはその斑点を変えることができようか。もしそれができるならば、悪に慣れたあなたがたも、善を行うことができる」。あちこちで似たような格言や教訓が語られてきたけれど、カエルの子はカエルなどという宿命的な人間観が告げられるのではなくて、悪とよこしまにすっかり慣れ親しんでしまった人間の惨めさが告げられます。そうした人々は悔い改めて神へと立ち返ることがとても難しいと告げられます。長い間の暮らしの中で沁みついてしまった邪さが、まるで生まれつきの性分のようになっている。

 けれどエレミヤも私たち自身も、ここで神ご自身の力と働きについてはまだ何一つ語っていません。彼ら自身が心を頑固にしてしまったこと、先祖と私たち自身に今日のはなはだしい苦境について責任があると認めざるをえないこと、その通りです。それでもなお、私たちの主なる神は先祖と私たちを救い出すことがお出来になります。地の底のどんな深みからでも、これまで何度も何度もそのように神の民を救い出しつづけてこられたようにです。ああ、預言者は問いかけていました。先祖と、この私たちに向かって。「悪に慣れたあなたがたも善を行うことができるのか?」と。つまり、正しいことや良いことへと心を切り替えることができるだろうか。それとも、あまりに根深く悪に染まり、慣れ親しんでしまった後では、あなたがたは悪いことをする他は何一つの習い覚えて来なかったのだろうかと。それがある種の病気であるとして、けれどもう治すことのできない病気なのか。誰にも手の施しようがなく、ただただ絶望するほかないのかどうかと?

 

 ふたたび祈りましょう。

主よ、あなたに多くの物を賜り、生かされてきました。この命を与えてくださったのは、あなたです。しかし、見えないあなたに頼ることができず、目に見えるもの、自分が理解でき、自分がなしうることに信頼してしまい、しかも、そうせずにはおられないのです。望む善を行わず、望まない悪を行っている。あなたの言われる通り、死に至る病にかかっています。

 主よ、憐れんでください。

 人間は死者を生き返すことはできません。

あなただけがこの死ぬばかりの私を救うことがおできになります。

罪人を救うため、死に渡され、復活させられた、あなたの独り子、私の主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン。

 

 5.新約朗読と思い巡らし

 エルサレムの都に向かう旅の途中で、救い主イエスは弟子たちに何度も繰り返してご自身の十字架の死と復活を予告しつづけました。ルカ福音書9:22-25、「人の子(つまりこの私)は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日目によみがえる。だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを救うであろう。人が全世界をもうけても、自分自身を失いまたは損したら、なんの得になろうか」と。しかも今も、あの時と同じく、主イエスからの言葉はあの彼らや私たちの耳には留まらず、ただ虚しく失われてしまいます。まるで何も聞かなかったかのように、あの彼らも私たちも聞き流し、聴き捨てています。「彼らはなんのことか分からなかった。それが彼らに隠されていて、悟ることができなかった。また彼らはそのことについて尋ねるのを恐れていた」9:45と報告されています。

 なぜ、私たちの心は度々繰り返し鈍くされてしまうのか。「わたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」と語られたからであり、自分を捨てることがとても嫌だったからです。自分の命、自分の都合、自分のささやかな自尊心、自分の好き嫌いにばかり深く囚われすぎていて、それに邪魔されて、主イエスに従って生きることがとても難しかった。この私たちも同じです。自分勝手でわがままで頑固で、とても自己主張が強くて「私が私が」と言い張り続けることを『自己中、自己中(ジコチュウ)』と言います。自己中心という意味ですが、むしろそれは「中毒」「依存症」です。『自分中毒』、自分の肉の思いの言いなりにされ、奴隷にされています。その『自分の肉の思い。自分の好き嫌い』は自分をちっとも幸せにしてくれず、自分も家族もまわりの人たちも、かえってますます心が貧しくなり、不幸せになるばかりです。それは「自分」という病気です。聞いてください。その「自分」は無くてもいい自分であり、主に従って生きることを邪魔する厄介な「自分」です。その「自分」は無くても、ちっとも困りません。『自分の肉の思い』を投げ捨てるのはもったいないし、難しいし、嫌だと思い込んでいました。でも本当は、もったいなくないし、無くても困らない。ポイと投げ捨てるのはとても簡単で、かえって晴れ晴れ清々します。要点は、神ご自身の御心と御わざに自分の場所をすっかり丸ごと明け渡すことです。神をご主人さまとして、自分の内に迎え入れることです。神さまを自分のご主人さまとして迎え入れ、自分の中に神の居場所と働き場所を確保するためには、自分を後ろへ退け、神ご自身に働いていただくために、この自分は出しゃばり続けることを止めて、休む必要があります。その邪魔をしている『自分中毒』、『自分の腹の思い』(ローマ手紙16:18,ピリピ手紙3:19参照)をポイと投げ捨てましょう。ハイ、できますよ。私たちの主であられます神さまご自身が、この私たちのためにも、必ずきっと成し遂げてくださるからです(ピリピ手紙2:6そのようにして初めて、ついにとうとうこの私たちは、幸いに晴れ晴れとして生きることができます。