2020年10月26日月曜日

10/25「からし種とパン種」ルカ13:18-21

           みことば/2020,10,25(主日礼拝)  290

◎礼拝説教 ルカ福音書 13:18-21              日本キリスト教会 上田教会

『からし種とパン種』

 

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

13:18 そこで言われた、「神の国は何に似ているか。またそれを何にたとえようか。19 一粒のからし種のようなものである。ある人がそれを取って庭にまくと、育って木となり、空の鳥もその枝に宿るようになる」。20 また言われた、「神の国を何にたとえようか。21 パン種のようなものである。女がそれを取って三斗の粉の中に混ぜると、全体がふくらんでくる」。     (ルカ福音書 13:18-21)

                                               

8:2 なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである。3 律法が肉により無力になっているためになし得なかった事を、神はなし遂げて下さった。すなわち、御子を、罪の肉の様で罪のためにつかわし、肉において罪を罰せられたのである。4 これは律法の要求が、肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて、満たされるためである。5 なぜなら、肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思うからである。6 肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。7 なぜなら、肉の思いは神に敵するからである。すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである。8 また、肉にある者は、神を喜ばせることができない。9 しかし、神の御霊があなたがたの内に宿っているなら、あなたがたは肉におるのではなく、霊におるのである。もし、キリストの霊を持たない人がいるなら、その人はキリストのものではない。10 もし、キリストがあなたがたの内におられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊は義のゆえに生きているのである。11 もし、イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださるであろう。12 それゆえに、兄弟たちよ。わたしたちは、果すべき責任を負っている者であるが、肉に従って生きる責任を肉に対して負っているのではない。13 なぜなら、もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。(ローマ手紙8:2-13)


 これら2つのたとえ話によって、救い主イエスはご自身の弟子たちをなんとかして励まし、勇気づけようとしておられます。とくに、神の国の福音の伝道がはじまり、それが根付いて広がってゆく最初の頃には、手間がかかり骨の折れる、悩んで頭を抱えてしまうような厄介な問題が次々に起こります。主イエスの弟子たちは疲れ果てて、心が挫けてしまいそうにもなるでしょう。また、この信仰を信じていない他の人々は、神の国の福音を侮ったり、毛嫌いしたり、あざけり笑ったりもするかも知れません。しかも、その福音を宣べ伝える者たちは、社会や周囲の人々からの評判が格別によいわけでもなく、高い地位についているわけでもなく、とても尊敬されている学者や名士などでもなく、どこにでもいるようなごく普通の人々です。むしろ、そのような無力で弱々しく貧しい人々をわざわざ神が選んだと聖書は告げます;「この世の愚かな者を選び、この世の弱い者を選び、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれた。それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。……あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとになられた。それは、「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりである」(1コリント手紙1:26-31。神をこそ誇って、神を頼りとし、主に従ってゆく働きを心安く担うためには、あの彼らにも私たちにも、主ご自身からの励ましと支えがなおまだ必要でありつづけます。

 まず18-19節、「そこで言われた、『神の国は何に似ているか。またそれを何にたとえようか。一粒のからし種のようなものである。ある人がそれを取って庭にまくと、育って木となり、空の鳥もその枝に宿るようになる』」。神の国の福音の種が蒔かれます。それはとても小さな種で、ある研究者は当時のそのからし種の大きさは0.5ミリ程度だったらしいと言います。種をまかれた土地であるその人にとっても、その大切な種は、あるかないか分からないほどの、目にも見えにくい、小さな小さな一粒の種でした。その小さな一粒の種はあまりに弱々しく、助けも支えもなく、無力で、その貧しい土地に根付いて生きるようになるとはとうてい思えないほどでした。その種のために土台を作り、種に最初の生命を吹き込んだお独りの方は、この世界ではあまりに貧しい者でした。十字架の上で、極悪人の犯罪者の一人として処刑されて命を奪われました。救い主イエス・キリストです。彼を信じる最初の信者たちは、彼が十字架の上で殺されたとき、おそらく1000人にも満たないほどのごく少数の群れでした。神の国の福音を宣べ伝える最初の伝道者たちは、ほんの数人の漁師たちや取税人たちで、そのほとんどは無学で、あまりに何も知らない人々でした。その最初の出発点は、広大で強い権力を誇るローマ帝国の片隅の、ごく小さな貧しい植民地でした。その最初の教えは今日でも同じく変わらず、『犯罪者として死刑にされ、墓に葬られた罪人を、神が死人の中からその三日目によみがえらせた。あらかじめ約束されていたとおりに、その方を世界のための主、また救い主(キリスト)となさった』(使徒2:29-38参照)という教えです。その教えは、ごく普通の大勢の人々の心に、あざけりや敵意や憎しみを呼び起こしました。救い主イエス・キリストが十字架につけられて殺され、復活なさったことは、しるしを求めるユダヤ人たちにとっては理解することも受け入れることもできない「つまずきの石」となりました。賢さや知恵を求めるギリシャ人にはあまりにバカバカしい愚かなことでした。世間からの最初の反応は、周囲のあらゆる人々からの迫害でした。パリサイ派もサドカイ派も含めたすべてのユダヤ人、ギリシャ人、さまざまな神を信じる人たちも、あるいは自分を哲学者だと自認する人たちも、皆こぞってキリスト教信仰とクリスチャンたちを憎み、反対し、押し退けて排除しました。しかも、広大で強い権力を誇るローマ帝国がこの信仰を信じることを厳しく禁じました。多くのクリスチャンたち、伝道者たちが、この信仰のために殺されつづけました。

 けれども、福音の種がひとたび地に蒔かれたあと、その前進と成長は力強く、着々と進んでいきました。からし種のような種は、あるかないか分からないほどの小さな一粒の種でしたけれど、やがて「育って大きな木となり、空の鳥もその枝に宿るように」なりつづけました。きびしい迫害があり、反対する人々があり、たくさんの暴力沙汰もあり、それでもなおキリスト教信仰はだんだんと世界中に広がり、数を増していきました。神の国を宣べ伝える伝道者たちが次々に生み出され、働きを終えて去っていった者たちのその働きの場所を引き継ぎつづけました。救い主イエスの死と復活から数百年たって、小さなナザレ村から出てきた1つの信仰は、ユダヤ人の中でも、また世界中でも多くの人々が信じる信仰となっていきました。育って、やがて大きな木となり、空の鳥もその枝に宿るようになりつづけます。

 このたとえ話を聴かされた私たちは、救い主イエスのためになされるどんな小さな貧しい働きも決して侮ってはなりません。なぜなら、それらの働きのすべては、いつも、弱々しく小さかったからです。最初の頃にはつまらない働きに思え、何の役にも立たないかのように見えるかも知れません。この譬え話を思い起こして、勇気を出しましょう。また、謙遜な慎み深い思いを取り戻しましょう。その一人の働き人に十分に信頼を寄せましょう。なぜなら、その手の中にある福音の種のひと粒ひと粒は生きており、種の中に神ご自身の真実を宿しているからです。

 

 もう一つの譬え話です。20-21節、「また言われた、『神の国を何にたとえようか。パン種のようなものである。女がそれを取って三斗の粉の中に混ぜると、全体がふくらんでくる』」。パン種のたとえは、神を信じて生きる一人のクリスチャンの心の中にある福音がどのように成長してゆくのかを教えようとしています。神に背く一人の罪人の中に神の恵みの働きが起こり、その働きの最初のはじまりはごく小さなものです。ちょうど、ひとかたまりの練り粉の中のパン種のようにです。

例えばそのわずかなパン種は、その日に聴いた礼拝説教の中のほんの一言です。あるいは耳に入った聖書の一節、そのほんの短い言葉のかたまりです。誰かから受け取った小さな思いやり深い労わりや、ちょっとした配慮、何気ない気遣いです。こうしたささいな出来事の中のいくつかは、しばしば、その人の霊的な生活が始まってゆく大切な出発点となります。あるとき不意に私たちは気づきます、「どうして、あんなひどいことをしてしまったのか。私はなんて自己中心な人間なのか。他人を思いやることも少なく、自分の満足ばかりを求め、自分のちっぽけなプライドばかりを満たそうとする。『自分を捨てて主に従いなさい』と命じられ、それをよくよく習い覚えてきたはずなのに」と。神の御心に従って生きようとする、その霊的な生活にとって、最初のきっかけはごく小さくささやかなものです。あるとき、とても真剣な思いがその人の心に湧き起り、チクリとその人の胸を突き刺すことがあります。例えば、「ただ形どおりの祈りではなく、心底から、本気になって神さまに向かって祈ってみたい」とか、「聖書を独りで、自分自身のために読み始めてみよう」とか。私たちを取り囲んでいるいくつもの恵みの手段に関心を寄せて、それに近づいていきたいと願ったり、ずっと生涯にわたって抱え持ってきた悪い習慣や悪い仲間たちとの付き合いがだんだんと嫌になって、それから離れたいと願い始めたり。――それらのことは、しばしば神の恵みの最初の小さな兆しとなり、その人の魂を揺さぶり動かし始めます。世間のほとんどの人々はそういうことに少しも気づかないとしても、それでもなお、それらの兆しはしばしば悔い改めの力強い実が結ばれてゆくための最初の出発点になります。それらは、私たちの心の練り粉の中で膨らんでいく神の恵みのパン種です。

 その人の魂の中で始まった神の恵みの働きは、いったん動き始めてしまえば、もう二度と決して立ち止まりません。だんだんと、少しずつ、練り粉全体が膨らんで、すっかり全部がパン種になります。パン種が練り粉に混ぜ入れられたならば、練り粉と別々のままではいられません。少しずつ少しずつ、パン種はその人のモノの考え方や、思いやりや、心の動き、その人の意志に影響を与え、その人の心と体の全体がパン種の力に深く影響され、そのようにして神へと向かう悔い改めが始まります。ある人の場合は、他の人たちよりその進み具合がとても速いこともありえます。別の時には、そのパン種の働きの結果はとてもはっきりと、決定的に表れることもあるでしょう。けれど聖霊なる神さまの働きがその人の心の中で始まってしまったならば、その人のすべての性格は、遅かれ早かれ、パン種のようになり、変えられてゆきます。聖書は証言します、「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである」(2コリント手紙5:17

 このパン種のたとえを学んだ私たちは、神を信じて生きることにおいて『小さなことが起こる日』に、それを決して軽んじてはなりません(ゼカリヤ書4:10。私たちの魂は、歩きはじめる前にまずハイハイをし、走り始める前に、まず危うげにヨチヨチと歩くのです。もし私たちが、1人の兄弟姉妹の中に神の恵みのなにかの兆しを見つけたならば、たとえそれが弱々しく小さな兆しであるとしても、神さまに感謝をしようではありませんか。そして、希望にあふれて見守っていましょう。恵みのパン種は、ひとたび誰かの魂に植えこまれたならば、きっと必ずその人の練り粉全体を膨らませるのです。聖書は証言します、「あなたがたのうちに良いわざを始められたかたが、キリスト・イエスの日までにそれを完成して下さるにちがいないと、確信している」(ピリピ手紙1:6からです。

 では、私たち自身についてはどうでしょうか? 私たちの魂の中に、恵みのパン種が混ぜ入れられ、その働きはすでに始まっています。膨らみはじめ、練り粉全体を良いものへとだんだんと作り変えていきます。私たちの魂の中で起こっている、神の恵みのパン種の働き。たとえ目に見えなくても、私たちの主なる神は生きて働いておられます。その恵みの働きは立ち止まることなく、少しずつ勢いを増し、数を増やし、ついに私たちの練り粉全体を膨らませるのです。

 

 

         ≪いのり≫

         主イエス・キリストの父なる神さま。神がわたしたちの味方であってくださいますことを知らされています。自身の御子をさえ私たちすべての者のために死に渡されたかたが、御子だけではなく、必要なすべて一切のものを必ず贈り与えてくださいます。

         それなのにどうしたわけか、心細く貧しく暮らすものたちが世界にあふれています。私たちもそうです。さまざまな差別や、他の人々を憎む自分中心の思いが多くの人々の心を曇らせ、狭くさせています。とても自分勝手で思いやりのない世界に私たちは暮らしています。そして私たち自身が自分勝手で思いやりのないものたちです。「恵みに価しない罪人が、けれど神のあわれみを受けて、ただ恵みによって救われる」ことを、御子イエス・キリストによってこそよく分かり、そこにすべての信頼と希望を寄せ、そこですっかり満ち足りていることができるように、私たちの信仰を堅く守りつづけてください。

         主イエスのお名前によって祈ります。     アーメン