みことば/2020,10,11(主日礼拝) № 288
◎礼拝説教 ルカ福音書 13:6-9 日本キリスト教会 上田教会
『実のならないいちじく』
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC)
13:6 それから、この譬を語られた、「ある人が自分のぶどう園にいちじくの木を植えて置いたので、実を捜しにきたが見つからなかった。7
そこで園丁に言った、『わたしは三年間も実を求めて、このいちじくの木のところにきたのだが、いまだに見あたらない。その木を切り倒してしまえ。なんのために、土地をむだにふさがせて置くのか』。8
すると園丁は答えて言った、『ご主人様、ことしも、そのままにして置いてください。そのまわりを掘って肥料をやって見ますから。9 それで来年実がなりましたら結構です。もしそれでもだめでしたら、切り倒してください』」。(ルカ福音書 13:6-9)
3:19 さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法のもとにある者たちに対して語られている。それは、すべての口がふさがれ、全世界が神のさばきに服するためである。20
なぜなら、律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。21 しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。22
それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。23 すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、24
彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。25 神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、26
それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。27 すると、どこにわたしたちの誇があるのか。全くない。なんの法則によってか。行いの法則によってか。そうではなく、信仰の法則によってである。28
わたしたちは、こう思う。人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。 (ローマ手紙 3:19-28)
さて、そのために、もう一つのたとえ話を救い主は語ります。6-7節、「それから、この譬を語られた、「ある人が自分のぶどう園にいちじくの木を植えて置いたので、実を捜しにきたが見つからなかった。そこで園丁に言った、『わたしは三年間も実を求めて、このいちじくの木のところにきたのだが、いまだに見あたらない。その木を切り倒してしまえ。なんのために、土地をむだにふさがせて置くのか』」。ぶどう園の主人が自分のものであるぶどう園にいちじくの木を植えておいた。たびたび何度も何度も、いちじくの実を探しに来た。「おいしい実がなっているだろうか、まだだろうか」と。けれど、何度探しに来てみても、いつまでたっても、いちじくの実は見つからなかった。けれどなぜ、『ぶどう園に、いちじくの木をわざわざ植えておくのでしょうか』。思い浮かべてみましょう。もし、あなたがそのぶどう園で働く労働者だったとしたら、そこにいちじくの木が植えられていて、みずみずしく甘くおいしいいちじくの実がなっていたら、どんな気持ちがするでしょうか。朝早くから一所懸命に働いて、ひと休みする休憩時間に、いちじくの実を食べることがゆるされるなら、どんな気持ちがするでしょう。それを楽しみにして仕事もはりきってできるでしょう。なぜ、いちじくの木をわざわざ植えておいたのか。そこで汗水たらして労苦する労働者たちに、その格別に甘くおいしい実を食べさせてあげるためだったかも知れません。その彼らを慰め、元気づけ、彼らに喜びと力を与えるためだったかも知れません。労働者たちもぶどう園の主人も楽しみにして待ち続けました。
これは、たとえ話です。神がどんな神であり、何をなさり、その神の御前に私たちがどのように幸いに生きることができるのかを教えるためのたとえ話です。いちじくの木をわざわざ植えた、あのぶどう園の主人は誰のことでしょうか。神さまです。広大なぶどう園は、私たちが生きるこの世界です。あわれみ深い主人は、ご自身のものである広大なぶどう園に生きる多くの人々のために、すべての生き物たちのために、いちじくの木を植えました。格別に甘くおいしい実を彼ら皆に食べさせてあげるために。彼らを慰め、元気づけ、彼らに喜びと力を与えるために。おじいさんおばさんにも、お父さんお母さんにも、小さな子供たちにも毎日いろんなことがあって、悩みや困ったことや辛いこともあって、その中で、それぞれ精一杯に生きています。身近な人たちの中にも、さまざまな喜びがあり悲しみがある。そういう人々の中に、ぶどう園のあちこちに一本また一本と、いちじくの木が植えられています。この私たちのことです。いちじくの木は、キリストの教会であり、一人一人のクリスチャンです。私たちが、このいちじくの木です。主人から多く与えられ、多く任せられ、主人がどんな心の持ち主であるのかをよく知らされており、それゆえ多くを求められるからです(ルカ12:42-48参照)。「おいしい実がなっているだろうか、まだだろうか」とたびたび主人は楽しみにして見にきました。園丁が、あらゆる手を尽くし、いちじくの木を養い育てるために肥料をやり水をまき、心を砕きつづけます。「甘いおいしい実がなれば、ここで生きている人たちを喜ばせてあげられる。嬉しい元気な気持ちを皆に分けてあげよう。まだかな、どうだろうか」。主人から多く与えられ、多く任せられ、主人がどんな心の持ち主であるのかをよく知らされており、それゆえ多くを求められる。そのとおりです。神を喜びたたえる慰めの実を、あわれみと慈しみの実を豊かに結ばせるために。また、その格別に甘くおいしい実を分け与えさせるためにこそ、私たちすべてのクリスチャンは主人のぶどう園に植えられました。
「わたしは三年間も実を求めて、このいちじくの木のところにきたのだが、いまだに見あたらない。その木を切り倒してしまえ。なんのために、土地をむだにふさがせて置くのか」。いつまで待っても実がならないのなら、こんな木は切り倒してしまおうか。臆病で頑固でひがみっぽくって、わがままで自分のことばかり考える、こんな木は切り倒してしまおうか。「イエスは主である」(1コリント手紙12:3,ローマ手紙10:9)と告白するすべてのキリスト教会に対して、すべてのクリスチャンに向かって、この警告が告げられます。まったく、その通り。しかもなお、にもかかわらず、この私たちは切り倒されていません。どういうわけでしょう。すでにずいぶん前に切り倒されていて当然だったはずのこの私たちが、けれど切り倒されていません。それは、いったいなぜでしょうか。ただお独りの、格別な園丁がいてくださったからです。8-9節。主人といちじくの木々の間に立って、独りの園丁が答えます。「今年もこのままにさせてください。木のまわりを掘って、力のつく栄養のある肥料をやってみます。水も、たっぷりとかけてやります。悪い毛虫がつかないように、いつも目を配り、念入りに手入れをしてやります。カラスが来たら追い払い、イバラが生えたらすぐに抜いてやります。そうすれば、来年こそは実がなるかも知れません。お願いです、お願いです」。この園丁こそ、私たちの救い主イエス・キリストです。このかたがどんなふうにぶどう園といちじくの木の一本一本を世話しつづけて来られたのかを、私たちは知っています。どんなふうに手入れをし、肥やしを与え、どんなふうに毎年毎年、主人といちじくの木の間に立って粘り強く諦めずに執り成しつづけてきたのかを、私たちは知っています。よくよく知っています。
アダムとエバが神に背いて罪に落ちたとき、けれどあの彼らは地獄に投げ込まれはしませんでした。彼らの神は慈しみとあわれみのかみだったからです。あの大洪水の日々にも、神は災いを思い直してくださいました。「人が心に思うことは幼い時から悪い。けれどもなお」と。アブラハムとサラ夫婦が繰り返し何度も何度も神に背いても、不信仰に陥って神の約束を疑っても、神を裏切りつづけても、けれども彼らは神から見捨てられはしませんでした。彼らの神はあわれみの神であり続けるからです。ニネベの町の人のはなはだしい罪と悪に神は心を痛めましたが、かれらを滅ぼすことを思い直しました。恵みとあわれみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いを下そうとしても思い直される神だったからです。預言者ヨナに対しても同じでした。ヨナが神から逃げても背いても、神に対して怒っても嫌っても、なお神はヨナを惜しんで止みません。ニネベの町の弁えの少しもないあまりに愚かな人々と多くの家畜を惜しむ、その同じ憐みをもって、ヨナをも惜しむ神です(創世記3:20-,同8:21,ヨナ3:1-4:12,ローマ手紙11:30-36,1ペテロ手紙2:10,ルカ福音書1:50-55,同1:72-77)。
◇ ◇
さて、ぶどう園のあのいちじくの木。さらに1年たって、もし実がならなかったら、そのとき、ぶどう園の園丁でもある救い主イエスはどうなさるでしょうか。これまで2000年もの間、どうして来られたでしょう。「だめでした。じゃあ約束ですから切り倒しましょう」と。いいえ、決して、そうではありませんでした。いちじくの木々は、どの木もどの木も、かなりの難物でありつづけました。そう簡単には実を結びませんでした。むしろ手に負えず、箸にも棒にも引っかからず、ほとんど絶望的でした。……「また1年たったぞ」と主人が言います。まだ実を結んでいない。その気配も兆しもない。いよいよ切り倒してしまおうか。「待ってください。肥料をやり、水をまき、雑草をむしり、いつも心を込めて手入れをし、私がこの木をどんなに愛して、どんなに大切に育てているのかを、この木に伝えます。いつかこの木々が『ああ、そうか。本当にそうだったのか』と心底から分かるようにしてやります。だから、待ってください。この木のための園丁である私が、きっと必ず『神を愛する実』『隣人を自分自身のように愛し、尊び、慈しむ実』をつけさせますから。その前にまず、なにしろ『神から、こんな私さえも愛されている。本当に、という実』をつけさせますから。どうか、待ってください。
あのお独りの格別な園丁は、私たちの救い主イエス・キリストは、「待ってください、待ってください待ってください」と執り成しつづけ、粗末ないちじくの木々のための世話をしつづけました。あまりに憐み深い、格別な園丁は、決して諦めません。決して見離すことも見捨てることもなさいません。ありとあらゆる肥料が試されましたが、これらのいちじくの木々には、どんな肥料も効きませんでした。やがて、あのお独りの、あまりに憐み深い園丁は、木の脇を掘って、そこにご自分の血をすっかり注ぎだし、そこにご自分の体を引き裂いて埋めました。なんということでしょう。そうやって自分で自分を、恵みに価しない、あまりに粗末ないちじくの木々のための肥料になさったのです。恵みに価しない、あまりにふさわしくないこの私たちも憐みを受け、惜しんでいただきました。「人が心に思うことは幼い時から悪い。けれどもなお」と、何度も何度も繰り返して、思い直していただきました。くりかえし神に背いても、けれども私たちは主なる神から見捨てられることもなく見放されることもありませんでした。あのヨナのように、ニネベのあまりに邪まで愚かすぎる人々と家畜たちのように。
「実がなるのは、はたして来年か再来年か、その数年後か」。いいえ、そこに、いちじくの木々のための希望があるのではありません。「待ってください。この私が必ず世話をして」とおっしゃる憐み深いお独りの園丁が、救い主イエス・キリストが、この私たちのためにさえ、私のためにもあなたのためにもいてくださる。だから、実を結ばせていただける。ここに、私たちのための確かな希望があります(1テモテ手紙1:15)。恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される神です(出るエジプト記34:6,ヨナ書4:2を参照)。だからこそこんな私たちでさえも、ここにこうして、今日あるを得ています。
≪祈り≫
救い主イエス・キリストの父なる神さま。世界中に争いが絶えず、私たちは互いを押しのけ合い、とても自分勝手になって暮らしています。身を屈めさせられ、貧しく心細く暮らす人たちが大勢います。希望と喜びを見失って、惨めに生きる年配の人たちや、親たち、若者たち、子供たちが困り果てています。どうか、私たちを憐れんでください。
世界と生き物すべてと私たちを愛してくださる神さま。ですから私たちは、日毎に三つのことを願い求めます。神さまとそのお働きとその御心をはっきりと見分け、感じ取ることができますように。神さまと隣人とを心の底から愛し、尊ぶことができますように。神さまの御心にかなうことを願って毎日の暮らしを生き、そのようにして神さまに近づいて行くことができますように。
神さま。あなたが生きて働いておられますことを、どうかこの私たちにもはっきりと知ることが出来るようにさせてください。この世界が生きるに値する素晴らしい世界であることを、私たちとすべての大人たちと、すべての子供たちによくよく習い覚えさせてください。
主イエスのお名前によって祈ります。 アーメン