みことば/2020,4,5(受難節第6主日の礼拝) № 261
◎礼拝説教 ルカ福音書 11:1-2 日本キリスト教会 上田教会
『神の御国を』 ~主の祈り.3~
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)(ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC)
11:1 また、イエスはある所で祈っておられたが、それが終ったとき、弟子のひとりが言った、「主よ、ヨハネがその弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈ることを教えてください」。2
そこで彼らに言われた、「祈るときには、こう言いなさい、『父よ、御名があがめられますように。御国がきますように。 (ルカ福音書 11:1-2)
どう祈るかという問いは、祈りの仕方や作法についての問いであることを豊かに越えています。それは生き方と腹の据え方についての問いであり、祈りと信仰をもってこの私という一個の人間が、毎日の具体的な生活をどう生きることができるかという問いです。
主イエスが十字架におかかりになる前の晩のことです。いよいよ間もなく、救い主は死んで葬られ、その三日目に墓を打ち破って復活なさいます。神ご自身の救いのご計画が成し遂げられるのか、どうか。私たちにもそれが確かな現実となるのか、どうか。その別れ道に私たちは立たされます。ここで、私たちがよくよく目を凝らすべきことは、主イエスご自身の祈りの格闘です。そして、その只中で弟子たちを深く顧みておられることです。十字架の上での主の言葉;「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ福音書27:46)は、あの当時も今も、主を仰ぎ見る私たちの心を悩ませ続けます。あまりに謎めいていて、また恐ろしくもあり、マタイとマルコの福音書はこれを記録しましたが、けれどこのルカ福音書とヨハネ福音書は記録せずに省きました。聞かなかったことにしたのです。主イエスご自身の認識と思いとは、十字架の上で、どんなふうだったのだろう。本当に、神さまが救い主を見捨てたのか。救い主は、「あ。私は天の御父から見捨てられた」と思ったのかどうか。そこまで苦しんだのなら苦しみは本物だったと言えるだろう、もしそうでないなら(つまり、やがて救われ復活するとはっきり分かっていたなら)、苦しみは眉唾、八百長試合のようではないか。人々は、そんなことを言います。けれど主イエスの弟子たちよ。自分自身が見捨てられてしまったと心底から絶望している救い主が、いったいどうして、罪人の救いを確信し、「大丈夫です。本当のことですよ」と約束さえできるのでしょう。十字架の上での苦しみはどの程度のものだったのか。御父への主イエスの信頼と服従は揺らいだのかどうか。ゲッセマネでの主の姿こそが、それらに対する強い光を投げかけます。
十字架の出来事の前の夜、主イエスは苦しみ悶えながら、ただ独りで祈りの格闘をします。しかも、そこに主イエスお独りしかおられなかったのに、その姿がこんなに詳しく報告されていますね。なぜか。「あの時こんなふうに私は祈っていた」と、主ご自身がその姿を弟子たちに伝えてくださったからです。ほら、こうするんだよ。あなたがたも、地面に体を投げ出して祈りなさい。格闘をするようにして、本気で祈りなさいと。「この苦い杯」。これは、あとほんの数時間後に迫った十字架の惨めで恐ろしい死を指し示します。弟子たちからも見捨てられ、罪人の1人として裁かれ、ツバを吐きかけられ、ムチ打たれ、十字架の上にその肉を裂き、その血を流しつくすこと。それは、神さまがわたしたち罪人を救ってくださるために、どうしても必要なことでした。神の独り子が、あの救い主イエスが、身悶えさえして苦しみ、深い痛みを覚えておられます。――どんな救い主を、どんな神を、思い描いていたでしょう。また、主イエスを信じて生きる私たち自身を、あなたはいったいどういう者だと思っていたでしょうか。
この祈りの格闘を細々と弟子たちに語り聞かせてくださったのは、私たちそれぞれにも厳しい試練があり、それぞれに、背負いきれない重い困難や痛みがあるからです。それぞれのゲッセマネです。あなたにも、ひどく恐れて身悶えするときがありましたね。悩みと苦しみの時がありましたね。もし、そうであるなら、あなたも地面にひれ伏して、体を投げ出して、本気になって祈りなさい。耐え難い痛みがあり、重すぎる課題があり次々とあり、もし、そうであるなら主イエスを信じる1人の小さな人は、どうやって生き延びてゆくことができるでしょう。わたしは願い求めます。がっかりして心が折れそうになるとき、しかし慰められることを。挫けそうになったとき、再び勇気を与えられることを。神が私自身と家族のためにも生きて働いておられ、その神が、真実にこのわたしの主であってくださることを。
あれから長い歳月が流れ去って、ゲッセマネの園でのあの一夜は遥か遠い昔のこととなりました。キリストの教会は世界中あちこちに数多く建てられ、主イエスを信じて生きる者たちがそれぞれの暮らしを建て上げ、悪戦苦闘しつづけています。神ご自身の祝福、平和と恵みと憐れみを携え、それを差し出し、手渡そうとして。祝福の源でありつづけるための、それぞれの悪戦苦闘を。キリストの教会は、私たちクリスチャンは、どのように生きることができるでしょう。この地上を旅するようにして生きるための、その旅の備えをどのように整え、どういう弁えと心得をもって、何を選び取り、また何を手放したり捨て去ったりできるでしょう。主イエスの弟子たちよ。あの夜、主は祈りつつ生きて死ぬことの格闘をしつづけておられました。「御父よ、もし御心ならば、この杯をわたしから取り除けてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行なってください」。自分自身がいま現に抱えている切実な願いや心の思いがあり、他方で、御父ご自身の願いや御心がある。驚くべきことに、救い主イエスご自身がその2つの心、2つの願いの間にある隔たりや喰い違いに突き当たっています。自分自身の心と願い、そして御父の心と願いと。それらは喰い違っています。あの彼は、血の汗をしたたらせ地面に身を投げ出して格闘し、自分自身の心と願いをねじ伏せようとしておられます。必死になって自分を退け、投げ捨てようとし、御父の御前にひれ伏しています。
さて、ゲッセマネの園。主イエスはここで、父なる神にこそ目を凝らします。「どうか過ぎ去らせてください。しかしわたしの願いどおりではなく、あなたの御心のままに」。御心のままにとは何でしょう。諦めてしまった者たちが平気なふりをすることではありません。祈りの格闘をし続けた者こそが、ようやく「しかし、あなたの御心のままに」「どうぞよろしくお願いします」という小さな子供の愛情と信頼に辿り着きます。わたしたちは自分自身の幸いを心から願い、良いものをぜひ手に入れたいと望みます。けれど、わたしたちの思いや願いはしばしば曇ります。しばしば思いやりに欠け、わがまま勝手になります。何をしたいのか、何をすべきなのか、何を受け取るべきであるのかをしばしば見誤っています。けれど何でも出来る真実な父であってくださる神が、このわたしのためにさえ最善を願い、わたしたちにとって最良のものを備えていてくださる。父なる神さまの御心こそがわたしたちを幸いな道へと導き入れてくださる。
主イエスご自身から祈りの勧めがなされます。「目覚めていなさい。祈りなさい」と。なぜでしょう。「目を覚ましていなさい。眠っちゃダメ。起きて起きて」。なぜでしょう。雪山で遭難したときと同じだからです。眠くて眠くて瞼が重くて目をつぶってしまいたくても、「しっかりして。眠っちゃダメ、起きて起きて」。だって、そのまま眠りこんでしまったら、その人は凍えて、身体中がすっかり冷たくなって、やがてとうとう死んでしまうからです。またそれは、わたしたちに迫る誘惑に打ち勝つためであり、それぞれが直面する誘惑と試練は手ごわくて、また、わたしたち自身がとても弱いためです。祈るようにといったい誰が勧められ、祈る場所へと招かれつづけていたでしょうか。「しっかりしていて強いあなたを特に見込んで、だから祈れ」と言われていたのではありません。そうではありません。あなたはあまりに弱くて、ものすごく不確かだ。ごく簡単に揺さぶられ、惑わされてしまいやすいあなただ。そんなあなただからこそ、精一杯に目を見開け。本気で、いよいよ必死になって祈りつづけなさい。
なぜなら、「なんて弱い私か」と私たちは落胆するからです。「自分に少しも自信が持てない。小さく弱く、とても危うい私だ。壊れやすくて華奢なガラス細工のような私だ」と落胆するからです。主イエスはご自身の祈りの格闘をしつつ、しかし同時に、愛してやまない弟子たちをなんとかして目覚めさせておこうと心を砕きます。あの彼らのことが気がかりでならないからです。「私につながっていなければ、あなたがたは実を結ぶことができない。私を離れては、あなたがたは何もできないからである」と主はおっしゃいました(ヨハネ15:4-5)。悩みと思い煩いの中に、私たちの目は耐え難いほどに重く垂れ下がってしまいます。この世界が、私たちのこの現実が、とても過酷で荒涼としているように見える日々があります。望みも支えもまったく見出せないように思える日々もあります。ついに耐えきれなくなって、私たちの目がすっかり塞がってしまいそうになります。神の現実がまったく見えなくなり、神が生きて働いておられることなど思いもしなくなる日々が来ます。しかも、私たちは心も体も弱い。とてもとても弱い。「けれど御心どおりではなく、ただただ私の願いのままにおこなってください。私の心、私の願い、私の心私の願い」とそればかりを渇望しつづけて。神さまの御心も何もかもそっちのけにして。ただただ自分自身の心と人間のことばかり思い煩いつづけて。なんということでしょう。
この私たち自身は、いったいどうやって主の御もとを離れずにいることができるでしょうか。主を思うことによってです。どんな主であり、その主の御前にどんな私たちであるのかを思うことによって。思い続けることによって。あの時、あの丘で、あの木の上にかけられたお独りの方によって、いったいどんなことが成し遂げられたでしょうか。なぜ私たちはクリスチャンなのか。神を信じ、ただ神にこそ聴き従って生きる者たちにとって希望や慰めや支えは、どこからどのようにしてやってくるのか。聖書ははっきりと証言します。「あなたがたのよく知っているとおり、あなたがたが先祖伝来の空疎な生活からあがない出されたのは、銀や金のような朽ちる物によったのではなく、きずも、しみもない小羊のようなキリストの尊い血によったのである。キリストは、天地が造られる前から、あらかじめ知られていたのであるが、この終りの時に至って、あなたがたのために現れたのである。あなたがたは、このキリストによって、彼を死人の中からよみがえらせて、栄光をお与えになった神を信じる者となったのであり、したがって、あなたがたの信仰と望みとは、神にかかっているのである」(1ペテロ手紙1:18-21)。
〈祈り〉
主イエス・キリストの父なる神よ。御子イエス・キリストによって、私たちを贖い、死と破壊と滅びから救い出し、新しい命に召し入れ、永遠の命の希望を堅くしてお与えくださいましたことを感謝します。とくに今日は聖晩餐のパンと杯を覚えながら集う礼拝ですから、生命の糧を受け取り、永遠の生命の希望を堅くしていただく備えをさせてください。そのため何より、心底からの悔い改めを、どうか私たちの心に贈り与えてくださいますように。
政治と社会の課題にたずさわる者たちすべてを、あなたが導き、治めたまいますように。そしてすべての権力のもとにある人々が祝福されますように。医療従事者、福祉施設、子供たちのために働く多くの人々のその働きと家族の健康をおささえください。また、不自由さと惨めさの中に置かれた人々が、社会や、周囲の人々を憎んだり、軽んじて退けたりする貧しい心に囚われてしまわないように強く導いてくださり、支えてくださいますように。隣人を思いやる心をこの私たちにも贈り与えてください。
私たち自身の家族、親族、親兄弟や子供たち、長年連れ添ってきた連れ合い、親しい友人たちの平安を願い求めます。そのために、私たち自身が神を第一として生活し、自分自身を神さまへの感謝の献げものとすることができますように。困難と心細さと恐れの中に置かれている世界中の人々と共にいまし、私たちも彼らと助け合えますように。われらの主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン