みことば/2020,4,19(復活節第2主日 礼拝休止中の説教2) № 263
◎礼拝説教 ルカ福音書 11:1-2 日本キリスト教会 上田教会
『神の御心を』 ~主の祈り.4~
11:1 また、イエスはある所で祈っておられたが、それが終ったとき、弟子のひとりが言った、「主よ、ヨハネがその弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈ることを教えてください」。2
そこで彼らに言われた、「祈るときには、こう言いなさい、『父よ、御名があがめられますように。御国がきますように。 (ルカ福音書 11:1-2)
神さまに向けてどう祈るのか。それは、神さまの御前で、神さまに向かって、信仰をもってどのように生きて死ぬことができるのかという問いです。『天におられます父なる神さま。あなたの名前を誉めたたえさせてください。あなたの国を来らせてください。あなたが心に思い、願っておられますことを、私たちが生きるこの地上の世界で、私たちのいつもの生活の場所で成し遂げさせてください』。それらの願いは、直ちに、天におられます父なる神への全幅の信頼です。神さまにこそ十分な信頼を寄せ、願い求め、聴き従って生きることです。天におられます父なる神さま。あなたの御心こそが成し遂げられますように。およそ500年前の古い信仰問答は、この願いの心をこう説き明かしています;「これは、私たちとすべての人間が自分自身の思いを捨てて、唯一善であるあなたの御心にいっさい抗弁することなく従うことができるようにしてください、ということです。こうして、すべてのものが自分の務めと使命とを、天にいる御使いのように喜んで、また忠実に果たすようにさせてください、ということです」(『ハイデルベルグ信仰問答,問124』1563年)。救い主イエスと弟子たちがエルサレムの都に向かう旅の途上で、主がご自身の十字架の死と復活を予告し、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」(ルカ9:23)と命令なさったのも、このことです。まず、主イエスの弟子である私たち自身こそが「私が私が」と我を張りつづけることをキッパリと止め、からみついてくる自分の思いとさまざまな執着をかなぐり捨てて、神さまの御心にこそ従うことができるようにさせてください。しかもそれは、救い主イエス・キリストご自身から私たちへの直々の教えです。
キリスト教の信仰はこういう願いであり、こういう生き方であると、はっきりと告げられます。すると、2種類の反応がありえます。1つは、「嬉しい。じゃあ、私もそういう生き方をさせてもらいましょう」。もう1つは、「嫌だ。気が進まない。そういうことなら、私は止めておきます」と立ち去っていく場合。「嬉しい。じゃあ、私もそういう生き方をさせてもらいましょう」とは、そう簡単には思えません。なにしろまず、どんな神さまなのかを十分に知らなければ、「嬉しい。私もぜひそうしたい」などと思えるはずもありません。人間同士の付き合いもまったく同じです。出会ってすぐに、「この人を信頼する。いっしょに生きていきたい」などとは思えません。ろくに付き合いもしないうちから、そんな大事なことを決められるはずがありません。長い時間を共に過ごし、苦楽を共にし、腹を割ってよくよく語り合い、その相手のさまざまな姿に触れる中で、少しずつ少しずつ信頼や愛情が育まれていきました。神さまとの付き合いもまったく同じです。「誠実であり、裏表なく正しく、慈しみ深く、とてもよい神さまだ。信頼に足る相手だ」と骨身にしみて味わって、人はようやく、その神さまを本気で心底から信じるようになっていきます。
しかもこれは、『だれを自分の主人として私は生きるのか』という私たちの根源的な腹の据え方の問題でもあります。聖書の神さまを信じて生きることは、この神さまこそが自分の主人であり、私たちは主のしもべにすぎない、という弁えです。救い主イエスご自身からの直伝です;「だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである」(マタイ福音書6:24)。いったい何を自分の主人として生きるのか。それは、何を頼みの綱として、何を支えや依り所として生きるのかという問いかけです。私たちの周りにはさまざまなモノがあり、その中の何かを選んで、私たちはそれを自分の主人とします。神や仏を拝まない人々であっても、何かを拝み、何かを頼みの綱として生きています。例えば、『自分自身の能力や才能や地位、築いてきた人々からの評判や名声、自分の見識や判断力』を拠り所とする人々もいるでしょう。それらを聖書は、『自分の腹の思いを神とする』(ローマ16:18,ピリピ3:19)と見抜き、それこそが「捨て去るべき自分自身の思い」だと指摘します。兄弟姉妹たち。あなたの腹の思いは、あなたを幸せにしません。かえってあなた自身を困らせ続けます。その時々の気分や好き嫌いや腹の思いや腹の虫を主人とするのと、神さまに従って生きるのと、どちらが幸せでしょう。それは自分自身で選ぶことです。せっかく頼みの綱とし、支えとするなら、必要なだけ十分に長持ちする、頼り甲斐のある支えのほうがよいでしょう。「自分自身のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。あなたの宝のある所には、心もあるからである」(マタイ福音書6:20-21)と勧められています。神を信じ、神さまをこそ自分の主人として生きよという招きです。
十字架にかけられて殺されてしまうその前の夜、救い主イエスは苦しみながら、ただ独りで祈りの格闘をなさいます。ゲッセマネと呼ばれている所で、エルサレムの都のすぐ裏にある小さな山の中です。お弟子さんたちは、小石を投げれば届くくらいの少し離れた場所で、待っていました。どんなふうに祈っているのかを見てみましょう。マルコ福音書14:32-36;「一同はゲツセマネという所にきた。そしてイエスは弟子たちに言われた、『わたしが祈っている間、ここにすわっていなさい』。そしてペテロ、ヤコブ、ヨハネを一緒に連れて行かれたが、恐れおののき、また悩みはじめて、彼らに言われた、『わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、目をさましていなさい』。そして少し進んで行き、地にひれ伏し、もしできることなら、この時を過ぎ去らせてくださるようにと祈りつづけ、そして言われた、『アバ、父よ、あなたには、できないことはありません。どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください』」。「アバ、父よ!」と天のお父さんに向かって呼びかけています。アバ。その地方の方言ですが、2、3歳くらいのまだほんの小さな子供が父親に向かってこのように呼びかけます。「お父ちゃん。おっとう」などと。私たちの救い主は、この時、小さな子供の心に返って天のお父さんに向けて、「トウチャン。オットウ」と呼ばわっています。相手に対するわずかな疑いも恐れもなく、すっかり信頼して。感謝や愛情、素朴な願いを込めて、一途に「おっとう。とうちゃん」と。不思議です。主イエスはもちろん、もうすっかり大人なのですけれど、このお父さんの前では、このお父さんに向かっては、本当に小さな子供なのです(しかもなぜ、人間の親と子の関係や結びつきになぞらえて神を思うことができ、それがまったく正しく真実であるのか。御子イエス・キリストが身を低く屈めて、まことに人間となってくださったからです。御子イエス・キリストを通して父なる神が私たちの真実な父となってくださり、私たちを神の子供たちとして迎え入れ、「父よ」と呼ばわりつつ生きるようにと招き入れてくださったからです。ローマ手紙8:14-17,ヨハネ福音書14:8-14参照)。主イエスは「死ぬばかりに悲しい」とひどく恐れて身悶えしながら、「この苦しみのとき、この苦い杯」と噛みしめながら。しかしそこで、ユダヤ人の指導者たちやローマ提督や役人や兵隊たちを見回すのでありません。この崖っぷちの緊急事態の局面で、ここで、一途に父なる神にこそ目を凝らします。「どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」。「御心のままに。御心にかなうことが」とは何でしょう。どういう意味で、どういう腹の据え方でしょうか。自分を愛してとても大切に思ってくれるお父さんやお母さんといっしょにいるときの、小さな子供の心です。小さな子供にも、もちろん困ったことや悲しいことや嫌なことがあります。辛く苦しいことも。私たちに負けず劣らず、それは次々とあるのです。
「だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこに入ることは決してできない」(マルコ10:15)と告げられていました。「お父ちゃん。おっとう」と天の父に向かって呼ばわる子供です。そのように一途に神さまに信頼し、願い求め、手を差し伸べて神さまに近づこうとする小さな子供です。そう言われて、ある人々は渋い顔をします;「年をとった者が、どうしてまたオギャアオギャアと生まれたり、おっとう、トウチャンなどと口に出せるだろう。いいや、決してできるはずもない」(ヨハネ福音書3:4-9参照)。いいえ、私たちは新しく生まれることができます。天の御父に向かって、救い主イエスがしたように、「おっとう、トウチャン」と心底から親しく呼ばわることができます。もし、そうなりたいと願うならば。この祈りの格闘を弟子たちに語り聞かせ、告げ知らせてくださったのは、私たちそれぞれにも悲しくて惨めで辛くて、とてもとても困ったことがあるからです。あなたにも、おっかなくて苦しくて心細い日々がありますね。小さな子供にも、中学生や高校生の大きなお兄さんお姉さんたちにも、お父さんお母さんにも、おじいさんおばあさんたちにも、それぞれに次々とあります。それぞれのゲッセマネの園です。もし、そうであるなら、あなたも地面にひれ伏し、身を投げ出して必死に祈りなさい。神さまを信じる一人の人は、どうやって生き延びてゆくことができるでしょう。病気にかからずケガもせず、誰からも意地悪をされず、嫌な思いをすることもなく、いつも皆がニコニコして親切にしてくれて。――そんな絵空事を夢見るわけではありません。私は願い求めます。本当に困ってガッカリするときに、しかし慰められ、心を挫けさせるとき、再び勇気を与えられ、心細くてひどく惨めな気持ちのとき、なお支えられることを。そのことをこそ心から望んでいます。
主の祈りの中の6つの願いのうち、はじめの3つの願いを味わってきました。御名をあがめさせたまえ。御国を来たらせたまえ。御心の天になるごとく地にもなさせたまえ。つまり、神さまが本当に神さまらしく、ちゃんとご自分の務めを果たしてくださっている。私たちが喜んだり悲しんだり、安心したり困って心細かったりすることの1つ1つに対して、神さまこそが全責任を負って、支えとおし、助けつづけてくださる。そういう神さまが生きて働いてくださる。およそ500年前の宗教改革の時代の教えです。「神を敬う正しい在り方はどういうものですか」と問いかけ、こう答えます。「すべて一切の信頼を、ただ神にこそ置くこと。その御意志に服従して、神に仕えること。どんな困難や乏しさの中でも神に呼ばわって、救いとすべての幸いを神の中に願い求めることそれらがただ神の憐みから出ることを認めること」(ジュネーブ信仰問答 問7,1542年)。それをよくよく覚えつづけて、私たちも安心して晴々として暮らしていけること。小さな子供の信頼や愛情や感謝を心に深く刻み込んだ、素敵な大人になることだってできます。この私たちにさえも。「しかし私が願うことではなく、御心に適うことが行われますように。おとうちゃん。おっとう」と主イエスは呼ばわります。この私たちでさえ、「アバ父よ。どうぞよろしく。オットウ、とうちゃん、頼みますよ」と同じくそう呼ばわることができます。呼ばわりつつ生きるに値する父親が、あなたにもいてくださるからです。なぜなら天におられます父と救い主イエスを、とうとう本気で信じて、毎日毎日の暮らしを生きはじめたからです。だから今では、私たちは神さまの子供たちです。
〈祈り〉
生命の与え主である神さま。あなたによって造られたすべてのものたちにあなたからの平安を受け取らせてください。神さまによって救いへと選ばれている私たちです。終りの日の審判をへて、やがて神の永遠の御国へと招き入れられる希望を、どうか私たちのうちに確かなものとさせつづけておください。
日本中で、いいえ世界のあらゆる場所で、きびしい苦難の中に多くの人々が置かれています。私たちを顧み、憐れんでくださいますように。心細く暮らす人々に希望と慰めが与えられますように。医療従事者、福祉施設で働く職員たち、幼稚園や保育所の職員とその家族の健康をお支えください。お父さんお母さんたちと子供たちの毎日の生活をお支えください。すべての人々が安心して安全に一日ずつを生きることができますように。私たちと家族の健康と命も、あなたのお支えのもとにあることをよく覚えさせつづけてください。
神を信じて生きる私たちのためには、すべての信頼を神さまに置いて、その御意思と御心に聞き従って、どこで何をしていてもそこでそのようにして神様に仕えて生きることができるように。どんな苦しみや悩みや辛さの只中にあっても、そこで神様に呼ばわって、救いとすべての幸いを神の中に求めつづける私たちであらせてください。主イエスのお名前によって祈ります。アーメン