みことば/2020,4,26(復活節第3主日 礼拝休止中の説教3) No.264
出エジプト記16:1-12 日本キリスト教会 上田教会
『私たちに必要な糧を今日も』 ~主の祈り.5~
+葬儀説教 『1コリント手紙 15:16-20によって』
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC)
16:11 主はモーセに言われた、12 「わたしはイスラエルの人々のつぶやきを聞いた。彼らに言いなさい、『あなたがたは夕には肉を食べ、朝にはパンに飽き足りるであろう。そうしてわたしがあなたがたの神、主であることを知るであろう』と」。 (出エジプト記16:1-12)
出エジプト記16章。神の民とされたイスラエルの人々は、エジプトの国で400年もの長い間、奴隷にされていました。『奴隷』とは、人間ではない品物や道具のように、ただ他の人たちの思うままに、ただ便利に都合よく酷使されつづける存在です。今の日本には、まるで「奴隷」などいないかのように思われています。けれど、「奴隷のように扱われつづける弱い立場の人々」は大勢います。例えば原子力発電所で働いている、下請けの下請けの下請けの労働者たち。例えばアジア諸国から出稼ぎにきて「職業研修生」「農業実習生」などと呼ばれて安く便利に使われる多くの労働者たち。派遣や非正規雇用という不安定な雇用条件で働く労働者たち。小学校や中学・高校にも陰湿でとても過酷ないじめが絶えません。他の子供たちからまるでモノや道具のように扱われる子供たちがいつづけます。しばらく前に、その学校現場で複数の教師たちが共謀して同僚の教師をいじめつづけていた悪質な事件が暴かれ、報道されたこともありました。驚くべきことです。踏みつけにされつづける心細く貧しいその人たちがどんな気持ちで暮らしているか、嬉しいか悲しいかと誰にも気にかけてもらえない。なんと危うく、心細く惨めなことでしょう。私たちの先祖は、奴隷の国エジプトでそういう扱いを受けつづけた人々でした(出エジプト3:7-10)。神さまが憐れんでくださって、そこから連れ出してくださいました。助け出していただいて、とても嬉しかったのです。ありがとうございますありがとうございますと大喜びしていたはずの人々は、けれどエジプトから出て荒れ野の旅をしはじめて2カ月ほどたったとき、今度は、嫌な顔をして文句を言い始めました。つぶやくように不平不満を訴えつづける彼らの声は、もちろん神さまの耳に届きました。12節;「わたしはイスラエルの人々のつぶやきを聞いた。彼らに言いなさい、『あなたがたは夕には肉を食べ、朝にはパンに飽き足りるであろう。そうしてわたしがあなたがたの神、主であることを知るであろう』と」。驚きです。不平不満ばかりを言う心のねじ曲がった人々を、けれども神さまは厳しく叱りつけたり、懲らしめたり、追い払ったりしません。それどころか正反対に、パンも肉も腹いっぱい食べさせ、『神さまが本当に主であってくださり、責任をもってちゃんと養ってくださる方だ』とよくよく分からせてあげる。こういう神さまです。神さまは、私たちをこういうふうに取り扱いつづけています。よくよく覚えておきましょう。「おのおのその食べるところに従って。あなたがたの人数に従って、ひとりに1オメルずつ(約2.2リットル)。その天幕におるもののために」。つまり、それぞれ必要な分だけ、それぞれ自分と同居の人々がその日に食べる分だけ、1日分ずつ集めなさい。次の日にも、ちゃんと集めることができる。だから、次の朝まで残しておいてはいけませんよ(16,17節参照)と命じられました。そうそう、6日目と7日目には、特別なことが命じられ、不思議なことが起こりました。6日目には2日分のマナを集めることが出来ました。それは、神さまから命令されたとおり、煮たり焼いたりして、次の日まで残しておいて、次の7日目に食べることができました。それで7日目の安息日は、もっぱら神さまのためにだけ使うことができたのです。礼拝をして、神さまがどんな神さまで、私たちをどんなふうに取り扱ってくださるかを教えられ、「ああ本当にそうだ」と喜びと感謝を心に刻んで(22-26節)。生きてゆくために、自分と家族のために生活の糧を得るために、この彼らが6日間くりかえしていることをご覧ください。夕方には、飛んできたうずらを集め、朝には「これは何であろう」とマナを集めます。自分と家族が暮らしてゆくために必要な分ずつを、毎日、神さまから受け取って拾い集め、そのまま食べたり、煮たり焼いたりして食べたりし、おなかいっぱいに食べて満たされ、神さまに感謝する。そのようにして、「神さまが本当に私たちのご主人さまだ。本当にそうだ」とお父さんもお母さんも、子供たちも年配の方々も皆、はっきり知るようになる(12節)。
「これはいったい何だろう。どうして神さまはこんなにも手厚く、こんなにも慈しみ深く親切に世話してくださるのか。どうしてだろう」(15節参照)と目を丸くして驚きながら、うずらやマナを自分と家族がその日必要な分だけ集め、水を汲み、煮たり焼いたりして食べる。欲張って必要のない分まで掻き集め、自分勝手にむさぼり食べようとするとそれは腐ったり、嫌な臭いがしはじめ、神さまからも厳しく叱られる。彼らの1週間の暮らしぶりと今日の私たちの暮らしぶりは、よく似た所があるでしょうか。それとも、かなり違うでしょうか。神さまに対する彼らの信頼や感謝と、神さまに対する私たちの信頼や感謝は、よく似ているでしょうか。それとも、いつの間にか、ずいぶん違ったものになってしまったでしょうか。
16章末尾の32-36節は、神さまへの信仰と信頼を自分自身が受け取り、子供や孫たちにも手渡してゆくための良い手本です。壺に1人が1日食べる分のマナを保存し、代々に渡って蓄える。なぜか。何のために。連れ合いや、自分の大切な子供や孫や、その子供の子供の子供に見せるためです。「これは何?」とその子たちが興味津々に質問するなら、そこで、あなたとその人との間で信仰の手ほどきが始まるでしょう。ご存知でしたか。今でも、わたしたちの手元に、この壺は残されています。『わたしたちが一日一日と生きてゆくために必要な糧を、神さまどうぞ今日も与えてください』という名前の同じ壺が、1人1個ずつ手元に与えられています。しかももしかしたら、心細く淋しい人々の中から、天からの恵みの肉と天からの恵みのパンを慕い求めて父の家に返ってくる者たちが起こされるかも知れません。1人また1人と。いなくなっていたのに見つかり、死んでいたのに生き返る放蕩の息子や娘たちが。そのとき、その1人のために、天に大きな喜びがあります。神さまご自身の喜びです。わたしたちの日毎の食物を今日もお与えください。私たちが普段生活していく上で必要なものを、生命を養う糧を、どうぞこの日も私たちに与えてください、と祈ります。祈る度毎に、「必要な糧を神さまが、私たちに、この私にも贈り与えてくださった。ありがとうございます」と私たちは神さまに感謝し、神さまに願い求め、神さまにこそ一途に信頼を寄せします。あなたは、神さまからどんな良い贈り物をいただいているでしょう。朝ごはん、昼ごはん、晩ごはん。子供たちの学費、養育費、電気代ガス代、家族。友だち。職場の仲間たち。神への信頼と感謝。1日分ずつの生命。健康。どれもこれもがすべて一切、神さまからの恵みの贈り物です。祈りと、神さまを信じる信仰さえもが、神さまからの恵みの贈り物です。「ああ本当にそうだ」と、あなた自身も心底から了解できます。なんという恵み、なんという喜びでしょう。
■葬儀説教 コリント人への第一の手紙 15:16-20によって
15:16 もし死人がよみがえらないなら、キリストもよみがえらなかったであろう。17 もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり、あなたがたは、いまなお罪の中にいることになろう。18 そうだとすると、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのである。19 もしわたしたちが、この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば、わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在となる。20 しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。
(コリント人への第一の手紙 15:16-20)
もう2000年も前のことです。キリスト教会の中で、信仰を揺るがし、神を信じて生きることをなし崩しにしかねない緊急事態の重大問題が起こっていました。「救い主イエス・キリストが死んだ後、死人の中からよみがえったというのは嘘だ。そんなのは出まかせだ。死んだ人間は死んだままだし、生き返るなんてあるはずもない」とキリスト教会の中である人々が言い出しました。ああ、そうかも知れない。——多くの人々がその口車にうっかり騙されて、神を信じて生きる幸いな道から次々と転げ落ちてゆきそうでした。救い主イエスが十字架にかけられて殺され、墓に葬られ、その三日後に死人の中からよみがえりました。今も生きて働いておられます。これが、聖書によってはっきりと証言され、私たちが信じている信仰の中身です。心を迷わせてしまいそうな兄弟姉妹たちのために手紙が書かれ、聖書に収められました。それが、今日ごいっしょに読んだ箇所です。聖書に書いてあるとおり、救い主イエスは死んで、墓に葬られ、その三日目に死人の中からよみがえった。その救い主イエスに率いられて、主を信じる私たちもまた古い罪の自分と死に別れ、神の御心にかなって生きることを願いながら新しく生きる者とされる。また、死んだ後、死の川波を乗り越えて、神の永遠の御国に辿り着き、そこで神と共に生きることになる。救い主イエス・キリストが「初穂」として、その最初の実りとして、死人の中からよみがえった。すると、この初穂に続いて、次々と他の種も実を結び、次々と死人の中からよみがえりつづける。その新しい祝福された生命の中に私たちも入っている。これが、この信仰の生命です。もし、それが信じられないなら、私たちクリスチャンは罪の中に留まることになり、すべての人々の中で、最も惨めで憐れむべき者たちとなるほかない。祝福された幸いな生涯を送るのか、それとも最も惨めで虚しい者に成り下がってしまうのか。先祖と私たちは、ここで決定的な別れ道に立たされます。
ですから、神さまを信じて生きた一人のクリスチャンの生涯がなぜ幸いであるのかを、私たちはよく知っている必要があります。なぜ、その生涯が恵みと祝福に満ちたものであるのかを、はっきりと分かっている必要があります。まず神を信じるためには、神さまと出会い、その神がどういう神であられるのかを知らねばなりません。その一人の人が神を信じて生きるようになったのは、その人自身がこの神を自分で選んだからではなく、神を信じて生きることを、その人が決めたからではありません。決して、そうではありません。神さまがその人をあらかじめ救いへと選び取ってくださっていたからであり、神がご自身の御もとへと招き寄せ、信じさせてくださったからです。そうでなければ、誰一人も神を知ることも信じることもできませんでした(ヨハネ福音書15:16)。この世界がはじまる前から、その人々は神を信じて生きるようにと選ばれていました。やがて地上の生涯を終えて、終わりに日に救い主イエスによる裁きをへて、神の永遠の御国へと招き入れられ、そこで永遠に生きる者とされます。それが神ご自身からの約束であり、幸いであることの中身です。
生きてゆく生涯の歩みの中で、それぞれに、さまざまな出来事が起こります。もちろん神を信じて生きていても、災いや苦しみや悩みがあり、それらは目の前に次々と立ちふさがります。良いことも悪いことも起こります。嬉しいことも嫌なことも待ち構えています。神を信じていてもそうでなくても、ものすごく困ったことや辛いこと苦しいことが起こります。そこまでは、誰でも同じです。ただ、神を信じて生きる人たちは、神さまが自分の味方であることを知らされ、習い覚えています。見捨てることも見離すこともなさらないと約束してくださったことを心に刻んでいます。ですから、その人は、どんな辛さや悩みの中でも神にこそ呼ばわって、救いと助けを求め、それを神さまから受け取りつづけます。神に感謝し、信頼を寄せ、神にこそ聴き従って生きることができます。それが神ご自身からの約束であり、幸いであることの中身です。聖書は証言します、「キリストは、天地が造られる前から、あらかじめ知られていたのであるが、この終りの時に至って、あなたがたのために現れたのである。あなたがたは、このキリストによって、彼を死人の中からよみがえらせて、栄光をお与えになった神を信じる者となったのであり、したがって、あなたがたの信仰と望みとは、神にかかっているのである」(1ペテロ手紙1:20-21)。
Mさんのためにも、子供たち孫たちひ孫たち一人一人のためにも、この同じ神さまが生きて働いておられます。もちろん、この私たちと、大切な家族のためにもです。祈りましょう。
(2020,4,21 葬儀式の説教)
≪礼拝休止期間中の説教予定≫
■4月26日 出エジプト記16:1-12 『私たちの日毎の糧を』 (主の祈り.5)
招き/エゼキエル書18:31 ゆるし/同18:32 祝福/2コリント手紙13:13
讃美歌 556,26,150,151,540,,,
■5月 3日 マタイ福音書18:21-35 『ゆるしてください』 (主の祈り.6)
招き/エゼキエル書36:26 ゆるし/同36:27 祝福/2コリント手紙13:13
讃美歌 557、38、153、154、541
■5月10日 エペソ手紙6:10-20 『試みと悪から救い出してください』 (主の祈り.7)
■5月17日 マルコ福音書1:14-15 『国と力と栄光は』 (主の祈り.8)
■5月24日 1ヨハネ手紙1:5-10 『アーメン。真実はどこにあるのか』 (主の祈り.9)