2020年4月25日土曜日

4/26「私たちに必要な糧を今日も」出エジプト16:1-12 +葬儀説教「Ⅰコリント15:16-20によって」

みことば/2020,4,26(復活節第3主日 礼拝休止中の説教3)  No.264
出エジプト記16:1-12                       日本キリスト教会 上田教会

『私たちに必要な糧を今日も』  ~主の祈り.5~

                               +葬儀説教 『1コリント手紙 15:16-20によって』

 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)  (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
16:11 主はモーセに言われた、12 「わたしはイスラエルの人々のつぶやきを聞いた。彼らに言いなさい、『あなたがたは夕には肉を食べ、朝にはパンに飽き足りるであろう。そうしてわたしがあなたがたの神、主であることを知るであろう』と」。           (出エジプト記16:1-12

出エジプト記16章。神の民とされたイスラエルの人々は、エジプトの国で400年もの長い間、奴隷にされていました。『奴隷』とは、人間ではない品物や道具のように、ただ他の人たちの思うままに、ただ便利に都合よく酷使されつづける存在です。今の日本には、まるで「奴隷」などいないかのように思われています。けれど、「奴隷のように扱われつづける弱い立場の人々」は大勢います。例えば原子力発電所で働いている、下請けの下請けの下請けの労働者たち。例えばアジア諸国から出稼ぎにきて「職業研修生」「農業実習生」などと呼ばれて安く便利に使われる多くの労働者たち。派遣や非正規雇用という不安定な雇用条件で働く労働者たち。小学校や中学・高校にも陰湿でとても過酷ないじめが絶えません。他の子供たちからまるでモノや道具のように扱われる子供たちがいつづけます。しばらく前に、その学校現場で複数の教師たちが共謀して同僚の教師をいじめつづけていた悪質な事件が暴かれ、報道されたこともありました。驚くべきことです。踏みつけにされつづける心細く貧しいその人たちがどんな気持ちで暮らしているか、嬉しいか悲しいかと誰にも気にかけてもらえない。なんと危うく、心細く惨めなことでしょう。私たちの先祖は、奴隷の国エジプトでそういう扱いを受けつづけた人々でした(出エジプト3:7-10)。神さまが憐れんでくださって、そこから連れ出してくださいました。助け出していただいて、とても嬉しかったのです。ありがとうございますありがとうございますと大喜びしていたはずの人々は、けれどエジプトから出て荒れ野の旅をしはじめて2カ月ほどたったとき、今度は、嫌な顔をして文句を言い始めました。つぶやくように不平不満を訴えつづける彼らの声は、もちろん神さまの耳に届きました。12節;「わたしはイスラエルの人々のつぶやきを聞いた。彼らに言いなさい、『あなたがたは夕には肉を食べ、朝にはパンに飽き足りるであろう。そうしてわたしがあなたがたの神、主であることを知るであろう』と」。驚きです。不平不満ばかりを言う心のねじ曲がった人々を、けれども神さまは厳しく叱りつけたり、懲らしめたり、追い払ったりしません。それどころか正反対に、パンも肉も腹いっぱい食べさせ、『神さまが本当に主であってくださり、責任をもってちゃんと養ってくださる方だ』とよくよく分からせてあげる。こういう神さまです。神さまは、私たちをこういうふうに取り扱いつづけています。よくよく覚えておきましょう。「おのおのその食べるところに従って。あなたがたの人数に従って、ひとりに1オメルずつ(約2.2リットル)。その天幕におるもののために」。つまり、それぞれ必要な分だけ、それぞれ自分と同居の人々がその日に食べる分だけ、1日分ずつ集めなさい。次の日にも、ちゃんと集めることができる。だから、次の朝まで残しておいてはいけませんよ(16,17節参照)と命じられました。そうそう、6日目と7日目には、特別なことが命じられ、不思議なことが起こりました。6日目には2日分のマナを集めることが出来ました。それは、神さまから命令されたとおり、煮たり焼いたりして、次の日まで残しておいて、次の7日目に食べることができました。それで7日目の安息日は、もっぱら神さまのためにだけ使うことができたのです。礼拝をして、神さまがどんな神さまで、私たちをどんなふうに取り扱ってくださるかを教えられ、「ああ本当にそうだ」と喜びと感謝を心に刻んで(22-26)。生きてゆくために、自分と家族のために生活の糧を得るために、この彼らが6日間くりかえしていることをご覧ください。夕方には、飛んできたうずらを集め、朝には「これは何であろう」とマナを集めます。自分と家族が暮らしてゆくために必要な分ずつを、毎日、神さまから受け取って拾い集め、そのまま食べたり、煮たり焼いたりして食べたりし、おなかいっぱいに食べて満たされ、神さまに感謝する。そのようにして、「神さまが本当に私たちのご主人さまだ。本当にそうだ」とお父さんもお母さんも、子供たちも年配の方々も皆、はっきり知るようになる(12)
  「これはいったい何だろう。どうして神さまはこんなにも手厚く、こんなにも慈しみ深く親切に世話してくださるのか。どうしてだろう」(15節参照)と目を丸くして驚きながら、うずらやマナを自分と家族がその日必要な分だけ集め、水を汲み、煮たり焼いたりして食べる。欲張って必要のない分まで掻き集め、自分勝手にむさぼり食べようとするとそれは腐ったり、嫌な臭いがしはじめ、神さまからも厳しく叱られる。彼らの1週間の暮らしぶりと今日の私たちの暮らしぶりは、よく似た所があるでしょうか。それとも、かなり違うでしょうか。神さまに対する彼らの信頼や感謝と、神さまに対する私たちの信頼や感謝は、よく似ているでしょうか。それとも、いつの間にか、ずいぶん違ったものになってしまったでしょうか。
  16章末尾の32-36節は、神さまへの信仰と信頼を自分自身が受け取り、子供や孫たちにも手渡してゆくための良い手本です。壺に1人が1日食べる分のマナを保存し、代々に渡って蓄える。なぜか。何のために。連れ合いや、自分の大切な子供や孫や、その子供の子供の子供に見せるためです。「これは何?」とその子たちが興味津々に質問するなら、そこで、あなたとその人との間で信仰の手ほどきが始まるでしょう。ご存知でしたか。今でも、わたしたちの手元に、この壺は残されています。『わたしたちが一日一日と生きてゆくために必要な糧を、神さまどうぞ今日も与えてください』という名前の同じ壺が、1人1個ずつ手元に与えられています。しかももしかしたら、心細く淋しい人々の中から、天からの恵みの肉と天からの恵みのパンを慕い求めて父の家に返ってくる者たちが起こされるかも知れません。1人また1人と。いなくなっていたのに見つかり、死んでいたのに生き返る放蕩の息子や娘たちが。そのとき、その1人のために、天に大きな喜びがあります。神さまご自身の喜びです。わたしたちの日毎の食物を今日もお与えください。私たちが普段生活していく上で必要なものを、生命を養う糧を、どうぞこの日も私たちに与えてください、と祈ります。祈る度毎に、「必要な糧を神さまが、私たちに、この私にも贈り与えてくださった。ありがとうございます」と私たちは神さまに感謝し、神さまに願い求め、神さまにこそ一途に信頼を寄せします。あなたは、神さまからどんな良い贈り物をいただいているでしょう。朝ごはん、昼ごはん、晩ごはん。子供たちの学費、養育費、電気代ガス代、家族。友だち。職場の仲間たち。神への信頼と感謝。1日分ずつの生命。健康。どれもこれもがすべて一切、神さまからの恵みの贈り物です。祈りと、神さまを信じる信仰さえもが、神さまからの恵みの贈り物です。「ああ本当にそうだ」と、あなた自身も心底から了解できます。なんという恵み、なんという喜びでしょう。


  ■葬儀説教  コリント人への第一の手紙 15:16-20によって
15:16 もし死人がよみがえらないなら、キリストもよみがえらなかったであろう。17 もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり、あなたがたは、いまなお罪の中にいることになろう。18 そうだとすると、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのである。19 もしわたしたちが、この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば、わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在となる。20 しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。 
(コリント人への第一の手紙 15:16-20

もう2000年も前のことです。キリスト教会の中で、信仰を揺るがし、神を信じて生きることをなし崩しにしかねない緊急事態の重大問題が起こっていました。「救い主イエス・キリストが死んだ後、死人の中からよみがえったというのは嘘だ。そんなのは出まかせだ。死んだ人間は死んだままだし、生き返るなんてあるはずもない」とキリスト教会の中である人々が言い出しました。ああ、そうかも知れない。——多くの人々がその口車にうっかり騙されて、神を信じて生きる幸いな道から次々と転げ落ちてゆきそうでした。救い主イエスが十字架にかけられて殺され、墓に葬られ、その三日後に死人の中からよみがえりました。今も生きて働いておられます。これが、聖書によってはっきりと証言され、私たちが信じている信仰の中身です。心を迷わせてしまいそうな兄弟姉妹たちのために手紙が書かれ、聖書に収められました。それが、今日ごいっしょに読んだ箇所です。聖書に書いてあるとおり、救い主イエスは死んで、墓に葬られ、その三日目に死人の中からよみがえった。その救い主イエスに率いられて、主を信じる私たちもまた古い罪の自分と死に別れ、神の御心にかなって生きることを願いながら新しく生きる者とされる。また、死んだ後、死の川波を乗り越えて、神の永遠の御国に辿り着き、そこで神と共に生きることになる。救い主イエス・キリストが「初穂」として、その最初の実りとして、死人の中からよみがえった。すると、この初穂に続いて、次々と他の種も実を結び、次々と死人の中からよみがえりつづける。その新しい祝福された生命の中に私たちも入っている。これが、この信仰の生命です。もし、それが信じられないなら、私たちクリスチャンは罪の中に留まることになり、すべての人々の中で、最も惨めで憐れむべき者たちとなるほかない。祝福された幸いな生涯を送るのか、それとも最も惨めで虚しい者に成り下がってしまうのか。先祖と私たちは、ここで決定的な別れ道に立たされます。
ですから、神さまを信じて生きた一人のクリスチャンの生涯がなぜ幸いであるのかを、私たちはよく知っている必要があります。なぜ、その生涯が恵みと祝福に満ちたものであるのかを、はっきりと分かっている必要があります。まず神を信じるためには、神さまと出会い、その神がどういう神であられるのかを知らねばなりません。その一人の人が神を信じて生きるようになったのは、その人自身がこの神を自分で選んだからではなく、神を信じて生きることを、その人が決めたからではありません。決して、そうではありません。神さまがその人をあらかじめ救いへと選び取ってくださっていたからであり、神がご自身の御もとへと招き寄せ、信じさせてくださったからです。そうでなければ、誰一人も神を知ることも信じることもできませんでした(ヨハネ福音書15:16。この世界がはじまる前から、その人々は神を信じて生きるようにと選ばれていました。やがて地上の生涯を終えて、終わりに日に救い主イエスによる裁きをへて、神の永遠の御国へと招き入れられ、そこで永遠に生きる者とされます。それが神ご自身からの約束であり、幸いであることの中身です。
生きてゆく生涯の歩みの中で、それぞれに、さまざまな出来事が起こります。もちろん神を信じて生きていても、災いや苦しみや悩みがあり、それらは目の前に次々と立ちふさがります。良いことも悪いことも起こります。嬉しいことも嫌なことも待ち構えています。神を信じていてもそうでなくても、ものすごく困ったことや辛いこと苦しいことが起こります。そこまでは、誰でも同じです。ただ、神を信じて生きる人たちは、神さまが自分の味方であることを知らされ、習い覚えています。見捨てることも見離すこともなさらないと約束してくださったことを心に刻んでいます。ですから、その人は、どんな辛さや悩みの中でも神にこそ呼ばわって、救いと助けを求め、それを神さまから受け取りつづけます。神に感謝し、信頼を寄せ、神にこそ聴き従って生きることができます。それが神ご自身からの約束であり、幸いであることの中身です。聖書は証言します、「キリストは、天地が造られる前から、あらかじめ知られていたのであるが、この終りの時に至って、あなたがたのために現れたのである。あなたがたは、このキリストによって、彼を死人の中からよみがえらせて、栄光をお与えになった神を信じる者となったのであり、したがって、あなたがたの信仰と望みとは、神にかかっているのである」(1ペテロ手紙1:20-21
Mさんのためにも、子供たち孫たちひ孫たち一人一人のためにも、この同じ神さまが生きて働いておられます。もちろん、この私たちと、大切な家族のためにもです。祈りましょう。         
                                                                          2020,4,21 葬儀式の説教)


≪礼拝休止期間中の説教予定≫
■4月26日 出エジプト記16:1-12 『私たちの日毎の糧を』            (主の祈り.5
       招き/エゼキエル書18:31  ゆるし/同18:32  祝福/2コリント手紙13:13
       讃美歌 556,26,150,151,540,,,
■5月 3日 マタイ福音書18:21-35 『ゆるしてください』   (主の祈り.6)
       招き/エゼキエル書36:26  ゆるし/同36:27  祝福/2コリント手紙13:13
       讃美歌 557、38、153、154、541 
5月10日 エペソ手紙6:10-20 『試みと悪から救い出してください』  (主の祈り.7)
5月17日 マルコ福音書1:14-15 『国と力と栄光は』     (主の祈り.8)                       
5月24日 1ヨハネ手紙1:510 『アーメン。真実はどこにあるのか』    (主の祈り.9)  

2020年4月21日火曜日

4/21「新型コロナウイルス対策『国民一人当たり10万円一律給付』への要望


内閣総理大臣 安倍晋三様

新型コロナウィルス対策 「国民一人当たり10万円 一律給付」への要望

 政府は416()、新型コロナウィルス感染拡による緊急経済対策として、「国民一人当たり10万円」を律給付することを決めました。
 ただ、「国民一人当たり」という表現が、外国籍者やその周囲のたちに多大の不安を与えていることを懸念します。
総務省「生活支援臨時給付金室」担当者によると、『今回の10万円給付は、「住民基本台帳に登録のある人」また、「国籍に関わらず、住民基本台帳に登録している住所と違う場所に居住実態がある人」にも、給付金が行き渡るよう検討している』とのことでした。また、418()NHKニュースでも、『今回の給付金10万円の対象は、「外国人住民」すべてに適用する』と伝えていました。
確認させていただきたいのですが、技能実習生や留学生を含めた超過滞在外国人も含まれるのでしょうか。なぜなら、彼ら彼女らにも同じ感染リスクがあり、日本人と同じように恐怖と不安の中で生活しているにも拘わらず、「住民登録がないために健康保険証をもてない現実」があるからです。
その点を考慮し、より明確に、住民基本台帳に登録がない場合であっても、外国籍者を含め日本に暮らす全ての人々に一律給付がなされるよう、適切な対応を要望します。

2020年4月20日()
日本キリスト教会 人権委員会
                      委員長 金田聖治
靖国神社問題特別委員会
                                         委員長 古賀清敬

2020年4月20日月曜日

4/19こども説教「そのとおりかどうかと聖書を調べた」使徒17:10-15


4/19 こども説教 使徒行伝17:10-15

17:10 そこで、兄弟たちはただちに、パウロとシラスとを、夜の間にベレヤへ送り出した。ふたりはベレヤに到着すると、ユダヤ人の会堂に行った。11 ここにいるユダヤ人はテサロニケの者たちよりも素直であって、心から教を受けいれ、果してそのとおりかどうかを知ろうとして、日々聖書を調べていた。12 そういうわけで、彼らのうちの多くの者が信者になった。また、ギリシヤの貴婦人や男子で信じた者も、少なくなかった。13 テサロニケのユダヤ人たちは、パウロがベレヤでも神の言を伝えていることを知り、そこにも押しかけてきて、群衆を煽動して騒がせた。14 そこで、兄弟たちは、ただちにパウロを送り出して、海べまで行かせ、シラスとテモテとはベレヤに居残った。15 パウロを案内した人たちは、彼をアテネまで連れて行き、テモテとシラスとになるべく早く来るようにとのパウロの伝言を受けて、帰った。
(使徒行伝17:10-15) 


 主イエスの弟子たちは神の国を宣べ伝えつづけて、ベレアの町に着きました。そこの人たちは、ほかの人々と少し違っていました。11節、「ここにいるユダヤ人はテサロニケの者たちよりも素直であって、心から教を受けいれ、果してそのとおりかどうかを知ろうとして、日々聖書を調べていた」。素直な人たちや熱心な人たちなら、あちこちに大勢いるでしょう。けれどベレアの人たちは、語られた教えが本当にそのとおりなのかどうかと聖書を自分で読んで、一つ一つ調べたのです。聖書に書いてあるとおりならば、それを素直に受け入れて信じました。もしそうでなければ、上手に感動的に話されても、なるほどと思えても、信じません。どんな話し方なのか、どういう言葉で話すのかではなくて、その語られた中身が聖書に書かれているとおりのことを語っているのかどうか。だからこそ、弟子たちの語る言葉を聞いて、そのとおりかどうかと自分でも聖書を調べつづけたので、彼らのうちの多くの人々が神を信じて生きる者たちとされました。



4/19「神の御心を」ルカ11:1-2


 みことば/2020,4,19(復活節第2主日 礼拝休止中の説教2)  263
◎礼拝説教 ルカ福音書 11:1-2                    日本キリスト教会 上田教会

『神の御心を』 ~主の祈り.4~

 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
11:1 また、イエスはある所で祈っておられたが、それが終ったとき、弟子のひとりが言った、「主よ、ヨハネがその弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈ることを教えてください」。2 そこで彼らに言われた、「祈るときには、こう言いなさい、『父よ、御名があがめられますように。御国がきますように。       (ルカ福音書 11:1-2)


 神さまに向けてどう祈るのか。それは、神さまの御前で、神さまに向かって、信仰をもってどのように生きて死ぬことができるのかという問いです。『天におられます父なる神さま。あなたの名前を誉めたたえさせてください。あなたの国を来らせてください。あなたが心に思い、願っておられますことを、私たちが生きるこの地上の世界で、私たちのいつもの生活の場所で成し遂げさせてください』。それらの願いは、直ちに、天におられます父なる神への全幅の信頼です。神さまにこそ十分な信頼を寄せ、願い求め、聴き従って生きることです。天におられます父なる神さま。あなたの御心こそが成し遂げられますように。およそ500年前の古い信仰問答は、この願いの心をこう説き明かしています;「これは、私たちとすべての人間が自分自身の思いを捨てて、唯一善であるあなたの御心にいっさい抗弁することなく従うことができるようにしてください、ということです。こうして、すべてのものが自分の務めと使命とを、天にいる御使いのように喜んで、また忠実に果たすようにさせてください、ということです」(『ハイデルベルグ信仰問答,問1241563)。救い主イエスと弟子たちがエルサレムの都に向かう旅の途上で、主がご自身の十字架の死と復活を予告し、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」(ルカ9:23と命令なさったのも、このことです。まず、主イエスの弟子である私たち自身こそが「私が私が」と我を張りつづけることをキッパリと止め、からみついてくる自分の思いとさまざまな執着をかなぐり捨てて、神さまの御心にこそ従うことができるようにさせてください。しかもそれは、救い主イエス・キリストご自身から私たちへの直々の教えです。

  キリスト教の信仰はこういう願いであり、こういう生き方であると、はっきりと告げられます。すると、2種類の反応がありえます。1つは、「嬉しい。じゃあ、私もそういう生き方をさせてもらいましょう」。もう1つは、「嫌だ。気が進まない。そういうことなら、私は止めておきます」と立ち去っていく場合。「嬉しい。じゃあ、私もそういう生き方をさせてもらいましょう」とは、そう簡単には思えません。なにしろまず、どんな神さまなのかを十分に知らなければ、「嬉しい。私もぜひそうしたい」などと思えるはずもありません。人間同士の付き合いもまったく同じです。出会ってすぐに、「この人を信頼する。いっしょに生きていきたい」などとは思えません。ろくに付き合いもしないうちから、そんな大事なことを決められるはずがありません。長い時間を共に過ごし、苦楽を共にし、腹を割ってよくよく語り合い、その相手のさまざまな姿に触れる中で、少しずつ少しずつ信頼や愛情が育まれていきました。神さまとの付き合いもまったく同じです。「誠実であり、裏表なく正しく、慈しみ深く、とてもよい神さまだ。信頼に足る相手だ」と骨身にしみて味わって、人はようやく、その神さまを本気で心底から信じるようになっていきます。
 しかもこれは、『だれを自分の主人として私は生きるのか』という私たちの根源的な腹の据え方の問題でもあります。聖書の神さまを信じて生きることは、この神さまこそが自分の主人であり、私たちは主のしもべにすぎない、という弁えです。救い主イエスご自身からの直伝です;「だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである」(マタイ福音書6:24)いったい何を自分の主人として生きるのか。それは、何を頼みの綱として、何を支えや依り所として生きるのかという問いかけです。私たちの周りにはさまざまなモノがあり、その中の何かを選んで、私たちはそれを自分の主人とします。神や仏を拝まない人々であっても、何かを拝み、何かを頼みの綱として生きています。例えば、『自分自身の能力や才能や地位、築いてきた人々からの評判や名声、自分の見識や判断力』を拠り所とする人々もいるでしょう。それらを聖書は、『自分の腹の思いを神とする』(ローマ16:18,ピリピ3:19)と見抜き、それこそが「捨て去るべき自分自身の思い」だと指摘します。兄弟姉妹たち。あなたの腹の思いは、あなたを幸せにしません。かえってあなた自身を困らせ続けます。その時々の気分や好き嫌いや腹の思いや腹の虫を主人とするのと、神さまに従って生きるのと、どちらが幸せでしょう。それは自分自身で選ぶことです。せっかく頼みの綱とし、支えとするなら、必要なだけ十分に長持ちする、頼り甲斐のある支えのほうがよいでしょう。「自分自身のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。あなたの宝のある所には、心もあるからである」(マタイ福音書6:20-21と勧められています。神を信じ、神さまをこそ自分の主人として生きよという招きです。
 十字架にかけられて殺されてしまうその前の夜、救い主イエスは苦しみながら、ただ独りで祈りの格闘をなさいます。ゲッセマネと呼ばれている所で、エルサレムの都のすぐ裏にある小さな山の中です。お弟子さんたちは、小石を投げれば届くくらいの少し離れた場所で、待っていました。どんなふうに祈っているのかを見てみましょう。マルコ福音書14:32-36;「一同はゲツセマネという所にきた。そしてイエスは弟子たちに言われた、『わたしが祈っている間、ここにすわっていなさい』。そしてペテロ、ヤコブ、ヨハネを一緒に連れて行かれたが、恐れおののき、また悩みはじめて、彼らに言われた、『わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、目をさましていなさい』。そして少し進んで行き、地にひれ伏し、もしできることなら、この時を過ぎ去らせてくださるようにと祈りつづけ、そして言われた、『アバ、父よ、あなたには、できないことはありません。どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください』」。「アバ、父よ」と天のお父さんに向かって呼びかけています。アバ。その地方の方言ですが、2、3歳くらいのまだほんの小さな子供が父親に向かってこのように呼びかけます。「お父ちゃん。おっとう」などと。私たちの救い主は、この時、小さな子供の心に返って天のお父さんに向けて、「トウチャン。オットウ」と呼ばわっています。相手に対するわずかな疑いも恐れもなく、すっかり信頼して。感謝や愛情、素朴な願いを込めて、一途に「おっとう。とうちゃん」と。不思議です。主イエスはもちろん、もうすっかり大人なのですけれど、このお父さんの前では、このお父さんに向かっては、本当に小さな子供なのです(しかもなぜ、人間の親と子の関係や結びつきになぞらえて神を思うことができ、それがまったく正しく真実であるのか。御子イエス・キリストが身を低く屈めて、まことに人間となってくださったからです。御子イエス・キリストを通して父なる神が私たちの真実な父となってくださり、私たちを神の子供たちとして迎え入れ、「父よ」と呼ばわりつつ生きるようにと招き入れてくださったからです。ローマ手紙8:14-17,ヨハネ福音書14:8-14参照)。主イエスは「死ぬばかりに悲しい」とひどく恐れて身悶えしながら、「この苦しみのとき、この苦い杯」と噛みしめながら。しかしそこで、ユダヤ人の指導者たちやローマ提督や役人や兵隊たちを見回すのでありません。この崖っぷちの緊急事態の局面で、ここで、一途に父なる神にこそ目を凝らします。「どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」。「御心のままに。御心にかなうことが」とは何でしょう。どういう意味で、どういう腹の据え方でしょうか。自分を愛してとても大切に思ってくれるお父さんやお母さんといっしょにいるときの、小さな子供の心です。小さな子供にも、もちろん困ったことや悲しいことや嫌なことがあります。辛く苦しいことも。私たちに負けず劣らず、それは次々とあるのです。
  「だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこに入ることは決してできない」(マルコ10:15)と告げられていました。「お父ちゃん。おっとう」と天の父に向かって呼ばわる子供です。そのように一途に神さまに信頼し、願い求め、手を差し伸べて神さまに近づこうとする小さな子供です。そう言われて、ある人々は渋い顔をします;「年をとった者が、どうしてまたオギャアオギャアと生まれたり、おっとう、トウチャンなどと口に出せるだろう。いいや、決してできるはずもない」(ヨハネ福音書3:4-9参照)。いいえ、私たちは新しく生まれることができます。天の御父に向かって、救い主イエスがしたように、「おっとう、トウチャン」と心底から親しく呼ばわることができます。もし、そうなりたいと願うならば。この祈りの格闘を弟子たちに語り聞かせ、告げ知らせてくださったのは、私たちそれぞれにも悲しくて惨めで辛くて、とてもとても困ったことがあるからです。あなたにも、おっかなくて苦しくて心細い日々がありますね。小さな子供にも、中学生や高校生の大きなお兄さんお姉さんたちにも、お父さんお母さんにも、おじいさんおばあさんたちにも、それぞれに次々とあります。それぞれのゲッセマネの園です。もし、そうであるなら、あなたも地面にひれ伏し、身を投げ出して必死に祈りなさい。神さまを信じる一人の人は、どうやって生き延びてゆくことができるでしょう。病気にかからずケガもせず、誰からも意地悪をされず、嫌な思いをすることもなく、いつも皆がニコニコして親切にしてくれて。――そんな絵空事を夢見るわけではありません。私は願い求めます。本当に困ってガッカリするときに、しかし慰められ、心を挫けさせるとき、再び勇気を与えられ、心細くてひどく惨めな気持ちのとき、なお支えられることを。そのことをこそ心から望んでいます。
 主の祈りの中の6つの願いのうち、はじめの3つの願いを味わってきました。御名をあがめさせたまえ。御国を来たらせたまえ。御心の天になるごとく地にもなさせたまえ。つまり、神さまが本当に神さまらしく、ちゃんとご自分の務めを果たしてくださっている。私たちが喜んだり悲しんだり、安心したり困って心細かったりすることの1つ1つに対して、神さまこそが全責任を負って、支えとおし、助けつづけてくださる。そういう神さまが生きて働いてくださる。およそ500年前の宗教改革の時代の教えです。「神を敬う正しい在り方はどういうものですか」と問いかけ、こう答えます。「すべて一切の信頼を、ただ神にこそ置くこと。その御意志に服従して、神に仕えること。どんな困難や乏しさの中でも神に呼ばわって、救いとすべての幸いを神の中に願い求めることそれらがただ神の憐みから出ることを認めること」(ジュネーブ信仰問答 問7,1542年)。それをよくよく覚えつづけて、私たちも安心して晴々として暮らしていけること。小さな子供の信頼や愛情や感謝を心に深く刻み込んだ、素敵な大人になることだってできます。この私たちにさえも。「しかし私が願うことではなく、御心に適うことが行われますように。おとうちゃん。おっとう」と主イエスは呼ばわります。この私たちでさえ、「アバ父よ。どうぞよろしく。オットウ、とうちゃん、頼みますよ」と同じくそう呼ばわることができます。呼ばわりつつ生きるに値する父親が、あなたにもいてくださるからです。なぜなら天におられます父と救い主イエスを、とうとう本気で信じて、毎日毎日の暮らしを生きはじめたからです。だから今では、私たちは神さまの子供たちです。

〈祈り〉
生命の与え主である神さま。あなたによって造られたすべてのものたちにあなたからの平安を受け取らせてください。神さまによって救いへと選ばれている私たちです。終りの日の審判をへて、やがて神の永遠の御国へと招き入れられる希望を、どうか私たちのうちに確かなものとさせつづけておください。
日本中で、いいえ世界のあらゆる場所で、きびしい苦難の中に多くの人々が置かれています。私たちを顧み、憐れんでくださいますように。心細く暮らす人々に希望と慰めが与えられますように。医療従事者、福祉施設で働く職員たち、幼稚園や保育所の職員とその家族の健康をお支えください。お父さんお母さんたちと子供たちの毎日の生活をお支えください。すべての人々が安心して安全に一日ずつを生きることができますように。私たちと家族の健康と命も、あなたのお支えのもとにあることをよく覚えさせつづけてください。
神を信じて生きる私たちのためには、すべての信頼を神さまに置いて、その御意思と御心に聞き従って、どこで何をしていてもそこでそのようにして神様に仕えて生きることができるように。どんな苦しみや悩みや辛さの只中にあっても、そこで神様に呼ばわって、救いとすべての幸いを神の中に求めつづける私たちであらせてください。主イエスのお名前によって祈ります。アーメン

2020年4月12日日曜日

4/12こども説教「救い主イエスの死と復活を」使徒17:1-9


4/12 こども説教 使徒行伝17:1-9
 『救い主イエスの死と復活を』

17:1 一行は、アムピポリスとア ポロニヤとをとおって、テサロニケに行った。ここにはユダヤ人の会堂があった。2 パウロは例によって、その会堂にはいって行って、三つの安息日にわたり、聖書に基いて彼らと論じ、3 キリストは必ず苦難を受け、そして死人の中からよみがえるべきこと、また「わたしがあなたがたに伝えているこのイエスこそは、キリストである」とのことを、説明もし論証もした。4 ある人たちは納得がいって、パウロとシラスにしたがった。その中には、信心深いギリシヤ人が多数あり、貴婦人たちも少なくなかった。5 ところが、ユダヤ人たちは、それをねたんで、町をぶらついているならず者らを集めて暴動を起し、町を騒がせた。それからヤソンの家を襲い、ふたりを民衆の前にひっぱり出そうと、しきりに捜した。6 しかし、ふたりが見つからないので、ヤソンと兄弟たち数人を、市の当局者のところに引きずって行き、叫んで言った、「天下をかき回してきたこの人たちが、ここにもはいり込んでいます。7 その人たちをヤソンが自分の家に迎え入れました。この連中は、みなカイザルの詔勅にそむいて行動し、イエスという別の王がいるなどと言っています」。8 これを聞いて、群衆と市の当局者は不安に感じた。9 そして、ヤソンやほかの者たちから、保証金を取った上、彼らを釈放した。               (使徒行伝17:1-9

 2-3節、「パウロは例によって、その会堂にはいって行って、三つの安息日にわたり、聖書に基いて彼らと論じ、キリストは必ず苦難を受け、そして死人の中からよみがえるべきこと、また「わたしがあなたがたに伝えているこのイエスこそは、キリストである」とのことを、説明もし論証もした」。聖書に書いてあるとおりに、主イエスは死んで、その三日目に復活しました。この方が救い主であること、また救い主イエスに導かれて、信じる私たちも我がままで強情で臆病な古い自分と死に別れ、その「神に逆らう自分」を投げ捨てさせていただいて、それと引き換えのようにして新しい生活に生きる者とされました。このときばかりでなく、今もこれからも、ただこのことだけが語られつづけます。どんな希望をもっているのか、先行きにどんな良い見通しをもっており、どういう慰めと支えがあるのかと聞かれるとき、この同じ一つのことを、キリストの教会と主イエスの弟子であるクリスチャンは答えつづけます。そのように神さまの御心にかなって生きようと願い求め続けて、毎日毎日を暮らしていく私たちです。






4/12「弟子たちとペテロに伝えなさい」マルコ16:1-8


        みことば/2020,4,12(復活節第1主日の礼拝)  262
◎礼拝説教 マルコ福音書 16:1-8                    日本キリスト教会 上田教会
『弟子たちとペテロに伝えなさい』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
16:1 さて、安息日が終ったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとが、行ってイエスに塗るために、香料を買い求めた。2 そして週の初めの日に、早朝、日の出のころ墓に行った。3 そして、彼らは「だれが、わたしたちのために、墓の入口から石をころがしてくれるのでしょうか」と話し合っていた。4 ところが、目をあげて見ると、石はすでにころがしてあった。この石は非常に大きかった。5 墓の中にはいると、右手に真白な長い衣を着た若者がすわっているのを見て、非常に驚いた。6 するとこの若者は言った、「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのであろうが、イエスはよみがえって、ここにはおられない。ごらんなさい、ここがお納めした場所である。7 今から弟子たちとペテロとの所へ行って、こう伝えなさい。イエスはあなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて、あなたがたに言われたとおり、そこでお会いできるであろう、と」。8 女たちはおののき恐れながら、墓から出て逃げ去った。そして、人には何も言わなかった。恐ろしかったからである。
                    (マルコ福音書 16:1-8)
                                              
15:14 もしキリストがよみがえらなかったとしたら、わたしたちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もまたむなしい。15 すると、わたしたちは神にそむく偽証人にさえなるわけだ。なぜなら、万一死人がよみがえらないとしたら、わたしたちは神が実際よみがえらせなかったはずのキリストを、よみがえらせたと言って、神に反するあかしを立てたことになるからである。16 もし死人がよみがえらないなら、キリストもよみがえらなかったであろう。17 もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり、あなたがたは、いまなお罪の中にいることになろう。18 そうだとすると、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのである。19 もしわたしたちが、この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば、わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在となる。    (1コリント手紙15:14-19)


 1-3節、「さて、安息日が終ったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとが、行ってイエスに塗るために、香料を買い求めた。そして週の初めの日に、早朝、日の出のころ墓に行った。そして、彼らは『だれが、わたしたちのために、墓の入口から石をころがしてくれるのでしょうか』と話し合っていた」。頼りにしていた救い主イエスは十字架にかかって殺されてしまいました。金曜日の出来事です。主イエスの死体は十字架から降ろされ、墓に葬られました。墓穴の入り口には大きな重い石が置かれました。「誰かが死体を盗んでいくかもしれない。主イエスは復活して今も生きているなどと、嘘の噂で弟子たちがみんなを騙すかもしれない。そんなことになったら大変だ」と領主や祭司長など偉い立派な人たちが怖がったからです。そして今日、日曜日の朝、夜が明けはじめる頃に、女の人たちが2人で救い主イエスの墓を見に行きました。そう、ここには怖がっている人たちの怖がっている様子が出てきます。主イエスの弟子たちもそうでした。夜明け頃に出かけてきたあの女の人たちもやっぱりそうで、いろんなことを怖がっていました。墓を塞いでいる大きな石をいったいどうやって脇へよけたらいいだろうか、誰かが手伝ってくれるだろうかと心細かった。主イエスを憎んで殺してしまった人たちが今度は私たちをどんな目にあわせるか、何をされるか分からないと怖がりました。いったいこれからは何を頼みの綱として、誰を頼りに生きていけるだろうかと心細かったのです。そんな彼女たちに、「驚くこともないし、怖がらなくてもいい」(6)と語られます。何を怖がっているんだ弱虫だなあ、と馬鹿にしているのではありません。誰だっていろんなものが怖いし、誰だって本当はすごく心細いのです。小さな子供がいろんなものを怖がるだけでなく、お母さんもお父さんも。保育園や学校の先生たちも、普段はとても堂々として何があってもビクともしないって顔をしている大きな立派そうに見える人たちであっても、やっぱりいろんなものを怖がっているし、本当は、とても心細いのです。だからわざと堂々としているふりをして強がって見せています。もちろん、ずいぶん長く生きてきて経験を積み、多くのことを習い覚えてきた年配の方々もそうです。怖いものなんて1つもないなんていう人は誰1人もいません。本当です。神さまは、それがよくよく分かっています。分かった上で、「怖がらなくていい。怖がらないあなたにしてあげよう」と招いてくださっています。すごく臆病な飛びっきり弱虫のあなたでも、晴れ晴れのびのびと安心して生きていけるあなたにしてあげよう、と誘ってくださっています。
  7節です。神さまからの使いの者は言います。「今から弟子たちとペテロとの所へ行って、こう伝えなさい。イエスはあなたがたより先にガリラヤへ行かれる。前から何回も、あなたがたに言っていたとおり、そこでお会いできるであろう」(14:28「しかし私は、よみがえってから、あなたがたより先にガリラヤへ行くであろう」参照)。故郷のガリラヤで弟子たちに会って、それでイエスさまはどうなさるのでしょう。弟子たちをきびしく叱って文句を言ったり、怒ったりするつもりでしょうか。「なぜ、あのとき裏切って逃げたんだ。ひどいじゃないか。お前たちは失格。みんなクビだ」って? いいえ。「弟子たちと、あのペトロに」と特にわざわざ名前を出して伝言させています。あの、自分こそはとても強くてしっかりしていると思い込んでいた、本当はひどく弱虫の、あのペトロです。「主イエスさまなんて知らない。知らない。何の関係もない」(14:66-72)などと、怖がって知らないふりをしていたあのペトロとは、特に、ぜひもう一度会う必要があります。なぜなら、臆病で惨めなあの人の人生があのまま終わってしまうなら、あんまり可哀そうだからです。ほかの弟子たちも同じでした。みんな弱虫で、怖がりでした。だからです。だから、あの弱虫な彼らをもう一度集めて、神の国の福音を伝える仕事をさせてあげる。弱虫で怖がりな人たちには特に、神さまのために働く仕事をさせてあげるのです。臆病で見栄っ張りで怖がりなままで人生が終わってしまったら、あまりに惨めで、可哀そうすぎます。あの弟子たちはごく普通の貧しい漁師たちでした。特別に勉強がよくできたわけではなく、頭が良いわけではなく賢いわけでもなく、しかも主イエスを見捨てて、怖がって逃げ出した人たちです。「ああダメな自分だ。弱々しくて心細くて、全然当てにならない私だ」とガッカリしている人たちが、だから特に、神さまの福音を伝える人にされます。どういうことでしょう。そんな弱々しくてつまらない人を使わなくてはならないほど、よっぽど人手不足なのでしょうか。いいえ、とんでもない。わざわざそういう人たちにこそ、神の国の福音を伝える仕事をさせるのです(コリント手紙(1)1:26-31参照)。自分自身もその家族も何を恐れることもなく、嬉しく晴々と暮らしていくことができるように。
 「主イエスは復活した」と彼らは言います。でも、それは本当のことなのでしょうか。8節を見てください;「女たちはおののき恐れながら、墓から出て逃げ去った。そして、人には何も言わなかった。恐ろしかったからである」。これだけが書いてあります。怖くて怖くて、誰にもなにも言わなかったと。ここで私たちも、あのときのあの彼らとまったく同じ場所に立たされます。どんなふうに生きていくのかという分かれ道に、です。「もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり、あなたがたは、いまなお罪の中にいることになろう。そうだとすると、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのである。もしわたしたちが、この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば、わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在となる」(コリント手紙(1)15:17-19)。これが、この信仰の中身です。「クリスチャンになりたい。この主イエスというお独りの方を、本気で信じて生きていきたい」と僕が願ったのが、30歳のときでした。あっという間に30年以上もたちました。クリスチャンになった後でも、やっぱり怖いものがその都度その都度目の前にあって、次々にあって、悩んだり怖がったり、クヨクヨ考え込んで夜も眠れなくなるときもあります。多分、心細さは死ぬまでついて回ります。じゃあ、それだけだったかというと、そうでもない。
  怖がって逃げていった女の人たちと、ここにいる私たちはだいたい同じです。たぶん、あなたにも、『語られたとおり、聖書に書いてあるとおりに、主イエスは復活した』と信じる気持ちがありますね。『どうかなあ。嘘かも知れない。いまいち信じられないなあ』と疑う気持もありますね。たいてい両方の気持ちがある。じゃあ、そのどっちが、どれだけ重たいでしょう。「ああ。本当にそうだ。神さまは生きて働いておられる」と大きな喜びと慰めを味わった者だけしか、それを人に差し出すことはできません。「信仰をもって生きて来られて本当に良かった。うれしかった。あのときも本当に心強く支えられ、慰められた。あの時もそうだった。あの時もあの時も。もし神さまが生きて働いていてくださらなかったら、その神を信じることができなかったとしたら、あの時、私はどうなっていたか分からない。つくづく私は幸せ者だ」と思い知ってきた、その格別な喜びと幸いを魂に刻み重ねてきた者だけしか、それを人に伝えることはできません。
 で、あなたはどうだったでしょう。クリスチャンになって、神さまのために働いてきて嬉しかったことと辛かったことと、正直な所どっちが大きかったでしょうね。ずいぶん昔のこと、1人の小さな少年は言いました。「ライオンの手、クマの手から私を守ってくださった主は、あのペリシテ人の手からも、私を守ってくださるに違いありません。・・・・・・主は救いを賜るのに剣や槍を必要とはされないことを、賢さも才能も見所も取り柄も必要とはされないことを、ここに集まったすべての者は知るだろう。この戦いは主のものだ」と。また別のとき、怖気づく臆病な一人の若者に向かって主はこう語りかけました。「自分は未熟で弱々しい若者にすぎないなどと言ってはならない。年を取りすぎているとも言ってはならない。才能も特技もほんの少ししかないなどと思ってはならない。彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて必ず救い出す」(サムエル記上17:37,47,エレミヤ1:7)。これが神さまからの約束です。主イエスは復活なさいました。その主が私たちに新しい生命を約束し、その生命の中に生きるようにと招いてくださっています。どうしましょう。もし本当かも知れないと思えるなら、そして、そこにワクワクするような喜びがたくさんあるかも知れないと思えるなら、その誘いに乗ってみてもいい。あなたが自分で選ぶのです。復活の主はあなたを招きます。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」。また、「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(使徒16:31,マタイ11:28-30

〈祈り〉
父なる神。救い主イエス・キリストの死と復活を、私たちに深く覚えさせてください。それによって私たち自身も古い罪の自分と死に別れて、神の御前に新しく生きる者とされたことを魂に刻ませてください。あなたの御心に向かって生きようとする願いと希望を、どうか私たちのうちにますます固く保たせてください。
私たち自身も、普段の暮らしの中で小さな争いやいがみ合いの中にしばしば巻き込まれて暮らしています。この私たち一人一人もまた、生まれながらの怒りの子でであるからです。自分を正しいと強く言い立てる性分を強く抱えるものたちだからです。どうか神さまご自身の恵み、憐み、平和を私たちに思い起こさせてください。
神を信じて生きる私たちのためには、すべての信頼を神さまに置いて、その御意思と御心に聞き従って、どこで何をしていてもそこでそのようにして神様に仕えて生きることができるように。どんな苦しみや悩みや辛さの只中にあっても、そこで神様に呼ばわって、救いとすべての幸いを神さまの中にこそ求めつづける私たちであらせてください。主イエスのお名前によって祈ります。アーメン



2020年4月6日月曜日

4/5「神の御国を」ルカ11:1-2


        みことば/2020,4,5(受難節第6主日の礼拝)  261
◎礼拝説教 ルカ福音書 11:1-2                      日本キリスト教会 上田教会

『神の御国を』 ~主の祈り.3~

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
 11:1 また、イエスはある所で祈っておられたが、それが終ったとき、弟子のひとりが言った、「主よ、ヨハネがその弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈ることを教えてください」。2 そこで彼らに言われた、「祈るときには、こう言いなさい、『父よ、御名があがめられますように。御国がきますように。       (ルカ福音書 11:1-2)

 どう祈るかという問いは、祈りの仕方や作法についての問いであることを豊かに越えています。それは生き方と腹の据え方についての問いであり、祈りと信仰をもってこの私という一個の人間が、毎日の具体的な生活をどう生きることができるかという問いです。
 主イエスが十字架におかかりになる前の晩のことです。いよいよ間もなく、救い主は死んで葬られ、その三日目に墓を打ち破って復活なさいます。神ご自身の救いのご計画が成し遂げられるのか、どうか。私たちにもそれが確かな現実となるのか、どうか。その別れ道に私たちは立たされます。ここで、私たちがよくよく目を凝らすべきことは、主イエスご自身の祈りの格闘です。そして、その只中で弟子たちを深く顧みておられることです。十字架の上での主の言葉;「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ福音書27:46)は、あの当時も今も、主を仰ぎ見る私たちの心を悩ませ続けます。あまりに謎めいていて、また恐ろしくもあり、マタイとマルコの福音書はこれを記録しましたが、けれどこのルカ福音書とヨハネ福音書は記録せずに省きました。聞かなかったことにしたのです。主イエスご自身の認識と思いとは、十字架の上で、どんなふうだったのだろう。本当に、神さまが救い主を見捨てたのか。救い主は、「あ。私は天の御父から見捨てられた」と思ったのかどうか。そこまで苦しんだのなら苦しみは本物だったと言えるだろう、もしそうでないなら(つまり、やがて救われ復活するとはっきり分かっていたなら)、苦しみは眉唾、八百長試合のようではないか。人々は、そんなことを言います。けれど主イエスの弟子たちよ。自分自身が見捨てられてしまったと心底から絶望している救い主が、いったいどうして、罪人の救いを確信し、「大丈夫です。本当のことですよ」と約束さえできるのでしょう。十字架の上での苦しみはどの程度のものだったのか。御父への主イエスの信頼と服従は揺らいだのかどうか。ゲッセマネでの主の姿こそが、それらに対する強い光を投げかけます。
  十字架の出来事の前の夜、主イエスは苦しみ悶えながら、ただ独りで祈りの格闘をします。しかも、そこに主イエスお独りしかおられなかったのに、その姿がこんなに詳しく報告されていますね。なぜか。「あの時こんなふうに私は祈っていた」と、主ご自身がその姿を弟子たちに伝えてくださったからです。ほら、こうするんだよ。あなたがたも、地面に体を投げ出して祈りなさい。格闘をするようにして、本気で祈りなさいと。「この苦い杯」。これは、あとほんの数時間後に迫った十字架の惨めで恐ろしい死を指し示します。弟子たちからも見捨てられ、罪人の1人として裁かれ、ツバを吐きかけられ、ムチ打たれ、十字架の上にその肉を裂き、その血を流しつくすこと。それは、神さまがわたしたち罪人を救ってくださるために、どうしても必要なことでした。神の独り子が、あの救い主イエスが、身悶えさえして苦しみ、深い痛みを覚えておられます。――どんな救い主を、どんな神を、思い描いていたでしょう。また、主イエスを信じて生きる私たち自身を、あなたはいったいどういう者だと思っていたでしょうか。
 この祈りの格闘を細々と弟子たちに語り聞かせてくださったのは、私たちそれぞれにも厳しい試練があり、それぞれに、背負いきれない重い困難や痛みがあるからです。それぞれのゲッセマネです。あなたにも、ひどく恐れて身悶えするときがありましたね。悩みと苦しみの時がありましたね。もし、そうであるなら、あなたも地面にひれ伏して、体を投げ出して、本気になって祈りなさい。耐え難い痛みがあり、重すぎる課題があり次々とあり、もし、そうであるなら主イエスを信じる1人の小さな人は、どうやって生き延びてゆくことができるでしょう。わたしは願い求めます。がっかりして心が折れそうになるとき、しかし慰められることを。挫けそうになったとき、再び勇気を与えられることを。神が私自身と家族のためにも生きて働いておられ、その神が、真実にこのわたしの主であってくださることを。

  あれから長い歳月が流れ去って、ゲッセマネの園でのあの一夜は遥か遠い昔のこととなりました。キリストの教会は世界中あちこちに数多く建てられ、主イエスを信じて生きる者たちがそれぞれの暮らしを建て上げ、悪戦苦闘しつづけています。神ご自身の祝福、平和と恵みと憐れみを携え、それを差し出し、手渡そうとして。祝福の源でありつづけるための、それぞれの悪戦苦闘を。キリストの教会は、私たちクリスチャンは、どのように生きることができるでしょう。この地上を旅するようにして生きるための、その旅の備えをどのように整え、どういう弁えと心得をもって、何を選び取り、また何を手放したり捨て去ったりできるでしょう。主イエスの弟子たちよ。あの夜、主は祈りつつ生きて死ぬことの格闘をしつづけておられました。「御父よ、もし御心ならば、この杯をわたしから取り除けてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行なってください」。自分自身がいま現に抱えている切実な願いや心の思いがあり、他方で、御父ご自身の願いや御心がある。驚くべきことに、救い主イエスご自身がその2つの心、2つの願いの間にある隔たりや喰い違いに突き当たっています。自分自身の心と願い、そして御父の心と願いと。それらは喰い違っています。あの彼は、血の汗をしたたらせ地面に身を投げ出して格闘し、自分自身の心と願いをねじ伏せようとしておられます。必死になって自分を退け、投げ捨てようとし、御父の御前にひれ伏しています。
 さて、ゲッセマネの園。主イエスはここで、父なる神にこそ目を凝らします。「どうか過ぎ去らせてください。しかしわたしの願いどおりではなく、あなたの御心のままに」。御心のままにとは何でしょう。諦めてしまった者たちが平気なふりをすることではありません。祈りの格闘をし続けた者こそが、ようやく「しかし、あなたの御心のままに」「どうぞよろしくお願いします」という小さな子供の愛情と信頼に辿り着きます。わたしたちは自分自身の幸いを心から願い、良いものをぜひ手に入れたいと望みます。けれど、わたしたちの思いや願いはしばしば曇ります。しばしば思いやりに欠け、わがまま勝手になります。何をしたいのか、何をすべきなのか、何を受け取るべきであるのかをしばしば見誤っています。けれど何でも出来る真実な父であってくださる神が、このわたしのためにさえ最善を願い、わたしたちにとって最良のものを備えていてくださる。父なる神さまの御心こそがわたしたちを幸いな道へと導き入れてくださる。
 主イエスご自身から祈りの勧めがなされます。「目覚めていなさい。祈りなさい」と。なぜでしょう。「目を覚ましていなさい。眠っちゃダメ。起きて起きて」。なぜでしょう。雪山で遭難したときと同じだからです。眠くて眠くて瞼が重くて目をつぶってしまいたくても、「しっかりして。眠っちゃダメ、起きて起きて」。だって、そのまま眠りこんでしまったら、その人は凍えて、身体中がすっかり冷たくなって、やがてとうとう死んでしまうからです。またそれは、わたしたちに迫る誘惑に打ち勝つためであり、それぞれが直面する誘惑と試練は手ごわくて、また、わたしたち自身がとても弱いためです。祈るようにといったい誰が勧められ、祈る場所へと招かれつづけていたでしょうか。「しっかりしていて強いあなたを特に見込んで、だから祈れ」と言われていたのではありません。そうではありません。あなたはあまりに弱くて、ものすごく不確かだ。ごく簡単に揺さぶられ、惑わされてしまいやすいあなただ。そんなあなただからこそ、精一杯に目を見開け。本気で、いよいよ必死になって祈りつづけなさい。
  なぜなら、「なんて弱い私か」と私たちは落胆するからです。「自分に少しも自信が持てない。小さく弱く、とても危うい私だ。壊れやすくて華奢なガラス細工のような私だ」と落胆するからです。主イエスはご自身の祈りの格闘をしつつ、しかし同時に、愛してやまない弟子たちをなんとかして目覚めさせておこうと心を砕きます。あの彼らのことが気がかりでならないからです。「私につながっていなければ、あなたがたは実を結ぶことができない。私を離れては、あなたがたは何もできないからである」と主はおっしゃいました(ヨハネ15:4-5)悩みと思い煩いの中に、私たちの目は耐え難いほどに重く垂れ下がってしまいます。この世界が、私たちのこの現実が、とても過酷で荒涼としているように見える日々があります。望みも支えもまったく見出せないように思える日々もあります。ついに耐えきれなくなって、私たちの目がすっかり塞がってしまいそうになります。神の現実がまったく見えなくなり、神が生きて働いておられることなど思いもしなくなる日々が来ます。しかも、私たちは心も体も弱い。とてもとても弱い。「けれど御心どおりではなく、ただただ私の願いのままにおこなってください。私の心、私の願い、私の心私の願い」とそればかりを渇望しつづけて。神さまの御心も何もかもそっちのけにして。ただただ自分自身の心と人間のことばかり思い煩いつづけて。なんということでしょう。
この私たち自身は、いったいどうやって主の御もとを離れずにいることができるでしょうか。主を思うことによってです。どんな主であり、その主の御前にどんな私たちであるのかを思うことによって。思い続けることによって。あの時、あの丘で、あの木の上にかけられたお独りの方によって、いったいどんなことが成し遂げられたでしょうか。なぜ私たちはクリスチャンなのか。神を信じ、ただ神にこそ聴き従って生きる者たちにとって希望や慰めや支えは、どこからどのようにしてやってくるのか。聖書ははっきりと証言します。「あなたがたのよく知っているとおり、あなたがたが先祖伝来の空疎な生活からあがない出されたのは、銀や金のような朽ちる物によったのではなく、きずも、しみもない小羊のようなキリストの尊い血によったのである。キリストは、天地が造られる前から、あらかじめ知られていたのであるが、この終りの時に至って、あなたがたのために現れたのである。あなたがたは、このキリストによって、彼を死人の中からよみがえらせて、栄光をお与えになった神を信じる者となったのであり、したがって、あなたがたの信仰と望みとは、神にかかっているのである」(1ペテロ手紙1:18-21



 
〈祈り〉
 主イエス・キリストの父なる神よ。御子イエス・キリストによって、私たちを贖い、死と破壊と滅びから救い出し、新しい命に召し入れ、永遠の命の希望を堅くしてお与えくださいましたことを感謝します。とくに今日は聖晩餐のパンと杯を覚えながら集う礼拝ですから、生命の糧を受け取り、永遠の生命の希望を堅くしていただく備えをさせてください。そのため何より、心底からの悔い改めを、どうか私たちの心に贈り与えてくださいますように。
 政治と社会の課題にたずさわる者たちすべてを、あなたが導き、治めたまいますように。そしてすべての権力のもとにある人々が祝福されますように。医療従事者、福祉施設、子供たちのために働く多くの人々のその働きと家族の健康をおささえください。また、不自由さと惨めさの中に置かれた人々が、社会や、周囲の人々を憎んだり、軽んじて退けたりする貧しい心に囚われてしまわないように強く導いてくださり、支えてくださいますように。隣人を思いやる心をこの私たちにも贈り与えてください。
 私たち自身の家族、親族、親兄弟や子供たち、長年連れ添ってきた連れ合い、親しい友人たちの平安を願い求めます。そのために、私たち自身が神を第一として生活し、自分自身を神さまへの感謝の献げものとすることができますように。困難と心細さと恐れの中に置かれている世界中の人々と共にいまし、私たちも彼らと助け合えますように。われらの主イエス・キリストの御名によって祈ります。   アーメン


4/5こども説教「無事に出かけていきなさい」使徒16:35-40


 4/5 こども説教 使徒行伝16:35-40
 『無事に出かけていきなさい』

16:35 夜が明けると、長官たちは警吏らをつかわして、「あの人たちを釈放せよ」と言わせた。36 そこで、獄吏はこの言葉をパウロに伝えて言った、「長官たちが、あなたがたを釈放させるようにと、使をよこしました。さあ、出てきて、無事にお帰りなさい」。37 ところが、パウロは警吏らに言った、「彼らは、ローマ人であるわれわれを、裁判にかけもせずに、公衆の前でむち打ったあげく、獄に入れてしまった。しかるに今になって、ひそかに、われわれを出そうとするのか。それは、いけない。彼ら自身がここにきて、われわれを連れ出すべきである」。38 警吏らはこの言葉を長官たちに報告した。すると長官たちは、ふたりがローマ人だと聞いて恐れ、39 自分でやってきてわびた上、ふたりを獄から連れ出し、町から立ち去るようにと頼んだ。40 ふたりは獄を出て、ルデヤの家に行った。そして、兄弟たちに会って勧めをなし、それから出かけた。
(使徒行伝16:35-40

 朝になって、彼らを牢獄に閉じ込めさせた長官たちは部下の警察官たちを来させて、「あの人たちを牢獄から出して自由にさせなさい」と言わせました。主イエスの弟子たちは「いいや。それではダメだ」と自由になるのを断りました。ここはローマ帝国の支配のもとにある国で、私たちはそのローマ帝国の市民だ。そういう私たちを裁判にかけもせずに、人々の前でムチ打り、正しくない間違ったやり方で牢獄に入れた。それなのに、また裁判にもかけず勝手に、また誰にも知られないようにこっそりと牢獄から出したり入れたりしていいだろうか。それは間違っている。もし、牢獄から出てほしいのなら、せめて長官たち自身がここに来て、私たちを連れ出すべきだ」。その弟子たちがローマ帝国の市民だと聞いて、長官たちは怖がって、彼らによく謝ってから、どうか立ち去ってくださいと彼らにお願いしました。彼らは、出てきました。さて36節で、牢獄の看守が「無事にお帰りなさい」と主イエスの弟子たちに言いました。ここが大事です。神を信じていない他の人立の普通のいつもの挨拶と同じ言葉が使われているからと言って、ここでも同じ意味で使っているわけではありません。それは元々の言葉では、「神さまとの平和のもとに、先に進んでいきなさい」という意味です。無事であることも、何かを怖がることもなく安心であることも、神さまの恵みのもとにこそ成し遂げられるからです。看守とその家族も、主の弟子たちも私たちも、その同じ神の平和のもとに心安らかに生きる者たちだからです。