2020年1月28日火曜日

1/26「重荷を負って苦労している者は来なさい」マタイ11:25-30


                      みことば/2020,1,26(主日礼拝)  251
◎礼拝説教 マタイ福音書 11:25-30                 日本キリスト教会 上田教会
『重荷を負って
苦労している者は来なさい』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
11:25 そのときイエスは声をあげて言われた、「天地の主なる父よ。あなたをほめたたえます。これらの事を知恵のある者や賢い者に隠して、幼な子にあらわしてくださいました。26 父よ、これはまことにみこころにかなった事でした。27 すべての事は父からわたしに任せられています。そして、子を知る者は父のほかにはなく、父を知る者は、子と、父をあらわそうとして子が選んだ者とのほかに、だれもありません。28 すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。29 わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。 (マタイ福音書 11:25-30)

  まず25-27節。天の御父に向かって主イエスは語りかけています;「あなたをほめたたえます。これらの事を知恵ある者や賢いものに隠して、幼な子にあらわしてくださいました。父よ、これはまことにみこころにかなった事でした」。不思議なことです。神の国の福音を、受け取る者たちがおり、受け取らない者たちがいます。これを信じる者たちがおり、信じない者たちもいつも必ずとてもたくさんいます。しかも、どうしたわけか、知恵ある者たちや自分で自分を賢いと思う者たちの目には、神ご自身の賢さや豊かさや、神が生きて働いておられることは隠されている、というのです。小さな子供の心を保ちつづけた者にだけ、それらは現された。そうしたやり方はまったく神の御心にかなっていたと、主イエスがおっしゃる。身分の低い、下っ端の下っ端の下っ端のしもべのようなこんな私にさえも、主なる神さまが目を留めてくださった。これが恵みを恵みとして受け取る私たちのいつもの場所です。力ある神さまが、こんな私のためにさえ 偉大なことをしてくださった。これが私たちのいつもの場所です。低くされていた私の顔と眼差しを、主が高く引き上げてくださった。これがいつもの場所です。飢えていた私を、主が良い物で満たしてくださった。受け入れるに値しない私を、なお主は受け入れ、私に対する憐れみをお忘れにならなかった。これこそが、主の憐れみを憐れみとして受け取り、恵みを恵みとして受け取って喜び祝うための、私たちの福音の場所でありつづけます。
  28-30節、「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。それにしても、主イエスの弟子たちよ。「すべて重荷を負うて苦労している者は」と招かれるのです。誰でも皆、例外なく、一人残らずと招かれますが、ただし、それは「疲れた者と重荷を負っている者」でなければならないのです。同じように、「さあ渇いている者は、みな水に来たれ」(イザヤ書55:1)と招かれます。どこに住んでどんな暮らしぶりの何をしている、どんな人であっても構わない。けれど、「ああノドがカラカラに渇いた。苦しい。水が飲みたい、飲みたい」と困り果てている者なら誰でも来なさい。つまり、ノドが渇いていないなら、おいしくて冷たい水を飲みたい、飲みたい、ぜひ飲みたいとは少しも困っていないなら、別に、来ても来なくてもどっちでもいいと言わんばかりに。なぜでしょう? なぜなら「わたしのもとに来なさい」と神が私たちを招くのは、私たちを心安らかに休ませるためだからです。私たちの重くて重くてしかたがない重荷をぜひとも、なんとしても降ろさせてあげたいからです。ノドと魂の渇きを覚えているこの私たちを「さあ、いらっしゃい。あなたも、あなたもあなたも」と招くのは、冷たくおいしい水を満ち足りるほどに飲ませてくださるためです。しかも無料で(イザヤ55:1-3,黙示録21:6,ローマ3:21-24。あまりに出来すぎたうまい話なので、常識かぶれのとても賢い私たちにはなかなか信じられませんでした。何か裏があるんじゃないかと思っていました。クリスチャンの中にさえ、今なお、それを疑い、話半分に聞き流しつづける人々がいます。「渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう」(黙示録21:6。その通りにしていただいているくせに、今なお、飲んだ水の代金を渋々ながら支払っているつもりの者たちさえいます。飲んだおいしい水と引き換えに、汗水たらして働いてその代金を支払っていると勘違いしている者たちがいます。なんということでしょう。それでは、せっかくの恵みが台無しではありませんか。
  29節の「わたしのクビキを負いなさい」は、ちょっと難しい。どういうことでしょう。そして「わたしのクビキは負いやすく、わたしの荷は軽い」。なぜ負いやすく、軽いのか。(何十年も昔の農家の普段の仕事ぶりを見たことも聞いたこともない人たちには、ていねいに説明しないと分かってもらいにくいでしょう。耕運機やトラクターの代わりに牛や馬を使っていました)牛や馬の首に渡す横木をクビキと言いました。昔は、それで二頭くらいずつ組にした牛や馬に農耕具を引っぱらせて、土地を耕したりしました。あるいは、その横木に台車を結びつけて、牛や馬に荷物を運ばせたのです。そのようにあなたもその牛や馬のように、主イエスのクビキを負って、主イエスの畑を耕し、主イエスの荷物を運べと命じられています。どうしましょうか。もちろん、あなたの自由です。「そんなのは嫌だ」と言うなら、もちろん、そうしなくてもいいのです。「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。あなたを休ませる。ヨソのクビキや荷物はどうだか知らないが、少なくとも、この私のクビキはとても背負いやすい。鳥の羽根のようにフワフワしてて、あまりに軽い。と救い主イエスが直々に保証し、太鼓判を押してくださった。この招きこそが、私たちを主イエスのもとへと招きつづけました。これまでもそうですし、これからもそうです。実にまったく、私たち人間は(ただの比喩なのではなく荷車を引っ張る牛や馬そのものです。誰もが、それぞれの横木を首にかけられて、それぞれの荷車を引っ張りつづけて生きていきます。喜んで荷物を引っ張っている牛もいれば、そうではない牛もいます。この私自身の罪深さという荷物。悲しみという荷物。心配事や悩みや思い煩いという名前の様々な荷物。「自分はなんであんなひどいことをしてしまったんだろう。だめな私だ。どうしようもない私だ」という自責の念や後悔を引っ張って歩いている者たちもいます。「人様に恥ずかしくないような立派な生活をし、立派な仕事を成し遂げ、恥ずかしくない人間にならなければ」「失敗したり、間違ったところを人に見せてはいけない。弱いところも愚かなところも見せてはいけない」と大きな大きな重くて仕方がないはずの荷物を歯を喰いしばって引っ張りつづけている牛もいます。さまざまな使命や責任や役割という名前の荷物を、無数の牛や馬達が必死に懸命に引っ張りつづけています。それがこの世界です。「私の荷物は重すぎて、到底もう担いきれない。疲れ果てた」と溜め息をついている牛や馬たちの中の、そのうちのほんの何頭かが、ついにとうとう主イエスの招きの声を聞き届けました。この私たちも、それでだからこそ、主イエスのもとに来てみました。
 それで皆さん。主イエスのもとに来て、主イエスのクビキを負い、主イエスの荷物を運びはじめた牛や馬たち。で、正直なところ、どうだったんですか? じゃあ、手を挙げてください。「約束どおりで、すっかり休めたし、主イエスの荷物はすごく軽かった」という牛は? 「いやあ、すっかり騙された。休むどころか、今までよりもっと何倍も重い荷物を背負わされ、馬車馬のように休む間もなくこき使われ、ひどい目にあった。だから疲れて疲れて仕方がない」という牛は? ――誰にでもよく分かるように、今日こそは、できるだけはっきりと語りましょう。ここは、《すべて疲れた者と重荷を負う者は来なさい。休ませてあげよう。荷物はと~っても軽い》という王国なのです。その王さまに命じられて調査員たちがこの王国全体を訪ね歩き、主イエスのところに来た牛や馬たちの一頭一頭に同じことを聞いて回っています。「で正直な所どうだったんですか?」と。王さまご自身が案じていたとおりの、危うい調査報告が次々に寄せられました。困ったり苦しんだり、怒ったり苛立ったり悲しんでいる牛や馬たちがあちこちにたくさんいました。例えば、豊かな牧草が生い茂る幸いな野原には99頭の牛たちがいました。彼らは腹を立て、心を狭く貧しくさせられて、「けしからん。一頭の迷子の牛を探しに行って、いつまでたっても飼い主が戻ってこない」とつぶやいていました。部屋をピカピカに掃除し、おいしい料理を作っていた牛は、けれど苦しげな物淋しい顔をして、「私ばかりに働かせて、なんとも思わないんですか。他の牛や馬たちに手伝うように言ってください」と叫んでいました。また別の牛は、「何年も主人に仕えてきた。言いつけに背いたことは一度もない。それなのに」と暗い顔をして背中を向けるのです。また別の一群の牛たちは、「最後に来たあの生ズルくて要領がいい牛や馬たちはほんの一時間しか働いていない。まる一日、暑い中を辛抱して働いた私たちとどうして同じ扱いをするんだ。それじゃあ、私たちの辛抱も苦労も丸つぶれじゃないか」と(ルカ10:38,15:3,26,マタイ20:10参照)。王国中から調査員たちが次々と戻ってきて、物悲しく淋しい、あまりに嘆かわしく惨めな恥ずかしい報告を告げつづけます。その報告に耳を傾けながら、この王国の王様は心を痛めました。「ああ。なんということだ。一体どうしたらいいのか。ここは、《疲れた者と重荷を負う者は来なさい。休ませてあげよう。荷物は軽い》という王国だったはずなのに。これでは、王国の看板も招きの言葉も嘘いつわりだったことになる。サギのペテンの、ろくでもないイカサマだったことになってしまう。休ませてもらえるはずが、かえってここで、ヘトヘトに疲れ果ててしまうなんて、それでは消費者を騙して儲ける悪質なペテン業者の商売と同じじゃないか」。あの柔和で謙遜な、とても素敵な王様の招きの言葉を、そして《疲れた者と重荷を負う者は来なさい。休ませてあげよう。荷物は軽い》という王国の素晴らしい板を、決して嘘いつわりにしてはなりません。どんな王様のもとに据え置かれているのかをよくよく習い覚えさせられているこの私たちこそは。

     ◇            ◇

  王のもとにやって来た牛たち馬たちよ。ここは、《すべて疲れた者と重荷を負う者は来なさい。休ませてあげよう。荷物は軽い》という王国です。もちろん私たちは主イエスのクビキを負っています。主イエスの荷車を引いて歩いています。それぞれの荷車には、《主イエスが十字架にかかって、死んで復活してくださった。それは私の救いのためだった》という荷物が載せられています。《私の罪をあがなうために、主は十字架を負ってくださった。私の罪のゆるしと救いをこの方こそが約束し、保証してくださっている》という荷物が載せられています。だから軽いのです。この私自身の罪深さという荷物。悲しみという荷物。心配事や悩みや思い煩いという名前の様々な荷物。「だめな私だ。どうしようもない私だ」という卑屈さや自責の念や後悔という荷物。「失敗したり、間違ったところを人に見せてはいけない。弱いところも愚かなところも見せてはいけない」という荷物。さまざまな使命や責任や役割という名前の荷物。それら一切、今では主が私の代わりに背負ってくださっている。だから軽いのです。私たちは働いてもいいし、休んでもいい。何かをしてもいいし、しなくてもいい。主であられます神が、第一に、先頭を切って、たしかに生きて働いておられるからです。けれど、一つだけルールがあります。ここは憐れみの王国であるというルールです。《すべて疲れた者と重荷を負う者は来なさい。休ませてあげよう。荷物は軽い》という王国でありつづけるというルールです。だから、たっぷりと休ませていただいた、祝福された、とても幸いな牛や馬たちよ。何をおいても何としてでも、この一つのルールだけは死守しなくてはなりません。もし、それが嘘いつわりにならない範囲でなら、もし働きたいというなら、あなたは精一杯に思う存分に働くこともでき、誰に遠慮することもなく満ち足りるまで休むこともゆるされます。だからです。だから時々、特に働いたり担ったりするときに自分自身のその顔つきを鏡で見て確かめてみる必要があります。仲間の牛や馬たちの顔つきや足取りにも目を留める必要もあるでしょう。もし、苦しげで辛そうな顔つきで、困ったような物淋しいような気難しい顔をしはじめるなら、そしたら思い切って、一声かけてあげましょう。「いいから安め。横になれ」と。いつの間にか重くなってしまったその荷物を降ろさせてあげねばなりません。「とっても軽い。すごく軽い」と喜び祝って運べる場合にだけ、この私たちは 主イエスの荷物を運ぶことがゆるされます。そうでないなら、指一本も動かしてはなりません。主ご自身とその教会に十分に信頼を寄せることができます。なにしろ私たちの主なる神は生きて働いておられます。あなたのためにも、こんな私のためにさえ。だから立ち止まり、鎮まって耳を澄ませましょう。あなたの耳にも、王国の王ご自身の同じ一つの呼び声が聞こえますか。主イエスはおっしゃいました;「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。たっぷりと満ち足りるほどに休ませてあげよう。私のクビキは背負いやすい。私の荷物はとてもとても、と~っても軽い。本当のことです。

憐み深い神さま。独り子イエス・キリストによって、造られたすべて生命ある者たちと私たちに対する慈しみを差し出しておられます父なる神さま。他のなによりも、神を信じて生きるこの私たちのためには、すべての信頼を神さまにこそ置いて、その御意思と御心に聞き従って、どこで何をしていてもそこでそのようにして神様にこそ従順に仕えて生きることができますように。どんな苦しみや悩みや辛さの只中にあっても、そこで神様に呼ばわって、救いとすべての幸いを神の中に求めつづける私たちであらせてください。この願いを、どうかかなえ続けてください。
生命の与え主である神さま。つかの間に過ぎてゆく、あっという間の短い生命を生きている私たちです。「やがて死すべき自分であることを覚えよ」と昔の人々は言いました。土の塵から造られ、あなたによって鼻に生命の域を吹き入れられ、生きる者とされた私たちは、やがて塵へと還ります。かけがえのない一日ずつの生命を惜しみながら、魂に刻みながら、精一杯に生きる私たちであらせてください。すべての子供たち、お父さんお母さんたち、年配の方々の誰もが心安らかに暮らすことができますように。
また私たち自身も、普段の暮らしの中で小さな争いやいがみ合いの中にしばしば巻き込まれて暮らしています。この私たち一人一人もまた、生まれながらの怒りの子でであるからです。自分を正しいと強く言い立てる性分を強く抱えるものたちだからです。どうか神さまご自身の恵み、憐み、平和を私たちにいつもはっきりと思い起こさせつづけてください。
主イエスのお名前によって祈ります。アーメン