みことば/2020,1,12(主日礼拝) № 249
◎礼拝説教 ルカ福音書 9:46-48 日本キリスト教会 上田教会
『誰が一番えらいか病』
~「ある病者の祈り」という治療薬~
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC)
9:46 弟子たちの間に、彼らのうちでだれがいちばん偉いだろうかということで、議論がはじまった。47 イエスは彼らの心の思いを見抜き、ひとりの幼な子を取りあげて自分のそばに立たせ、彼らに言われた、48
「だれでもこの幼な子をわたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。そしてわたしを受けいれる者は、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである。あなたがたみんなの中でいちばん小さい者こそ、大きいのである」。
(ルカ福音書 9:46-48)
46-48節、「弟子たちの間に、彼らのうちでだれがいちばん偉いだろうかということで、議論がはじまった。イエスは彼らの心の思いを見抜き、ひとりの幼な子を取りあげて自分のそばに立たせ、彼らに言われた、『だれでもこの幼な子をわたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。そしてわたしを受けいれる者は、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである。あなたがたみんなの中でいちばん小さい者こそ、大きいのである』」。あの弟子たちも私たちも、度々繰り返して心を鈍くされてしまいます。弟子たちが、いつ、どういうタイミングでこういうことを熱心に議論し始めたのかに心を留めましょう。(1)十字架につけられ殺され、その三日目に死人の中からよみがえるという受難の2回目の予告を、主イエスご自身から打ち明けられたばかりで、「この言葉をあなたがたは自分の耳によく収めておきなさい」と指図され、でも告げられたことがちっとも分からず、なんだか恐くて恐くて、どういうことかと質問することもできなかったその直後にです。また、(2)十字架の死と復活が待ち構えるエルサレムの都へと向かおうと主がいよいよ決意を堅くされる直前の(ルカ福音書9:44-45,同51参照)、このあまりに愚かな議論です。また、だからこそ、そういう弟子と私たちを救いへと導き入れるためには、どうしてもその十字架の死と復活が必要だと改めて思い知らされたのかも知れません。
「彼らのうちで誰が一番」という議論です。「誰が一番偉いだろう。素晴らしい立派だと人から誉められたい。皆から認められたい。賢く立派な大きな私になりたい」。それがこの世の多くの人々が望んだことでした。また逆に、「つまらない小さな、役に立たない人間だと思われてしまうかも知れない」と恐れ、心細く物淋しい思いに囚われました。あなたにとっても、やっぱりそれが望みであり恐れでしょうか? どうでしょう。けれどここで改めて、主イエスご自身から問われています。「ところで、あなたは心を入れ替えて、小さな小さな子供のようになったのか? 自分を低くすることを、ついに習い覚えたのか」(3-4節,ピリピ2:3-5,ローマ12:10)と。『だれが一番えらいか病症候群』。聖書の中にも外にも、この上田界隈にも佐久や小諸や丸子、真田町や長野市あたりにも、この病気にかかった人々は大勢います。この私たちも年を取って、誰でもおじいさんおばあさんになります。得意なことや自慢に思っていたことが一つ、また一つと出来なくなります。誰かに何かをしてあげることよりも、してもらうことの方がだんだんと多くなります。「人様にも神様にもしていただき、ただお世話になるばかりで申し訳ない」と、なんだか物寂しいような肩身が狭いような気持ちにもなります。「人様にも神様にもしていただくばかりで、ただお世話になるばかりで申し訳ない」と、なんだか物淋しく、肩身が狭いような気持ちになりますね。聖書は、一つの治療法を提案しつづけます。《神の憐みを受け取る。そして喜び、感謝する》という提案です。神さまがどんなに気前の良い神さまであり、あの救い主が私たちのために何を成し遂げてくださったのかを、思い起こすことです。兄弟たち。自分が神さまの恵みのもとへと招かれたときのことを思い起こしてみなさい。それから、どんなに慈しみ深い御計らいを受け取りつづけてきたのかを。
47-48節、「ひとりの幼な子を取りあげて自分のそばに立たせ、彼らに言われた、『だれでもこの幼な子をわたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。そしてわたしを受けいれる者は、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである。あなたがたみんなの中でいちばん小さい者こそ、大きいのである』」。そして勿論、知恵や賢さの少ない小さな一人の人を主イエスの名のために受け入れる者は。無学で無力で無に等しいと思われている一人の者を、なお主イエスの名のために受け入れる者は。なるほど。他者をこのように尊び、このように受け入れる人は、それだけではなく、貧しく小さな自分自身をもそのように心安らかに受け入れる者とされるでしょう。たとえ私たちに知恵や賢さが少ないとしても。
◇ ◇
兄弟姉妹たち。神が人となられました。しかも、理想的で上等な人間にではなく、生身の、ごく普通の人間にです。あがめられ、もてはやされる、ご立派な偉い人間にではなく、軽蔑され、見捨てられ、身をかがめる低く小さな人間に(ピリピ手紙2:5-11,ヘブル手紙2:17-18,同4:15-16)。それは、とんでもないことです。あるはずのない、あってはならないはずのことが起りました。私たちの主、救い主イエス・キリストは固執なさらなかったのです。自分で自分を無になさったのです。無にされたのではなく、自分から進んで「ぜひそうしたい」と、しもべの身分を選び取ってくださいました。無理矢理に嫌々渋々されたのではなく、「はい。喜んで」と自分で自分の身を屈めました。しかも徹底して身を屈めつくし、十字架の死に至るまで、御父への従順を貫き通してくださいました。なぜ神の独り子は、その低さと貧しさを自ら選び取ってくださったのか。何のために、人間であることの弱さと惨めさを味わいつくしてくださったのでしょう。ここにいる私たちは、知らされています。よくよく知らされています。兄弟たち。それは、「罪人を救うため」(テモテ手紙(1)1:15)でした。極めつけの罪人をさえ救う必要があったのです。罪人の中の罪人を、その飛びっきりの頭であり最低最悪の極悪人をさえ、ぜひとも救い出したいと神は願ったのです。恵みに値しない、極めつけの罪人。それがこの私であり、あなたです。
神の国とは、神さまご自身の憐れみと恵みの王国です。もし、その国に入り、そこで幸いに暮らしたいと願うなら、その者たちは自分自身の力や才覚や賢さを頼りとすることを止め、それらを誇ろうとすることを止めて、心の頑固さを手放さねばなりません。身を低く屈め、神の憐れみを受けて御国に入れていただくことを願い求めねばなりません。「幼な子のようにならなければ天国に入ることはできない」(マタイ18:3);するとそれは、ただ小さくて無力で弱くて危うい存在であるだけではなく、十分に愛情を注がれ、受け取り、養い育てられてきた、そのことを覚えている幼な子である必要があります。ほどほどの力や才覚や賢さなどよりも、注がれ受け取ってきた愛情こそが千倍も万倍も私の宝物だと。そうでなければ、物寂しいその幼な子はささいなことをいつも虚しく思い煩いつづける幼子でありつづけてしまうかも知れないからです。「幼な子のようにならなければ天国に入ることはできない」、その最も大きな秘密は、注がれつづけ受け取ってきた愛情をよく覚えている幼な子です。わが子を愛して止まない親の心を覚えている幼な子です。それならば、たとえ70、80、90歳になった後でさえ、『幸いな幼な子である、小さな小さな弱々しい自分』をついにとうとう思い出して、晴れ晴れワクワクしながら、天国に入れていただくことができるかもしれません。しかも、それが主イエスの弟子であることの中心的な中身でありつづけます。なぜなら主イエスの弟子たちよ。自分自身の罪深さをゆるしていただいて神の国に入るには、ただただ神の憐れみによる他なかったからです(ローマ手紙3:21-27参照)。心が鈍くなると、その証拠に、「誰が一番偉いだろうか。二番目は、三番目は。反対に、だれが一番働きが少なくて、役立たずだろうか。二番目は、三番目は」と眺め渡したくなります。神さまのことを忘れ、神さまこそが一番偉くて、よくよく働いてくださることも、ちっとも分からなくなったからです。神ご自身が身を低く屈めてくださいました。救い主イエスこそが自分に固執しようとなさらず、低く下り、かえって自分を無にし、しもべの身分をとり、十字架の死に至るまで天の御父への従順を貫きとおしてくださった(ピリピ手紙2:6-)ことを。そのへりくだりの神こそが私たちの唯一の主人であることを。遠い外国の病院の壁に一つの祈りが刻まれています――
「大事を成そうとして力を与えてほしいと神に求めたのに、慎み深く従順であるようにと弱さを授かった。
より偉大なことができるように健康を求めたのに、よりよきことができるようにと病弱を与えられた。
幸せになろうとして富を求めたのに、賢明であるようにと貧困を授かった。
世の人々の賞賛を得ようとして権力を求めたのに、神の前にひざまずくようにと弱さを授かった。
人生の楽しみを享受しようとあらゆるものを求めたのに、あらゆるものを喜べるようにと生命を授かった。求めたものは一つとして与えられなかったが願いはすべて聞き届けられた。神の意にそわぬ者であるにもかかわらず、心の中の言い表せない祈りはすべてかなえられた。私はあらゆる人々の中で最も豊かに祝福されたのだ。
(「ある病者の祈り」;ニューヨーク・リハビリテーション研究所の壁に書かれた詩)
いったいなぜ《後ろの、下っ端の、仕えるしもべの場所》に身を置きなさいと命じられるのか? いったいなぜ、自分を賢いとか、案外に物の道理が分かっているとか、優れているなどとうぬぼれてはならない、思い上がってはならないと厳しく戒められるのか。なぜ低い場所と、へりくだった低い心へと誘われつづけるのか。慎み深く従順であるためにです。自分が思い描き、自分自身で望んでいたよりも、さらによりよきことができるためにです。神の御心にかなう賢明さを授かるためです。喜び、信頼し、感謝して、神の前にひざまずくことができるためにです。神が贈り与えてくださるあらゆるものを「わあ嬉しい」と喜べるようにです。神の意にしばしば逆らい背く者であるとしてもなお、豊かに祝福され、ゆるされつづける罪人であるためにです。なによりも、へりくだってくださった、低い心の神さまを信じているからです。柔和で謙遜な救い主とすでに親しく出会っているからです。その幸いな出会いを積み重ねてきたからです(マタイ福音書11:25-30)。そこが、福音を福音として受け止め、慈しみの神と出会うための、祝福された幸いな私たちための、いつもの待ち合わせ場所でありつづけるからです。