みことば/2019,12,29(主日礼拝) № 247
◎礼拝説教 ルカ福音書 9:37-45 日本キリスト教会 上田教会
『連れてきなさいと招く神』
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)(ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC)
9:37 翌日、一同が山を降りて来ると、大ぜいの群衆がイエスを出迎えた。38 すると突然、ある人が群衆の中から大声をあげて言った、「先生、お願いです。わたしのむすこを見てやってください。この子はわたしのひとりむすこですが、39
霊が取りつきますと、彼は急に叫び出すのです。それから、霊は彼をひきつけさせて、あわを吹かせ、彼を弱り果てさせて、なかなか出て行かないのです。40 それで、お弟子たちに、この霊を追い出してくださるように願いましたが、できませんでした」。41
イエスは答えて言われた、「ああ、なんという不信仰な、曲った時代であろう。いつまで、わたしはあなたがたと一緒におられようか、またあなたがたに我慢ができようか。あなたの子をここに連れてきなさい」。42
ところが、その子がイエスのところに来る時にも、悪霊が彼を引き倒して、引きつけさせた。イエスはこの汚れた霊をしかりつけ、その子供をいやして、父親にお渡しになった。43
人々はみな、神の偉大な力に非常に驚いた。みんなの者がイエスのしておられた数々の事を不思議に思っていると、弟子たちに言われた、44 「あなたがたはこの言葉を耳におさめて置きなさい。人の子は人々の手に渡されようとしている」。45
しかし、彼らはなんのことかわからなかった。それが彼らに隠されていて、悟ることができなかったのである。また彼らはそのことについて尋ねるのを恐れていた。 (ルカ福音書 9:37-45)
山の上で主イエスの姿が変わり、栄光に輝く様子を弟子たちにほんのひと時だけ見せてくださいました(ルカ9:28-36)。その直後、翌日に山を下りてきたときの出来事です。大勢の人々が主イエスとその3名の弟子たちを出迎えました。38-40節、「すると突然、ある人が群衆の中から大声をあげて言った、『先生、お願いです。わたしのむすこを見てやってください。この子はわたしのひとりむすこですが、霊が取りつきますと、彼は急に叫び出すのです。それから、霊は彼をひきつけさせて、あわを吹かせ、彼を弱り果てさせて、なかなか出て行かないのです。それで、お弟子たちに、この霊を追い出してくださるように願いましたが、できませんでした』」。悪霊にとりつかれて体も心も苦しめられていた一人息子を抱える父親が、主イエスに向かって大声で呼ばわりました。「先生、お願いです。わたしのむすこを見てやってください。この子はわたしのひとりむすこです」。この一人の父親のように、今日、私たちのまわりでも、あるいは私たち自身も、子供たちや家族や自分自身のことでそれぞれに大きな悩みや苦しみや困難を抱えて生きる人たちが大勢います。そのとき、苦しみと辛さを抱えて生きるその人の父親や母親は、この私たち自身は、どうすることができるでしょうか。「先生、お願いです。わたしのむすこを見てやってください。この子はわたしの一人息子です」と主イエスに向かって大声で呼ばわったこの一人の父親のように、この私たちも、心かあらの祈りと願いをもって救い主イエスのもとへと向かうことができます。救い主イエスに向かって、その大切な家族のために大声で呼ばわることができます。この憐み深い救い主の前に、自分自身の悲しみと辛さを打ち明けて、「どうか見てやってください。助けてください」と願い求めることができます。祈り求めるその人々の息子や娘は、そのかけがえのない愛する連れ合いは、年老いた一人の親は、その救い主の憐みの前から追い払われることは決してありません。その心からの祈りと願いが、もしかしたらずいぶん長い間、待たされることがあるかも知れません。あのアブラハムとサラ夫婦のように。ザカリヤとエリサベツ夫婦の祈りの場合のように(創世記17:15-19,同18:18:9-15,ルカ1:10-25参照)。そのとき、あの彼らと私たちの信仰が試されています。「そんなことがあるはずがない」と神の御言葉を拒み、退けてしまうのか。あるいは、「お言葉どおり、この身に成りますように」と身を低く屈めて信頼し、受け入れ、神さまの御心にこそ従うことができるのかどうか。生きて働かれる神さまを信じる恵みの場所に留まることができるのか、あるいは、信じられない者へと転げ落ちてしまうのかどうかと。
しかもここで、主イエスがあの彼や私たちの家族に対して憐みと慈しみを差し出そうとして、すでに準備万端であられることを知らされます。悩みと困難を抱えた父親のその切なる祈りと願いが慈しみ深く受け入れられた、と私たちは告げられます。なぜなら主イエスは彼に、「あなたの子をここに連れてきなさい」とお命じになるからです。また41-42節、「この汚れた霊をしかりつけ、その子供をいやして、父親にお渡しになった」からです。他にも数多くの同じような事例が福音書の中で報告されつづけます。会堂長ヤイロの娘、カナン人の婦人の娘、ナインの町の未亡人の息子、マルタ、マリヤ姉妹の弟ラザロなどなど。これらのことが何の理由も目的もなく、わざわざ聖書の中にただ報告されているわけではありません。家族のことで悩みや辛さを抱え、なんとかしてその自分の家族を助け、精一杯のことをして支えてあげたいと心から願っている多くの人々を励まし、勇気づけるためにです。だからこそ、やがてしばらくして主の弟子たちもこう語りかけました、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」(使徒16:31)と。そして共々に神の国の福音を聴いて、牢獄のあの幸いな看守は、信じる者にされた喜びを家族といっしょに喜び味わったのです。「その人を私のもとに連れてきなさい」と、救い主イエスが憐みと慈しみを差し出そうとして、すでに準備万端であられるからです。私たち自身と、私たちの愛する家族の一人一人に対してさえも。汚れた霊をその子から追い出してくださった救い主が今も確かに生きて働いておられ、なお慈しみ深い力を発揮しておられるからです。だからこそ、この救い主イエスを信じる私たちもまた、自分自身とその大切な家族や親しい者たちのためにさえ、それぞれに精一杯の良い働きをすることができるからです。例えば、『主われを愛す』という子供讃美歌はこう証言します、「わが君イエスよ、われを清めて、善き働きをなさしめたまえ」(讃美歌461番4節)。この歌の4節はとても大事です。なぜなら1節で、「たとえ私が弱くても、乏しくても愚かであるとしてもなお、恐れることも心細さもない」と歌っていたからです。ただ恐れがないばかりではなく、主イエスを信じる私たちにはこのお独りの救い主から贈り与えられる大きな希望があります。喜ばしく生きて、幸いに満たされて喜ばしく死んでいくこともできる希望が。しかも、すべてのクリスチャンがそれぞれの分際と持ち前の中で精一杯に善い働きをしつつ生きることができるという希望が。4節。「私のご主人さまであるイエスよ、私の腹の思いも行いも、口から出る1つ1つの言葉もどうか清くしてくださって、こんな私にさえ、精一杯に善い働きをさせてください」。あなたも私も、善い働きをしながら生きる者とされていきます。ところで、善い働きって何でしょうか。大きな働きとかじゃなく、皆から誉められたり尊敬されるような立派な働きってことでもなく、神さまの御心にかなう善い働きです。例えば、子供たちを精一杯に養い育てて愛するお父さんお母さんの善い働きです。年老いた親の介護をし、下の世話をし食事の支度をし風呂に入れてあげ、長く伸びてしまった爪を切ってあげるような善い働きです。会社でも、地域社会でもどこでも、誰に認めてもらえなくても誉めてもらえなくたって、とっても平凡で地味で見栄えもあんまし良くないかも知れないけれど、その人の身の程に応じた、けれど精一杯の善い働きがある。神さまを愛し、隣人を自分自身のように愛し尊びたいと願いつつ働く善い働きです。神さまの御心にかなって生きていこうと悪戦苦闘する善い働きです。神さまがこんな私のためにさえとても良いことをしてくださった。良い贈り物をたくさんいただきつづけて、それで、だからこそ今日こうして私はあるをえている。だからこそ、神の憐みのもとに留まって幸いに生きるために、自分自身とその毎日の暮らしのすべて一切を神さまへの感謝と喜びと願いの献げものとしてささげたい。そのように一日ずつを生きていきたい。それが、この私にもあなたにも必ずきっとできる、と太鼓判を押されています。
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さて43-45節、「人々はみな、神の偉大な力に非常に驚いた。みんなの者がイエスのしておられた数々の事を不思議に思っていると、弟子たちに言われた、『あなたがたはこの言葉を耳におさめて置きなさい。人の子は人々の手に渡されようとしている』。しかし、彼らはなんのことかわからなかった。それが彼らに隠されていて、悟ることができなかったのである。また彼らはそのことについて尋ねるのを恐れていた」。同じ9章の21節以下につづいて、2回目の受難予告です。あのときの弟子たちと同じく、この私たちの間でも、心の鈍さや不信仰が私たちの思いを曇らせつづけます。救い主イエスは、あの彼らと私たちに向かって語りかけます。「人の子」とは主イエスご自身のことです。つまり、「この私は、人々の手に渡され、十字架にかけられ、殺されようとしている」。同じ主イエスの口から、ほんの一週間ほど前に同じことを聞いたばかりです。9:22-25、「人の子、つまりこの私は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日目によみがえる。だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを救うであろう。人が全世界をもうけても、自分自身を失いまたは損したら、なんの得になろうか」と。しかも今も、あの時と同じく、主イエスからの言葉はあの彼らや私たちの耳には留まらず、ただ虚しく失われてしまいます。まるで何も聞かなかったかのように、あの彼らと私たちは聞き流し、聴き捨てています。彼らの先生であり、主人であられる主イエスが殺されようとしていることが、殺され、墓に葬られ、その三日目に死人の中からよみがえることになっているという神からの約束が、あの弟子たちには少しも分かりません。「しかし、彼らはなんのことかわからなかった。それが彼らに隠されていて、悟ることができなかったのである。また彼らはそのことについて尋ねるのを恐れていた」と報告されています。
なぜ、あの弟子たちの心が鈍くされていたのか。「わたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを救うであろう。人が全世界をもうけても、自分自身を失いまたは損したら、なんの得になろうか」と語られたからであり、自分を捨てることがとても嫌だったからです。自分の命、自分の都合、自分のささやかな自尊心、自分の好き嫌いにばかり深く囚われすぎていて、それに邪魔されて、主イエスに従って生きることがとても難しかった。私たちも同じです。だからその同じことを何度聞いても、なんのことか分からず、隠されていて、この私たち自身も悟ることがなかなか出来ずにいます。けれども兄弟姉妹たち。自分勝手でわがままで頑固で、とても自己主張が強くて「私が私が」と言い張り続けることを『自己中、自己中(ジコチュウ)』と世間の人たちは言い慣わしています。自己中心という言葉を短く言い表していますが、むしろ本当は「中心」というより「中毒」「依存症」です。『自分中毒』、自分の肉の思いの言いなりにされ、奴隷にされています。その『自分の肉の思い。自分の好き嫌い』は自分をちっとも幸せにしてくれず、自分も家族もまわりの人たちも、かえってますます心が貧しくなり、不幸せになるばかりです。それは「自分」という病気です。その「自分」は無くてもいい自分であり、主に従って生きることを邪魔する厄介な「自分」です。『自分の肉の思い』を投げ捨てるのはもったいないし、難しいし、嫌だと思い込んでいました。でも本当は、もったいなくないし、無くても困らない。ポイと投げ捨てるのはとても簡単で、かえって晴れ晴れ清々します。「古い罪の自分と死に別れて、キリストと共に新しく生き始める」と何度も何度も教えられてきたではありませんか。「肉の思いに従ってではなく、神の御霊に従って生きる私たちだ」(ローマ手紙6:3-11,同8:1-11参照)と習い覚えてきたではありませんか。なぜなら、自分自身が自分の主人である間は、神さまを自分のご主人さまとして迎え入れることが決してできないからです。要点は、神ご自身の御心と御わざに自分の場所をすっかり丸ごと明け渡すことです。神をご主人さまとして、自分の内に迎え入れることです。神さまを自分のご主人さまとして迎え入れ、自分の中に神の居場所と働き場所を確保するためには、自分を後ろへ退けて、神さまの脇に慎み深く控え、神ご自身に働いていただくために、この自分は休む必要があります。「私が私が」と我を張り続けている間は、神の御心とそのお働きは邪魔されつづけています。救い主イエスに主権を明け渡して、ご主人さまとして力を発揮していただくためには、その邪魔をしている『自分中毒』、『自分の腹の思い』(ローマ手紙16:18,ピリピ手紙3:19参照)をポイと投げ捨てる必要があります。できますよ。私たちの主であられます神さまご自身が、この私たちのためにも、必ずきっと成し遂げてくださるからです(ピリピ手紙2:6)。そのようにして初めて、私たちは幸いに晴れ晴れとして生きることができます。
生きて働いておられます主なる神さま。
この私たち自身と、私たちの家族を憐れんでください。御子イエス・キリストのかたちに従って、私たちを日毎に新しくしてくださって、神への従順に生きる幸いな者たちへとしてくださいますように。この一つの願いを、どうかかなえて下さい。主イエスのお名前によって祈ります。 アーメン