2020年1月6日月曜日

1/5「すべての恵みを心に留めなさい」詩篇103:1-13


                      みことば/2020,1,5(主日礼拝)  248
◎礼拝説教 詩篇 103:1-13                            日本キリスト教会 上田教会
『すべての恵みを
心に留めなさい』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
103:1 わがたましいよ、主をほめよ。
わがうちなるすべてのものよ、
その聖なるみ名をほめよ。
2 わがたましいよ、主をほめよ。
そのすべてのめぐみを心にとめよ。
3 主はあなたのすべての不義をゆるし、
あなたのすべての病をいやし、
4 あなたのいのちを墓からあがないいだし、
いつくしみと、あわれみとをあなたにこうむらせ、
5 あなたの生きながらえるかぎり、
良き物をもってあなたを飽き足らせられる。
こうしてあなたは若返って、わしのように新たになる。
……13 父がその子供をあわれむように、主はおのれを恐れる者をあわれまれる。

                     (詩篇 103:1-13


 まず詩篇103:1-2。「主をたたえよ、たたえよ、たたえよ」と、この祈りの人は必死に呼ばわっています。しかも他の誰彼に向かってではなく、自分自身に向かって。「わたしの魂よ、主をたたえよ。わたしの内にあるものはこぞって聖なる御名をたたえよ。わたしの魂よ、主をたたえよ」。私のうちにあるものは心臓も肺も脳みそも目も口も手も総動員して、神さまをたたえ、感謝し、信頼を寄せ、神さまへのその感謝と信頼とを自分自身の魂に深々と刻み込みなさい。なぜでしょう。何のために、神を讃美し、感謝しなければならないのでしょうか。主の御計らいを、主がこの私にしてくださったとても良い救いと恵みの出来事を、ちゃんと、覚えているためにです。神さまから受け取ったはずの恵みをはっきりと覚えながら、そのようにして毎日毎日を生き抜いてゆくためにです。「喉元過ぐれば熱さを忘るる」と昔の人は言いました。私たち人間は忘れっぽい、ということです。忘れてしまって良いことが沢山あり、むしろ忘れることが出来たなら、どんなに幸せかと思うこともあります。誰かに何か嫌なことを言われたり、されたりして深く傷つき、悔しくて悲しくて、そのために何日も眠れなかったり、ときには何年も何十年もそのことで苦しみつづけて悶々として日々を過ごす人たちもいます。「喉元過ぐれば熱さを忘るる」。つらいことや嫌なことを忘れるだけならよいのですが、それだけでなく私たちは、とても嬉しかったことや感謝して喜んだこと、「ああ。本当にそうだ」と噛みしめたはずの大切なことさえ、うっかり忘れてしまいます。
  1-2節と3-5節とは、関係があります。3-5節は、神さまが私たちにどんな良いことをしてくださったのかという中身を簡略に短く報告しています。「ゆるしてくださった。癒してくださった。購(あがな)い出してくださったこと。冠を授け、良いものに満ち足らせ、若さを新たにしてくださった」ことです。これからも同じく、そうしてくださるという約束でもあります。しかも兄弟たち。これまで神さまが自分を「ゆるしてくださった。癒してくださった。購(あがな)い出してくださったこと。冠を授け、良いものに満ち足らせ、若さを新たにしてくださった」ことをうっかり忘れてしまった者たちは、これからもずっといつまでも、その良いものを受け取り損ねつづけます。それではいつまでも不幸せで、心細くて物寂しくて、とても困ります。
 不思議な仕方で、それは神さまと私たちとの間の《やりとり》であり続けます。「はい、どうぞ。あなたを、ゆるしてあげますよ」(と素敵な贈り物をその人の目の前に置く。けれど、その人は気づかない。あるいは、知らんぷり)。「癒してあげよう」(また贈り物を置く。その人はそっぽを向く)。「あなたを救い出します。冠を授け、良いものに満ち足らせましょう。さあ、鷲のような若さをあなたのためにも新しくしてあげよう」(次々と良い贈り物をその人の前に置く。けれど、その人はつまらなそうに、淋しそうに、そっぽを向き続ける)。では質問;「鷲のような若さを、誰が、どんなふうに受け取っているでしょうか?」。20才前後か40才代くらいまでのほどほどに若くて元気な人たちが。いいえ。健康診断をパスした健康で丈夫な人たちが。いいえ。よく祈って聖書を読んで礼拝に欠かさず出席する信仰深い人たちが。いいえ。聖書自身からの答えははっきりしています。どんな神であられ、また神を信じて生きる人々の幸いはどういうものであるのかを知っている人たちがです;「主を待ち望む人は」幸いを受け取ります。主が、こんな私にもくださると知って、願い求め、ワクワクしながら待ち望む人は誰でも皆。「疲れた者に力を与え、勢いを失っている者に大きな力を与えられる。若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが、主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない(イザヤ書40:29-31)。例えば目の前に、格別な贈り物が山ほど積み上げられ、けれど主を待ち望むことを止めてしまった人たちは、いつまでも淋しく心細いままです。「はい、どうぞ」「ありがとう」と受け取って、そこで初めて、贈り物はその人のものになります。そこでようやく喜びが溢れます。
  いっしょに読みました最後の1行。13節、「父がその子を憐れむように、主はおのれを恐れる者を憐れまれる」。もちろん私たちの主なる神さまは、誰をも分け隔てなく憐れもうとしておられますし、現に憐れみつづけておられます。けれど、どうしたわけか、その憐れみがその人の手元にまで届かないのです。神さまに感謝し、信頼し、その恵みをよくよく覚えている者たちばかりでなく、神さまのことを何とも思わない人々をも、見向きもしない人をさえ、この神ご自身は深く憐れみ、御心に留め、案じつづけておられます。その人の前にも贈り物を差し出しつづけます。はい、どうぞ。はい、どうぞ。はい、これはあなたの分。素敵な贈り物の宅急便の『不在通知の伝票』が郵便ポストの中に何枚も何枚も積み上げられていくように。お届けにあがりましたがお留守でした。どうぞ連絡をください。だからこそ。私の魂よ、主をたたえよ。私のうちにあるものは、私の心臓も脳みそも目も口も手も総動員して、神さまに感謝し、信頼を寄せ、神さまへのその感謝と信頼とを自分自身の魂に深々と刻み込みなさい。神さまから受け取った恵みを決して忘れないでいる私でありなさい。

              ◇

 「喉元過ぐれば熱さを忘るる」。忘れないでいることは、とても難しかったのです。ちゃんと覚えて、心に刻んで生きるためのしるしが、神さまから私たちに贈り与えられ続けました。
  遠い昔、奴隷にされていたエジプトの
国から、モーセと仲間たちが神さまの恵みによって連れだされようとしていたとき、モーセはエジプトの王さまにこう要求しました。もちろんその要求は、神さまご自身からの直接の指図でした;「荒野で、主のための祭りをさせてください。主への礼拝をです。エジプトの王は答えました;「いいよ。いいけど、誰と誰が礼拝に参加するのかね?」。「わたしたちは幼い者も、老いた者も行きます。むすこも娘も携え、羊も牛も連れて行きます。わたしたちは主の祭を執り行わなければならないのですから」(出エジプト記10:9)。言い訳でも方便でもなく、主に礼拝をささげるために、あの彼らも私たちも荒野を旅したのです。40年もの長いあいだ荒野を旅して生き延びることができたのも、主を礼拝し、その中で主の御計らいを覚えつづけたからでした。忘れないで生活するために、神さまが確かに生きて働いておられますことを思い起こすために、先祖と私たちには、主の祭り=主を仰ぎ見、主の御声に耳を傾ける礼拝がどうしても必要なのです。
  彼らは荒野で、天から下ってくるパン
を食べつづけました。毎日、必要な分だけ、家族の人数分だけ集めました。その天からの恵みのパンを壺に入れてずっと保存しておくように(出エジプト記16:33-36)、と神さまから指図されました。災害時の緊急保存食料とするため、ではありません。いつか博物館を建てて展示するため、ではありません。子供や、子供の子供や、その子供の子供にも壺の蓋をあけて見せるためです。「何これ」と子供たちは質問します。大人には、ちゃんと応える責任があります。「ほうら、これが天からのパンだ。こんなふうに神さまは私たちを毎日毎日養ってくださった。今までもそうだったし、これからもずっとそうなんだよ」と子供たち孫たちによく教えてあげるために。つまりは、みんなで神さまの恵みをちゃんと覚えておくために。それで、今でも私たちは「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」と祈り、「天からの恵みのパンで一日分、また一日分と日毎に養ってくださってありがとうございます」と感謝を心に刻みつづけています。つまりは、みんなで神さまの恵みとお働きをちゃんと覚え、神さまに十分に信頼を寄せつづけて生きるために。
そうそう、例えばエジプトから出てきた最後の晩のことも、ちゃんと覚えている必要がありました。それで、あの夜の出来事をそっくりそのまま祭りにしました。過越しの祭りです。食事の席で、子供たちは質問します。「いつもはふっくらしたパンなのに、どうして今夜はペッタンコのパンなの。杖を持ち、リュックサックを背負って旅支度を整えて食べるのは、どうして。家の戸口の赤いしるしはどういう意味?」(出エジプト記12:24-27,13:8-10,14-16)。信仰をもって生きる家族の中の父さん母さんは、私たち年長の者たちには、その質問にちゃんと応える責任があります。かつて犠牲にされた小羊の血によって救われた私たちは、いま、救い主イエスの十字架の死と復活によって救い出されている。救い出され続ける。もし、それがなかったならば、今なおエジプトで奴隷にされつづけているはずの私たちである。それが確かにあったとしても、もし、その恵みの現実を忘れて、はっきりと思い起こすことも出来なくなるならば、奴隷の生活に逆戻りしつづける他ない私たち。つまりは、みんなで神さまの恵みをちゃんと覚え、神さまに十分に信頼を寄せつづけて生きていこう。そのため、ここにいるこの私たちこそが真っ先に、神さまの恵みを心底から覚え、神さまに十分に信頼を寄せつづけて日々を生きることをしたい。だから、忘れてはならない。忘れてはならない。
 また例えば、主イエスの弟子トマスはとても疑い深い人でした。「私は決して信じない」。それは、「信じたいけれど、確かなしるしを見るまでは信じることができない。ぜひ、そのしるしが欲しい」という意味です。彼は、「いいえ、いいです。しるしなんか無くても大丈夫」と信仰深いふりを装っていた、見栄っぱりなアハズ王とは正反対の人でした。トマスのためにも、復活の主イエスはわざわざやって来て、こう仰いました。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。トマスは答えて、「わが主よ、わが神よ」と喜びにあふれました(イザヤ書7:10-12,ヨハネ福音書20:24-29)。まごついて、ひどく手間取っていた彼でしたが、弟子たちの中で、あの危なっかしい彼こそが真っ先に主イエスの前に膝を屈め、「私の主よ、私の神よ」と喜びにあふれました。
  「決して忘れるな! 魂に刻みこんで生きよ そのための手段としるしを堅く掴んで手離すな」と、神さまは私たちを招きつづけます。信じて生きるためのしるしが、いくつもいくつも贈り与えられました。1回の礼拝。1回の洗礼。1人1冊ずつの、いつでもちゃんと開くことのできる聖書。主をほめたたえて、感謝と信頼を覚えておくための讃美の歌の数々。その土地、その土地に建てられてきたキリストの教会。神さまとそのお働きを覚えて生きる1人のクリスチャン。そして、その人たちのためのとてもとても大切な聖晩餐のパンと杯です。「パンと杯? 洗礼、礼拝や聖書や讃美の歌や、祈りだって? いいえ、そんなしるしは要りません。大丈夫。しるしや支えがあってもなくても、この私こそはちゃんと信じていますよ。クリスチャンですから」。……いいえ。むしろ、あなたは疑い深いトマスでありなさい。「あなたのその指を、あの方のてのひらに当ててみなさい。あなたの手を伸ばして、あの方の脇腹の槍の傷跡に入れて、グリグリグリとこね回してみなさい。満ち足りるまで存分に。そして、信じない者ではなく、主イエスをこそ心底から信じ、このお独りの方にこそ全幅の信頼を寄せるあなたでありなさい」。なぜならば よくよく信じることができなければ、いつまでたっても私たちは確かにされず、ずっと危なっかしいままだからです。なにしろ忘れっぽい私たちです。だからこそ今日もこうして、神さまご自身からの、飛びっきりの贈り物が用意されています。救い主イエスは、十字架の死へと引き渡されようとする夜に、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これはあなたがたのための、わたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい」。食事ののち、杯をも同じようにして言われました、「この杯は、わたしの血による新しい契約である。飲むたびに、わたしの記念として、このように行いなさい」(コリント手紙(1)11:23-)。わたしを記念するため、わたしの記念として、行いなさい。つまり、わたしを覚えているためにこそ、せよ。神さまの恵みをちゃんと覚え、心に深々と刻み、神さまに信頼を寄せつづけて生きるために。月曜日にも火曜日にも水曜日にも、朝も昼も晩も、そのようなあなたであるために。