2019年9月9日月曜日

9/8「種をまく人が種をまいた」ルカ8:4-15


                        みことば/2019,9,8(主日礼拝)  231
◎礼拝説教 ルカ福音書 8:4-15                        日本キリスト教会 上田教会
『種をまく人が種をまいた』


牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
 8:4 さて、大ぜいの群衆が集まり、その上、町々からの人たちがイエスのところに、ぞくぞくと押し寄せてきたので、一つの譬で話をされた、5 「種まきが種をまきに出て行った。まいているうちに、ある種は道ばたに落ち、踏みつけられ、そして空の鳥に食べられてしまった。6 ほかの種は岩の上に落ち、はえはしたが水気がないので枯れてしまった。7 ほかの種は、いばらの間に落ちたので、いばらも一緒に茂ってきて、それをふさいでしまった。8 ところが、ほかの種は良い地に落ちたので、はえ育って百倍もの実を結んだ」。こう語られたのち、声をあげて「聞く耳のある者は聞くがよい」と言われた。9 弟子たちは、この譬はどういう意味でしょうか、とイエスに質問した。10 そこで言われた、「あなたがたには、神の国の奥義を知ることが許されているが、ほかの人たちには、見ても見えず、聞いても悟られないために、譬で話すのである。11 この譬はこういう意味である。種は神の言である。12 道ばたに落ちたのは、聞いたのち、信じることも救われることもないように、悪魔によってその心から御言が奪い取られる人たちのことである。13 岩の上に落ちたのは、御言を聞いた時には喜んで受けいれるが、根が無いので、しばらくは信じていても、試錬の時が来ると、信仰を捨てる人たちのことである。14 いばらの中に落ちたのは、聞いてから日を過ごすうちに、生活の心づかいや富や快楽にふさがれて、実の熟するまでにならない人たちのことである。15 良い地に落ちたのは、御言を聞いたのち、これを正しい良い心でしっかりと守り、耐え忍んで実を結ぶに至る人たちのことである。     (ルカ福音書 8:4-15)


 主イエスが大切なことをぜひ伝えようとして、たとえ話を使って話しています。神さまがどんな神さまなのか。その神さまが私たちをどう思っておられるのか。その神の恵みのご支配のもとで私たちがどんなふうに生きてゆくことができるのか、ということをです。たとえ話ですから、その話の中で何が何をたとえているのかを1つ1つ心に留めながら、読んでいきます。では、種を蒔く人は誰のこと? 種は何だろう? 種を蒔かれるいろいろな土地は何のことでしょう。

  種を蒔く人が出て行って、いろんな土地に種を蒔きます。種は、神さまの言葉です。蒔かれる土地はこの私たち一人一人のことで、道端の土地(5,12)、岩の上で土がほんの少ししかない土地(6,13)、茨の中の土地(7,14)、そして良い土地(8,15)。せっかく蒔かれた種が、けれどなかなか実を結びません。どうしてでしょう。例えば道端に落ちた種を鳥が来て食べてしまうように、サタンが来て、その大事な《種/神さまからの言葉》を奪い去ってしまうのです。岩の上の土の少ない土地でもまた、種は実を結べません。深く根を張れなかったから、強い日差しに焼かれるようなこの世の悩みや辛さや、いろいろな障害に出会って、とうとうこの種も枯れてしまいました。そして別の土地では、茨や雑草がいっぱいに生い茂って種をすっかり覆いつくしてしまいました。
 14節。「いばらの中に落ちたのは、聞いてから日を過ごすうちに、生活の心づかいや富や快楽にふさがれて、実の熟するまでにならない人たちのことである」。生活の心づかいや富や快楽。その他いろいろな欲望。それが雑草や茨のように、心の中で生えてくるというのです。例えば、白雪姫の義理のお母さん、おきさきは世界一の美人で、そして本当のことを教えてくれる魔法の鏡を持っていました。鏡は毎日毎日、「あなたが一番美しい。素晴らしい。素敵~」って語りかけてくれました。だから義理のお母さんは毎日毎日ルンルン気分でした。ところが鏡はある日、今までとは違うことを言い始めます。「白雪姫の方が千倍も万倍も美しい」。この答えを聞いたその瞬間から、おきさきの心の中に雑草が伸び始めます。『白雪姫を見るたびに、憎らしくて憎らしくて、はらわたが煮えくり返るような気がしました。そして、このねたましさや悔しさは、雑草がはびこるように、心の中で伸び広がり、おきさきは昼も夜も、心の休まるときがなくなりました』(こぐま社「こどものためのグリムの昔話.2)分かりますか。あなたは自分の心の中に、そういう雑草が生えたことがありますか? どうでしょう? 例えば、誰かにある日何か嫌なことを言われる。その人は軽い気持ちでなんとなく言ったのかも知れない。でも、その一言が気になって気になって、忘れられなくなって何日も何ヶ月も悶々としてしまう。人から誤解されたり、悪口を言われたり、自分の気持ちをなかなか分かってもらえないことはあります。「こうありたい、こうしたい。こうでなくちゃならない」と思っていることがあります。でも、その通りにならない時があります。願いや期待を持つことはいいことですが、時々その願いや期待が自分を追い詰めたり、苦しくさせることもある。腹が立ったり、がっかりしたりもする。「どうしてこうならないんだろう」と悩み始めます。雑草がはびこるように、茨が生い茂るように、その思いは心の中でどんどん伸び広がり、昼も夜も心の休まるときがなくなってしまいます。
 ちょっと恥ずかしいんですが、僕は、そういうことがよくあります。クヨクヨクヨクヨしてしまう。すごく臆病で、肝っ玉が小さいからです。「人からどう見られるだろう。なんて思われるだろう」と、気にかかって気にかかって仕方がなくなります。「そんなことどうでもいいじゃないか。気にしなくていいんだよ」と自分で自分に言い聞かせても、やっぱりクヨクヨして、溜め息をついている。捨て鉢な気持ちになる。ウンザリしてしまう。だから、白雪姫の話を読んで「あ。このおきさきはいつもの僕と同じじゃないか。そっくりだ」と思いました。
 さて、種を蒔かれたいろいろな土地のこと。考えてみてください。誰かに踏みつけられもせず、また空の鳥のようなサタンが来て大事な種を食べてしまわないような良い土地は、どこにあるでしょう? 強い日差しのようなこの世界の悩みや苦しみ、いろいろな誘惑、すごく困ったことや難しい出来事が起こっても、それでも《種/神さまからの言葉》を守って根づかせるような、深くてタップリした良い土地はどこにあるでしょう? せっかく種を蒔いてもらったのです。ようやくやっと芽を伸ばしかけているこの大事な種を実らせたい。私のこの魂の土地に根づかせ、うれしい実を結ばせたい。良い土地はどこにあるでしょうか?  私たちがそれぞれ種を蒔かれる土地だとして、「この人は道端の土地。この人は石ころだらけの土地。この人とこの人とこの人は茨の土地。そして、おめでとう、あなたは良い土地です」と、そんなことがあるでしょうか? だって、鳥のようなサタンが来て、せっかく蒔かれた大切な種を食べてしまうのは、どこでも同じです。どの土地にもサタンの鳥はやってくる。鳥を追い払い、いつも種を守って土地の世話をする者がいてくれるなら、そこは良い土地ではありませんか。しかもサタンの鳥は次の日も次の日も毎日毎日、私の畑に種を食べに舞い戻ってきます。忍耐深く、サタン鳥を追い払いつづけてくれる者がいるなら、その大切な種はかろうじて守られます。強い日差しのような苦しみや悩みはあります。いろいろな障害もどこでも誰にでも立ち塞がります。茨や雑草のような思い煩いや誘惑、いろいろな欲望もまた、風に運ばれてきます。その思い煩いや誘惑は、初めはほんの小さな種に過ぎませんでした。でも小さな小さな種も、放っておけばどんどん伸びて生え広がり、土地を覆いつくしてしまいます。伸びてくる雑草に目を配り、心を砕いてよく手入れをしてくれる者があれば、そこは良い土地でありつづけます。石っころを取り除き、雑草をむしり、肥料を施し、水をまき、害虫を遠ざけて、昼も夜も世話しつづけてくれる者があれば、その土地はやがてとても良い土地になっていきます。同じ1つの土地が手入れ次第で、どこまでも良くなり、また、どこまでもどこまでも悪い土地になってしまいます。

 このたとえ話を読んで、「何か、どこかがおかしい」と感じませんでしたか? 私たちは、《聖書に書いてあるから。主イエスがおっしゃることだから》と、それを当たり前のように、ごく自然な出来事のように受け取ってしまいます。けれど、このたとえ話には初めから奇妙な所があります;「種まきが種をまきに出て行った。まいているうちに、ある種は道ばたに落ち、踏みつけられ、そして空の鳥に食べられてしまった。ほかの種は岩の上に落ち、はえはしたが水気がないので枯れてしまった。ほかの種は、いばらの間に落ちたので、いばらも一緒に茂ってきて、それをふさいでしまった。ところが、ほかの種は良い地に落ちたので・・・・・・」(5-8)種を蒔く人の、この蒔き方はおかしいと思います。むやみやたらに、いい加減に種を蒔いているのでしょうか。どこでもいいから、芽が出ても出なくてもどっちでもいいから、とにかく、ただ行き当たりばったりに種を蒔いているのでしょうか。まるで、暇つぶしのように? それが神のなさり方でしょうか。
 私たちはここで、心を鎮めて、よくよく考えてみなければなりません。 ルカ福音書15章の羊と羊飼いのたとえ話でも、よく似たことが起こりました;「99匹をそのまま野原に残して、いなくなった1匹を探し回らないだろうか。見つけ出すまで、どこまででもいつまででも捜し回らないだろうか?」(4)と質問されました。けれど、そんな後先を考えない無謀なやり方は滅多にしないのです。そもそもの初めから、この羊飼いは滅多にいないほどの奇妙な人物でした。たった1枚の銀貨を家中ひっくり返して何日も何ヶ月も探し回る女(ルカ15:8-10)も、常識を外れた、滅多にいない、とてもとても風変わりな人物でした。「私も多分おなじようにするだろう」などと、うっかり騙されてはいけません。どこにもいないような、とんでもなく常識外れの、私たちのいつもの道理を踏み外した人物の姿が物語られています。「私たちのいつもの考え方ややり方とは、だいぶん違う」。ここに気づくことが出発点です。《ぶどう園の主人》もそうでした(マタイ20:1-,21:33-)。朝から夕方まで、来る日も来る日も町の広場に出かけてきて、「さあ皆さん。私のぶどう園に働きに来なさい。あなたも、あなたもあなたも」と労働者を招きつづける。これについて例えば、いくつかの注解書では「ぶどうの収穫時期で、人手がたくさん必要で猫の手も借りたい。それで」と説明しています。それ、とんだ大間違いです。そういうこととは何の関係もない、全然違うことが語られています。この私たちのためにさえ生きて働いてくださる神であり、なんでもできる神です。神のものであるそのぶどう園が人手不足で経営困難になったりもするはずがない。だからこそ、夕方のあの驚天動地の、びっくり仰天の支払いの光景です(マタイ福音書20:8-16。「私たちのいつもの考え方ややり方とはだいぶん違う」と気づきたい。「他のどこにもいない奇妙なこの人物は誰のことだろう」と、子悪露を鎮めてよくよく思いを凝らしたい。
 ぼくは、色々なことを知っているわけではありません。「なんだ、そんなことも知らなかったのか」と呆れられたり、馬鹿にされることも度々あります。偏屈だったり、ひどく意固地だったりします。へそ曲がりで、ひねくれた皮肉っぽい心を抱えています。それでも、神さまのことは知っています。ちゃんと分かっています。この世界と私たちに素敵な種を蒔いたあの神さまが、どんな神さまかということを。私たちの主なる神さまは行き当たりばったりに、いい加減に無責任に、暇つぶしのようにして種を蒔いたのではありません。もちろんです。蒔いたからには、種の1粒1粒に対して、その土地の1区画1区画に対して、願いを込めて蒔いたのです。願いを持って蒔いたからには、ちゃんと責任を持ちつづけるのです。どこまでもどこまでも。
  さあ、ご覧ください。これが世界の初めであり、ここが初めにあった世界の全体です。「主なる神が地と天とを造られたとき、地にはまだ野の木もなく、また野の草も生えていなかった」(創世記2:4)。草一本生えない、荒涼とした寒々しい大地が広がっています。神さまは夢を見ました。「草や木が青々と生い茂る世界はどうだろうか。木には花が咲き、おいしい様々な実がたわわに実り、風が吹き渡り、鳥が枝に巣を作ってそこでヒナを育てるようになったらどうだろう。素敵だ」と。その手には、種が握られています。種を見て、そして目の前に広がる荒涼とした大地を見渡して、神さまは種を蒔きはじめます。どんなふうに? もちろん行き当たりばったりにではなく、けれど「この土地にも。この土地にも」と。
 「どんな土地にも種を蒔きたい」と願ったのです。「あの道端の土地のような所にも。あの石っころだらけの痩せた貧しい土地にも。あの茨が生い茂ったような、気難しくて、ひどく手間隙かかる厄介な土地にも、私はぜひ種を蒔きたい。ぜひ、その種を芽生えさせ、葉や茎を伸ばさせ、豊かな収穫を結ばせたい」と。ぜひそうしたいと。熱情の神であり、最後の最後まで責任を負いとおす神です。そして、だからこそ、種を蒔く人は同時に直ちに、土を耕す人でもありつづけました。種を食べようと、鳥が次々にやって来ました。その人は鳥を追い払い、種を守って土地の世話をする者でありつづけました。強い日差しのような苦しみや悩みが、折々に種たちを弱らせました。茨や雑草のような思い煩いや誘惑、いろいろな欲望もまた、風に運ばれてきました。2、3日でも放っておけばどんどん茨は伸びて生え広がり、土地をすっかり覆いつくしてしまいます。今日は、土地を集めて手入れをする日です。知らず知らずのうちに、ずいぶん雑草や茨が生い茂ってしまった土地もありますね。いつの間にか、石ころだらけになってしまった土地もあります。でも大丈夫。伸びてくる雑草に目を配り、心を砕いてよく手入れをしてくれる者があれば、そこはふたたび何度でも何度でも良い土地に生まれ変わってゆくのです。石っころを取り除き、雑草をむしり、肥料を施し、水をまき、害虫を遠ざけて、昼も夜も世話しつづけてくれる者があれば、その土地はやがて、だんだんと少しずつ良い土地になっていきます。
「涙をもって種まく者は、喜びの声をもって刈り取る。種を携え、涙を流して出て行く者は、束を携え、喜びの声をあげて帰ってくるであろう」(126:5-6)。それは、あの方と私たちのことです。あなたのためにも、涙と共に種を蒔いたお方があり、心を砕きながら世話をしつづけてくださった方がおられます。「種まく人に種と食べるためのパンとを備えて下さるかたは、あなたがたにも種を備え、それをふやし、そしてあなたがたの義の実を増して下さるのである」(コリント(2)9:10)。それはあの方と私たちのことです。慈しみとゆるしとは、神の御もとにありました。種を蒔いたのも、蒔いた種の世話をしつづけたのも、それは神の慈しみの業でした。あの方の慈しみがあなたに注がれ、この私にも注がれ、だからこそ、ここにもそこにも、必ずきっと良い実を結ばせます。慈しみの実を。《憐れみを受け、溢れるほどに恵みを受けて、私は、今日ここにあるをえている》という感謝と信頼の実を。私たちの土地に植えられた小さな種はやがて育って大きな木になり、木はさらに育って、その枝を空へと伸ばすでしょう。慈しみの枝です。枝々は張りめぐらされて、空の鳥たちがたくさんの巣を作り、それぞれの巣からヒナ鳥たちがすくすくと成長し、空を自由に羽ばたき、またそれぞれに枝に巣を作り、ヒナを育てつづけるでしょう(マルコ4:30-32)。祈りましょう。