2019年9月2日月曜日

9/1「多くの婦人たちも信じた」ルカ8:1-3


                       みことば/2019,9,1(主日礼拝)  230
◎礼拝説教 ルカ福音書 8:1-3                       日本キリスト教会 上田教会
『多くの婦人たちも信じた』



牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
 8:1 そののちイエスは、神の国の福音を説きまた伝えながら、町々村々を巡回し続けられたが、十二弟子もお供をした。2 また悪霊を追い出され病気をいやされた数名の婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出してもらったマグダラと呼ばれるマリヤ、3 ヘロデの家令クーザの妻ヨハンナ、スザンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒にいて、自分たちの持ち物をもって一行に奉仕した。             (ルカ福音書 8:1-3)
救い主イエスは、神の国の福音を説き、また伝えながら、町々村々を巡り歩きつづけます。主イエスと弟子たちを迎え入れ、耳を傾けて信じるほんのわずかな者たちもいました。また、そうではなく彼らを拒み、退け、耳をふさいで信じない人々も大勢いました。いつも、どこでも、神の国の福音を信じる者たちとそうではない大勢の人々がいつづけます。それでもなお耳を傾けて信じる者たちがほんのわずかしかいなくても、多くても少なくとも、時がよくても悪くても、主のお働きは滞ることなく、立ち止まってしまうこともありません。なぜなら救い主イエスは、天の父なる神から「せよ」と命じられたことをなしつづけるからです。それが遣わされた者であることの意味です。救い主イエスの弟子である私たちも、その主から「せよ」と命じられたことを精一杯に、また心安く晴れ晴れとしてなしつづけます。
 12人の弟子たちが主イエスに同行し、また多くの婦人たちも共に旅路を歩みつづけます。とくに名をあげられた数名の婦人たちがおり、またそのほかに大勢の婦人たちも共に歩みつづけます。領主ヘロデの家令クーザの妻ヨハンナのことも、スザンナという名前の女性についても、聖書は何一つ私たちに知らせません。どんな生い立ちと境遇でとか、主イエスとどのように出会い、どんなふうに神を信じて生きるようになったのかなど何一つも。いいえ、それで十分です。何の不足もありません。私たちが顔も名前も何も知らないおびただしい数の信仰者を神は側近くに招き寄せておられます。神を信じて生きて死んでいった、とても幸いなおびただしい数の人生があります。ここにいる私たち一人一人についてもまったく同様で、他の誰が知っていても知らなくても、私たちの喜びと悲しみを、困難や悩みの一つ一つを神こそがよくよく御存知で、御心に留めつづけて、必要な助けと支えを送り続けてくださっていますから。神が私たちの味方であるとはそのことです。
 例えば、名を挙げられてはいませんが、そこにはイエスの母マリアも含まれていました。血のつながりや肉親であること以上に、それをはるかに超えて、彼女もまた救い主イエスの弟子とされた者たちの一人だからです。しかもイエスご自身がそうした血のつながりや親族であることを重要視しようとはなさいませんでした。神の国の福音を宣べ伝えている最中に、「あなたの母上と兄弟がたが、お目にかかろうと思って外に立っておられます」と取り継がれたとき、主イエスは人々にむかって言われた、「神の御言を聞いて行う者こそ、わたしの母、わたしの兄弟なのである」(ルカ福音書8:20-21と。そのとおりです。あの彼女は主イエスの十字架の下にも立つことをゆるされ、その布切れしか残されていなかった空の墓穴にも入り、約束を信じて待って、聖霊の注ぎを受けることさえさせていただきました。単なる母親をはるかに超えるものとされました。つまり彼女は、主イエスの弟子たちの一人とされつづけたのです。そのように母マリアは神から大きな恵みをいただき、神が彼女のために大きな御業を成し遂げてくださいました。それはほかの婦人たちや、私たちもまったく同じです。
 男も女も、年配の方々も若者も子供たちも、なぜ私たちは主イエスの弟子とされたのでしょうか? 神から恵みをいただいたからです。私たちが主イエスを選んだのではなく、主イエスご自身が私たち一人一人を選んでくださったからです。ご自身がこう証言なさっています、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためである。これらのことを命じるのは、あなたがたが互に愛し合うためである」(ヨハネ福音書15:16-20。主イエスご自身が私たち一人一人をご自身の弟子として、使者として、選び、立ててくださいました。そうであるからには、この私たちそれぞれの働きさえも、必ず実を結び、その実は残ると約束されています。
 やがてゲッセマネの園で主イエスが祭司長、宮守がしら、長老たちと大勢の群衆に捕らえられたとき、弟子たちは一人残らず逃げ出してしまいました。主イエスが十字架につけられて息を引き取った時、「ガリラヤからずっとイエスに従ってきた婦人たちが、その様子を遠い所に立って、これらのことを見ていた」(ルカ福音書23:49と報告されています。だからこそその婦人たちは三日目の朝早く、葬りの備えをしようとしてイエスの墓に出かけていき、「主は復活なさった」という大切な知らせを主の御使いから聞くことになります。復活の主ご自身ともお会いし、聖霊を注がれる約束を受けて、信じて待ち望み、そのとおりにされました。主イエスは彼らに直々に仰いました、「エルサレムから離れないで、かねてわたしから聞いていた父の約束を待っているがよい。……聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」(使徒1:4-8

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  神を信じて生きて死んでいった多くの人々がいます。例えば、アダムと共に最初の人間とされたエバ。「人が独りでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」と神が仰ったのには、大きな理由があります。エデンの園に連れてこられて、そこを耕し守るという使命と役割を与えられたからです。また「園のどの木からも心のままに取って食べて良い」と、とても豊かな祝福を気前よく差し出されたからです。「ただし、~はしてはいけない」と慎み留まるべき戒めをも与えられたからです。ゆだねられた神のものである土地を耕し守るという使命と役割を担うには、独りでは荷が重すぎます。祝福を喜び味わい、その祝福と恵みのうちに慎ましく留まって喜び感謝しつづけることも、独りでは難しいことです。心がおごって、「こんな粗末な貧しい食べ物」などと、恵みを侮り、神の恵みの贈り物の一つ一つを軽んじはじめるかも知れないからです。「ただし、~はしてはいけない」という戒めのうちに慎むことも。二人なら、戒めあい、諭し合って、幸いのうちに留まって、神を喜びながら、感謝し、聞き従いながら生きることができるかも知れないからです。けれどその喜びと祝福の直後、創世記3章で、二人は神にはなはだしく背いてしまいました。それでもなお、自分たちの未熟さや、思い上がりを知り、愚かさを知り、神への反抗と背く心が芽生え続ける危うさを知って、もし、心を痛めて悔い改めることができるならば。もし、そうであるなら、あの彼らもこの私たちも、神へと立ち返り立ち返りして生きてゆくことができるかも知れません(創世記2:4-25
 例えば、アブラハムの女奴隷ハガルが主人の家を追い出されて、路頭に迷ってしまったことには、いくつかの理由があります。第一には、アブラハムとサラ夫婦が神の約束を疑い、不信仰に陥り、あまりに不届きだったせいです。子を宿したハガルがサラに対して思い上がってしまったことと、そのハガルをいさめることをしなかったことと、ハガルをサラが憎んで追い出そうとしたときにも、ほんの少しも執り成そうとしなかったことでは、アブラハムに大きな責任がありました。神は、路頭に迷ったハガルとその子供に御目を留め、深く憐れみました。それで、神の憐みのもとに、女奴隷ハガルもその子イシュマエルも安らかに生き延びることができました(創世記21:8-21
 また例えば、モアブ人であったルツがこの聖書の神を信じて生きはじめることができた理由もまた、神がこの女性を憐れんでくださり、祝福の中へとあらかじめ選んでくださっていたからでした。義理の母ナオミは、その神の憐みをルツに伝えるための道具とされました。ナオミを通して、ルツはそれまで知らなかった神を知り、この自分もぜひ、その神を信じて生きていきたいと願うようになりました。ナオミには二人の息子がおり、それぞれにめとった外国人の二人の妻がいました。息子二人は先に死んで、嫁が二人残されました。兄嫁は、自分の故郷に帰りましたが、ルツは帰ろうとせず、義理の母と共に歩もうと固く決心しています。義理の母ととても親しくなって、その母と離れがたかったからではありません。義理の母が信じている神について折々に聞き及び、その神を信じて生きる心強さと幸いとを知ったからです。その母ナオミは、神を心底から固く信じる人でした。遠く離れたモアブの地で、「主がその民を顧みて食べ物をお与えになっている」と母ナオミは聞き、それを信じ、だから主のもとへ帰ろうと決めました。その様子を見て、その心の思いをつぶさに知って、ルツもまた、その神を信じて生きていきたいと渇望したのです(ルツ記1:6-17参照)。それが家族の新しい生活の出発点でした。
 例えば、神の民イスラエルが荒野の40年の旅路をへてカナンの地に辿り着いたとき、外国人の一人の女性が主の民の群れに加えられました。遊女ラハブです。なぜ彼女がイスラエルの民のために手引きをしたのか。この聖書の神について、主なる神さまが確かに生きて働いておられますことを、彼女も聞き及んでいたからです。ラハブは願い出ました、「あなたがたの神、主は上の天にも、下の地にも、神でいらせられるからです。それで、どうか、わたしがあなたがたを親切に扱ったように、あなたがたも、わたしの父の家を親切に扱われることをいま主をさして誓い、確かなしるしをください。そしてわたしの父母、兄弟、姉妹およびすべて彼らに属するものを生きながらえさせ、わたしたちの命を救って、死を免れさせてください」(ヨシュア記2:11-13。助けと幸いがただこの神から来ることを、彼女も知らされて、それを確かに信じたからでした。
 例えばサマリア人の一人の女性は井戸の前で、主イエスと出会いました。彼女は水をくみにきました。イエスはこの女に、『水を飲ませて下さい』と言う。女は、「あなたは汲む物を持っておらず、その上、井戸はとても深い」とあざける。「イエスは女に答えて言われた、『この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう』。女はイエスに言った、『主よ、わたしがかわくことがなく、また、ここにくみにこなくてもよいように、その水をわたしに下さい』」。そのときから、捕らわれの身だったあの一人の惨めな女性は、主イエスを信じて生きる者とされ、「さあ見に来てごらんなさい」と人々を主イエスのもとへと連れてくる者とされました(ヨハネ福音書4:1-。私たちもそうでした。一方には、エルサレムの都に向かう旅についてきた弟子たちがおり、もう一方には、旅には同行しなかったけれども、現地に留まって、主イエスを信じる生活をしはじめた者たちも大勢います。この人もそうです。ゲラサの墓場の男もそうです。東から来た博士たちもそうです。「さあ、その出来事を見て来ようではないか」と急いで出かけていったあの羊飼いたちも。ほかにも大勢。
 例えば、マルタとマリアとラザロの3兄弟の長女マルタ(ルカ福音書10:38-42参照)。主イエスとその一行をもてなそうとして、マルタ姉さんは心が引き裂かれました。「私一人だけに」とあまりに物寂しく、苦々しい辛い気持ちになってしまったあの彼女がその後どういう人生を生きたのかを、聖書は語りません。やがて、キリスト教会を支える豊かで大きな働きをする人になったという言い伝えが残っています。そうかも知れないし、そうではなかったかも知れません。けれどもし、あのとき、「あなたは多くのことに心を配って思い煩っている。しかし無くてはならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリアはその良いほうを選んだのだ。それを彼女から取り去ってはならない」と主イエスから直々に語りかけられたとき、もし、心を180度グルリと向け直して神を思うことができたなら、「主イエスの言葉をよくよく聞き分けること。心に刻んで生きること」。その、無くてはならない、ただ一つの大切なものを、もちろんマリアに必要で彼女から取り去ってはならない。しかもあのマリアだけじゃなく、この私にもどうしても必要で、それが無ければ私の人生も生活も虚しいままで、とうてい成り立たない。私もぜひ欲しい」と気づいたならば。もしそうだったら、その人もまたキリスト教会を支える善かつ忠実な働き人たちの一人となったことでしょう。
 女も男も、子供も、年配の方々も若者たちも、どこの誰でも、せっかく信じて生きはじめた私たちはぜひ、そのようでありたいのです。主を信じて、主に従って歩む旅路がなおまだ続くからです。