2018年7月3日火曜日

7/1「罪人を救う救い主」Ⅰテモテ1:12-17


                     みことば/2018,7,1(主日礼拝)  169
◎礼拝説教 テモテ手紙(1) 1:12-17                日本キリスト教会 上田教会
『罪人を救う救い主』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

1:12 わたしは、自分を強くして下さったわたしたちの主キリスト・イエスに感謝する。主はわたしを忠実な者と見て、この務に任じて下さったのである。13 わたしは以前には、神をそしる者、迫害する者、不遜な者であった。しかしわたしは、これらの事を、信仰がなかったとき、無知なためにしたのだから、あわれみをこうむったのである。14 その上、わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスにある信仰と愛とに伴い、ますます増し加わってきた。15 「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった」という言葉は、確実で、そのまま受けいれるに足るものである。わたしは、その罪人のかしらなのである。16 しかし、わたしがあわれみをこうむったのは、キリスト・イエスが、まずわたしに対して限りない寛容を示し、そして、わたしが今後、彼を信じて永遠のいのちを受ける者の模範となるためである。17 世々の支配者、不朽にして見えざる唯一の神に、世々限りなく、ほまれと栄光とがあるように、アァメン。    (テモテ手紙(1) 1:12-17


 12節「私たちの主キリスト・イエスに感謝する」と彼は言いはじめます。ただ口先で言うだけではなく、主イエスに対する感謝と信頼を自分自身の心に刻んでします。いま心に刻んでいるだけでなく、これまでも「ありがとうございます。本当に、ありがとうございます」と言い、心に刻むことを積み重ねつづけてきました。「イエス・キリストに感謝する」と言うとき、彼は、その感謝すべき相手とその中身に目を凝らし、しみじみと味わっています。私たちの主であるイエス・キリストと。「ああ。こういう方だった。こんなことをしていただいた」と。例えばこの私たち自身は、初めからずっと強かったわけではなく、自分で自分を鍛え上げて自分で強くしてきたということでもなく、キリストによってこそ強くされました。そして主キリストによって、その務めやその場所にふさわしいと見做していただき、そこに据え置いていただきました。《キリストのもの。主キリストに仕えて生きる者》であるという場所と務めに。あのただお独りの方が、私を強くしてくださって、あの方がこそが、こんな私をさえふさわしいと見做してくださった。私たちの主であるイエス・キリストというお方が。「私は強くしていただいた」と噛みしめる彼は、それ以前の、『弱く不確かだった頃の自分のいつもの在り方』を覚えています。その弱く不確かだった自分自身が、いつ、どんなふうにして強くされてきたのかをよく自覚しています。
 13-16節。「憐れみをこうむった」「主の恵みがますます増し加えられた」「憐れみをこうむった」「限りない寛容を示された」と彼はクドクドと繰り返します。憐れみ、憐れみ憐れみ。「恵みや憐れみはもう分かった。何か別のことを言ってくれ」と言われても、うんざりしたような嫌な顔をされても、がんとして、彼はしつこく繰り返します。「憐れみ、憐れみ、憐れみ。主の恵み、主の恵み、主の恵み」と。言い表すことにおいても、自分自身の心に刻み込むことにおいても、もう十分ということはありません。まだまだ言い足りない。いいえ、それよりも、まだまだ自分自身の心に刻み足りない。憐れみをこうむった私である。主の恵みをますます増し加えられた私である。限りない寛容を示され、何度も何度もゆるされつづけてきた私。それが、それこそがこの私という一個の人間の中身であると。15節「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来てくださった」。この一点に聖書全体がかかっており、世界中のすべてのキリストの教会と一人一人のクリスチャンの全存在がかかっています。キリスト・イエスは罪人を救うために世に来てくださった。掛け値なく、まったく真実であり、そのまま丸ごと受け入れるに足るものである。だから、この私自身も、そのまま受け入れている。あなたにも、ぜひそうしていただきたい。キリスト・イエスは罪人を救うために、ただ、そのためにこそこの世に来てくださった。この言葉こそ真実。少なくともキリストの教会と私たちクリスチャンには、『はいどうぞ』と言って差し出してあげられる真実は、これしかありません。キリスト・イエスは罪人を救うために、ただただ、そのためだけにわざわざこの世界に来てくださった――という、ただ一点の真実。「真実です。はい、信じます」と受け入れた者たちによって、キリストの教会とクリスチャンの一人一人は形造られ、その営みをつづけてきました。この上田の地でも、他どこででも。
「罪人を救うため」と言います。直ちにつづけて、「他の誰でもなくこの私こそが、その罪人の頭なのだ。罪人中の罪人、神さまに背きつづける最低最悪のどうしようもない私だ」と。兄弟姉妹たち。ここが、決定的な分かれ道です。「一般的に誰でも、わがまま自分勝手であり、ズルく立ち回り、他人を押しのけたり苦しめたりする。多かれ少なかれ、誰だってそうだ。え私? まあ多少はそういう所があるかも知れないけど、さあて、どうかなア」というだけでは全然足りません。実は、《わたしは、その罪人の中で最たる者。罪人中の罪人、飛び抜けて罪深い。ほかのどんな悪人よりも、この私こそが最低最悪》ということが、もしピンと来ないのなら、この言葉の真実さや喜びはたとえ洗礼を受けて5060年たった後でも、ちっともその人の骨身にしみてきません。恐ろしいことですが、「キリストは罪人を救うために来てくださった。本当ですよ」と知らされつづけても、なお多くのクリスチャンたちはつまらなそうな顔をして聞き流し、聞き飛ばしつづけます。「まあ、いいけど。罪人を救うだけじゃなく、もっと他に、世のため人のために色々と素敵なことをしてくれればいいのに」などと。例えば、自分は正しいと自惚れて他人を見下している人々が「キリストは罪人を救うために来てくださった」と聞いても嬉しくもなんともない理由は、自分自身がとても悪いなどと思ってもいないし、正直な所、そんなことは認めたくもないからです。それで、「罪人を救うためだって。また誰か他の人たちのことを話しているんですね。だって私は罪人なんかじゃないですから。警察に捕まったわけでもないし。それなりにちゃんとやってるし、しっかりしているんですよ」などと上の空で聞き流しつづけているからです。「わたしこそがその罪人の頭。罪人の中の最たる者である」。単なる謙遜でも社交辞令でもありません。控え目なふりを装って、ただ口先だけで「私は小さい。弱い。かなり身勝手で、意固持で、つまらない私だ」と言っているわけではありません。そうではなく受け取った恵みの大きさに比べて、私は小さい。差し出されたゆるしと慈しみの豊かさに比べて、私は貧しかった。あまりに身勝手で了見が狭かった。にもかかわらず与えられ、受け取った。――心底そう言い、そう自覚しています。《私は罪人の中の最たる者。あの人やこの人がではなく、この私こそが飛び抜けて罪深い。この私こそ最低最悪だ》と分かったからこそ、「罪人を救うためにこの世に来てくださった。ああ、本当にそうだ」と分かりました。イエスという方こそが救い主であるということも、神の独り子であるその方が、いったいどうしてわざわざこの世界に降って来なければならなかったのかも、そこでようやく分かりました。「あの人は罪深い。この人もこの人もこの人も、ずいぶん」というだけでなく、そう言っているこの私こそが、他人の5倍も6倍も、あまりに罪深い。なぜキリストがこの世界に降りて来られねばならなかったのか。それは「こんな私の罪と悲惨のためだった。本当にその通りだ」とつくづく認めさせられるまでは、神さまのことも、その恵みも、その救いも何も分かりません。ただ口先だけの理屈であり、上っ調子で軽々しいだけの安っぽい教養や知識にすぎません。いつまでも他人事であり、あなたが生きていく普段のいつもの生活とはまったく何の関係もない。肝心要はここから先です。では、あなた自身はどうなのか? 

 16節。「しかし、わたしがあわれみをこうむったのは、キリスト・イエスが、まずわたしに対して限りない寛容を示し、そして、わたしが今後、彼を信じて永遠のいのちを受ける者の模範となるためである」。憐れみをこうむり、救われて生命を受け取った。それは、この私たちが『模範・見本』になるためだった、といいます。模範や見本。例えば、食堂やレストランの入り口脇のガラス・ケースに、献立の見本を載せた皿やどんぶりが並べられています。お客は、それを眺めながら、「さあ、何がおいしそうだろうか。何を食べようか」「あんまりおいしそうじゃないなあ。やっぱり別の店に行こうか」などと品定めします。この私たちが模範・見本にされたとは、このことです。神の国の食堂やレストランの入り口脇のショーケースに、皿やどんぶりや小鉢に盛られて、この私たちは並べられています。店の前を通りかかる人々が、それを眺めています。「さあ、何を食べようか。どの店に入ろうか」と。主イエスを信じて、その主によって永遠の生命を得ようとする人々が、店先のガラスケースの前を通りかかります。そして、ふと立ち止まって、あなたを眺めます。もし、おいしそうに見えれば、その店に入ってみるかもしれません。あまりおいしそうでなかったら、通り過ぎて、別の店に入るでしょう。不思議なことに、その食堂のショーケースは、ほかのどこの食堂やレストランともまったく違っていました。無学な者、知恵のない愚かな者、無に等しい者たちという皿が並べられていました。賤しい者、身下げられていた者という器や小鉢やどんぶりが並べられていました。力のない弱々しい者、貧しい者、飢え渇いていた者という小皿や椀が並べられていました。その、なんだかパッとしない、見栄えも悪い粗末な土の器の中から、光があふれていました(コリント手紙(1)1:26-31,(2)4:6-。まぶしいほどに明るく輝く光が、その見栄えも悪い粗末な器からあふれていました。皿の中の料理は、『強くしていただいた。ありがとうございます』という食材で作られています。『主イエスが、こんな私をさえ、強くしてくださった。主が、ここに憐れみをもって据え置いてくださった』というスープで煮込まれています。『憐れみ。憐れみ。憐れみ。主の恵み。主の恵み。主の恵み』という具が盛り付けられています。『憐れみを受けた私だ。主の恵みをあふれるほどに与えられた私だ。限りない忍耐を示され、何度も何度もゆるされてきた私だ。それが、この私というモノ。驚いて、ただただ感謝する他ない私だ。そこが、私の立っている場所だ』というソバが盛られています。『キリスト・イエスは罪人を救うために、この世界に来られた。この一点に、私の全存在もかかっている。真実だった。確かに、そのまま受け入れるに値した。大正解だった。そのまま受け入れて、それを大事に大事に抱えて生きてきたこの私が保証します。太鼓判を押します。本当です』と、つくづく味わっている私だ。さあ、あなたも一口どうぞ。と誘っています。

              ◇

 実は、ほんの30年ほど前まで、この僕自身も食堂やレストランがいくつもいくつも並んだ店先をブラブラ歩いていました。満たされない思いや心細さや、言いようもない虚しさを抱えて。だからこそ物欲しそうに、そして疑い深そうに、「なんか美味いものがないかなあ」とキョロキョロジロジロ眺め渡しながら。なんとなく一つの店に入り、席に着き、試しに一口食べてみました。また一口、また一口、そしてまた一口と。病みつきになり、常連になり、とうとうこの食卓から離れられなくなって、ず~っっと食べつづけています。なにしろ、旨かったからです。主なる神さまの御前に集うこのひとときが、私の一週間の悪戦苦闘を支えます。主へと向かうこの回の祈りが、私の一日一日を支え、心強く押し出し、また忍耐して踏み止まるように促します。そのようにして一日一日、一週間一週間を生き延びてゆく私です。神さまの御前で、また世間様や人様の前でも、恥じることも恐れることもなく、晴れ晴れして生きることができる。それは、ただただ主であるイエス・キリストの救いの業によりました。他には、私の正しさの理由は何もありません。私が神の憐れみを受けてその子供たちの1人とされている理由も、ふさわしいとされている理由も根拠も裏付けも、他には何一つありません。ただただキリストの恵みとゆるしによって、です。
 ですから、度々いじけたり僻んだり、苛立ったり、がっかりして挫けそうになるあなたは。「どうせ私なんか」と度々くすぶっているあなたは。「罪深い私です。何の取り柄もない、つまらない小さな小さな私です」と口癖のように言っているあなたこそは、むしろ今日からは、こう言いなさい。「罪深い私だ。それなのに神さまは」と。「何の取り柄もない、つまらない私だ。それなのに神さまは」と。「見下げられていた貧しい私だ。膝を屈めさせられていた私だ。けれど、にもかかわらず神さまは」と。その通り。だからこそ、あなたはここにいる。だからこそ、そんなあなたでさえクリスチャンとされた。なにしろ主の忍耐は限りなかったので。主の慈しみは惜しみなく、あなたに対してさえ絶えることがなかったので。だって私たちは食堂入り口脇に並べられている見本ですから。でも、どんな模範や見本でしょうか? 「こんなに素晴らしい私ですよ」という模範や見本なら、それは難しいでしょう。そういう類いの薄汚れた安っぽい模範や見本なら、この食堂には要りません。間にあっています。「こんな素晴らしいご立派な私」ではなくて()、「何しろ、こんなに素晴らしい神さまです。ほら、この神さまを見てください。一口食べて、その恵みを味わってごらん」という見本なら。それならば、私たちにも晴れ晴れとして務まりそうです。