2018年7月10日火曜日

7/8「すべてのものを祝福する神」創世記1:26-2:3


                       みことば/2018,7,8(主日礼拝)  170
◎礼拝説教 創世記 1:26-2:3                          日本キリスト教会 上田教会
『すべてのものを祝福する神』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC 

 1:26 神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。27 神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。28 神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。29 神はまた言われた、「わたしは全地のおもてにある種をもつすべての草と、種のある実を結ぶすべての木とをあなたがたに与える。これはあなたがたの食物となるであろう。30 また地のすべての獣、空のすべての鳥、地を這うすべてのもの、すなわち命あるものには、食物としてすべての青草を与える」。そのようになった。31 神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。夕となり、また朝となった。第六日である。2:1 こうして天と地と、その万象とが完成した。2 神は第七日にその作業を終えられた。すなわち、そのすべての作業を終って第七日に休まれた。3 神はその第七日を祝福して、これを聖別された。神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからである。                                                           (創世記 1:26-2:3)


 ある人々はこういうことを語ります、「この世界に生命が誕生したことはまったくの偶然だった。たまたまちょうど良い具合で、いろいろな材料と条件がそろって、最初はごく簡単な造りの、バクテリアやアメーバーやミジンコのような小さな小さな生命が生まれ、それらは発展し改良され、より複雑なものへと進化していった。世界や自然の条件にたまたまピッタリ合う都合の良いものや、数の多いものや強くて優れたものたちが勢力を増し、生き残り、そうではない弱くて数が少なくて劣ったものたちは片隅へ片隅へと押し退けられ、ついに滅びていった。弱肉強食の、とても冷たく厳しい世界。だから、私たちもうかうかしてはいられない。賢く立ち回り、強くなり数と勢力を増し、優れたものにならなければ」などと。そんなふうに家庭でも学校でも社会でもいつもの職場でも教え込まれ、そんなふうに習い覚えてきたからです。けれど、まったく違うことを聖書は語りつづけます。「神さまが、この世界すべてとすべての生き物と私たちをお造りになった」と。科学的で合理的な物の見方や考え方が身に着いた私たちには、それがなんだか絵空事のような、根も葉もない夢物語のような馬鹿げた作り話に思えるかも知れません。人から笑われるかもしれません。けれど、私たちはそれを信じています。神さまが、この世界のすべてと私たち一人一人を造ってくださった。神によって造られた私たちであると。創世記1章は神がこの世界をお造りになったと証言し、そこでは「神は見て、良しとされた」(1:3,10,12,18,21,25)と6回繰り返されます。世界創造のそれぞれの区切りのところで「神は見て、良しとされた」とシンバルや太鼓のように鳴り響きつづけ、すべての仕事を終えて、「神が造ったすべてのものを見られたところ、それは、はなはだ良かった」(1:31)。一日毎に、神は「よし。なかなか素敵じゃないか。これもよし。これもよし」と喜んだのです。海と陸地を見て「よし」。草木が芽生えるのを見て「よし」。太陽と月と星々を見て「よし」。魚と鳥を見て「よし」。地上の生き物たちと人間を見て「よし」。神はご自分がお造りになったすべてのものをご覧になり、「とてもとても良い、はなはだ良い。よかった」と大喜びに喜んでくださいました。それが6日目までの出来事でした。第7の日に、神はご自分の仕事を離れ、安息なさいました。その満ち足りた安らかさの中で、神は造られたすべてのものをご自分のものとし(=聖別せいべつ)、祝福されました。ここで、ついにようやく神の仕事が完成したのです。
  けれども、その6日目の人間の創造の記録は、私たち人間の目と心を曇らせつづけました。26-28節、「神はまた言われた、『われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう』。神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。神は彼らを祝福して言われた、『生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ』」。「神のかたちに人が創造された」という意味内容は理解が難しく、今日でも十分には説明されていません(諸説あり。人間は「思いと良心をもって神に近づく存在」「魂、自意識、道徳性をもつ存在」「神との交わりのうちに生きる存在」等など。けれど、それは人間だけの専有的な特権なのか? 「鳥や獣と違って、神さまに祈れるのは私たち人間だけですからね」などと言われる。どうでしょう。いいえ、全被造物は神との交わりのうちに存在しています。創世記2:1-3の祝福。同7:14-15の箱舟の招きに応じて集まってきたものたち。同9:9-10-17の虹の契約。ローマ手紙8:19-30参照)ともかく、私たち人間こそは特別に優れた存在であり、価値も高く、他の何にもまさって尊い。しかもだからこそ、「治めさせよう。従わせよ、治めよ」と命じられた。私たちこそがこの世界の王さまであり、ご主人さまであり、支配者だ。思いどおりに、好き勝手に、他の生き物や大地や空や海を従わせ、服従させ、この世界を自分のものとしていいのだと。いいえ とんだ大間違いでした。
  なぜ、とんだ大間違いであると分かるのか? 神さまこそが、この世界すべてを造ったのであり、神さまこそがこの世界のただお独りの絶対の主人であるからです。私たち人言をそそのかす最も大きな罪は傲慢の罪であり、「自分たちこそは正しく強く、とてもふさわしい」と自惚れることです(ローマ手紙10:1-4。「地を治め、すべての生き物を治めよ」という言葉こそが私たちの心を曇らせ、惑わせ続けました。何千年もの間ずっと。「天に主人がおられることをあなたがたはよくよく知っているはずじゃないか。その場合、天の主人に仕える管理人に要求されるのは、主人に対して忠実であること」(コロサイ手紙4:1,コリント手紙(1)4:1-2と何度も何度も釘を刺されつづけています。例えば、大きな船を作って商売人たちとともにキリスト教会は世界の果てまで出かけていって、自分たちと肌の色も文化や言葉使いも違う人々を捕まえ、奴隷として売りさばいて大儲けをし続けました。毎週日曜日には教会で「隣人を自分自身のように愛しなさい」と教えられつづけ、「天に主人がおられることをあなたがたはよくよく知っている」とも習い覚えておきながら、けれど、その彼らが隣人であるとは思いもよりませんでした。天におられる主人をないがしろにしつづけて、何百年もたちました。踏みつけにされ、ないがしろに扱われつづけるおびただしい数の人々が、今でも呻きつづけています。世界中で、そしてこの日本でも。天に主人がおられることと、この世界全部が主人のものである一軒の家であり、やがて主人が帰ってくると知らされています。覚えておられますね、「主人がその家の僕たちの上に立てて、時に応じて食物をそなえさせる忠実な思慮深い僕は、いったい、だれであろう。主人が帰ってきたとき、そのようにつとめているのを見られる僕は、さいわいである。よく言っておくが、主人は彼を立てて自分の全財産を管理させるであろう。もしそれが悪い僕であって、自分の主人は帰りがおそいと心の中で思い、その僕仲間をたたきはじめ、また酒飲み仲間と一緒に食べたり飲んだりしているなら、もしそうなら」(マタイ2445-50。私たち一人一人も、主人から大切な仕事を任せられた管理人として立てられています。その第一の役割は食べ物を皆に公平に配ることでした。主イエスが教えてくださった主の祈りの、『我らの日用の糧を今日も与えたまえ』を心に刻んでいる私共です。生きるために必要な糧を神さまが与えてくださる。だからこそ何の不足もなく、安らかに満たされて生きている。感謝し、信頼し、期待を寄せて神さまから一日分ずついただく。そのとき、『わたしの日用の糧』ではなくて、『わたしたちの日用の糧』をと願い求めさせられたのでした。願い求めるべき、また互いに配慮すべき兄弟や隣人たちが私たちの傍らにいます。けれどなお、私たちは度々ワガママ勝手になりました。「自分さえ良ければそれでいい」と小さく閉じこもって、心を狭く貧しくしてしまいました。それゆえ、神さまからの律法こそが改めて差し出されています。『神さまを愛すること』と『仲間たちを愛し、互いに尊び合って、その世話を誠実に行うこと』とは一組のこととして命じられます(マタイ22:34-40。仲間たちに時間どうりに食事を与えること。そのために、家の主人の全財産の管理という大きな重い責任さえも委ねられました。けれど、あるしもべたちは愚かになり、悪いものに成り下がってしまいました。よくよく考えめぐらせてみるべきなのは、この管理人でもある召し使いはクリスチャンであり、それだけではなく、またすべて18歳以上の大人たちです。多く与えられ、仲間の召し使いたちの間に、彼らの上に立てられた管理人たちよ この私たちは主人に対して忠実に賢く生きることもでき、あるいは逆に、不忠実に愚かに生きることもできます。――考えてみましょう。なぜ、あの彼は自分勝手になり、不忠実になり、愚かに成り下がってしまったのでしょうか。なぜ、仲間の大切な下男や女中を殴ったり、蹴ったりし、彼らが腹を空かせているのを横目で見ながら、自分たちだけ食べたり飲んだりできたのでしょう。そういう仲間の管理人を黙って見ているだけで、「悪いことだから止めなさい。ご主人様に申し訳ないしね」と、なぜ忠告できなかったでしょうか。もし自分で何一つ手出しをしなくたって、黙って眺めるだけで見過ごしにしてしまったならば、目の前の悪者たちと同じだけ私たちもとても悪い。子供たちや大人の職場でのいじめの場面も同じです。管理人として立てられ、主人から「よろしく頼むよ」と任された最初の数日は、数ヶ月、2、3年くらいは、まあまあ忠実に働いたかも知れません。時間どおりに公平に食べ物を分配し、心配りもし、互いに助けたり助けられたり、支えたり支えられたりし合って暮らしていたかも知れません。そのうちに、天に主人がいることをうっかり忘れてしまいました。その主人がきっと必ず帰ってくることも忘れてしまいました。まるで自分や他の誰彼が主人や殿様であるかのように勘違いしました。『天に主人がおられる。その主人はきっと必ずこの家に帰ってくる。もしかしたら明日か明後日にでも』;これだけは、二度と決して忘れてはなりません。
 また、その神は、ご自分が造ったものすべて一つ一つをご覧になり、「はなはだ良い」と大喜びに喜んだのであり、だからこそご自分のものとなさり、祝福を与えました。神のものとされ、神ご自身からの祝福を与えられたものたちを、たかだか人間ごときが思いどおりに、好き勝手に取り扱い、従わせ、服従させ、自分のものとしていいでしょうか。いいえ、決してそうではありません。そのことは、折々に念を押されつづけました。例えば創世記2章は、1章と対になっていてひと組です。神さまによってこの世界が造られたその初めのとき、地上は草一本も生えない、虚しく物淋しい大地だったと報告されます。「地を従わせよ。治めよ、支配せよ」と語られていたその同じ中身が、創世記2章では、「エデンの園に連れて来られたのは、ゆだねられたその土地を耕させ、守らせるためである」(創世記2:15参照)と、はっきりと告げられていました。さらに、創世記910-17節の『虹の契約』です。「『またあなたがたと共にいるすべての生き物、あなたがたと共にいる鳥、家畜、地のすべての獣、すなわち、すべて箱舟から出たものは、地のすべての獣にいたるまで、わたしはそれと契約を立てよう。わたしがあなたがたと立てるこの契約により、すべて肉なる者は、もはや洪水によって滅ぼされることはなく、また地を滅ぼす洪水は、再び起らないであろう』。さらに神は言われた、『これはわたしと、あなたがた及びあなたがたと共にいるすべての生き物との間に代々かぎりなく、わたしが立てる契約のしるしである。すなわち、わたしは雲の中に、にじを置く。これがわたしと地との間の契約のしるしとなる」。

              ◇

  だからこそ、神ご自身によって祝福と救いのための時が満たされました。薄暗い死の陰の谷に、すべての生き物たちと私たち人間は住みつづけたからです。天と地のすべて一切をお造りになった神は、ご自分がお造りになった世界を、見捨てることも見放すことも決してなさらないからです。主なる神さまこそが、この世界と私たちを憐れむからです。預言者は呼ばわりました。「荒野に主の道を備え、さばくに、われわれの神のために、大路をまっすぐにせよ。もろもろの谷は高くせられ、もろもろの山と丘とは低くせられ、高低のある地は平らになり、険しい所は平地となる」(イザヤ書40:3-4と。荒野や砂漠に主の道を備えることは、けれども私たち人間には至難の業でした。かえってますます私たちは、荒れ果てた乾いた土地に成り下がり、曲がりくねった凸凹道になり、自惚れて思い上がり高い山や丘のようになりました。いじけてひがんで薄暗い谷間のようになりました。私たちの庭には茨と雑草が生え伸びて、日が差す隙間もないほどにすっかり覆い尽くされようとしました。そのようにして、素敵な庭になるはずのエデンの園は荒れ果てて乾いた地になり、薄暗い谷間に成り下がりました。何度も繰り返して。神ご自身が主の道を備えてくださるほかなかったのです。神ご自身が、高い山や丘のようになった私たちを低く押し下げてくださり、薄暗い谷間のようだった私たちを高く持ち上げてくださるほかありませんでした。荒れ果てた乾いた土地であったわたしたちを耕し、曲がりくねった凸凹道であった私たちをまっすぐな広い道に整備し、茨と雑草を抜いて手入れをしつづけてくださる必要がありました。その通りです。しかも、それをしていただき続けてきたのです。この私も、みなさん一人一人も。救い主イエスはおっしゃいました、「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」(マルコ福音書1:15と。