みことば/2018,7,15(主日礼拝) № 171
◎礼拝説教 創世記 2:4-25 日本キリスト教会 上田教会
『荒れ果てた世界のために』
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC)
2:4 これが天地創造の由来である。主なる神が地と天とを造られた時、5 地にはまだ野の木もなく、また野の草もはえていなかった。主なる神が地に雨を降らせず、また土を耕す人もなかったからである。6
しかし地から泉がわきあがって土の全面を潤していた。7 主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。8 主なる神は東のかた、エデンに一つの園を設けて、その造った人をそこに置かれた。9
また主なる神は、見て美しく、食べるに良いすべての木を土からはえさせ、更に園の中央に命の木と、善悪を知る木とをはえさせられた。・・・・・・15 主なる神は人を連れて行ってエデンの園に置き、これを耕させ、これを守らせられた。16
主なる神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。17 しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。18
また主なる神は言われた、「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」。・・・・・・21 そこで主なる神は人を深く眠らせ、眠った時に、そのあばら骨の一つを取って、その所を肉でふさがれた。22
主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り、人のところへ連れてこられた。23 そのとき、人は言った。「これこそ、ついにわたしの骨の骨、わたしの肉の肉。男から取ったものだから、これを女と名づけよう」。24
それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。25 人とその妻とは、ふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった。 (創世記 2:4-25)
この世界と、そこに満ちるすべて一切を神さまがお造りになりました。何のためにこの世界が造られ、私たちに生命が贈り与えられたのか。私たちがどこにどう足を踏みしめて立ち、どう生きることができるのか、どこへと向かって生きるのかを聞き分けたいと願っています。やはり、私たちの手元に置かれたこの一冊の聖書こそが、私たちに、私たちのための格別な真実を告げ知らせつづけます。
創世記2章、まず4-7節です。神さまによってこの世界が造られた初めのとき、地上は草一本も生えない、荒れ果てて荒涼とした物淋しい大地だったと報告されます。どうしてかと言うと、その理由は2つ。まず、(1)雨がまだ大地に降り注いでいなかったこと。また、(2)その恵みの雨を受けとめて土を耕す人がいなかったから(5節)。雨と、そして土を耕す人。この世界が生命にあふれる、青々とした素敵な世界であるためには、雨が大地にたっぷりと降り注ぎ、そしてその恵みの雨を受けとめて土を耕す人がそこにいる必要がありました。この世界と私たちを造った神さまは、私たちがビックリするような、人の心に思い浮かびもしなかった不思議な仕方で問題を解決していかれます。「いつごろ雨が降るだろう。まだかなあ」と空を見上げて待っていましたら、空の上からではなく、地面の下から水が湧き出てきて大地を潤しました。土を耕す人も、わざわざ土の塵から形づくりました(6,7節)。土の塵で人が造られた。神さまがその鼻に生命の息を吹き入れた。それで、人は生きる者となった。そのことを、ずっと考え巡らせてきました。「オレって何て馬鹿なんだろう。なんて臆病でいいかげんで、ずるくて、弱虫なんだろう。ああ情けない」とガッカリして、自分が嫌になるときがあります。そういうとき、この箇所を読みました。「どうして分かってくれないんだ。なんで、そんなことをする」と周りにいる身近な人たちにウンザリし、すっかり嫌気がさしてしまいそうになるときに、この箇所を読みました。その人の中に小さな一粒の種が芽生え、大きく育ち、素敵な花を咲かせ、やがて嬉しい実を結ぶためには、その人のためにも、やっぱり(1)恵みの雨と、(2)その人を耕してくれる別の耕す人が必要だってことです。もし、そうでなければ、その人も直ちにカラカラに乾いて、干からびて、草一本も生えない寒々しく荒れ果てた淋しい人間になってしまうかも知れなかった。踏み荒らされて壊された砂の道路や、砂の山や砂の家のようになってしまうかも知れなかった。で、その人を耕してくれる人もやっぱり同じく土の塵で造られていて、神さまからの恵みの雨と別の耕す人を必要とした。その耕す人もやっぱり・・・・・・。土の塵から造られ、鼻に生命の息を吹き入れられた私たちです。壊れ物のような、とても危っかしい存在です。それぞれに貧しさと足りなさを抱え、時には、パサパサに乾いた淋しい気持ちに悩んだりもします。恵みの雨に潤され、耕されるのでなければ、この私たちだって草一本も生えない、荒れ果てた、淋しい人間になり果ててしまいます。しかも土の塵。石や鉄やダイヤモンドでできたビクともしない人など1人もいません。ですから、あんまり乱暴なことを言ったりしたりしてはいけません。あんまりその人が困るような無理なことをさせてはいけません。壊れてしまっては大変です。
7節をご覧ください。「主なる神は土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」。神が吹き入れてくださった命の息、それは神さまからの恵みと祝福です。それぞれに貧しさや足りない所をもち、ダメなところや恥ずかしい愚かさを山ほど抱え、乏しく危うい存在であり、けれどそれだけではなく、神さまからの祝福を受け、恵みを与えられている。だからこそ生きる者とされ、生きていくことができる。これが私たち人間です。どうぞ、よくよく心に留めていてください。「なんだ、だらしがない。いたらない。あまりにふつつかだ」と他人に対しても自分自身に対しても、私たちはひどく簡単にがっかりしたり失望したり、「どうせこういう人だ」と軽々しく決めつけたりしてしまいます。互いにあまりに簡単に買いかぶったり、見下しあったりしてしまいます。「もっとちゃんとやってくれよ。しっかりしてくれ」とあまりに高い厳しい要求を突きつけあい、互いに追い詰めあったりしてしまいます。けれど、土の塵から造られた私たちであることを、どうぞ思い起こしていただきたいのです。いたらなさもふつつかさも、それはお互い様でした。貧しさも愚かさも、それはお互い様だったのですから。
18節の言葉はよく知られています。結婚式のときによく語られますし、キリスト教のことをあまりよく知らない人たちでも、この言葉をどこかで耳にします。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」。でも、これは別に結婚紹介所の宣伝文句ではなく、独身でいる人に嫌味を言っているのでもありません。結婚はしてもいいし、しなくてもいい。だって結婚したからって幸せになれるかというとそうでもない、かも知れない。子供が生まれて育っても、自分自身もその子供たちも幸せになれるかというと、なれるかもしれないしそうでないかもしれない。この間も質問しましたけど、また聞いてみましょうか。結婚して私はとても幸せだったという人は? そうでもなかったという人は? けれどたとえ独身で生涯過ごすとしても、その人がただ独りで生きているわけではありませんでした。その人のことを分かってくれて、困ったことや悩み事があるとき案じて気をもんでくれたり、暖かく手を差し伸べてくれるはずの多くの仲間たちや友人たちに囲まれ、支えられて暮らしています。今までもそうでした。これからもそうです。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」。これは、ただそれだけで語られているのではなくて、4-7節の成り立ちと、15節からのつながりの中に置かれています。15節、「主なる神は人を連れてきて、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し守るようにされた。主なる神は人に命じて言われた。『園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう』」。そして、だからこそ主なる神は言われるのです。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」と。素敵なエデンの園に連れてこられました。何のため? そこを耕し守るためにです。「骨休めや観光旅行にでも来たつもりで、食べたり飲んだり散歩したりして好きなようにしなさい。のんびり気楽に過ごしなさい」ということではなかったのです。(1)その土地を耕し守って生きる、という大切な働きと役割。(2)すべての木から取って食べなさい、とあまりに気前よく恵みと祝福を与えられました。(3)ただし、『これだけはしてはいけない。慎んで留まれ』と戒めも与えられて。働きと役割。祝福と恵み。そして『これだけはしてはならない』という戒め(15,16,17節)。しかも土で造られた私たち人間はあまりに不完全で、ひどく未熟でした。意固地になり、独り善がりになりました。ね、だからです。だからこそ、人が独りでいるのは良くない。独りでは、その土地を耕して守るという大きな重い務めを担いきれないからです。独りでは、あまりに気前よく与えられた祝福と恵みを本当に嬉しく喜び祝うことができないからです。独りでは、『これだけはしてはいけない。ダメだよ、止めなさい』という戒めのうちに身を慎んで留まることなどとうていできないからです。もし、その人を助けてくれる者がいてくれるならば、その人は、たとえあまりに不完全で、ひどく未熟だとしても、たびたび意固地になり、独り善がりになってしまいやすいとしても、それでもなおその土地を耕して守りながら生きることができます。もし助ける者がいてくれるなら、その人は祝福と恵みを十分に受け取って、「こんなに良いものを私なんかがいただいていいんですか。本当ですか。ああ嬉しい。ありがとうございます」と喜び祝い、感謝にあふれて生きることができます。助ける者がいてくれるなら、その人々は、「これだけはしてはならない。口に出して言ってはいけない」という戒めのうちに身を慎んで留まることができます。独りでは度々自分勝手になったり、ひどくうぬぼれたり我がままになってしまう私たちだとしても、そこにもし、助ける者がいてくれるなら。「だめだよ。それはしてはいけないだろ」と互いに注意しあいながら、「そうだった」と思い直し思い直ししながら、かろうじて生きることができます。どうぞ、目の前のその人の不出来さ、了見の狭さ、うかつさをゆるしてあげてください。何度でも何度でも大目に見てあげてください。大目に見てゆるしながらも、それでも、その人が間違うときには「それは違う」、してはいけないことをしようとするときには「してはいけない」と折々に正してあげることも互いにし合いたいのです。なぜなら私たちは、生身の人間にすぎないからです。そういう兄弟が、助ける者として傍らに立っていてくれるならば、私たちは共々に、同じ一つの狭い土地を耕し守って生きることができるでしょう。土の塵から造られた私たちは、皆やがてもとのちりに帰ります(ヨブ33:6,伝道12:7)。それでもなお、安らかに晴れ晴れとして生きて、やがて祝福のうちに死んでゆくこともできるでしょう。ぜひそうでありたいと願っています。荒れ果てた不毛の大地と見比べられるような、そんな絵に描いたような楽園などどこにもありません。土地も、人間も人間たちの集団も、みな同じです。それは土の塵で造られました。それは草一本も生えない物淋しい土地に成り下がり、また青々とした豊かな土地にも変わったのです。荒れた、さもしく貧しい人々と対比されるような、見比べられるような、そんな絵に描いたような理想的な人々や集団、社会など、どこにもありません。それは、どこにでもある普通の土地です。泥で造られた泥の土地以外の、この世離れした、ご立派な素敵な土地など、あるはずもないのでした。けれどもし、恵みの雨がそこに降り注ぐならば。地下から水が湧き出るならば、恵みの雨を受け止めて、その土地を精一杯に懸命に耕し守って生きる働き人が起こされるならば、その貧しく痩せた土地は、喜ばしい豊かな実を結ぶのです。
エデンの園に連れてこられ、そこに据え置かれました。朝昼晩とあなたが暮らすいつもの代わり映えのしない場所、いつもの家と家族、いつもの職場、そこが、あなたのためのエデンの園です。それぞれのエデンの園に連れてこられ、あなたも私も、そこに据え置かれました。その土地を耕し守るために。その土地を耕し守って生きるという、あなたのための大切な働きと役割です。すべての木から取って食べなさい、とあまりに気前よく贈り与えられた、あなたのための恵みと祝福です。ただし、『これだけはしてはいけない。慎んで留まれ』と、あなたのための戒めも与えられて。働きと役割。祝福と恵み。そして『これだけはしてはならない』という戒め。しかも土で造られた粗末な働き人たちよ。私たち人間はあまりに不完全で、ひどく未熟でした。意固地になり、たびたび独り善がりになりました。あなたにあう、ちょうどよく助けてくれる者がそこにいるのに、その人を見失いました。こんな粗末な痩せた土地では気力も失せてしまう、などと不平不満をつぶやきました。他の土地に比べて、私の土地に降る雨は少なすぎる。日照り続きで、もう何日もちっとも雨なんかふらないと嘆きました。私を耕してくれるはずのあの働き人が粗末で、いいかげんで、「もっと親切にしてほしいのに。もっと目をかけてくれて、もっと暖かい優しい言葉を朝も昼も晩もかけつづけてほしいのに。もっともっと」。それなのに、私に対する愛情も親切も心配りも全然足りず、薄情で、思いやりがちっともなくて、だからあの人とあの人とあの人が至らないせいで、私はいつまでたってもこんなに粗末な痩せた貧弱な土地でありつづける。「足りない。貧しい」と僻んだりいじけたり拗ねたりしつづけました。そうするうちにも、あなたを助けるはずの働き人が疲れ果てて、心をなえさせ、カラカラに乾いてしまいそうです。ああ、なんということでしょう。
それでもなお私たちはその土地に据え置かれて、その土地を耕し守って暮らします。神ご自身こそが、私たち痩せた粗末な土地のための耕し守る働き人でありつづけてくださるからです。あなたやわたしのためにも種を蒔き、懸命に耕し、朝も昼も晩もコツコツと雑草をむしりつづけ、石やイバラの根を一つ一つ取り除き、水をまき、カラスを追い払ってくださる働き人だからです。倦むことなく、疲れ果てることのない、熱情の働き人であってくださるからです。涙し、労苦を背負って働きつづけるその働き人は、他の誰であるよりもなにより神ご自身です。私たちは、そのお方の涙を知っています。背負ってくださった種の袋のそのあまりの重さを知っています。「私たちはその方のお働きの実りであり、収穫である、ご自身の慈しみが結ぶ実りだ」と聖書は告げます(イザヤ書40:10-11,53:11,ルカ福音書8:4-8,コリント手紙(2)9:8-10)。長い長い歳月がすぎて、やがてあるとき、イバラに覆われていたはずのその土地が実を結びました。道端の土地から鳥が種を奪い取ろうとするとき、一粒の種がかろうじて守られました。石だらけの痩せた土地に落ちた種が何日も何日もつづく強い日差しに焼かれてしまいそうになったとき、どうしたわけかその小さな小さな一粒の種が守られました。